2013/02/03 - 2013/02/03
1180位(同エリア1579件中)
滝山氏照さん
自分のお気に入りであるローカル八高線(八王子ー高崎)、箱根ヶ崎駅から青梅街道を東進約25分、臨済宗建長寺派の金龍山・福正寺(ふくしょうじ、東京都西多摩郡瑞穂町)は武蔵七党(平安時代後期から鎌倉時代を経て南北朝時代に存在した同族的な小規模武士集団)のうち村山党の嫡流である村山氏の居館に建立された菩提寺だったと伝えられています。
そもそも村山党は同一系譜の野与党(さいたま市北部)と共に桓武平氏の流れをくみ、具体的には平基宗(たいらのもとむね、生没不詳)の子である村山頼任(むらやま・よりとう、生没不詳)が始祖と言われています。
然しながら桓武平氏系図には上述の名前は現れていませんので桓武平氏に関わる話は疑問視する向きがある一方村山党そのものの存在は歴史上確認されております。
さて村山党の支配地は村山郷と言われていますが、現在の地名で示すと西は東京都西多摩郡瑞穂町から狭山丘陵・多摩湖周辺、北は所沢市山口、東は東村山の久米川辺りをその支配地としていました。
その後村山党は発展その支配域を北東方面の入間市に拡大、それに伴い構成する武士団は十数氏に増えます。代表的な氏としては金子氏(入間郡金子村)、宮寺氏(入間市宮寺)、山口市(所沢市山口)、仙波氏(入間郡先仙波荘)、久米氏(所沢市久米)などがあります。
村山党は歴史上は華やかな活動はありませんがそれでも歴史の断面では武蔵七党にふさわしいふるまいも散見されます。具体的には源頼朝が伊豆にて平氏に反旗を翻した治承2年(1180)、畠山重忠(はたけやま・しげただ、1164~1205)、江戸重長(えど・しげなが、生誕不詳)らが三浦半島の豪族三浦氏の本拠衣笠城攻撃の際、平氏方として村山氏が金子氏を伴って参陣しています。
更には源頼朝没後は主導権について御家人の間で紛争が続く中、武蔵国最大の勢力を有する畠山重忠と執権北条義時(1163~1224)に確執が生じ、相模国二俣川にて待ち伏せの幕府軍により畠山重忠らが討取られ、その際討伐軍に加わった村山氏・金子氏らの村山党は他の武蔵七党である横山党、児玉党と共に参戦しましたがそれぞれ武蔵を代表する武士団に成長しています。
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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福正寺周辺地図
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正福寺入口
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正福寺・寺標
石標には「臨済正宗 建長寺派 金龍山福正禅寺」と刻されています。 -
福正寺・案内図
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福正寺境内・案内図
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福正寺由緒
特に武蔵七党とか村山氏とかの説明は記述されていません。 -
福正寺・山門
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福正寺・仁王門
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福正寺・仁王像
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仁王像
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福正寺・本堂
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福正寺・本堂(近景)
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福正寺本堂・扁額
寺号である「福正寺」が書されています。 -
福正寺・鐘楼堂
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十六阿羅漢尊者
土塁とも見える所に十六の阿羅漢尊者が立ち並んでいます。 -
十六阿羅漢尊者近景
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十六阿羅漢尊者・説明板
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大光殿
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大光殿扁額
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村山土佐守一族墓所
村山土佐守は戦国時代後期頃の武士だったと言われていますが、この場所には説明板など建ててないので武蔵七党の村山氏との関係性はわかりません。 -
イチオシ
村山土佐守墓所石標
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イチオシ
村山土佐守墓所
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正福寺・観音堂(全景)
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正福寺・観音堂
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正福寺観音堂扁額
「選佛場」の扁額があります。 -
正福寺観音堂・説明板
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五重塔
奈良の興福寺五重塔の七分の一の設計で建てられ、その塔内には本尊大日如来が安置されているそうです。 -
正福寺境内
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貝多羅葉樹
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貝多羅葉樹・説明板
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市街展望
境内からの市街を一望します。
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