2013/05/17 - 2013/05/19
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アムールヤマネコさん
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1600年10月、天下分け目”関ヶ原の戦い”。その二か月前から、四国松山でも関ヶ原に出兵していた加藤嘉明(かとうよしあき:現領主)の留守部隊と前領主だった河野氏の旧臣たちとの間で戦闘がありました。河野氏の旧臣は毛利氏(西軍)支援を受けた蜂起でしたが、関ヶ原での西軍敗報に毛利氏は撤退。蜂起した彼らも個々に鎮圧されました。
一方で東軍側についた加藤嘉明は関ヶ原の論功行賞(褒章)で10万石の加増を受け、大規模拡張のために正木(松前)から勝山の地に城を移築。新たに松山城と命名しました。
≪ 勝 山 ≫
1922年築の萬翠荘と松山城。”晩年の秋山好古が見た風景”と同じかもしれませんね。まあ とにかく、緑輝く若葉の季節になりました!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
こんにちは。
” 松山や 秋より高き 天守閣 ” (子規)
勝山(132m)の上に建つ大天守は御三階櫓(ごさんかいやぐら)。現存12天守の中では最も若い(1854年)建築です。
(北隅櫓から望む:玄関・南門を隔て大天守) -
この城の最大の見所は天守閣というより、それに連なる連立式の郭(くるわ)全体グルリの櫓(やぐら)群です。
(北隅櫓から望む:大天守方向と垂直の南隅櫓・小天守) -
本郭だけでなく建造物の21棟が重文指定を受け、いまだに復旧・復興や改良が続けられています。いつも新たな発見がある、本当にルンルンのお城なんですよ。
-
大天守に付けられた破風(△形)だけ見ても、上から入母屋 破風 ・ 唐 破風 ・ 千鳥 破風 とあります。デコボコ△意匠というか ” 和の建築美 ” です。
文句なく綺麗でしょ!
ならば天守郭を連立式にしてもっともっと櫓を増やせば
・・・・・・
・・・・
? -
増えた櫓の分だけデコボコな△意匠 も多くなって
そこについている銃眼や 弓狭間 ・ 石落しも 多くなって
それを攻め寄せてくる敵兵の目からみると、
もっと綺麗! \(~o~)/ -
じゃなくて、驚愕の防御陣地 !
\(◎o◎)/ ひぇー!!!ということになります。
(大天守の千鳥破風銃眼から見た瀬戸内方向) -
ですがここまで敵に攻め寄せられた状況を想うと、櫓群はすでに炎上して廃墟 。
「殿、御辞世を!」という方が現実的な設定かなあ、とか ○o。. -
まあ、いろいろな想いを楽しみますが、ここには建築当時(江戸期)の珍しい図面も残されています。櫓の上階は、なんと重ねて立体図面! ですよ。
*上役のご理解を得る為の ひと工夫・・・かなあ○o。. と か -
そのせいかどうかは兎も角、もちろん建造物は細かく考証されての復興です。ですから展示や景色だけでなく、ぜひ、上を向いて歩こうよ、と。素晴らしい木組みがみられます。
火災に備えてでしょうが、この特大の材木(たぶんヒノキ)!
