2013/01/25 - 2013/01/25
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comevaさん
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全国的に寒気に覆われた本日は岡山市でも珍しく雪が舞っていました。今冬の初雪かと思いきやWife曰く2度目だとか、そしてその雪の中、旅行が冬眠中の私は久々に近所をぶら〜り散策。
旅行と違って緊張感が欠けたのか途中の緩い下り坂ではよそ見をしていて凸凹に躓きヘッドダイビング、とっさに両手でかばったのですが、その両手をもろに負傷
災難はいつ訪れるかわかりませんね。油断大敵です。(^O^)
めげずに一度家に戻り包帯を巻いて出直しです。
マツケンと言えば昨年の大河ドラマの主役ですが、今回マツケンはマツケンでも松平健主役の2004年に全国上映された「石井のお父さんありがとう」と言う日本初の孤児院を創設し、後に「児童福祉の父」と言われた石井十次(宮崎県児湯郡高鍋町出身)の生涯を描いた作品ですが、そのルーツが地元にありました。
福祉という言葉すらない明治時代に生涯命がけで3000人もの孤児を救ったと言う石井十次はアメリカの南北戦争終戦直後の1865年5月5日に宮崎県、当時の日向国児湯郡上江村馬場原、高鍋藩の下級武士、石井万吉・乃婦子夫妻の長男として生まれています。
16歳で内野品子と結婚し上江小学校で教鞭を執っていましたが、直後の翌年(1882年)医学を学ぶため岡山市に移住。岡山甲種医学校(現岡山大学)に入学。同時期にキリスト教に入信。
学校卒業の翌年1887年(明治20年)巡礼途中に夫に先立たれた母親から一人の男児を引き取る。これをきっかけに孤児教育会(後の岡山孤児院)を岡山市の三友寺で創設。
濃尾地震、日露戦争、東北地方の凶作等々による孤児達を受け入れ岡山孤児院の収容者数は1200人を超えた時もあったようです。
その後は四苦八苦しながら地元経済界の大原孫三郎等の助けも得ながら運営、石井十次亡き後も岡山孤児院や茶臼原孤児院が1926年(大正15年)に活動を中止するまで大原孫三郎が引き続きフォロー
※ちなみに石井十次の長女(友子)は洋画家の児島虎次郎の奥さん。
石井十次生誕100年となる1966年(昭和41年)に石井十次記念館(岡山孤児院の家族舎、一棟のみ)が財団法人石井十字記念聖園に譲渡され、その後、石井十次記念聖園の解散により、昭和56年(1981年)に児童養護施設を運営する社会福祉法人新天地育児院に譲渡される。
今回はその石井十次記念館にも立ち寄ってみました。
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新天地の西隣にある岡山国際ホテル(旧ホテルオークラ:岡山市中区門田本町)
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高台にある国際ホテルからですと岡山市街地が一望できます。(上層階のレストランより)
西方面のこちらの市街地は大元駅、更に後方に見える山の方角をまっすぐ進んで行きますと倉敷に辿り着きます。 -
西北は県庁や岡山駅のある市街地中心部、手前下部に見えるエリアが門田屋敷や門田文化町に門田本町等々と言った門田エリアになります。
岡山市街地東側に位置するこのエリアは市中心部から近い割に学校が多いこともあってか、環境に恵まれ静かでとても暮らしやすい場所です。
ここからですと東高(左端:岡山東商業高校)や岡山大学附属小・中学校(中央)に山陽女子中・高(右)等がよく見えます。新京橋の手前は旭東小学校。
ちなみにロックシンガー&脇役俳優の甲本兄弟の実家(クリーニング屋)があった場所もこのエリアです。 -
そして北の位置に見えるこちらは中央やや上部の緑地帯が岡山後楽園&岡山城でその下部、写真中央の位置に黒屋根の住宅が密集しているところが石井十次の岡山孤児院があったと言われる場所になります。三勲小学校もすぐ上部に見えます。
ここでは左端に山陽女子中・高校(現山陽学園中・高校)、右端緑地には初詣の東山公園・玉井宮東照宮が辛うじて写っています。その上部が岡山朝日高校
とりあえずエリアまで下りてみましょう。 -
岡山市中区の門田界隈と言えば岡山駅から日本一距離が短いと言われる市電に乗って終点の東山電停もしくは写真正面一つ手前の門田屋敷電停で下車。
見えづらいですが、わずかに雪が降っています。
このあたりから左右でも特に左側(北側)一帯から正面東山公園に至るあたりまで孤児院の寄宿舎や学校、農園等があった場所となります。
