2013/06/12 - 2013/06/13
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オータムリーフさん
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徳川幕府・徳川家康が開発した五街道の一つである奥州街道は江戸の日本橋から白河迄の街道である。白河から先は東北の大名が管轄する街道は続くが、江戸幕府の管轄は白河迄である。
今回は日本橋から宇都宮を通り、栃木県の大田原、そして福島県に入って白河宿迄歩いてみました。戊辰戦争の白河の戦いの現場も観たく、興味は尽きない旅でも有りました。この旅行記は栃木県芦野宿から白河宿迄の歩行の様子、特に、白河宿の様子を記述します。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 2.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
芦野温泉
大田原宿から歩いて来ました。明日は最終目的地の白河宿に入るいが、今日は芦野宿にある芦野温泉に泊まることにした。
芦野温泉ホテル受付を済ませる。受付嬢は、奥州街道を歩いている方々は結構、この温泉にお泊りいただいているのですよと。そして、その受付嬢は部屋に案内してくれた。途中で、靴を脱ぎ、素足で部屋に入る。スリッパは無い。靴はそのまま部屋に持ち込み、部屋にもスリッパは無いと言う。確かに、廊下や部屋の中は板敷でピカピカに磨かれていて、素足でも問題は無かった。 -
この温泉は長期湯治客も多いとの事。温泉は色々な風呂があり、特に、気に入ったのは薬草の湯です。この湯に浸かっていると万病に効くような気になってきます。
入浴後は楽しい食事ですが、どこの温泉場にもあるようなフードコートスタイルの食堂があります。勿論、ちゃんとしたレストランも有って、自由に選択が出来ます。 -
旧奥州街道筋には、白河近くまでコンビニも無ければ、食堂も無いと言うので、この芦野温泉のフードコートでおむすびセットを前夜に購入した。これで、街道を歩いていても昼食は確保した。
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夜中に大雨が屋根を叩く音で目が覚めた。明日は雨かア〜と思いながら再び眠りに付き、予定通りの時間に起床。朝食を済ませて、旅の続き、白河に向かって歩き始める。
芦野宿では、江戸時代の宿場の雰囲気は既に失われてはいるが、それでも、この街は、その宿場だった遺構を大切に保存し、説明版も完備している。歴史街道を歩く我々には有難い事です。 -
芦野宿から白河宿までの昔の奥州街道は、ほぼ国道294号線沿いにあり、国道を右に入ったり、左に入ったりして進む。
そして、栃木県と福島県の県境に来ました。やっと国境を超えることになります。この先は福島県です。樹木が鬱蒼と茂った森の中の峠道だった。ここは国境であるが、入出国管理事務所(パスポートコントロール)は今は無い。昔は白河の関というのがあったらしいが・・・・。
やっと栃木県を抜けたことになる。栃木県は結構広い感じがする。 -
境の明神
旧奥州街道の関東と奥州の境にあり国境をはさんで神社が2社ある。「境の明神」と呼んでいる。
手前の下野(栃木側)に玉津島神社と解説した説明版がある。
玉津島明神は天喜元年(1053)紀州和歌浦の玉津島神社を分霊勧請した。明治39年の火災後に再建された。 神社の先が県境の峠で樹木が鬱蒼と茂り、右手上方に松平定信が書いた境界石が置いてある。現在の道は2m程切下げられていて,昔の街道はもっと急な坂道だったということになる。 -
国境の風景です。ここから先が福島県・白河市となります。
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境の明神
陸奥(福島側)にあるのが住吉神社のはずだが、福島県側の説明板にはここが玉津島神社で栃木県側が住吉神社と書いてある???? あれ!おかしいなア〜。
玉津島神社は女神で内側を守り、住吉神社は男神で外敵を防ぐ神様とされて、下野(栃木県)と陸奥(福島県)では互いに自分の領土の中の神社を「玉津島(女神)」と主張したらしい。
福島県側の堺の明神の境内に南部藩士の奉納した燈籠や芭蕉句碑とか、和算額を新しくしたものが架かっていた。
面白いものを観る事が出来ました。 -
さて、しばらく国道を歩くと白坂宿に入る。
小田原攻めの勝利を確信した豊臣秀吉が伊達政宗に小田原から会津の街道整備を命じた際に、芦野と白河間が長すぎるということで宿駅となったのが白坂宿の起こりである。
昔はびっしりと軒を並べていたというが、今はいたって静かなもの。宿の雰囲気は全く感じられない。
