2008/06/18 - 2008/06/19
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Donkyさん
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「旅の記録」(34) 裏磐梯五色沼と米沢松岬神社
福島県郡山から裏磐梯へ、五色沼、米沢を経て蔵王温泉へ。
.........標高1819メートルの磐梯山は明治21年(1888年)に大噴火を起こし周辺に大きな被害をもたらしました。噴火は山の北側斜面を大きく吹きとばし その土石流で川が堰き止められて磐梯三湖(桧原湖、小野川湖、秋元湖)や名前のない小さな沼までの湖沼群を形成しました。
裏磐梯高原はこの噴火で出来た大小約300の湖沼群が点在する標高約800メートルの美しい高原です。
磐梯山の北側山麓の湖沼群のうち桧原湖、小野川湖、秋元湖にはさまれて点在する大小40あまりの湖沼群を総称して五色沼と言います。
それから磐梯山を後方に見ながら 米沢 松岬神社へ向かいました。
「裏磐梯五色沼」は次のURL
http://kj2k3.at.webry.info/200806/article_13.html
「松岬神社」は次のURL
http://kj2k3.at.webry.info/200806/article_14.html
にてご紹介しています。
注) このブログ記事中「裏磐梯五色沼」と「上杉鷹山」に関する記述はフリー百科ウィキペディアなどから抜粋し一部加筆したものです。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
東北新幹線・東北本線 JR郡山駅に到着しました。
-
JR郡山駅
郡山市(こおりやまし)は、東北地方の南部、福島県中通りのほぼ中央に位置する都市です。旧安積郡および田村郡の一部。中核市に指定されています。 -
郡山駅前
市域は、中央分水界となっている奥羽山脈の東西にわたる。市の西部は日本海側である猪苗代湖南岸に及び、中心部は中通り中部に位置します。 -
群中バス (群山中央交通バス)がお出迎え
市の中心部は、栃木県宇都宮市と宮城県仙台市の中間に位置しており、東北新幹線・東北本線・東北自動車道・国道4号で繋がれています。 -
磐梯山(ばんだいさん)は、福島県耶麻郡の猪苗代町・磐梯町・北塩原村の3町村にまたがる山です。
会津富士(あいづふじ)、会津磐梯山(あいづばんだいさん)とも呼ばれています。日本百名山の1つです。 -
裏磐梯五色沼
観光バスで磐越西線猪苗代駅より約25分、喜多方駅より約60分
五色沼(ごしきぬま)とは、磐梯山の北側、裏磐梯と呼ばれる地域にある大小数十の湖沼群のことです。緑・赤・青など、様々な色の沼が点在し、磐梯朝日国立公園に指定されています。 -
1888年7月15日、磐梯山頂北側、小磐梯を含む部分が水蒸気爆発によって山体崩壊を起こし、岩屑なだれが川をせき止め、数百の湖沼が形成されました。
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毘沙門沼
大きいものでは、秋元湖、小野川湖、桧原湖があり、それらに挟まれるように位置する数十の湖沼群や地域が五色沼と呼ばれています。 -
現在では五色沼には散策路が整備され、宿泊施設が集まるなど、観光地として発展しているのです。
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流入している火山性の水質の影響や、植物・藻などにより、湖沼群は緑、赤、青などの様々な色彩を見せることが名称の由来です。
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山体崩壊の土砂・岩によって荒れた地域を再生させようと、遠藤現夢が私財を叩いて植林を始めたのがきっかけで五色沼の観光地化が始まりました。
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コバルトブルーの瑠璃沼や、磐梯山の眺めがよい毘沙門沼、水中植物が美しい模様を描く弁天沼など、変化のあるトレッキングコースです。
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散策の前にNature Guideの説明 3.6kmを徒歩約1時間程度で歩きます。
路順:五色沼入口バス停‐毘沙門沼‐赤沼‐深泥沼‐竜沼‐弁天沼‐瑠璃沼‐青沼‐柳沼‐裏磐梯高原駅バス停 と説明を受けてスタートしたのですが・・・。 -
なにしろ コバルトブルーの瑠璃沼や、磐梯山の眺めがよい毘沙門沼、水中植物が美しい模様を描く弁天沼など、変化のあるトレッキングコースです。
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裏磐梯五色沼は 福島県北塩原村にあります。
磐梯山の眺めがよい毘沙門沼です。 -
福島県福島市、吾妻連峰一切経山の山腹にある火口湖も五色沼といわれていますが、それらは単数です。 こちらはイヤというほどの数があるのです。
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他にも 日光や仙台にも「五色沼」がありますが・・・。
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樹木に囲まれた変化のあるトレッキングコースをゆっくりと歩きます。
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ガイドを受けていないと どれが どれだかわからないくらい次々に いろんな色の沼が続きます。
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青沼 コバルトブルー というか 鮮やかな 青というか ともかく見事な青色です。
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赤沼 赤土が 若干沼っぽい色に 変えているのでしょうか?
