2013/02/27 - 2013/03/02
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先任搭乗員さん
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【3日目】
06:00 起床
07:30 朝食(MJバーガー)
09:00 コロール発
10:10 ペリリュー島戦跡各所慰霊
12:25 昼食(弁当)
13:10 ペリリュー島戦跡各所慰霊
15:10 ペリリュー島発
16:15 コロール着
19:00 夕食(パラオプランテーション内、義経)
22:00 就寝
【日 程】 2月27日(水)?3月2日(土)
【旅 行 者】 S君・K君・実弟・先任搭乗員
【キャリア】 デルタ航空
往路 DL097 成 田(NRT)18:30 ⇒ パラオ(ROR)23:25
復路 DL096 パラオ(ROR)04:25 ⇒ 成 田(NRT)09:20
【宿泊ホテル】 パラオ・ロイヤル・リゾート
【為替レート】 1$=約92円
【獲得マイル】 9946マイル(往復・ボーナスマイル含)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 航空会社
- デルタ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
本日はOPツアーにてペリリュー島へ向かう日である。
いよいよ、祖父が戦死した場所へ・・・。
先任搭乗員の気持は、いやがうえにも昂るのであった。 -
毎日、ほぼ同じ絵面・・・。K君・S君・実弟。
-
タクシーにて朝食場所へと向かう一行であった。
-
朝食はMJバーガーにて。
(詳細は食事編を参照されたい)
http://4travel.jp/traveler/hishokacho/album/10754489/ -
ツアーの集合・出発の場所は、宿泊したホテルに併設するブルーマーリンというダイビングショップである。
-
このツアーの参加者は、先任搭乗員一行4名、
(画像:先任搭乗員・S君・K君)
機関銃のように喋りまくる大阪のオバチャン、
(画像:後ろで手を挙げている人)
ひとり旅の青年、計6名であった。 -
いよいよ、天皇の島ペリリュー向けコロールを出航。
天皇の島とは、玉砕寸前の同島に天皇陛下が激励の電報を11回も送ったことに由来するのである。 -
昭和十九年九月二十三日に逆上陸を敢行した高崎歩兵第十五連隊第二大隊と同じコースでペリリュー島へ向かうのであろう。
-
それにしても綺麗な海である。
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25ノットの快速でボートに揺られていると、一時間強で前方にペリリュー島を視認!
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《 北波止場 》
ヒトマルマルゴ(10:05)に到着す。
日本統治時代は、ガラコル波止場と呼ばれていたのである。
高崎歩兵第十五連隊第二大隊の目的地もここであった。 -
《 北波止場 》
「申告いたします!先任搭乗員は只今、ぺ島に着任いたしました!」と、不動の姿勢を取り、心の中で呟くのであった。
「貴様~、来るのが遅い!遅すぎる!」と、英霊の声なき声が聞こえてくるようであった。 -
《 北波止場 》
この港は日本のODAにて整備されたそうである。 -
《 北波止場 》
この車が本日一日、我々の足である。
車内では、例の大阪のオバチャンがボケまくっていたのである。
「うち?昭和22年生まれの、18歳やで?」などと・・・。
笑うに笑えん。というか止めてくれ・・・。 -
北波止場から程近い所にあるトーチカ。
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《 水戸山斜面千人壕 》
この壕は海軍の設営隊が建設したのである。名前の通り、内部には千人が入れる位に大きいのである。 -
《 水戸山斜面千人壕 》
壕内にて日本から持参の清酒・水を捧げる。
約70年前に使用されたであろう瓶や食器類が散乱しているのである。 -
