2013/01/24 - 2013/01/28
579位(同エリア734件中)
きっちーさん
~準備中~
出張で、初☆沖縄!!
せっかく水着など隠し持っては来たものの、1月の沖縄は海に入る温度ではなかった・・。
せくしーショットをアップできる機会だったのに逃したなー。残念だなー。
(もはや仕事の自覚ナシ)
関東地域に比べたら、上着一枚でフラフラできるだけでも、そーとう暖かいんですけど。
だが、しかし!
沖縄うちなーにとっては、バリ真冬らしくダウンジャケット着用の方も多い。
なんか台湾を思い出すなー。
じもちーにとっちゃ薄着過ぎるから、観光客はすぐにバレる。
沖縄北部から、那覇へ戻ってきましたv
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- レンタカー JALグループ 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
終わったー!
仕事、終わったー!!
ま。
ほとんど、自分の趣味を優先しちょりましたが・・。 -
うちなーコーディネイターYさんに、最後に案内していただいたのは(個人旅行はコレからが本番だが・・)、『沖縄戦』の戦跡!
集団自決の現場となったいう『ガマ』は、観光客の心無い行動のせいで立ち入り禁止になった場所もあると聞いたことがあります。
長野の『松代大本営』や、中には入れませんでしたが重慶爆撃の『防空洞』跡へは行った事があります。
この機会にぜひ、沖縄のガマがどんなものだったのか、実際に連れて行ってもらうことに。 -
那覇中心部から、車で30分ほどの場所にある、『アブチラガマ(糸数壕)』です。
まずは、駐車場に隣接した施設を見学。
この小さな資料館は、休憩所を兼ねているようで、新築のにおいがする明るい建物です。 -
アブチラガマの資料館には、もちろん沖縄戦のパネルも展示されているのですが、壁に貼られているのはほとんど最近の新聞記事。
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2010年の琉球新報や沖縄タイムスなどの、報道記事がペタペタあちこちに貼られています。
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どうやら、不発弾の記事が多いみたい。
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ハルビンで見た、日本軍によって遺棄された毒ガス被害の記事とかぶります。
つか、なんでセロテープで貼ってあるのか。
もっと丁寧にパネルにすれば・・・。
展示がザックリなのはとても気になります。 -
ずらりと伸びる出来事を目で追います。
沖縄戦は、まだ終わっていないんじゃないだろうか。
そんな気がして仕方がない。 -
沖縄戦の戦跡を見学に来たはずなのに、展示されているのは現在も圧倒的な件数で起こっている、沖縄の米軍基地被害。
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日本政府とアメリカ政府の、安全保障という名の『軍事被害』を、沖縄はいまも苦しめられ、告発し続けている。
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沖縄戦当時、最高責任者で唯一の主権者は昭和天皇だった。
アメリカへ宣戦布告し、日本軍を沖縄へ配備し、あのような住民を巻き込んだ地上戦を引き起こした戦争責任は、天皇ヒロヒトに帰結するといっていい。
けれど、国民主権の今の日本で、沖縄の基地被害を生み出しているのは、自分も含めた主権者だ。
だとするならば、この軍事を主軸にした『安全保障』のやり方を変更する権利があるのも、自分達だと思う。
沖縄に生まれたというだけで、つねに基地被害に晒されなければいけないなんて、どう考えたっておかしい。 -
自分の身近にあるのが嫌なアメリカ軍基地を、沖縄に押し付けたままでヨシとするなんて間違ってると思う。
基地が嫌なら軍事条約ではない、基地を置かない基地に頼らない平和条約をどんどん構築したい。
軍事を選択しない権利は、沖縄はもちろん、日本のすべての有権者にある。
基地に疲弊した沖縄の選択に、同意するのかしないのかを、ガイドブックの楽しげな観光だけじゃない沖縄の現状を見て、いろんな人に考えてほしいと思いました。 -
あ。
昨日行った、高江の記事ですね。
『ALL沖縄』という言葉をよく耳にしますが、県内で基地を押し付けあわない、個々の地域での被害ではなく、沖縄全体の被害なんだ、という気持ちがとても強く伝わってきます。 -
でもそれは、日本の被害なんだと思わなければ、結局は『差別的な構造』という主張を裏付けているんだと思います。
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さて、いよいよ『アブチラガマ』へ☆
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ガマへ入る前に、ヘルメットと軍手と懐中電灯一式を渡されます。
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位置関係がよく分からないのですが、道路の下はもうアブチラガマなんだそう。
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気分的には『松代大本営』とかではなく、フランスの『カタコンブ』へ降りてった時の感じかも。(http://4travel.jp/traveler/need/album/10160443/)
ガマの中は真っ暗で、とても湿度が高い。
一緒に入ってくる人たちの体温で、いっそう圧迫感を感じてうっとおしいんですが(笑)。
せまく低い岩壁の天井にヘルメットをぶっつけながら、手すりを確かめつつそろそろと階段を降ります。
湿度はいよいよ高く、ここが病院として使われていたなんて、にわかには信じられません。
戦争中なので、外傷患者用の病院壕だったそうですけど、治すどころか悪化させそうな環境!
