2012/09/06 - 2012/09/06
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しんちゃんさん
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「キリンビール工場見学」ビールはどの様に製造されているのかを勉強します。勉強したら試飲です!一番搾りフローズンと1番搾りをいただきました。「旨い!」工場見学前後に「生麦事件碑」と「生麦事件参考館」を見学しました。「生麦事件参考館」は事前に電話予約をしました。どれも充実した見学でした。
- 交通手段
- 新幹線 私鉄
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京浜急行「生麦駅」から約7・8分「生麦事件参考館」。酒屋のおじさんが“ひょんな事”から生麦事件に関して資料蒐集をして、自宅脇に資料館を作ってしまいました。酒屋さんのおじさんは“浅海さん”といいます。資料館は遠慮してか「生麦事件参考館」と言う名前になりました。住所は神奈川県横浜市鶴見区生麦1-11-20
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生麦事件とは…【文久2年(1862年)8月1日薩摩藩主「島津久光」は公武合体を迫るため江戸へ来て活動が一段落、帰国する途中、武州生麦村を通過中に英国人4人が乗馬したまま大名行列の中を割り込んできました。制止を押しのけて藩主の近くまできたため、警護の藩士が抜刀して斬りかかりました。一人重傷で200m程走ったが、落馬藩士に助からないと思い介錯されました。同じ大名行列を事件が起こる前に、アメリカから来た商人は乗馬していたが、下馬して道路の脇に退避して敬意を示していたと言います。事件はイギリスの要求通り幕府が賠償金を支払いましたが、薩摩藩は応じなかったためイギリス艦隊が薩摩(鹿児島)へ交渉へ行くが薩英戦争となりました。イギリス艦隊側にも損傷が大きく、艦隊は鹿児島湾を去り3ヵ月後薩摩藩は賠償金を支払う。これを契機に薩摩藩は攘夷から開国へと考えを転換、尊王倒幕へと進んで行った。】参考資料「Wikipedia」他
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酒屋さんの“浅海さん”が参考館を造った経緯が神奈川新聞記事に載りました。コピーです。【「なぜ資料が見られる場所が地元にないのか。」鹿児島から事件の碑を訪ねてきた人に指摘された。以来、資料集めに奔走した。東京・神田周辺の古書店を訪ね歩き、事件を伝える当時の新聞を英国・ロンドンから取り寄せた。オランダの国立大学の博物館に頼み込み、事件後に撮影された現場付近の写真も手に入れた。夢中になって探すうち、集まった資料は千点に上った。家業の酒店の社長を退いた1994年、自宅に資料館「生麦事件参考館」を設立。以来、館長を務める。64歳から早稲田大学で近代史を学び直した。事件のことならどんな質問にも答えられると自負する。】
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館内は写真・音声録音禁止です。広さは約20畳(10坪)位だろうか。かわいい参考館(資料館)です。“裏の建物”には酒屋に関係する資料も飾ってありました。「自宅にはもっと資料があります」と言われました。裏の建物は自宅ではなく他の場所に自宅があるようです。
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「説明は1時間かかります」と言われ、館長浅海さんが公演しているビデオを放映してくれました。淡々と流れる様に話していました。説明を聞きながら館内を見学しました。
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館内には一人重傷で200m程走ったが、落馬して藩士に助からないと思い介錯された「リチャードソン」の亡くなった次の日の写真。写真はフェリックス・ベアトによる事件にまつわる写真があり、オランダから取り寄せました。また、そのときリチャードソンを介錯した(とどめを刺した)海江田信義(天保3年〜明治39年)の名刀、備前長船久光。長さ67.2Cm,反り1.2Cm、目くぎ穴2個。本物は自宅にあるのか写真がありました。鑑定書「銃砲刀剣類登録証」コピーもありました。
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「生麦事件参考館」玄関
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京浜急行「生麦駅」から「生麦事件参考館」「生麦事件碑」「キリン横浜ビアビレッジ」の予定であったが生麦事件碑は高速道路「横浜環状北線」の工事のために仮移転しており他の場所にありました。本来はキリンビール正門右側にありました。時間が無いので工場見学の後で見学する事にしました。yahooより地図をコピーして加工させていただきました。
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本日のメイン「キリン横浜ビアビレッジ」“仕込みから充填までビールの製造工程”を見学できる工場です。無料です。
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「キリン横浜ビアビレッジ」神奈川県横浜市鶴見区生麦1-17-1