マンション(左)の奥4階建ての白い建物が以前の岡山博愛会病院(現在は中区藤崎に新築)ですが、表紙の石井十次の銅像がある場所です。
更にその先には岡山孤児院が創設された三友寺があります。
同じ銅像は石井十次の故郷宮崎県の高鍋にもありますが、もう一ヶ所岡山国際ホテル(門田本町)の東隣、石井十次記念館のある新天地にもあります。 -
○東湖園(門田屋敷電停下車すぐ)
日本三大仇討ちの一つ鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)渡辺一馬に助太刀の荒木又右衛門当時の岡山藩主池田忠雄公の下屋敷でした。
後に岡山藩重臣丹羽氏の下屋敷として使われています。
操山を借景とした約6千?の岡山県下最古の庭園の一つで武家屋敷には珍しく湧水の池、舟着き石、七重石塔などが当時のまま残されています。江戸初期の遠州流の池泉廻遊式の庭園。
開園時間 - 9:00〜17:00
休園日 - 毎週水曜日、12月31日〜1月2日
入園料 - 大人400円、小・中学生(5〜14歳)200円
所在地 - 岡山県岡山市中区門田屋敷2-2-5 -
○お福(お鮮)の方供養塔
宇喜多直家の正室、宇喜多秀家の生母。 -
○三友寺(岡山孤児院創設)
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三友寺の門の左横にあるピンポン伝来の地の石碑
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○石井十次記念館(札幌館)
記念館のある新天地を訪ねてみました。
孤児院在りし姿を伝える唯一の遺構です。
※家族主義
岡山孤児院はイギリスのバーナード孤児院にならった家族制度で、子供たちを10〜15人の集団に分けて、それぞれに一つの小寮舎を与え、その家庭に一人の主婦(保育士)をおき、衣食住の一切の世話にあたらせ、その家庭の独自性を尊重しました。 -
6帖×3部屋は孤児の部屋で左奥の4.5帖が保育士の部屋でその隣に台所がありました。
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こちらの部屋は石井のおとうさんありがとうのロケに使用された部屋だそうです。
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岡山孤児院家庭舎等配置図
寄付を受けた地域、団体、企業などにちなんで札幌館や高知館、ニューヨークヘラルド館、ハリス館と言った名前が付けられていました。
このようにして家庭舎は既存の建物も含め男子部32、女子部20の計52組が出来上がりました。
現存の石井十次記念館は札幌館だったそうです。
また東山公園や大福寺、地蔵川などの位置からしてかなり広い敷地だった事がわかります。 -
1906年(明治39年)後半当時、1200人に膨れ上がった時の写真です。
※委託主義
1905年(明治38年)5、6才の児童で体質が弱く発育不良の児童の養育に苦心し、5~6人の児童を適当な農家に委託してみたところ良好だったので随時その数を増やしていった。
1911年(明治44年)7月現在では80人を委託し、この制度創立以来545人を委託している。
委託の要件
①人情に淳朴にして、地勢高燥、水清くして衛生に適せる地方なること。
②幼年児女を有せざる正直にして親切なる農家に託す。
③里子の数は1戸一人に限る。
④毎月養育料(目下金4円)を払うとき、その体重を量り、養育の良否を視察し、成績不良なる時はこれを他に託す。 -
※密室教育(対座教育)
善行のあった者を誉めるとき、みんなの前で行うとその人は偽善に陥りやすく、また他人が嫉妬を起こす恐れがある。逆に不善のあった児童をみんなの前で叱ればかえって反抗心を助成するだけで悔悟することはない。
岡山孤児院では密室教育を重んじ、石井十次自身も種々の問題を持つ子供たちに対してはそれぞれ個別的にその心境を充分に聞いてやったそうです。 -
男子部食堂。ご飯はおかわり自由だった
※満腹主義
入院児の多数は盗食の悪習をもっていた。
その治療法として考え出した石井十次の独創によるものです。
彼らは入院すると、驚くばかりに飲食するが3週間も経つと一定量しか食べなくなり、半年くらいになると、その頬に肉がつき笑窪ができるようになった。 -
石井十次の娘友子の婚礼。
前列:大原孫三郎、寿恵子夫妻に挟まれ児島虎次郎・友子
後列:左から石井十次・辰子、炭谷小梅、石井震子 -
石井十次銅像
※実行主義
孤児院創立後3年ほど経った頃、保育士達は石井十次のところへやってきて「子供たちは言うようにはしないが、するようにはするものだ」ということを発見しました。