《 水戸山斜面千人壕 》
迫撃砲弾を収納するケース。 -
《 水戸山斜面の千人壕 》
入った所とは別の出入口。出入口付近の岩肌は、米軍の火炎放射器により黒く焼け焦げているのである。 -
千人壕より至近のトーチカ。銃眼が並んでいる。
-
同トーチカの内部。
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ペリリュー島のメインストリート。
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もの凄く甘いマンゴージュースで喉を潤す、先任搭乗員・S君・実弟。
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《 戦没者慰霊碑(みたま)》
持参の線香・清酒・水を捧げる。 -
《 戦没者慰霊碑(みたま)》
当時の鉄兜、水筒、飯盒が置かれている。 -
《 戦没者慰霊碑(みたま)》
三十四会(みとしかい)建立の慰霊碑。
この会はペリリュー島守備隊の生き残り34人で結成される戦友会のことである。 -
三十四会の将兵が潜伏していた洞窟への案内板。
-
《 戦争資料館 》
これは大正十一年に建築された海軍の弾薬庫なのである。
館内は撮影が禁止されているのであった。 -
《 戦争資料館 》
同館の隣には最近発見されたという、機雷・魚雷・爆弾が展示?されていたのである。 -
《 海軍航空隊司令部跡 》
これは大正十年に建築されたのである。 -
《 海軍航空隊司令部跡 》
中央の大きな穴は、800㎏爆弾が貫通したものである。 -
《 海軍航空隊司令部跡 》
洗面台。 -
《 海軍航空隊司令部跡 》
トイレ。 -
《 海軍航空隊司令部跡 》
風呂。 -
《 海軍航空隊司令部跡 》
バルコニー。
その当時、ここからは飛行場が一望できたそうである。 -
《 海軍航空隊司令部跡 》
退避壕入口。 -
《 海軍航空隊司令部跡 》
同内部。 -
“九五式軽戦車”
昭和十九年九月十五日夕刻、この戦車は斬込隊と共に米軍に突撃し、勇戦するも全滅してしまうのである。以来、この地に残るのである。 -
実弟は整備士としての血が騒ぐのか、マジマジと軽戦車の構造を観察していたのである。
-
内部には操縦レバーやペダル類も残っているのである。
-
当時の戦車兵は、「装甲はいいから、敵戦車を撃破できる砲を搭載してくれ」と。
泣ける話である。 -
《 ペリリュー飛行場 》
この飛行場は、南洋諸島最大規模の日本軍飛行場だったのである。 -
《 オレンジビーチ 》
ビーチがオレンジ色ということではない。米軍が上陸地点の海岸を北から順に
“ホワイト” “オレンジ” というコードネームで区分していたのである。 -
《 オレンジビーチ 》
遠方にアンガウル島を望む。オレンジビーチ上陸後、3日で戦闘を終了する予定であった米軍は、日本軍守備隊の凄まじい抵抗にあい、その戦闘は70日間以上にも及んだのである。 -
“零式艦上戦闘機”
-
計器や操縦桿は無いものの、方向舵(フットバー)は残存する。
-
脚を出したままなので、離陸、若しくは着陸時に撃墜されたのであろうか?
-
《 南波止場桟橋跡 》
ここで昼食である。 -
昼食の弁当。
パラオ語でも、弁当は「ベントー」である。
ちなみに「乾杯」は、パラオ語で「ショウトツ(衝突)」と言う。 -
《 高崎歩兵第15連隊第3大隊指揮所跡 》
トーチカの出入り口。
同大隊長 千明(ちぎら)大尉以下のこの部隊は、全滅したために戦闘詳細は不明なのである。 -
《 高崎歩兵第15連隊第3大隊指揮所跡 》
銃眼には鉄板の蓋が付いているのである。しかもこれは電動だったそうである。 -
《 高崎歩兵第15連隊第3大隊指揮所跡 》
トーチカの内部。此処でも日本から持参の清酒・水を捧げる。 -
《 高崎歩兵第15連隊第3大隊指揮所跡 》
トーチカの外側は、石灰岩で偽装が施されているのであった。 -
沖合の輸送船から兵員を運ぶ、米軍の水陸両用トラック“LVT”
アメリカの戦争ドラマ“パシフィック”にも登場していたヤツである。 -
星のマークもクッキリと残る。
-
海軍“短二十糎砲”