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「明治時代の横浜山手工場 」【日本に初めてビール醸造所がつくられたのは横浜・山手で、当初は居留地の外国人が主なお得意様でした。明治3年に、アメリカ人、ウィリアム コープランドが横浜・山手に開いたスプリングバレー・ブルワリー製のビールは、やがて、日本人にも飲まれるようになりました。明治14年には、日本人の口に合うようにつくられたビールが発売されています。コープランドの醸造所があった土地はジャパン・ブルワリーを経て、「キリンビール」を生み出し、麒麟麦酒株式会社に引き継がれました。】キリンビールHPからです。
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明治40(1907)年頃 キリンビール?創立当時の横浜山手工場
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工場見学の時間は30分毎に行われ1日14回実施されます。見学開始時間まで待機します。
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一番搾りのビール瓶の大きさ比較のため、若い女性に横に立って貰いました。「ネットに載せるのはNG!」と顔を隠されてしまいました。
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受付のホールにくさび文字でビールの説明がありました。4000年以上前にビールは飲まれていました。
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「ビールを表すくさび文字」「くさび形文字粘土板」説明の要約です。【この粘土板は、約4000年前にメソポタミヤに住んでいたシュメール人によって書かれたクサビ文字です。5000年前には現在のイラクにあたるメソポタミヤ地方やエジプトで飲まれていた。文字の内容は、120シラのビールは、アルム人のイルム・イドニックへ、100シラのビールは、ザウル市のエラム人達へ使者のイズアが立会人、100シラビールは…略…(1シラ=0.85リットル)】
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パンフレット
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受付嬢の皆様、右側のKさんが今回私たちの説明を担当してくれました。研修中との事でしたが流れるように説明をしてくれました。厳しい試験をパスして現場での説明を実施しています。
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まずは2Fから
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ご挨拶と説明開始
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ビールの原料の説明
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「ホップ」本物です。触ってもOK。ドイツ、チェコ産のファインアロマ ホップを使用しているそうです。
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こんな感じの工程です。
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糖化槽、麦汁ろ過槽、麦汁煮沸釜、麦汁沈殿槽と同じような釜の中で作業されるため、頭で理解するしかない。
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大きな銅製の釜が一杯!!撮影可能はここまでです。ここから撮影禁止、企業秘密が一杯、ガマン・ガマン!
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ここから撮影OK、1分間に製造される缶ビールが並んでいます。350ccが2000缶製造されています。「飲みきれない!」
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この工場では、どんな種類をどこへ販売しているか等説明
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環境への取組みを説明
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そのひとつ、ビンの軽量化をしました。厚さを薄くしたため運べる本数が多くなりました。ビール缶も上側を“しぼめて”少量化しています。
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実際に比較できます。
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製造工程も詳しく説明
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製造されている種類・・・試飲は・・・
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今回の試飲は「一番搾りフローズン<生>」と「一番搾り」です。「やったあ〜」
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Hさん、一番搾りフローズン<生>ゲット!