の外れの左手に観音寺がある。本陣を務めた庄屋・白坂家の菩提寺であり、戊辰戦争で、亡くなった大垣藩士3名の墓もあるらしいが、 -
昼食時間が来たので、どこか適当な場所で昼食をとりたかったが、中々良い場所が無かった。更に進んで、レストランの看板が有りました(レストランがあるではないか!)。
人は通らないし、休憩にはちょうど良いので、そこでランチとした。昨夜、芦野温泉ホテルの食堂で調達した手造りおにぎりだ。一晩、冷蔵で保管していたので、ご飯は固めだったが、美味しかった。 -
しばらく歩くと、やがて、白河市街地に近ずいてきた。この街道には、コンビニも無いと言われていたが、1軒だけありました。そして街道は大きく右にカーブルすると稲荷山にぶつかる。
ここは戊辰の役、白河口古戦場跡地で、街道が右に折れる角に、「戊辰の役古戦場碑」や、多くの碑が立っている。 南は水田が開け、北はこの稲荷山の小丘を慶応4年(1868年)、奥羽諸藩鎮定の為、薩長、大垣等の西軍が大挙して、3方から白河(小峰城)を攻めた。
東軍の会津、仙台、棚倉の兵は城の南西の山地に布陣し、是を迎え撃った。ここで激しい戦いが行われ、4/25会津兵は一旦西軍を退けたが、ついに敗退となった。そして小峰城も城郭は消失し落城となった。戦後両軍は各々碑を建て霊をなぐさめた。北側に会津藩主松平容保の題字の銷魂碑がある。 -
稲荷山の頂上まで登りました。ここには沢山の幟が立てられていて、古戦場だった事を現している。このような場所は、中山道を歩いた時に関ヶ原で同じような光景を観た覚えがある。
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天神町交差点を直角に右に曲がると、すぐ角に「月よみの庭」という庭園がある。白河石が敷き詰められており、石英安山岩質の凝灰岩であるため、色が白く神社仏閣などでは珍重されているとされる。あんまり管理ができていないように感じた。
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五街道の一つとしての奥州街道(道中)はここ白河が最終の宿駅であり、ここまでが道中奉行の管轄下にあった。白河の歴史は古く、5世紀には古代の白河の関が置かれ、蝦夷に対する押えとされた。寛永4年(1627)には丹羽氏が初代白河藩主として10万石を与えられて白河藩が成立し、その後藩主は煩雑に入れ替ったが、特に有名な藩主だったのが松平定信である。
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街道右側に本陣芳賀家跡がある。現在は「堀川印刷所」となっている。
芳賀左衛門家が代々本陣を勤め、明治9年、明治天皇の東北巡幸の際に、ここで休憩されている。
本陣跡の向い側の格子戸を開けて入った奥に脇本陣屋旅館跡と明治天皇行在所跡という看板が立っている。天皇が泊った蔵座敷や御膳水跡が残り、また戊辰の役の際の新選組の宿営地でもあった。 -
この後300mほどで左折し、横町に入る。JR東北本線のガードを潜り、田町に入る。田町大橋で阿武隈川を渡る。
田町大橋の手前に大木戸があって、白河宿はここで終っていたといわれる。
旧道は尚この先、会津街道との追分に向っている。 -
田町大橋から850m程で「女石」に達する。ここも戊辰戦争で官軍と東軍とで激戦が展開された。その時に戦死した仙台藩士150余名の供養碑が建っている。
この女石追分で、会津街道は左へ入り、奥州街道は右へ向い、仙台・松前へと続いている。道中奉行管轄の奥州街道はこの分れ道が正式の終点となっていた -
ここが戊辰戦争で戦って戦死した仙台藩士150名の供養塔です。
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さて、奥州街道歩きは、ここ白河祝の「女石」で終わることになる。一旦、白河の街に戻り、小峰城に寄ってみました。
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しかしながら、小峰城には入れませんでした。なぜなら、2011年3月の東日本大震災でいたるところの石垣が崩れて、現在、修復中なのです。あの地震の物凄さがうかがい知れるのである。
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奥州街道歩きは、ここでおしまいです。この先の街道を歩いてみたいと思いますが、青森まで行きたいですね。いつか実現させたいと考えています。
今回は白河駅から一旦、東京に戻ります。また機会がありましたら、青森までの歩行記でお会いしたいと思います。
おしまい
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