この砲は侵攻してくる米軍の方角を向いておらず、活躍しなかったそうである。 -
《 ペリリュー神社 》
この神社は昭和五十六年に建立されたそうである。 -
《 大山周辺 》
これは不発弾処理の現場である。
紅白に塗られた杭があるが、白い部分の間は100%安全とのことである。
赤い部分の外側は要注意とのことであった。 -
《 大山周辺 》
逆上陸を敢行した第2大隊長飯田少佐は、3名を1組とする必殺の斬込隊を繰り出し、執拗に敵陣を襲ったそうである。
ビビりまくった米軍は
「勇敢ナ日本軍ノ皆サ~ン、夜間ノ斬込ハ止メテ下サ~イ。アナタ方ガ~斬込ヲ中止スルナラ~、我々モ艦砲射撃ト飛行機ノ爆撃ハ~即在ニ中止シマ~ス」と、米軍の二世兵士は毎日放送したそうである。 -
《 大山周辺 》
この島の何処で祖父は戦死したのであろうか? -
《 大山戦闘指揮所洞窟 》
昭和十九年十一月二十四日、弾薬・食糧は尽き果て守備隊は戦闘継続不可と判断したのである。
軍旗奉焼の後、
村井少将(第十四師団派遣参謀)、中川大佐(歩兵第二連隊長)、
飯田少佐(歩兵第十五連隊第二大隊長)が自決。
その後、かの有名な玉砕を伝える電文「サクラ・サクラ」が発信されたのであった。 -
《 大山戦闘指揮所洞窟 》
洞窟前にある鎮魂の碑。
先任搭乗員一行は戦跡各所において哀悼の意を捧げ、英霊の御霊をお慰め申し上げるのであった。 -
《 展望台 》
大山(おおやま)山頂である。
ペリリュー島の最も高い位置にあり、米軍が建てた、ブラッディノースリッジモニュメントもある。(これを撮影後、カメラのバッテリーが切れたのである)
ヒトゴヒトマル(15:10)今次旅行の主目的を成し遂げ、我々は一路コロールへと帰還するのであった。 -
ホテルで休憩の後は、夕食場所へと向かったのである。
(詳細は食事編を参照されたい)
http://4travel.jp/traveler/hishokacho/album/10754489/ -
夕食後はホテルへ戻ってプールサイドのバーに寄り、
-
“野菜スティック” “焼うどん” “串焼”を肴に、
-
本日慰霊に訪れたペリリュー島の事などを話題に、“サンミゲル”で締めたのであった。
◎万歩計 13016歩
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この旅行記へのコメント (7)
-
- lagunaさん 2014/12/20 09:46:47
- ありがとうございます
- 南方激戦地へ慰霊の旅、ありがとうございます。
私の父も海軍軍人(職業軍人)で、当時、駆逐艦「霧島」に乗務しており、ブーゲンビルやラバウルまで行ったと聞いております。
この「霧島」もアメリカの魚雷攻撃で沈められ、南方の小さい島に仲間5人と泳ぎ着き、日本の輸送船団が偶然航行中に発見され助けられたそうです。
ただ、島に泳ぎ着く前に1人は力尽きて海に沈んでいくとき、疲労困憊で助けられないため、その人の髪の毛を引き抜いて腹巻にしまい、日本にたどりついてから、その亡くなった人の家族に死んでいった状況を手紙を書き、一緒に髪の毛を同封したそうです。戦後になってから、亡くなった人の両親が毎年毎年、父の家に来て死んでいったときの状況を何度も何度も聞いて、大泣きして帰っていったそうです。
十数年も続き、両親が来なくなったのは多分お亡くなりになったのだろうと
ポツリと話していました。(父も23年前に他界してます)
いまだに遺骨のままで、日本に帰れない兵隊に対し、申し訳ない気持ちとこの方々の犠牲の上に我々が平和を享受していることを再確認いたしました。
私も、一度は慰霊の旅をして秘書課長さんのように酒と線香をお供えしたいと強く感じた次第です。
- 先任搭乗員さん からの返信 2014/12/21 14:01:50
- RE: ありがとうございます
- こんにちは。返信が遅くなりすみません。
この度はメッセージをいただきき恐縮です。
また、私の拙い旅行記にも投票をいただきありがとうございました。
今回のご尊父様の戦争体験を拝読させていただきました。
貴殿のおっしゃる通り、我々は先の大戦で立派に国のために戦った方々のお陰で現在平穏に生活できているということを忘れてはいけないと考えております。