お世辞にも広いとは言えないこの洞窟に、約600名の患者と、医療関係者、学徒、軍人・軍属、住民とが潜っていたと思うと、・・うえっ・・。
ますます息苦しくなってきます。 -
真っ暗な内部は、奥へ進むにつれ天井も高くなり、水気の多い壁が複数のライトに照らされて、キラキラと光ります。
なるほど、せっせと掘った壕とは違う自然洞。
ツララのような鍾乳石がしたたる、幻想的な空間です。
「人が大勢死んだ」という前提がなければ、安全な探検をしているような、もの珍しさを覚える場所です。
自然の鍾乳洞をよく知っているわけではないので、はじめは気づかなかったのですが、ガマのそこかしこに人の頭ほどの石が壁のように積み上げられ、ひとつの通路をふたつに隔てています。
完全にふたつに仕切ってあるのではなく、石垣の奥で再びひとつにつながります。つまり、石垣によって、デッド・スペースが人工的につくられているわけです。
「限られたスペースなのに、わざわざ狭くしてないか??」
Yさんの説明では、アメリカ軍が壕へ侵入してきたとき、兵士は二手に分かれることがないので右から来たら左手の通路で脱出、左からなら右手通路で・・という考えで通路を石壁で分けているんだそう。
・・地味な作戦だな・・。 -
そんな使えそうもない作戦用の石壁のひとつには、病院壕で亡くなった兵士が新鮮な期間、アメリカ軍に「見張り」と誤認させ攻撃させるために、立てかけていた石壁があります。
死んでも遺骸を利用され、腐乱したら新しい遺骸に交換される。
そこに、学徒としてつれてこられた10代の女の子達がいた。
遺骸の背後にあった石壁に触れても、その感触に異常なものは何もありません。
ただ胸の奥に、学徒たちの証言集にあった「地獄のような・・」という言葉が、薄ら寒い思いとともに蘇ります。 -
「外傷患者用だ」と聞いていた病院壕に、学徒の立ち入りが禁止された『脳症患者』エリアがありました。
不思議に思っていると、外傷も重症化すると毒が脳へ至り、判断能力が無い危険な状態に陥ってしまうそう。
そんな兵士を一箇所に集めた、ということらしい。
女学生達に兵士が襲いかかるのを防ぐ意味もあって、少女達の立ち入りが制限されていたそうです。
さらに一箇所、彼女たちの立ち入りが禁止されていた場所。
そこには、「慰安婦」達がいたと伝わっていました。
「こんなところにまで・・」
彼女たちがいたという、ガマの暗闇を見つめます。 -
広く深いガマの底から、細く頼りない階段を登って出口に近づいた直前に、日の光が差す小さな窪地があります。
露出する土の層からは、驚くほどたくさんの貝殻がのぞき、まるで貝塚のような場所。
その小さな小さな明るい場所に、住民が隠れていたのだそうです。
湿った空気が淀み、ライトの光を落とせば悪夢のような底へ比べれば、風邪が揺れるこの場所は居心地良く感じます。
けれど、沖縄戦の爆撃の降り注ぐさなか、この場所にいるのがどれほど恐ろしかったことか。
さらに悲惨なのは、出口を出た横にあるほとんど丸見えの岩陰が、朝鮮人の避難場所であったこと。 -
同じ人間が、軍政下でどこまでも差別される異常な世界。
一方的に、命がランク付けされた事を伝えるガマのありようは、実際に来て見なければ分からなかったと思います。 -
Yさんたち、沖縄の住民の声はどこまで受け止められているんだろう?
