2012/11/23 - 2012/11/27
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aquamarine_324さん
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「しかし、プラハは美しいだけではない。
長い歴史を刻んできたそのほとんどの時代において、
周辺国からの侵略や影響を多大に受けながらも
民族的誇りを失わず、
自らの言葉と文化を守り続けてきた人々の気高い精神が
町のすみずみにまで染み込んでいる。」
(地球の歩き方 p.47より)
プラハを訪れるにあたって、あの有名な「プラハの春」についても勉強しました。
チェコ(正確には旧チェコスロヴァキア)は本当に複雑な歴史を歩むとともに、度重なるナショナリズムの変遷を経ています。
いま、世界有数の観光地として自由の溢れるプラハをこうして不安無く訪れることができることを感謝したいですし、この町でかつて何が起こったのかは風化させてはいけないとも思います。
この投稿は「人間の顔をした社会主義」をスローガンに掲げた民主化運動、いわゆる1968年の「プラハの春」を題材とした小説、春江一也氏著『プラハの春(上)(下)』に沿って、旅行中プラハ各地で取った写真を再構成したものです。
※写真と文章を対応させるのがどうしても難しい場所はカットしました。それゆえ流れが不自然な箇所も散見されますがご容赦を。
※この投稿と対になる旅行記は
http://4travel.jp/traveler/aquamarine_324/album/10730352/
- 旅行の満足度
- 5.0
-
チェコスロバキア社会主義共和国、中欧の小さな国である。
チェコスロバキアは本来、オーストリアをしのぐ実力を持つ国だった。歴史的にもハプスブルク帝国の中核をなしていた。そして神聖ローマ帝国の首都であったプラハは、ウィーンより由緒のある都会だった。
第1次世界大戦後1918年、チェコスロバキアはようやく自由と独立を手にした。しかしわずか20年後、1938年、チェコスロバキアはナチス・ドイツの野望に屈した。ミュンヘン協定に引き裂かれ、分解消滅しなければならなかったのだ。
そして1945年、ドイツ第3帝国の敗北により終結した第2次世界大戦後、チェコスロバキアは、再び独立国家としてよみがえった。
だが、ソ連による東欧支配の強化と、米・ソ冷戦の激化にともない、チェコスロバキアは、中欧の要衝の地にあるために自由と独立を奪われることとなった。
歴史は繰り返すどころか、3度目の悲劇であった。
(上p.25〜32)
※写真は、マラー・ストラナ地区にある日本大使館 -
カレル橋をゆっくり戻った。
川面を渡る風が心地よかった。
目の前に広がるプラハ城の見慣れた眺めが、いつになく華やいで見えた。
春霞に包まれる聖ビート大聖堂の尖塔と城郭、カレル橋の塔、そして欄干に並ぶ聖人像群、ブルタバの流れに舞う水鳥、いかにも古都プラハ、華麗この上ない百塔の街の風景だった。
(上p.77) -
5月になった。
毎年のことだがメーデーが終わり、9日、ナチス・ドイツの敗北を祝う解放記念日までの間に、プラハは一斉に新緑のベールに包まれる。
この時季、晴れた日、市街地東部高台のペトシーンの丘から見晴らすプラハの美しさは、世界の都市景観の中でも、一、二を争うものといって過言ではない。
(上p.89) -
その夕べ、亮介は中沢大使夫妻とともにスメタナ・ホールのロビーにいた。
『プラハの春』音楽祭開会式コンサートの前半が終わったあとの休憩だった。
「そう、喜びも悲しみもモルダウに、というわけね」
大使夫人がうなずいた。縁なしの上品な眼鏡が和服によく似合った。
「モルダウはドイツ語だが、チェコ語ではブルタバ。
