2013/05/09 - 2013/05/09
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belleduneさん
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加古川東岸の一部は、大部郷と呼ばれる國が領で、1147年(久安3)頃、東大寺領大部荘として立荘されました。平氏の兵火で焼失した東大寺を再建するため、大勧進職となった俊乗房重源が、この大部荘を再開発し、東大寺再建の経済拠点としました。この地に播磨別所を開き、この浄土寺を建立しました。その本堂が浄土堂で、1197年(建久8)に落成し、東大寺再建と同じ大仏様(天竺様)で建てられています。
太い円柱の挿肘木、皿斗付の斗、遊離尾垂木、隅扇垂木、鼻隠板を打った直線の軒、丸い断面の両端が窄まった虹梁、桟唐戸とその藁座、独特の繰形など、大仏様の特徴が良く表れています。
浄土堂は、大仏様をほぼ完全に伝える全国でも数少ない貴重な遺構で、ここも予々来て見たかったものだったんで、感激でした。堂内の阿弥陀如来、両脇侍立像も素晴らしく、心洗われる1日でした。
ここに来るのは、かなり不便なのですが、神戸電鉄の小野駅からタクシーか、運良く時間が合えば、コミュニティーバスに乗ってこれます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー JALグループ 私鉄 徒歩
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浄土堂(阿弥陀堂)
鎌倉初頭は、浄土宗、浄土真宗、禅宗等の新宗派が次々と起こり、宗教界にも、仏教建築界にも新風を送り込んだ時代でした。唐様、大仏様(天竺様)が伝えられ、多彩な時代でした。
中でも、大仏様建築は構造力学の原理に即した合理性を尊重し、それに徹しようとするものであったため、真の建築美を構造原理の合理性に見い出そうとする近代建築観と、最も符合するものということです。 -
阿弥陀如来像、両脇侍立像の三尊とも名仏師快慶の作で、阿弥陀如来の高さは、530cm、観音・勢至の両菩薩は、夫々370cmです。
丈六の座像は、多く残っていますが、立像は珍しく、その上、安定性を保つために特殊な据え付け方をしているそうです。鎌倉初期の写実風がかなり濃厚に表れています。三尊とも雲形の台座に立たれて、朱色の屋根裏に届くかの重量感で、特に西日が当たると、雲に浮かぶ来迎の姿に、見とれるということです。時間があれば、夕陽の頃迄、ここで過ごしてみたいものです。 -
桁行三間、梁間三間、単層、屋根宝形造り、本瓦葺きの建物で、柱間の隔たりは20尺(6m)と広く、屋根が直線的で外観は低い建物に見えますが、堂内に入ると、広々としています。天井を張らない化粧屋根裏となっているため、斗の下に皿を付けていたり、捶の配り方が四隅だけ扇捶としていたり、捶鼻に鼻隠板を打ち付けているという純粋な天竺様の建築方法が良く見ることが出来ます。
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この透かし蔀戸(しとみど)から西陽が入り、素晴らしい光景が見られるということです。先ず、西陽が床に反射して、それが天井裏に当たり、そして本尊に降り注ぐため、本尊が赤く染まるということです。
巨大な赤い三尊が雲に乗って浮かんだ状態が、まさに西方浄土からお迎えに来る「御来迎」の姿を実際に見せようと考えた舞台芸術だと言えます。 -
昭和32年より始まった解体修理工事は、3500万円の工費と2年半の歳月を経て、昭和34年秋に完了し、創建当時の美しい姿に復元されました。
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鐘楼
現在の建物は、1632年(寛永9)に加東郡河合郷新部村粟津七右衛門が建立し他と言われています。
袴腰付きの鐘楼で、本瓦葺き、入り母屋造りの大屋根と裾部の袴腰が優美に調和して、江戸時代初期の様式を良く表しています。和様を基調として、部分的に唐様を混合した様式。 -
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八幡神社本殿・拝殿
浄土寺伽藍の中央正面に位置し、重源が八幡信仰を重視していたためと考えられています。本殿は、室町時代中期の代表的な桧皮葺き、三間社流造りとなっています。
手狭の絵様彫刻や蛙股内の花鳥や透かし彫りなどにその時代の特徴が表れています。 -
八幡神社拝殿
八幡神社は、1235年(嘉禎元年)に建てられ、現在の拝殿はその遺構。幾度かの改変の後、桁行七間、梁間三間、寄せ棟造りの割拝殿になっています。
緩やかな屋根の勾配、繊細な繁垂木、木鼻、蛙股などの意匠から室町時代に多く見られた和様、唐様、大仏曜の折衷様式の原型と言えます。 -
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割拝殿は、構造的には、五間の身舎の三方に、庇を付けたものと考えられています。
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奥正面に八幡神社本殿が見えます。
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割拝殿から鳥居方面を見たところです。
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薬師堂
1197年(建久8)に重源によって、上棟したと伝えられていますが、1498年(明応7)に焼失し、1517年(永正14)に再建された和様、唐様の折衷様式。
荒廃したままの広渡寺の本尊であった薬師如来座像を薬師堂に移して、安置したと「浄土寺縁起」に記されています。 -
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側面の花頭窓は、唐様であり、内部外陣の後半から内陣にかけての組入天井や内外陣の境は、和様扱いとなっています。
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桁行五間、梁間五間、単層、屋根宝形造り、本瓦葺きと浄土寺とほぼ同形同大の建物で、浄土堂と相対し、浄土寺の根本道場となっています。
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浄土寺裏山からみた薬師堂 屋根の勾配が緩やかなのが良く分かります。
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薬師堂の横に建っているのが、開山堂で、開祖である重源上人の座像を安置するためのお堂です。方三間の小規模な建物で、前面一間通りを吹き放ちの庇となっており、組物は隅柱の上だけに舟肘木を載せた簡素な形式となっています.
この日は、横の大木の伐採をクレーンで行っていたため、大型トラックなどが停めてあり、上手く写真が撮れませんでした。 -
「浄土寺縁起」には、「御影堂、写本不知之間不知也」と記されており、創建の記録はありませんが、1498年(明応7)に薬師堂と共に炎上し、1520年(永正17)には上棟されたと思われています。堂内に安置される厨子もこのお堂と同じ室町時代末期に造られたと考えられています。
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重源上人座像は木像で、胎内に墨書銘があり、智阿弥陀仏の勧進によって、1234年(天福2)に奈良よりこの浄土寺へ迎えられ、1256年(建長8)に落成した御影堂に安置されたと記されています。
ほぼ等身大の像で背を丸めて、胸の前で数珠を持つ姿は、東大寺の重源像と全く同じですが、現在、奈良国立博物館で保管中です。衣文のひだなどの表現は、鎌倉彫刻で、自然なさまを表していますが、面相はやや固く、生気を欠いているそうです。恐らく、東大寺の重源像を模刻したためではないかと考えられています。 -
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裏山から見た不動堂です
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浄土寺裏山に四国八十八箇所巡りが設えてあり、30分程で廻れるとあったので、歩いてみました。途中、スズメバチに注意と表示があったので、ちょっと緊張した瞬間でした。
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