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「一番搾りフローズン<生>」泡と言うより“シャーベット”です。おつまみ付きでした
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キリン一番搾り、こんな感じで注いでくれます。
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はや、お代わり!二杯目と三杯目は一番搾りです。
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一番搾り缶ビールを使用して美味しい注ぎ方をご披露中の説明員Kさん
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泡はコップの口より高いのにこぼれません。
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商標の中に「キリン」の文字が隠されています。
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売店
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売店からレストラン「ビアポート」へ向かう途中に巨大“樽”が乱立
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レストラン「ビアポート」
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レストラン「ビアポート」本日は食べ放題・飲み放題にチャレンジします。
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「食べ放題・飲み放題」会場
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お肉は色々混ざっています。
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美人のOさんもグイグイ飲んでます。
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ビールはでかいピッチャーできます。
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レストラン「ビアポート」内部
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レストラン「ビアポート」内部
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食べ放題、飲み放題メニュー
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庭園内を通り、帰路につきます。もう一箇所見学地が残っています。
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正門への途中、キリンビール工場にはレストランがもう一軒あります。パブブルワリー「スプリングバレー」ちょっとおしゃれなレストランでした。
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酔っ払っていますが、今回最後の見学地「生麦事件碑」を訪ねました。
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【生麦事件をご存知でしょうか。明治維新への扉を開くきっかけの一つとなった事件として語り継がれている、幕末のできごとです。その事件碑が鶴見区生麦一丁目の旧東海道沿いに建立されたのは、事件から約20年たった明治16年(1883年)のことでした。建立したのは、後に明治から昭和初期にかけて、地域の文化人として活躍した、鶴見村(現横浜市鶴見区)在住の黒川荘三氏。少年時代に目撃した事件が風化されそうになっていることを知った彼は、その事件と歴史的意義を後世に残そうと、私費を投じて事件碑を建立し、異国の地で非業の死を遂げた英国人リチャードソンの死を悼みました。この事件は、生麦の人たちの心の隅でも気の毒なできごとだったことから、協力して記念祭を開催しました。昭和37年(1962年)の100年祭には地元の町会が集まり「生麦事件碑顕彰会」を発足。以後、昭和47年から毎年記念祭が行われています。】首都高速道路株式会社「きたせん」パンフレットからコピーです。
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【石碑建立場所の関係について 石碑が建立されている場所は事件の発生地ではなく,リチャードソンが死亡した場所である。(1)リチャードソンは切りつけられた後,途中で内蔵の一部を落としながら発生現場から南に10町ほど逃げて,字松原に至り,ここで落馬した。(2)井戸(関口氏所有)があり,ここに苦しみながらもたれかかっていた。(3)近所の農婦が出していた水茶屋に,彼は水を求めたので,一少年が水を与えた。(4)追いかけて来た薩摩の武士に畑に連れ込まれてついにとどめをさされた。石碑建立経緯 (1)明治16年秋に関口氏(井戸周辺の土地所有者)の申し出により,黒川荘三氏が6歩を30円で購入。(2)完成は明治16年12月25日竣工。28日建碑。石材は東京深川の根府川石材より購入,彫ったのは鶴見村三軒屋飯島茂吉。碑文は黒川氏が薫陶をうけていたという中村正直氏(3)大正10年周囲に石垣を築いた。碑文の冒頭一部 文久二年壬戌八月二十一日英国人力査遜 殞命于此処乃鶴見人黒川荘三所有之地也…】「蛇も蚊も」のHPからコピーです。「http://www.nponia.com/」
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生麦事件碑には【文久2年壬戌8月21日英国人リチャードソン(原文では力査遜)は命をここに落とす。すなわち、鶴見の人である黒川荘三の所有地であった。荘三は私にそのことを文章にすることを願い出た。よってそれがために歌つくった。 歌に曰く、君は(リチャードソンのこと)、この海辺のあたりに流血した。我が国の変化は将にこの事件に源がある。西南雄藩が決起して皇室の威光もまたさかんになった。また新しいことに民権というのも勃興している。君の殺された騒擾事件は誰が知っているだろうか。すべての国には歴史として伝えるべきことがあり、君の名こそ伝えるべきものである。我今歌を作って石碑に刻む。君は君の死の意味が顕彰されていることを思って、黄泉の国(原文では九原)で安心して笑っていておくれ。」】未来航路HPからです。HPは「http://miraikoro.3.pro.tok2.com/index.html」の中の「http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/Kaido_wo_aruku08.htm」です。
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無事、生麦駅へ到着しました。だいぶ酔っ払ってしまいました。山手線で居眠り乗り越しをしてしまいました。しかしなんとか帰宅しました。―完―
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