沖縄の美しさや、住人の優しさや、癒しを強調しながら、基地や米兵の犯罪、日本政府の理不尽な対応を語る、沖縄の声を無視する姿勢は、どこかおかしくないだろうか? -
なんとも言いようのない気持ちでアブチラガマをあとにし、Yさんおススメの『ひめゆり平和祈念資料館』へ向かいます。
最初、『平和資料館』とだけ聞いていたので、てっきり『平和の礎』のそばの建物のことかと思っていたんですが、そこの展示とは明確に違う部分がありました。
それは、後述します。 -
ともあれ、『ひめゆり平和祈念資料館』へ到着〜!
アブチラガマは入場制限があるのか、さほど見学者の姿が無かったのですが・・。
ひめゆり平和祈念資料館の敷地入り口に少し立っていただけで、ものすごい人数の団体が次々に出入りしていきます。
ひょっとして、超有名施設??? -
やっぱ、人任せの旅ではイマイチ受け止めが弱いし、下調べが足りない気がする〜。
うちなーに直接案内してもらえたのは、非常にラッキーではあるのですけど。
資料館の入り口は、レトロで映画に出てくる昔の学校のようです。
それもそのはず。
館内のパネルで、ひめゆり学徒たちの学校を模した建物なのだと紹介されていました。
そもそも、『ひめゆり学徒』とはひとつの学校の生徒ではなく、学園施設を共有し同じ教務に授業を受ける姉妹校のような存在だった、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒達のことを指します。
もともとは別の学校でしたが1916年に併置校となり、27年にはそれぞれの校友会誌、一高女の『乙姫』師範校の『白百合』もリニューアルしてひとつに。
タイトルは、『姫百合』でした。
戦後に、平仮名で『ひめゆり』と呼ばれるようになりました。 -
建物内部は撮影禁止。
残念。
資料館は、基本的には戦中のひめゆり学徒を中心に紹介しているのですが(戦後にスポットをあてた企画展も開催中)、沖縄の学徒はひめゆり以外にも数多く存在しており、聞いた事の無い学徒隊の被害についても展示されていました。
沖縄にあった21の男女中学校、すべての学校から学生が動員されていたのです。
動員されたのは、女子学徒は15〜19歳。男子学徒は14〜19歳。
いまの中高生くらいの子達が戦場に動員されるなんて、どんだけ心の傷になったのかと思います。
生き残った子ども達は、どんな戦後を過ごしたんだろう。
一つ一つのパネルを丁寧に読んで歩いていたら、時間切れ。
Yさんに指定された時間が目前です! -
Yさんが指定した場所は、資料館の一角。
多目的ホールとして使われているお部屋で、元ひめゆり学徒の与那覇さんがお話を聞かせてくださいました。
与那覇さんは、のちに『ひめゆり学徒』と呼ばれる女学生達とともに、南風原陸軍病院壕へ配置されます。
そこで解散命令が出るまで、ひたすら負傷兵の看護にあたりました。
到着して自己紹介した途端、負傷兵に下の世話を頼まれビックリして固まってしまったところを、先輩の貞子さんがフォローしてくれたそうです。
彼女とふたりチームを組み、ひもじく満足に眠る閑もない壕の中で、必死に看護していたそうです。
壕内は、医薬品どころか包帯すら満足になく、傷口から蛆がわいた兵士に「取ってくれ」と頼まれても、小枝を箸のように使いました。
「自宅に戻ればピンセットがあるのに、なんでこんな物で。本当に可哀相で、可哀相で・・」
アジアの国々や沖縄で、日本兵の残虐行為を山のように聞いてきた自分には、兵士を哀れむ彼女の言葉が非常に意外でした。
けれど、『病院壕』とは名ばかりの地獄のような施設で苦しむ兵士と接してきた彼女の話からは、生きようとして苦しむ人間としての傷病兵のようすが生々しく浮かび、ひたすら目の前の命をつなぎとめようとする少女の言葉に深く心を動かされました。 -
不思議なことに、与那覇さんはお年寄りなんですけど、沖縄戦の出来事を話す彼女はものすごく若々しく映ります。
それは、ふとした仕草だったり言葉づかいだったりなのかな、と目を凝らしましたが、与那覇さんは背中を小さく丸めてうつむき、マイクを大切に大切に握り締めてとつとつと話されているだけです。
これって、当時の気持ちを率直に話されているせいかしら。
死線を越え生き残った彼女が、気づかれないほど変わり果てた姿でお母様と再会し、言葉もなく抱きしめられたあたりで涙が止まらなくなってしまいましたが・・。
またもや、タイムアップ!!!