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深泥沼(みどろぬま) これは普通の沼です。
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樹木に覆われ せせらぎに沿って歩くトレッキングコース
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これは 紫陽花でしょうね。
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樹木に覆われ せせらぎに沿って歩くトレッキングコース
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弁天沼
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瑠璃沼
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青沼
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柳沼
などなど次々に水面の色が変り 湖沼の数が多すぎて、自信がありません。
名称と沼のミスマッチがあれば お知らせいただければ幸いです。 -
桧原湖 最大水深31m、湖岸周31.5kmと裏磐梯地域最大の湖。
磐梯高原の自然に触れる散策路、遊覧船、キャンプ場などがあるほか、冬場の氷結した湖上でのワカサギ釣りや夏場のバスフィッシングなどで四季を通じてにぎわうアウトドアレジャーの拠点となっています。 -
桧原湖の脇の駐車場 さすが 米沢牛の本場です。
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檜原湖脇のお食事どころ「北の茶屋」
ここで ランチタイム -
山菜の天麩羅とざるそばでのランチです。
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バニラと桃のミックスソフトがお薦めです。
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磐梯山を後方に見ながら 米沢へ向かいます。
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米沢市(よねざわし)は、東北地方の南部、山形県の南東部にある人口約8万8千人の市です。
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上杉神社入り口に 米沢牛コロッケのお店が・・。
食べたかったけれど自重・・・・
Umm 結局食べちゃったのかなあ。 -
まず 松岬神社に詣でます。
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松岬神社(まつがさきじんじゃ)は、山形県米沢市に鎮座する神社。上杉神社の摂社です。
松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀っています。 -
明治に入ると上杉謙信の祠堂を改めた上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」へ遷されることとなりました。
大正元年(1912年)9月28日には神殿が造営され、県社に列しました。あわせて神餞幣公料供進神社にも指定されました。 -
大正12年(1923年)4月に米沢藩2代上杉景勝、また米沢市制施行50周年にあたる昭和13年(1938年)には、景勝の家老である直江兼続、鷹山の師・細井平洲、鷹山の下で活躍した竹俣当綱・莅戸善政を合祀し、現在に至ります。
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上杉鷹山、出羽国米沢藩の第9代藩主。
領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。諱は初め勝興、後に治憲ですが、藩主隠居後の号である鷹山の方が有名です。 -
毘沙門天の「毘」に上杉謙信を感じます。そうです 会津の上杉は後に米沢に減封されます。会津120万石から石高が15万石(実高は約30万石)まで下がったことで家臣団6,000人とその家族の歴史は一変していきます。6,000人で15万石ではとても足りず、開墾して新たな田畑を創っても30万石がやっと。家臣を養うために藩の借金がみるみる増えていきました。
やがて破綻寸前の藩財政を建て直したのが上杉治憲 後の鷹山でした。 -
上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったのです。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。
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新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立しました。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行いました。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果1769年(明和6年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れていきました。
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天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していましたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行いました。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。
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安永2年6月27日(1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発しましたが、これを退けます。これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済しました。
写真は「謙信公 家訓16か条」 -
天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居しますが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しました。隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移ります。
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享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号します。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われています。
文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去しました。享年72(満70歳没)。
この地の人たちは今でも 鷹山公と呼び 敬っています。 -
松岬神社(まつがさきじんじゃ)の次は 蔵王の火口湖(お釜)を目指します。
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