御宅の購入に3寸5分のケヤキ柱でビビったお父さん、身震いしませんか? -
北隅櫓の二階で、内壁が崩れている箇所を発見しました。
*壁には藁でなく 長い繊維が塗りこめてあります。
(\(~o~)/ 修繕される前に、皆さんも早く見に行ってくださいね!) -
一階に展示されている久松(松平)家の”槍コレクション”も秀逸です。とても長いですよね。実戦では、相手を突くというよりも頭をバシバシ叩く脳振とう狙いの方が効果的だったそうです。本当に命をかけての戦い。飾りに付けられたシェル象嵌だって趣味ギターの比じゃない、一世一代の晴れ道具です。
-
松山の久松家は親藩(藩祖は家康異父弟)です。表高は15万石ですが、実高はその2倍もあったそうです。それでも天守閣は落雷で焼失後70年間も再建が出来なくて、というか天守が再建されたのは、黒船来航の後なんですよ。
黒船が来たから戦に備えて、大砲を買い込んだ。…じゃなく天守閣を再建? -
建て倒れといわれた、愛媛の本領発揮!みたいな話で。
” 松 山 や 秋 よ り 高 き 天 守 閣 ”
明治になって地元一のインテリ士族が作った歌○o。.なんか楽しいでしょ(=^・^=) -
城見物で、私の一番の楽しみは縄張り(曲輪の配置)からの妄想です。
例えば、このユルい登り坂を見てください。遠く後ろの方に見える天守閣を目指してワーっ!と駆け上がって行くでしょ(もちろん右手の石垣上からは、矢弾が雨アラレ)。 -
真っ直ぐ駆け上がると、この中門に辿りつきます。(まだ復興されていません)…でも何となくみえますよね。
この門は簡単に壊されるというか、実は壊れても良いんです。
*天守が見え隠れする場所、そういう正面方向に「門が有る」というのがミソ。 -
左は二の丸や三の丸まで含めた松山城の全体。右はその中枢(今の松山城域)です。
*右図をご覧ください。
中門(A)を突破した敵は”屏風折れ石垣”下を平行移動するばかり(緑線)。乾門手前の石垣(B)までで行き止まりなんです。 -
下から見上げると、こんな感じ。このA-B間の ”屏風折れ石垣”は何度も屈折して横矢懸りが続きますし、円弧になって、距離も長いです。
*上から石だけは落とさないでね (・_・;)・・・(今は立ち入り禁止) -
石垣上に建つ北隅櫓の狭間から二の丸方向に屏風折れ石垣を見下したところ。
*往時は下に見える木々はありません。景色から緑を取り払った山肌で右往左往している敵の様子を想像してください(右上(90m下)に見える四角い郭は二の丸)。
-
いっぽう中門前(A地点)でそのまま前に進まずに、後ろを振り返って見上げると
・逃げることが難しい両脇の石垣に挟まれ、ますます勾配が増した登り坂
・その先に見えるのは、見るからに誘っているような、怪しい”戸無し門 ”
*引っ張りましが、石垣の上に見えるは天守閣、坂の上に見えるは一駄の雲、
ここでどちらか選択せねば!! (*^^)v -
中門から少し下がった揚木戸門跡に残る” 高石垣 ”です。
・下の勾配は緩く 上は垂直(武者返し!)
・隙間を小石埋めの打込接(うちこみはぎ)と隙間なく削加工した切込接(きりこみはぎ)の布積を混合
・屈折させて 横矢懸け -
*チョッと見に「登れるかも…」は、賤ヶ岳七本槍の加藤嘉明、面目躍如しょうか。
-
城を見るといつも感じるのですが、
綺麗なバラには棘があり、その棘の巧みさを競う工夫こそ築城者の楽しい作業。 -
で、そういう競う”楽しさ”が破壊の”悲しさ”へと繋がる…。
-
代わって道後温泉の本館。
個人的には若い女性には一押しの場所です。
湯上りには
・浴衣は右前(右手が懐に入る)ですよ
・天目台(てんもくだい)は御椀と違いますよ
・茶菓子(おちゃがし)はオツマミじゃないですよ
そして
・若いあなたはスッピンが綺麗で可愛いですよ! -
*ここの又新殿(ゆうしんでん:皇族用湯殿)は写真撮影お断りです。
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/kankomeisho/dogoonsen/panhu.files/tankenchou2.pdf