心の故郷のような自分の国の川を外国語で呼ばなければならなかったところに、チェコの歴史の悲劇があるのだろうな」
(上p.93〜94) -
「この国の人々チェコ人、スロバキア人のお友達がたくさんできて、いろいろなことを教えられました。
生きる勇気を…」
カテリーナはたまっていたものを一気に吐き出すように話し続けた。
「この国の人々が歴史を生き抜いてこられたのは、しなやかな勇気と信念が支えだったということがよくわかりました。
小さな国とその民族がその存在を守り通すということは並大抵のことではありません」
(上p.171)
※写真は本文と直接関係が無いが、現在のチェコ繁栄の象徴ともいえるヴァーツラフ広場 -
チェコスロバキアでは、抑圧の歴史に培われた民族の知恵として抵抗の文学があり、知識人や文学者は行間や修辞、そしてアネクドート(小話)に託し権力を批判・嘲笑するだけではなく、真実を訴え追究する術を心得ていた。
しかも、ごく平凡な市民がそれを読みこなした。
チェコスロバキアの人々は言葉の民であった。
亮介は、こんなアネクドートを聞いた。
いつもの「カフェ・スラービア」でのことだった。
酔っ払った男たちが笑いころげていた。
―チェコスロバキアの国民議会で、海軍省を設置する提案が出された。
ノボトニーは早速、モスクワを訪問し、同志ブレジネフに相談した。
「同志ノボトニー、あんたの国は、海も無いし海軍を持っておらんではないか。」
「いや、わたしもそう思ったのですが、インテリどもが、ソ連に文化省があるのだから、チェコスロバキアにも海軍省を置くことができると言ってきかないのです」―
(上p.200〜201)
※写真は国民劇場向かいの「カフェ・スラービア」 -
亮介は車椅子を押しながら、ブルタバ川畔、カンパ公園沿いのプロムナードを散策していた。
「わしは、ハイドリッヒ暗殺にかかわったのだよ。ベラを殺したのは誰でもない。このわたしだ」
亮介は息をのんだ。
1942年5月27日、プラハ城近くの路上で待ち伏せしていた暗殺者が、チェコをナチス・ドイツの保護領とした初代代理総督でありナチの高官であったハイドリッヒを機関銃で射殺したのである。
暗殺作戦は、チェコの人々の怒りの抵抗であった。
(上p.250、255) -
だが、ナチの報復も凄じかった。
徹底した捜索で暗殺実行者を追求した。
暗殺者は教会に潜んでいるところをゲシュタポに発見され射殺された。
そして本当の悲劇が始まった。
暗殺要員を匿ったとされる、中央ボヘミアの小さな村リジツェを包囲したドイツ軍は、見せしめのため老若を問わず成人男性184人を殺戮したばかりか、砲撃し村全体を完全に抹殺したのである。
暗殺事件は成功したが、悲劇的結末を招き、
その後チェコにおける組織的抵抗運動は壊滅した。
(上p.255〜256)
※写真は、ハイドリッヒ暗殺者が潜んでいたとされる「聖キリルと聖メトディウス教会」。カレル広場とダンシング・ビルの間にある。教会前には花が活けられていた -
「旧市街広場のヤン・フス像の台座に『真実を愛し、真実を語り、真実を守れ』という言葉が刻まれていますね。
ヤン・フスは15世紀、宗教改革の先駆者としてカトリック教会の腐敗と世俗化をたったひとりで批判しました。
当然に異端者として捕らえられ、コンスタンツの宗教裁判で火炙りの刑に処せられました。
彼は真実を語ったのに、なぜ認められなかったのでしょうか。
真実を語ることは死を代償としなくてはならないのでしょうか」
(上p.385) -
とても眠れそうにない夜だった。
なぜかプラハを見届けておきたかった。
フォルクスワーゲンを止めた。
8月も終わり近く、夜風はもう肌寒かった。
同じように眠れないのだろうか、深夜の広場には連れ立って散策する人々がいた。
広場には人間の絶望や怨念がこもっているように思えた。
プラハで、何か重要な集会が催されるのは、きまってこの旧市街広場だった。
中世には見せしめの処刑場でもあった。