これを機に、今後ともよろしくお願いいたします。
時節柄ご自愛くださいませ。
秘書課長 拝
-
- まやこさん 2013/03/14 21:24:08
- はじめましてm(__)m
- 秘書課長さま こんばんは(^^)まやこと申します。
足跡を辿ってお邪魔させていただいたところ・・・感慨深い旅行記に出会ってしまいました。
私の実家は、陸軍なのですが職業軍人の家系で、祖父は陸軍中将でございました。
戦後、戦犯としてフランスに10年近く抑留され、日本の家もろとも進駐軍に没収されたようです(><)
没落したとはいえ、現在も誇りだけは失わないで生きて行こうと肝に銘じております。
私も激戦地等に赴いた際には、精一杯の祈りを奉げております。
精神的な負担も大きいため、訪れることがあったら・・・程度のゆる〜い感じですが**
先祖の足跡等辿って、いつかは関連のある現地に赴きたいと思っております。
まやこ
- 先任搭乗員さん からの返信 2013/03/15 09:22:51
- おはようございます
- まやこ様、はじめまして。
この度はメッセージをいただきありがとうございました。
お祖父様が戦犯として10年も抑留されていたこと等、ご心中察するに余りあります。
「戦犯」、嫌な響きですね・・・。
今回私はペリリューへ参りましたが、祖父は中国(東北地方)にも駐屯していたことがありますので、何れはそこにも行ってみたいと思っております。
拙い者ではありますが、今後ともお見知り置きの程を。
秘書課長 拝
- まやこさん からの返信 2013/03/16 00:05:05
- ご丁寧にどうもありがとうございますm(__)m
- 秘書課長さま
我が祖父は抑留されておりましたが、強制労働等させられていたわけではないらしく、
おまけに、後年無事帰国しております。ですので、戦死された方々に較べれば***
秘書課長さまのお祖父さまは戦死なされたとのこと・・・こちらこそ、お悔やみ申し上げます。
母は幼少時代を数年、北京、満州で過ごしたそうです。12年ほど前に、母を連れてその地を訪れたことがあります。
母の住んでいた家は小学校になっておりました。幼児の頃の記憶ですので、曖昧で
あまり懐かしむことはできなかったようですが、連れて行ってあげることができて良かったと思っております。
秘書課長さまもぜひお祖父さまの足跡を辿ってらしてください。
まやこ
-
- puyomushiさん 2013/03/09 11:23:51
- はじめまして
- 秘書課長さん、はじめまして。
英霊慰霊の旅行記拝見しました。
ちょうど親は手前、祖父世代は出征には遅すぎる年代にあてはまって
いるので、配偶者の家族を含めて身近に戦地に赴いた人間がいないpuyomushiと申します。
一昨年にjustリゾートで赴いた時には戦争の傷跡があり心痛んだものでした。
秘書課長さんはお祖父さまの最期の地への訪問ですのでなお一層のこととお察しします。
70日にも及んで戦い続けた日本人の粘り強さが返って悲劇を増大させたのだと拝見しました。
今まで能天気な旅行記しか書いたことがない自省の意味をこめて
僭越ながら書き込みさせていただきました。
今度は楽しい旅行記を拝見いたします(^.^)
puyo
- 先任搭乗員さん からの返信 2013/03/09 12:08:56
- はじめまして
- puyomushiさん、こんにちは。
この度はメッセージを頂戴し、ありがとうございました。
祖父は父が2歳の時に戦死をしております。
当然、父は父親(祖父)を知らないわけでありますし、
国に妻(祖母)と子供(父)を残し、出征し戦死をしてしまう。
自分も人の親となり、子供を持ってみて思う事ですが、
この時の祖父の気持ちを思うと何ともやりきれない気持ちになります。
今回漸くにして、戦死の地へ赴くことができたわけであります。
祖父もさぞ喜んでくれていると思っております。
「尊い犠牲の上に現在の我々がある」ということを忘れさえしなければ、
先の大戦で戦没された諸英霊も浮かばれると思います。
何か暗い文面で申し訳ありません。
今後とも、お気軽にお立ち寄り下さい。
秘書課長 拝
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