2010/08/01 - 2011/06/01
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kobusakuraさん
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大連に滞在中、日露戦争当時の日本を取り巻く歴史に触れているうちに、何だかすっかりはまってしまった。歴史の教科書じゃ学べない、人と街と戦争の繋がりや成り行き、100年という時間の短さ、そして長さ、そんなモロモロを発見できたし、理解もできた。あるいはそれが勝ち戦(いくさ)だったから、興味を持つことができたのかもしれない。
いずれにしても日露戦争なら大連より旅順である。というわけで、旅順観光に行くことにした。
見たい場所はたくさんあった。時はおりしもNHKで3年連続で年末放映中の「坂の上の雲」が最後の年となる時で、当時の歴史について急速に詳しくなっているときだった。203高地、東鶏冠山、関東軍司令部、どの場所も興味津々だ。
しかし、自力で旅順の旅をするのは困難と言える。旅順はひと言で言うと「閉鎖された街」である。大連も都会とはいえないが、旅順は田舎町というよりも、いまだ文化を充分に享受していない、置き去りの街といった印象だ。別に日本人が一人で歩いたからと言って、即トラブルに繋がるわけではないが、何かが起きても不思議ではない“暗さ”があることも否めない。そして旅順のあちこちに散らばった、当時の要所をひとつひとつ訪れる交通手段は決して容易ではない。
旅順巡りのツアーには、グループツアーと個人ツアーの2種類がある。当然個人ツアーのほうが値段は高くなるが、ある程度のわがままが通ると言う利点もある。また、聞きたいことをガイドに好きなだけ質問できるのも嬉しい。観光ルートも個人ツアーのほうが充実していると言うこともあり、私はこちらを手配した。
気をつけなくてはいけないのは、他と比較して“安すぎるツアー”である。お金だけ取られて、殆どどこも回らず適当な場所で車を降ろされた、なんて悲惨な体験談も耳にする。掘り出し物のツアーより、どこにでも載っているメジャーなツアーのほうが安心だろう。
当日は小型のバンで時間通りのお迎えだった。車には運転手と日本語の上手な中国人女性ガイドが乗っている。仕事に慣れた感じの良いこのガイドは、とても頼りになった。
天候はあいにくの小雨模様。大連から車で一時間ほど走っただろうか、やがて旅順の街に入るとまっすぐ白玉山に向かった。
乃木将軍の故郷から運んだ花崗岩で作ったといわれる、弾丸の形をした慰霊碑、白玉山塔を見上げ、ふもとを見渡せるポイントから旅順港を見下ろす。ここからは旅順港の全貌がはっきりと見渡せる。不凍の良港、とても美しい形をしていると思った。しかし、旅順港自体は軍港であるため、直接降りていって見学することはできない。
白玉山のあとは旅順駅に立ち寄ってもらい、続けて旅順博物館、関東軍司令部博物館、旧旅順大和ホテル、203高知、水師営会見所跡、東鶏冠山北保塁と、途中でランチを挟み次々と回った。
旅順博物館には1900年代初頭に大谷探検隊が新疆ウイグル自治区トルファンの墓で発掘したミイラが展示されている。ここで見学しているときに突然電源が落ち、館内の電気もエアコンも全て止まってしまうというハプニングがあった。
関東軍司令部博物館ではちょっと面白いことがあった。予定では館内見学となっていたにもかかわらず、ガイドが建物の説明だけをして、次へ行こうとしたのである。私が「ここ中も見れるんですよね?」と聞くと、「えぇ…あの、中も見たいですか…?」と当惑気味に聞き返すのだ。私はここの見学を楽しみにしていたので「見たいです」と返事をすると、「わかりました」と、半ば諦めたようにチケットを買って渡してくれた。「時間が押してるのかな?」私は疑問を感じつつ中へ入っていった。
博物館には当時の資料や写真、ジオラマで当時の部屋の様子を知ることができる。しかし、ここに展示されているのは関東軍司令部の資料だけではなかった。
そこには展示物よりも大きな張り紙に、日本軍に対する罵倒の言葉が書き連ねてあったのだ。
プロパガンダと攻撃性に満ちた数枚の張り紙。太く大きな文字で書かれたそれらは、辺りの展示物の存在を確実に霞ませていた。
誰かが主張のために張ったものだろうか?いや、展示物と張り紙がバランスよく並んでいるところを見ると、どうやら博物館側が意図して貼ったものと思われる。つまり、これらの張り紙も含めて、この博物館の展示物と理解するべきなのだろう。
私がちょうどその部屋で別の写真を見ているときだった。張り紙を読んでいた数人の中国人が口々に何か言い始め、次第に激高し、やがて怒声混じりの声があがり出した。振り向くと、その部屋にいる日本人は私一人だけ、あとはすべて中国人で、新たな入館者も次々部屋に入ってくる。私は一抹の恐怖を感じ、半ば逃げるようにその部屋を出た。
しかし他の部屋に入っても、もう気持ちが落ち着かず、見学に集中などできない。今この館内にいる日本人は自分だけかも、と思うとやはり怖かった。
結局、諦めて博物館を出ることにした。
ガイドが中に入ることを躊躇したのはこのことが理由だったのか。きっと過去にトラブルに繋がったケースもあるのだろう。そうだとしても何も不思議はない。
日本語を話したり、場合によっては日本人であることを知られるだけでもトラブルに繋がる可能性がある。ましてや笑い声混じりの日本語は言語道断と言っても良い。
博物館と言うにはずいぶん冷静さを欠いた場所だが、それがこの関東軍司令部博物館と言う場所の印象となった。
ここまで激しくないものの、203高知や他の場所でもやはり、中国語、英語、日本語で書かれた説明文の中には、日本軍を貶める言葉が込められている。
そのことで不愉快な思いをする人もいるかもしれないが、それでもやはり生々しい戦争の跡は見るだけの価値があると思う。
203高知では、雨雲のせいではっきりとは見えなかったものの、それでも“そこから旅順港が見える”ことを確認し、東鶏冠山北保塁跡では今なお激しい銃撃戦が続いている錯覚に陥るほど、夥しい数の銃痕がその形を緩めることもなく残されていた。
