2012/10/12 - 2012/10/12
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belleduneさん
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このところ快晴の東京です。こういう気候だと、どこかへ出掛けたくなるもので、近場でまだ行ったことがないところは?と考えてみて、「そうだ!躑躅の頃は物凄い人で、敬遠していた根津神社へ行ってみよう」ということに決定。用事を済ませてから、久し振りに地下鉄「根津」で降り、下町を歩きました。
根津神社は、江戸時代五代将軍徳川綱吉が世継ぎが定まった時に、現在の社殿を奉建し、千駄木の旧社地から遷座されました。根津権現はこの社の古い名称だそうです。
1706年に完成した権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門の七棟全てが現存しているのは、本当に素晴らしいことです。今まで、色んな寺社を見て来ましたが、細かい部分まで美しい手仕事の技が光っていました。
静かな境内を歩きながら、大切なものをプレゼントされたような気がした1日でした。
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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六代将軍家宣は幕制をもって、当社の祭礼を定め、正徳4年(1714)に、江戸全町から山車を出し、天下祭りと言われた壮大な祭礼を行ないました。当社に現存する大神輿三基は、この時家宣が奉納したものだそうです。
9月中旬の土、日に行なわれるこの根津例大祭は、同じ格式による山王祭、神田祭と合わせて、江戸の三大祭と言われています。 -
楼門と神橋
宝永2年、五代将軍綱吉は、兄綱重の子、綱豊(六代家宣)を養嗣子と定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納し、天下普請と言われる大造営を行ないました。
翌年(1706)完成した権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門の七棟が全て現存しており、昭和6年、国宝(現在重要文化財)に指定されています。 -
楼門の左手に徳川綱吉?の像
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右手には水戸光圀の像
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昭和35年に解体大修理が行なわれました。欅材の柱根部に使用されていた石材を取り除き、柱の下部腐朽部を檜材で根継ぎしたということです。腰貫、地覆材、中柱、北柱、内柱の腐朽と全体に生物劣化が判明し、防腐防虫処理がなされました。
楼門の表面は、厚さ2mmの赤漆で覆われていますが、昭和50年の調査では、むれ腐れと診断されました。漆塗りの表面亀裂箇所からの雨水の浸透、地下水の高水位による浸入などが原因らしいのですが、また太陽熱による温度上昇で生物生存(木材腐朽菌、ヤマトシロアリなど)には好条件となります。
周辺には約400羽の土鳩が生息しているため、糞汚染も著しいのです。 -
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お神楽舞台
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透塀
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唐門
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中央に頭貫、蟇股
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柱上部の左が獏鼻、正面が獅子鼻
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萱の御神木
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西門から拝殿を見る
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猛暑の後の秋の空は良いですね。
夏目漱石や森鴎外が腰掛けて、構想を練ったと言われる「文豪の石」にでも座って、空を眺めてみましょう。 -
境内乙女稲荷神社へ
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六代将軍・徳川家宣胞衣塚
十数個の割り石が雑然と積み重ねてあります。
胞衣(えな)とは、胎児を包んだ膜と胎盤のことです。 -
乙女稲荷神社から透塀を見る
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六基の庚申塚
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賽の大神碑
賽の神は、邪霊の進入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、「みにのかみ」、「道祖神」とも言われています。
元は、旧中仙道と旧岩槻街道との分岐点である駒込の追分にありました。この追分は、日本橋から一里で、江戸時代一里塚のあったところでした。
文政7年(1824)の火災で欠損し、その跡地に明治6年(1873)、この賽の大神碑が建てられましたが、明治43年の道路拡張のため、この碑は現在の根津神社に移されたということです。 -
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透塀から社殿を覗く
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夕方の秋の雲が広がる空
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