*霊の湯では帰り際に館内を10分ほど同行案内してくれます。また、神の湯で250円を別に払って見学することもできます。ご自由にですが、見学できる角度も含め「このパンフ写真の通り」です。 -
” 汗取り浴衣 ”で縁側夕涼みです。
お行儀悪いですが、チョイッと足を延ばして縁側の上や外の軒にある意匠も愛でてくださいな。日本家屋の障子灯りや 欄間や寄棟屋根(桧皮と銅板)。運よく夕暮れだと ガス燈も灯りますよ。
他人より少しでもたくさん”アレ見て、コレ聴いて ”じゃなく”のんびりを湯ったり”とね(=^・^=) -
松山市内には約100か所の城跡が知られています。その中で最大の遺構が、日本100名城にも選ばれた河野(こうの)氏時代の”湯築城(ゆづきじょう) ”です。
http://www.dogokouen.jp/kouen/gaiyou.html
庭園や土塁・復元家屋等で往時を偲ぶことができます。資料館(無料)
江戸期の城とは違い地味ですが、全国でも数少ない貴重な戦国遺構(国指定史跡)です。 -
城だけでなく道後には河野氏にゆかりの寺院が数多く残ります。石手寺(いしてじ:真言宗・四国八十八か所の起源逸話)や宝厳寺(ほうごんじ:時宗・廻国六十六カ国の拠点)は、観光名所としても有名です。(写真は石手寺三重塔)
そこで今回は双方の廻国にも縁がある義安寺(曹洞宗)を訪ねました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%AE%89%E5%AF%BA
*地理的には宝厳寺から石手寺へ至る中間辺り(古の戒能の谷)に位置します。 -
義安寺(ぎあんじ)が残る場所は、その裏山が湯築城本丸との切通しの対にあたる出丸でした。湯築城にとっては唯一ともいえる重要な搦め手なのです。建立者と伝わる河野彦四郎義安については存在も明らかでないそうですが、屋根瓦には三折敷(河野家紋)の寺紋が輝いています。
姫塚の由来が残るくらいなので、1539年の創建は中興開山(再興)かもしれません。 -
まず、私が「敗者(河野氏)の想い」を考えるきっかけになった現地説明板をご覧ください。これによると、自刃した原因は和議を結ぶ条件や戦争責任を負ってということではありません。二君に仕えない、つまり今の主君への忠誠心からということでしょう。それなら主君・通直が亡くなった年(天正15:1587年)でなく、その前の、和議で城を開け渡した(天正13:1585年)タイミングに自刃、というのはおかしくないですか?主君がまだ生きている時期です。しかも、騒ぎを起こせば謹慎中の主君が勝者(豊臣)から管理責任を追及されかねません。赤穂浪士でさえ、主君切腹後でも主家再興の可能性が残るうちは、それを静かに待ちましたよね。
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文中出典の予陽郡郷俚諺集(1710年:奥平貞虎)は後代の編纂ですが、信頼できる公的な地誌です。年代違いということはないでしょう。ではなぜ当主の存命中に、一族や老臣たちが「二君に仕えず」を理由に自刃をしたのでしょう?
当主の河野通直は豊臣軍の大将だった小早川隆景と同じ毛利一族です。自刃した人たちが君主と仰いでいたのが実は通直でなく、その仰がれていた誰かが君主になれなくなったことが自刃事件の真相ではないのか。次期君主にと仰がれた誰か以外には、二君に仕えずではないのか。そういう類推が、私の「敗者(河野一族)の想いさがし」の旅です。 -
同寺に残る姫塚は、河野通時(北条時政の娘の孫で通有の叔父:元寇(1281年)で討死)と、彼が戦から帰るのを待ちわびた娘との親子の碑だそうです。禅寺ゆえか父を待つ娘の姿をダルマに描いたのが郷土玩具”姫だるま”の発祥だそうです。河野一族にとっては、湯築の築城以前から既に道後は重要な地だったのでしょう。
”ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。”
いまさら敗者の想いを知ってどうなるものでもありませんが、私には「伝え残すはずの何かが今も残されているような」そんな気がしての、…続く旅です。
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