ロシア軍の頑強な要塞、そこに空けられた小さな銃口窓、そこからほんの数メートル離れた場所にある低い丘に身体を投げ出し、攻撃することを余儀なくされた日本軍。ここではロシア軍司令官のコントラチェンコ少将をしとめた事で、結果的に日本軍が勝利を収めた。
2006年に開放され、外国人も自由に訪問できるようになった旅順。正式には旅順口区と呼び、大連市に含まれる。
途中ちょっとしたハプニングもあったが、結果的に行って良かった、と思える旅だった。
ツアーは全行程でおよそ6時間程度。途中の道では店も何もないので、飲み物などあらかじめ用意しておくと良い(水のサービスはあると思う)。またガイドの話では「旅順でいちばん美味しい店」での昼食も、残念ながら私の口には全く合わず、ほとんど食べられなかった。
さらに水師営会見所には土産物屋があって、満州時代に関東軍が使用していた杯や時計、琥珀などが売られている。ここの売り子たちはかなり押しが強くしつこいので、断る勇気がない人は立ち止まらずに出口へ向かうことをおススメ。
大連に戻ってきて何故かホッとした。肩の荷が下りたような不思議な感じだ。旅順の街には戦争の爪あとだけじゃなく、亡くなった兵士たちの魂がいまだ残されているような、そんな重苦しさがあった。だからだろうか、激戦地を見ながら心の中で手を合わさずにいられなかったのは。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 1.5
- ショッピング
- 1.5
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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旅順口区の入り口
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白玉山に建つ慰霊塔
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白玉山からは旅順港を見下ろせる この日は小雨模様で残念ながら見えにくかった
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1903年に建てられた旅順駅は中国最古の駅のひとつ 今でも使用されている
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旅順博物館。1915年に物産陳列館として開館し、1945年にソ連に接収された後、中国に返還され現在に至る。歴史に翻弄された建物だ。
また、大谷光端率いる探検隊によって発掘されたミイラが収蔵されていることでも有名。発掘されたミイラはとても状態がよく、毛髪までしっかり残っていた。今なお同じ状態で見ることができる。ミイラの撮影は禁止。 -
収蔵物その1 鍋のように見えるが「銅鼓」とある
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収蔵物その2 馬の飾りが付いた壺
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収蔵物その3 可愛らしい入れ物
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収蔵物その4 たしか象牙でできた孫の手のようなものだったような…
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収蔵物その5 ガイドさんが言うには教科書にも載っている美術品だとか 私は全然覚えてないけど…
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収蔵物その6 四天王の像。館内はすでに停電だったので薄暗くしか撮れませんでした
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収蔵物その7 四天王に囲まれるようにして鎮座する仏像
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博物館から続く道路脇には不思議な形の木がありました
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関東軍司令部博物館
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のどかに見える建物の外側ですが。。。
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乃木希典の写真
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納骨するための祠と書いてあるようです
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当時使用されていたお金
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天皇陛下が敗戦を伝えるラジオを聴く人々
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司令部内の部屋のジオラマ
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作戦を練っている様子
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説明書きはありませんが、右側が日本軍だと思われます
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川島芳子が結婚式を挙げた旧旅順大和ホテル。今は旅行社が入っており、前には市場が開かれていました
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「そこから旅順港は見えるか」「はい、見えます」の有名なやり取りも、晴れの日だったからこそ。この日は雨雲で旅順港も霞んでいます。