いつのまにかヤン・フス像の前に立っていた。
1968年8月18日未明、夜明けには、まだ程遠い時間だった。
(下p.297) -
8月20日午後8時半過ぎ、プラハ・ルジネ国際空港に、フライトスケジュールにない大型輸送機アントノーフ24が到着した。
最初に到着したソ連機は、やがて続々と到着することになる軍用輸送機の着陸をサポートする先遣隊であった。
ルジネ国際空港はときならぬ爆音に包まれていた。着陸の間隔は次第に接近し、ついには2分に一機のペースで降りてきた。着陸した輸送機から、夥しい数のロシア人が降りてきた。
挙動不審な私服の男たちが空港ビル内をうろうろし始め、ソ連軍大佐の軍服を着用するアジア系の風貌の男が、アエロフロートの職員をともないロビーに現れた。人々はようやく異様な事態に気づいた。
「ただ今より空港は閉鎖される。
すべてのフライトはキャンセルされた。
即刻、空港ビルより退去するよう命令する」
(下p.308) -
「奴らだ。ソ連の軍事介入だ!」
路地を走り抜け、異様な轟音と震動が響くイェチナ通りに出た。
そこで亮介は一列になって進む戦車の大群を見た。
煌々と明るいヘッドライト、むせ返るようなディーゼルエンジンの排気ガス、あたりが排煙にかすんでいる。…
ワルシャワ条約軍の軍事介入が報告された後、党中央委員会幹部会は、チェコスロバキア全国民あて声明を採択した。
「昨日、1968年8月20日、午後11時頃、ソビエト連邦、ポーランド人民共和国、ドイツ民主共和国、ハンガリー人民共和国、ブルガリア人民共和国の軍隊が、チェコスロバキア社会主義共和国の国境を越えて侵入した」
(下p.312〜323)
※写真はイェチナ通りではありませんが、付近の狭い路地 -
1968年8月21日朝、晩夏の穏やかな晴れた空の下、ブルバタ川畔、中世都市の面影をそのまま残す、百塔の町プラハの中心、バーツラフ広場は、悲しみと怒りが渦巻く悲劇と混乱の坩堝と化していた。
騙し討ちに等しいソ連軍進駐のショックが反動になって、鬱積していた反ソ感情が爆発したのだ。
夜明けとともに、広場、聖バーツラフ騎馬像あたりに大群衆が集まっていた。
「ロシア人帰れ」「ドゥプチェク万歳」と、シュプレヒコールが自然にわき起こった。
誰が音頭を取るのでもなかった。
占領第1日目、バーツラフ広場の騒乱は、おとなしいチェコスロバキアの人々が極限まで耐えた感情の爆発であった。
やがて、人々は知恵を絞って抵抗するのである。
まさしく彼らの国民的アイドル、「兵士シュベイク」のように。
(下p.330) -
混乱した状況にもかかわらず、チェコスロバキアのマスコミは、ラジオやテレビだけでなく、新聞も驚くほど冷静であった。
非常事態下に、あくまでも理性的なチェコスロバキア・マスメディアに世界は注目した。
とりわけプラハ放送の冷静さと勇気に驚嘆した。
ビノフラディ通りの本部建物がソ連軍戦車に包囲され、機関砲で砲撃される模様を実況放送したのである。
占領軍は、プラハ放送を沈黙させるのに手段を選ばなかった。
建物が砲撃されたのは唯一、プラハ放送局だけだった。
無残に破壊され炎上した。
人々は涙を流しながら呆然と見つめるだけだった。
(下p.334)
※写真は、共産主義博物館の展示パネルより -
22日、午前9時頃から、バーツラフ広場の聖バーツラフ騎馬像の周りに、若者たちが続々と集まり始めた。
いつのまにかバーツラフ広場は人の波に埋まった。
2万を超えようとしていた。
危険な雰囲気だった。
騎馬像の前に学生リーダーが立った。
ハンドマイクを持って演説を始めた。そのとたんだった。
無謀にも6両の戦車と4両の装甲車がいきなり、群衆の中に突っ込んだ。装甲車の兵士が威嚇攻撃を始めた。
「解散!解散!」
逃げ惑う群衆を戦車が追い蹴散らす。
キャタピラーとディーゼルエンジンの轟音と地響きをあたりに撒き散らしながら、戦車が動き回る。