うぎーっ!!
時間が足りんがな!!!! -
まあ、このあと飛行機で帰られる方がいたので、仕方ないんですが。
休み取ったワタクシは、まだまだお話を聞いていたかったんすけどー。どー!
展示もまだ見てなかった部屋があったし、映像証言もチェックできなかったし、書籍資料だって買って帰りたかった〜。
ぶー!ぶー!あぐー。
若干、ご機嫌斜めですが。
最後にYさんがご紹介してくださった場所が、コチラ。
『魂魄の塔』―――。 -
敗戦後、収容所を出てこの地を踏んだ真知志村民の前に、数え切れないほどの人骨が散乱していたそうです。
遺骨を集めたものの、そのままの野ざらしになることをあやぶんだ人々を代表して、校長がアメリカ軍に埋葬のためコンクリートを出してくれるよう、掛け合ったそうです。
しかし、アメリカ軍の反応は芳しくありませんでした。
村人が共同作業をおこなうことによって、事の悲惨さに占領軍に対して組織的な反発をはじめることを恐れたのです。 -
校長の説得は功を奏し、数ある立派な他の都道府県の鎮魂碑のなかで、ようやく沖縄の碑が完成しました。
まつられた人骨は35000を越え、沖縄で最も多いものとなりました。
肉親をどこで失ったのか知れない人たちも、魂魄の塔へお参りしました。 -
現在は、遺骨はすべて国立沖縄戦没者墓苑へ納められており、空っぽになっているそうですが、慰霊に訪れる人は絶えないそうです。
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それを裏付けるように、すぐそばの無人販売所に霊前に供える花が売られていました。
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魂魄の塔の先にある道路をわたり、アロエに似たアダン林を抜けると、ざらざらと岩が尖った海岸へ。
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戦時中、棘を持ったこのアダン林が住民を隠してくれたそうです。
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ひめゆり学徒や住民達が逃げてきた海岸です。
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あたりに続く海岸線は、風景としてただただキレイなので、この場所を逃げまどう人々とその足元に死体が重なっていたなんて、まったく想像がつきません。
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自然は変わらない気がするのに。
時間を巻き戻したら、まったく違う風景になってしまうんでしょうか。 -
「学徒たちの靴は役に立たない状態で、裸足も同然でした。
ここの岩は鋭くて裸足では歩くことも出来ません。
それでも、人々はここを走って逃げまわったのです」
Yさんの言葉に、ためしに裸足で歩いてみました。 -
あだだ・・。
ゆっくり歩けば、誤魔化せそうですが。
走るのは絶対ムリでした。 -
こうして、Yさんの案内は終わりました。
-
3日間、短い時間で沖縄の過去、現在、未来に向けた戦いを、垣間見せてくれたYさんに感謝を。
-
いちおう仕事のために来たのですが。
Yさんのおかげで、個人旅行ではなかなか入り込めないような、ディープな沖縄の懐へ飛び込むことが出来たような気がします。 -
駐車場へ戻りながら、ため息します。
沖縄から手渡されたものは大きい。
中国や朝鮮半島に対する蔑視。
同じ殺人を片方は正当防衛で他方はテロと決めつける無知。
理由も判然とせぬまま、だれかの言ったことをコピーして言いまわす。
あちこちでばら撒かれる憎悪と不審を、無くしていかなければ『沖縄戦』と同じ状況は容易くつくられるような気がしてなりません。 -
勇ましいことを言いながら、話し合いではなく武力で解決しようとするとき、殺されていくのは、エラそうな言葉で煽る政治屋ではなく、子どもや社会的な弱者たちであると。
与那覇さんの背後にいる無数の『子ども達』と、同じことをくり返さぬよう人と人とを繋げるYさんの行動は、なんらかの形でこれからの自分の選択の道しるべになると思います。 -
そうしてYさんと国際どおりで別れたあと、昼食はタコライスでした。
これは・・・ケチャップあと付けのチャーハンみたいだ・・。
(つまり、ちょっとアレでした)
次回!
ここからは、ひとりで沖縄旅☆
仕事の連中はひと足先に帰ったから、ワタクシはエンジョイ沖縄vv
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