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鎮魂の碑、爾霊山(にれいさん)は、この激戦区に落ちていた弾丸や薬莢を使って建てられたという。爾霊山は乃木希典が203を当て字にして名づけたもので、ここでは乃木の次男も戦死している。
ここでの日本軍の戦死者は1万7千人にも及ぶと言われている。 -
当時の様子を再現した大砲のレプリカ
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ここから203高知を登り、日本軍が進撃してきたというポイント。
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203高知についての説明。注目すべきは最後の一文です。
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水師営会見所。
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広瀬武夫が指揮をとって、旅順港閉塞作戦に向かう途中の写真
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当時の水師営会見所
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ロシア軍が水師営に訪れた様子。この白馬はステッセルから乃木将軍に送られたものかもしれない。
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会見後に撮影したもの。乃木の心遣いにより、敗戦したロシア軍も帯刀の上、撮影することを許された。また酒を酌み交わしたらしく、前列に座るロ軍の兵士は酔った様子が見られる
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ステッセルが乗ってきた白馬を繋いでおいた棗の木も、朽ち果ててはいるが残されていた。
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水師営会見所の当時の石碑はこのような形で残されている
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水師営から程近いところにある食堂で昼食。何種類もの料理が出されたが、残念ながら全く口に合わず食べられなかった
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東鶏冠山北保塁の入り口にある石碑
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生々しい弾痕
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ロシア軍の要塞
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ロシア軍の大砲と思われる
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土嚢の上に設置された銃
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要塞に向けて打ち込まれた夥しい数の銃痕
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なんだろうこれ?石碑にも銃痕が見られるんだけど。。。ちょっと覚えていません
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日本軍が要塞を爆破した場所
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同じく要塞
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大きく撃ち込まれた銃痕も見られる
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間近で見ると本当に生々しい これらの銃痕はすべて日本軍が撃ち込んだもの その距離はほんの数メートルだった
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要塞に空けられた銃用の小窓 集中的に撃ち込んだ跡が見られる
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この旅行記へのコメント (2)
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- km45さん 2013/07/20 14:11:05
- 「露国コントラチェンコ少将戦死之所」碑
- 下から6番目の写真にある石碑は、東シベリア狙撃第7師団師団長コントラチェンコ少将が28cm榴弾砲の直撃により戦死した地点で、堡塁指揮部に当たり、日露戦後、日本軍により建てられた「露国コントラチェンコ少将戦死之所」碑です。
- kobusakuraさん からの返信 2013/07/20 15:12:56
- RE: 「露国コントラチェンコ少将戦死之所」碑
- そうでしたか。コントラチェンコを倒したのがこの地点だったんですね。
すっきりしました、ありがとうございます。
それにしても、この碑に銃痕らしきものがあるということは、倒した際の廃材をそのまま使用したということなのでしょうか?
もう少し調べてみようと思います。
ありがとうございました!
> 下から6番目の写真にある石碑は、東シベリア狙撃第7師団師団長コントラチェンコ少将が28cm榴弾砲の直撃により戦死した地点で、堡塁指揮部に当たり、日露戦後、日本軍により建てられた「露国コントラチェンコ少将戦死之所」碑です。
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