2013/05/28 - 2013/05/28
10位(同エリア29件中)
ベームさん
6日目、5/28(火)。
ヴィッテンベルクからナウムブルクに行き、ハレのホテルに戻ります。
ナウムブルク:人口3万人。ザーレ川に沿いハレの南40キロにあります。1144年の都市権をえた古い町。15世紀にはハンザ同盟に加入している。旧東独に属していた。大聖堂とそこにあるウタとエッケハルト像が有名。
写真は大聖堂にあるウタとエッケハルト像。絵葉書です。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ヴィッテンベルク~ナウムブルク~ハレ。
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ヴィッテンベルク~ビターフェルト~ライプチヒ~ヴァイセンフェルス~ナウムブルクと3回も乗り換えます。下手な旅程作りでした。
ライプチヒHbf。
乗換えのほんの40分間街に出ました。
2009年にゲーテを辿り1泊した町です。 -
ライプチヒHbf。
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吹き抜けの構内は大きなショッピングセンターになっています。
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駅前から延びるニコライ通り。
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聖ニコライ教会にだけ寄ります。
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聖ニコライ教会。
1985年10月9日、月曜日の祈りの集会から始まった民主化要求の静かなデモがベルリンの壁崩壊の大きな一歩となりました。 -
聖ニコライ教会。
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聖ニコライ教会。
天井と柱。 -
後陣の天井。
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聖ニコライ教会。
柱頭の棕櫚の模様に特徴があります。 -
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聖ニコライ教会。
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聖ニコライ教会。
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聖ニコライ教会の円柱の模型が外の広場に建っています。。
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向かにある古ニコライ学校。
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駆け足で駅へ戻りました。
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ヴァイセンフェルス駅で乗り換え。
ライプチヒ発12:47、ヴァイセンフェルス発13:53. -
ヴァイセンフェルス駅、駅の裏側はまだこんな風景です。
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ナウムブルク駅到着14:02。
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ナウムブルク駅。
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タクシーでマリエン広場まで、7ユーロ。
マリエン広場のマリエン塔。久しぶりの青空です。 -
マリエン塔。
14世紀。唯一残っている市門。 -
マリエン広場。
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聖マリエン教会。
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マリエンマオアー通りを南に下るとホルツマルクトです。
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ホルツマルクト/材木市場。
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ホルツマルクト。
薬局は見逃しません。ヤーコプアポテーケ。 -
広場の片隅にはニーチェさんではありませんか。
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さらに下るとニーチェの家に突き当たります。
フリードリヒ・ニーチェ:ドイツの哲学者。1844/10~1900/8。
1854年:ナウムブルクのギムナジウムに入学。
1868年:ライプチヒ大学時代、ヴァーグナーを知り心酔。のちヴァーグナーの俗物性を知り1878年決別。
1869年:24歳でバーゼル大学古典教授。
1879年:体調を崩し大学を止め執筆活動に専念。
1885年:「ツァラトゥストラかく語りき」発表。
1889年:ついに狂気を来たしバーゼル、イェナの精神病院に入院。
1890年:母、病院では駄目とニーチェをナウムブルクの家に連れ戻す。
1897年:母の死によりヴァイマールに移る。以後妹エリーザベトが面倒を見る。
1900年:8月ヴァイマールで死去。55歳。 -
ニーチェの家。
1858年~1897年、ニーチェの母と子供たちが住んだ家。
ニーチェ自身は1854年ナウムブルクのギムナジウムに入り、1864年ボン大学に学ぶまでこの家に住んでいました。 -
中を見学できます。
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ニーチェの父母。
父カール:牧師。1849年、死の直前の写真。
母フランチスカ:1845年の写真。当時19歳?。 -
左妹エリーザベト:ニーチェの2歳年下。1861年15歳の写真。
中ニーチェ:1861年17歳。
右母フランチスカ:1850年の写真。23歳で未亡人になりこの年ナウムブルクに一家で移る。 -
ニーチェの自筆。
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ボン大学学生時代。1865年21歳。
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左ニーチェ:ライプチヒ大学時代。1868年24歳。
中エルヴィン・ローデ:同時代の友人。
右ショーペンハウアー:彼の著作はニーチェに大きな影響を与えた。1788~1860年。 -
母フランチスカとナウムブルクの家。
1890年、母は狂気に陥ったニーチェをイェナの病院からナウムブルクの自宅につれて帰った。
64歳の母が46歳の息子を病院でなく自宅に引き取って面倒を見る。息子思いの、強い母ではありませんか。 -
心の子供、、、ニーチェと母。
フランチスカがニーチェを生んだのは18歳の時。23歳、ニーチェ5歳の時未亡人となった。彼女はニーチェが父や祖父の跡を継ぎ牧師になることを望んだ。 -
療養中のニーチェ。
若いころ貰った梅毒だったという説もあります。 -
ベランダの病のニーチェ。
1893年、母が彼がゆっくり落ち着いて休めるようにと家に増設した。 -
そのベランダが残っています。
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手の届かない女友達。
左ニーチェ。右コジマ・ヴァーグナー。
ニーチェはコジマ・フォン・ビューロに1869年5月、ルツェルンのヴァーグナーの別荘で初めて会った。その当時コジマはヴァーグナーと住むため夫ビューローのもとを去っていた。2人は歳の差にもかかわらず深い友情に結ばれた。
ニーチェは初めヴァーグナーに心酔していたが、後その俗っぽさを嫌悪しバイロイト祝祭劇場完成のころ決別した。 -
ニーチェの家のそばの公園。