朝起きて掃除をしなさいと言っても言うことを聞かなかった子供たちが、私達(保育士)が起きて掃除をすれば、彼らは競って一緒にいつも喜んで働くようになりました。
私はこの事実が認められるようになってから、言葉で教えるのをやめて、まず行いによって指導するようにしています。
石井十次はこの話を聞いて「子供は言うようには為さずして為すようにするものなり」ということを確信し、教育の秘訣はまさにこれだと悟った。
※非体罰主義
現在でも問題視されている件ですが、石井十次がかって一人のアメリカ人から動物虐待防止活動について話を聞いて、児童養育に採用したと言われています。
教師が鞭を挙げれば生徒は嘘を言う。児童が嘘を言い、あるいは喧嘩をするのは父母や教師が体罰を加えることが原因になっていることが多い。
※旅行教育
「活きた働きのできる人間は旅行でなければ育たない。旅行を一切しなければ、井の中の蛙で活社会を知ることがなく、教室の百?・は実際の一見にしかず、この原理により旅行によって活きた働きのできる人間をつくろうと志すものである」
※米洗教育
酒屋が米を洗う時には大きな半切桶に糠まみれの米を入れ、その上から水を浴びせかけ混ぜ繰り返して幾度も水を混ぜているうち、糠が去って、真珠のような米本来の色になるので丁度このように人間の子も種々雑多に着色した者を一所に集めて水を浴びせたり、混ぜ繰っているうちに、いつとはなしにその付着分子がなくなって、天心の特質を発揮するものである。
※小学教育
岡山孤児院小学校において行われるもので、明治44年9月現在、教師は10名であった。
※実業教育
労働自治の精神をこれによって得ようとした。
「働きかつ学ぶ」というのが石井十次の理念であった。孤児達は朝のお祈りがすむと、昼食までは勉強し、午後からはみんな働いた。活版印刷部、精米業部など孤児院内に設けた。更に理髪、機織り、麦藁帽子作り、大工、鍛冶、粉ひきなどの仕事も教えた。
こうして子供たちが将来、自分で生きていける自立の精神と技能を身につけさせたというのである。
※托鉢主義
岡山孤児院の維持法をいうのであり、その内容は臨時寄付金、賛助寄付金、補助金を指す。
釈迦やキリストに習い天下有志者の義心に訴え、零細の寄付金を集めて永遠に維持しようとした。 -
新天地では現在地元岡山市や岡山県を中心に42名の孤児達の世話をしているそうです。
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※宗教教育
石井十次は形式的なキリスト教を決して強制していない。むしろ彼は人生における信仰とか敬虔さとかが必要であることを児童に自覚させようとしていたのである。
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この旅行記へのコメント (4)
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- Weiwojingさん 2013/01/27 20:25:14
- 石井十次に大変興味を覚えました。
- comeva さん、こんにちは。
石井十次のことを初めて知りました。児童福祉の面で生涯を賭けられた方なのですね。当初、石井亮一という東京国立市に「滝乃川学園」という知的障害者のための施設を作られた人物と関係があるのかと思いました。児童福祉の仕事や共にクリスチアン、九州出身といった共通点を持っていたので、何らかの関係があるのかと想像していました。
そこでいろいろ調べてみると、二人は直接の関係はなさそうです。しかし、児童福祉の歴史の中で、二人は著名な人物として、この方面に携わる者なら知らない人はいないほどの人物たちだそうです。
石井十次は岡山で、石井亮一は東京でほぼ同じ時代(亮一は十次より3歳年下)に活躍し、それぞれの分野で大きな働きをしました。亮一も同夫人とともにテレビや映画でも紹介されています。特に筆子夫人は「天使のピアノ」と言う映画や本等で広く知られています。
私のブログに「森の中にひっそりと佇む滝乃川学園を訪ねて」(http://4travel.jp/traveler/srilanka/album/10519717/)がありますので、見ていただけると幸甚に存じます。
いずれ石井十次に関する本を求めて、じゅくり調べてみたいと思います。ありがとうございました。
Tamegai
- comevaさん からの返信 2013/01/30 06:15:30
- RE: 石井十次に大変興味を覚えました。
- > comeva さん、こんにちは。
>