広場は、武装兵士と素手の若者たちが闘う戦場になっていた。この日の衝突は最悪だった。
9人が死亡した。そして他に100人を超える重軽傷者を出した。
いったん路地に逃げ込んだ群衆が、通りへ出て石畳の石をはがそうとしている。投石のためだ。それをチェコ人の若い警官が制止する。見ると泣いている。無駄な抵抗をいさめているのだった。
カメラを向けて胸が一杯になってしまった。なんということだ。これが「プラハの春」の結末なんだ。
(下p.350〜353) -
「わたしは、少しでも多くのことを正しく知り、少しでも多くの人々に語り伝えよう。わたしはきみたちの悲しみを死んでも忘れないよ」
目の前で、チェコスロバキアが凌辱されていた。
「静かな美しいプラハの市街は、一夜にして硝煙と戦車の走る轟音と学生のシュプレヒコールに包まれてしまった。
いつも微笑みを忘れなかったドゥプチェクはどこへ行ったのか。
チェコスロバキアは自らの統制力を失った。
変わらないのは、ブルタバの静かな流れのみである…」
(下p.353) -
「わたしは自首します。
わたし、毎晩、この礼拝堂にこもって祈りました。
結局、わたしは無力でした。
祈ることしかないことを最後に思い知りました。
わたしの恐るべき傲慢と無知に気付いたの。
わたしは自分が正義であり、社会をよくし、人々を幸せにするのだと思っていました。
そう確信して行動し、生きてきました。
しかし結果としてわたしの生き方にかかわったために、一体、何人の人が死に、そして不幸になっていったのか」
耐えかねたようにカテリーナは嗚咽した。
清冽な涙がとどまることなく頬を伝いしたたり落ちた。
老婆に案内され、花屋の裏口から路地伝いにマラー・ストラナへ出た。あたりはすっかり闇に包み込まれていた。もう午後9時を過ぎようとしていた。
(下p.423〜429)
※写真は聖ミクラーシュ教会。マラー・ストラナ広場からカレル橋の方角を向いて撮ったもの。礼拝堂はこの付近にあったと思われますが直接は関係ありません -
ドゥプチェク帰国演説の衝撃は大きかった。
屈辱的な「モスクワ議定書」の存在が明らかになり、とりわけ若い世代の失望と挫折感は深刻で、血気にはやる学生や若い労働者たちが「モスクワ議定書」を糾弾する行動を計画したのは、自然な成り行きだった。
「無届けの不法集会である。ただちに解散せよ!」
「ソ連軍兵士の皆さん。わたしたちの、哀しみがおわかりなら、広場を黙って去っていく、かつての、あなた方の友人のために道をお開けなさい」
亮介も前へ出ようとした瞬間、黒い人影が殺到するのを感じた。銃声がした。乾いた音が2回した。
亮介は異変が起こったことを知った。カテリーナが哀しそうな顔をしたのがはっきり見えた。倒れ込んでくるのを抱き止めた。
「撃たれた。救急車を、救急車を!」
狂ったように絶叫していた。
たちこめる硝煙と銃声、群衆の怒号と悲鳴、大地を揺るがせ疾走する戦車の轟音と排気ガス、救急車のサイレンと血のにおい…。
救急車が到着したとき、カテリーナはすでに絶命していた。
(上p.19〜20 / 下p.431〜439) -
1969年1月16日、午後2時を回っていた。
ボヘミアの守護王・聖バーツラフ1世騎馬像の下に、若者がひとり、ぽつんと立っていた。
ひとりたたずむ若者は、騎馬像を見上げ、何事か祈るようであった。
たまたま付近にいた人々が、それに続く凄惨なシーンを目撃した。
若者は、手提げ袋から容量10リットルほどのガソリン缶を取り出し、栓を開けた。
そしてしゃがみ込むと、やにわにそのガソリン缶を頭上に掲げ、一気に全身に振りかけた。
あっと思った瞬間、若者は紅蓮の炎に包まれていた。
目撃者たちの間に悲鳴が上がった。
(下p.444) -
猛火の中で若者は従容として動じなかった。
ようやく消し止め、若者は病院に収容され手当を受けた。
ほぼ全身、85パーセントを火傷していた。