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ニーチェの家を出ると市壁の跡があります。
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13世紀ころのもの。
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ヴェンツェル教会。
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石畳。
道路の真ん中に水路があり、昔は雨水、生活用水、汚物、何でも流した。晴れて風が吹くと汚物が粉末となって舞い上がり、中世のヨーロッパの町は汚かった。 -
マルクト広場の方に向かうとヴェンツェル教会が見えてきました。
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ヴェンツェル教会。
当初1426年、1724年改築。
バッハが演奏したヒルデブラントオルガンがあるそうです。 -
ヴェンツェル教会。
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ヴェンツェル教会。
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ヴェンツェル教会。
祭壇。右に蓋付きの大きな壺のような説教壇。 -
ヴェンツェル教会。
天井。 -
ヴェンツェル教会。
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ヴェンツェル教会。
主祭壇。 -
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ヴェンツェル教会。
クラーナハの絵。「イエスと仲間たち」。 -
マルクト広場。
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市庁舎。
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マルクト広場。
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マルクト広場。
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マルクト広場の泉。
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市庁舎。
1528年。 -
市庁舎。
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市庁舎の入り口の装飾。
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マルクト広場を覗くヴェンツェル教会。
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手前の建物にツーリストインフォメーションがありました。
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ヴェンツェル教会。
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出窓があります。
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マルクト広場の隅にある市立博物館ホーエ・リリー。
1517年。真ん中の女性は後ほど大聖堂で見る美女ウタと思います。 -
ウタさんです。
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ヘレン通り。
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リンデンリング。
リンデンの木の並木道。 -
リンデンリングのおしまいにあるザールトーアハウス。
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聖ペーター・ポール教会。
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リンデンリング。
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オトマール教会。
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シュタイン通りに入ると大聖堂が見えてきました。
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ナウムブルク大聖堂。
正式には聖ペテロ聖パウロ大聖堂。4本の塔を持っています。 -
1028年の創設。
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ナウムブルク大聖堂。
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以下ナウムブルク大聖堂です。
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内陣の入り口。
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後陣の壁には全部で24体の石の彫像があり荘重な雰囲気です。
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大聖堂の寄進者たちの像です。
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最も有名なのが「ウタとエッケハルト夫妻」の像です。
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エッケハルトとウタ夫人。
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この地を支配していたマイセン辺境伯エッケハルトとポーランド皇女ウタ。
大聖堂の主要な寄進者です。 -
絵葉書を借用します。
美しいご婦人です。この像を見るだけでナウムブルクに来た甲斐があるというものです。 -
パンフレット。
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これはヘルマンとグリンデス夫妻像。
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聖歌隊席。
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聖歌隊席。
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地下のクリプタ。
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地下のクリプタ。
1180年頃のもの。 -
クリプタ。
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大聖堂、後陣側。
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大聖堂。後陣側。
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ウタ夫人に会えたので満足しトラムの線路沿いに歩いて駅に戻ります。
17:29ナウムブルク発、ハレ着18:21のICEでハレに戻ってきました。 -
ハレで中華屋を見つけ焼きそば、ビールに緑茶の夕食。10ユーロ。
この3日間ハレを足場に付近の町を歩きました。明日は南西方向、チューリンゲンのシュマルカルデン、マイニンゲンです。
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