> 石井十次のことを初めて知りました。児童福祉の面で生涯を賭けられた方なのですね。当初、石井亮一という東京国立市に「滝乃川学園」という知的障害者のための施設を作られた人物と関係があるのかと思いました。児童福祉の仕事や共にクリスチアン、九州出身といった共通点を持っていたので、何らかの関係があるのかと想像していました。
>
> そこでいろいろ調べてみると、二人は直接の関係はなさそうです。しかし、児童福祉の歴史の中で、二人は著名な人物として、この方面に携わる者なら知らない人はいないほどの人物たちだそうです。
>
> 石井十次は岡山で、石井亮一は東京でほぼ同じ時代(亮一は十次より3歳年下)に活躍し、それぞれの分野で大きな働きをしました。亮一も同夫人とともにテレビや映画でも紹介されています。特に筆子夫人は「天使のピアノ」と言う映画や本等で広く知られています。
>
> 私のブログに「森の中にひっそりと佇む滝乃川学園を訪ねて」(http://4travel.jp/traveler/srilanka/album/10519717/)がありますので、見ていただけると幸甚に存じます。
>
> いずれ石井十次に関する本を求めて、じゅくり調べてみたいと思います。ありがとうございました。
>
> Tamegai
Tamegaiさん おはようございます。
今回久々に地元、近所をぶらぶら散策してみました。
以前から同学区にある新天地の存在は知っていましたが、幼少の頃に通っていた通学路にまさかこう言った歴史があったとは正直、知りませんでした。
今回、記念館で地図が入手できましたので岡山孤児院のこの件についてはどの場所に何があったのか等又検証していきたいと思っています。
滝乃川学園、以前一度拝見させていただいてましたが、現存現役の建物が立派ですねえ〜
私も少しづつ勉強させていただきます。
情報有難うございました。
C
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- frau.himmelさん 2013/01/26 21:02:42
- 石井十次、なつかしい名前です。
- comeyaさんこんばんは。
なつかしい名前を目にしました。
石井十次。
一昨年大原美術館を訪れた時、「情けの庭」という児島虎次郎の絵が、明治天皇の皇后に気に入られ宮内庁お買い上げになったという話を聞きました。
とっても地味な絵で、どうしてこれが?と不思議に思いました。
次に行った「児島虎次郎館」で係りの女性に聞きました。
これは孤児院の絵だそう。皇后陛下は慈善事業に熱心な方だったので、その絵をお買い上げになったのではと説明してくれました。
児島は1ヶ月岡山孤児院に泊まりこんで書き上げたとの事でした。
その児島の奥様が石井十次だとその時聞きました。
comeyaさんの旅行記を拝見してその時のことを思い出しました。
ありがとうございました。
ところでその後、お怪我の方はいかがですか?
お互い気をつけなければいけませんね。
- comevaさん からの返信 2013/01/30 05:05:23
- RE: 石井十次、なつかしい名前です。
- > comeyaさんこんばんは。
>
> なつかしい名前を目にしました。
> 石井十次。
>
> 一昨年大原美術館を訪れた時、「情けの庭」という児島虎次郎の絵が、明治天皇の皇后に気に入られ宮内庁お買い上げになったという話を聞きました。
> とっても地味な絵で、どうしてこれが?と不思議に思いました。
>
> 次に行った「児島虎次郎館」で係りの女性に聞きました。
> これは孤児院の絵だそう。皇后陛下は慈善事業に熱心な方だったので、その絵をお買い上げになったのではと説明してくれました。
>
> 児島は1ヶ月岡山孤児院に泊まりこんで書き上げたとの事でした。
> その児島の奥様が石井十次だとその時聞きました。
>
> comeyaさんの旅行記を拝見してその時のことを思い出しました。
> ありがとうございました。
>
> ところでその後、お怪我の方はいかがですか?
> お互い気をつけなければいけませんね。
frau.himmelさん おはようございます。
お気遣い有難うございます!
まさかのその坂で(下り坂)足に躓いて転ぶなんて思ってもみませんでした(^O^)あの瞬間、頭・顔から落ちると思ったのですが、とっさにぎりぎりのところで両手が出て大事には至りませんでしたが、痛みとともに破損部分の回復が遅くもうしばらくはかかりそうです。
ところで当時の孤児たちの様子が描かれた「情けの庭」ネットで調べて拝見させていただきました。
絵の存在(宮内庁収蔵)すら知りませんでしたが、虎次郎についてはまた倉敷を訪ねてた時に立ち寄ってみたいと思っています。情報有難うございました。
C
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