すでに危篤状態だった。
翌17日、ヤン・パラフは死亡した。
遺書があった。
「絶望の淵にある民族を解放するため、焼身自殺という非常手段を取ることにした…。8月を忘れるな!」
衝撃のニュースは、瞬く間にチェコスロバキア全土に伝わった。1時間余りのうちに、ほとんどのチェコスロバキアの人々が悲劇を知った。
(下p.445)
※写真は、共産主義博物館の展示パネルより -
こうして「プラハの春」は死んだ。
絶望し、自殺した人もいた。外国に亡命の道を選んだ人もいた。
だが、多くの人々は歯を食いしばって迫害に耐えた。
ナチズムに象徴されるファシズムとともに、二十世紀最大のペテンである共産主義が早晩、自滅することを信じて耐えた。
1989年、ソ連の崩壊で、ドミノ倒しのようにフサーク体制も崩壊した。
そして、ヤンの名誉が回復された。
プラハ市内、マーネス橋のほとりの「芸術家の家」という劇場前の広場が、「ヤン・パラフ広場」と改称された。ヤンの義挙をたたえ、民族の歴史にその名を永久にとどめることになったのだ。
(下p.452〜456)
※ヤン・パラフ広場には、ドヴォルザークの像が立っている↓
http://4travel.jp/traveler/aquamarine_324/album/10730352/
の上から30枚目ぐらい -
【最後に】
ヴァーツラフ広場はソ連の軍事介入にたいする抵抗のシンボルであった。
パラフの遺影の前にはいつも花が捧げられている。
広場は「永遠の花」なのだ。
そして1989年、スターリン主義的な共産党の一党独裁が内部から崩壊していく過程で、ほとんど暴力事件を伴わない「ビロード革命」が進行した。
チェコは、この広場から民主化の一歩を踏み出したのだった。
ヨーロッパ人にとって広場は、市民が生きていく決意を示す場所だった。
あるいは、その国の経済や文化を写す鏡といえる。
今日のヴァーツラフ広場の賑わいは、チェコが、歴史上かつてないほどに平和な時代を迎えていることを如実に示すものなのである。
(田中充子著「プラハを歩く」p.173〜174より)
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この旅行記へのコメント (2)
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- ねもさん 2019/09/10 09:17:24
- 初めまして
- aquamarine_324さん
私のようなアラ還世代には、プラハの春とソ連の軍事介入は甘く悲しい思い出です。多感な中学生にはショッキングな出来事でした。平成の初めに春江一也の小説が発表されたときは、食い入るように読みました。
でもaquamarine_324さんは、社会主義に一片の幻想もない世代では? なのによくぞ取り上げてくださいました。わが家は2017年に初めてプラハを歩きましたが、この旅行記を拝見してから行くべきだったと思います。
プラハのもう1作では、ウ・カリハやストラホフ修道院に行かれてますね。わが家も訪ねました。また歩いてみたい街です。
- aquamarine_324さん からの返信 2019/09/10 23:20:54
- Re: 初めまして
- ねもさん
コメントいただきありがとうございます。
そうですね、ソ連崩壊時は生まれてはいましたが、まだ物心が付いていませんでした。歴史の教科書を読んでも無味乾燥な事実の羅列にしか聞こえていませんでしたが、春江一也氏の小説を読んだときのインパクトは今でも鮮明に覚えています。歴史を学ぶ意味や物事を見る視点が少なからずわかるきっかけになった本であり、大袈裟かもしれませんが人生を変えた3冊の本の一つだと思っています。
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