2012/08/13 - 2012/08/13
3位(同エリア139件中)
エンリケさん
ブルガリア旅行4日目。
いよいよソフィアを離れて東の黒海を目指すブルガリア横断の旅が始まります。
まずはソフィアから南東へ約150km、トラキア平原の中央に位置する人口約38万人の都市プロヴディフ。
遥か古代から、トラキア、古代マケドニア、古代ローマ、ビザンツ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国と、数々の民族の支配に置かれてきたこのブルガリア第二の都市は、現在も街のあちこちにかつての時代の姿を呈し、重層的な文化を誇る街として、活気あふれる姿を見せていました。
<旅程表>
2012年
8月10日(金) 成田→ソウル→モスクワ→ソフィア
8月11日(土) ソフィア
8月12日(日) ソフィア→リラ→ソフィア
○8月13日(月) ソフィア→プロヴディフ
8月14日(火) プロヴディフ→ヴェリコ・タルノヴォ
8月15日(水) ヴェリコ・タルノヴォ→ヴァルナ→ブルガス
8月16日(木) ブルガス→ネセバル→ブルガス→
8月17日(金) →イスタンブール
8月18日(土) イスタンブール→
8月19日(日) →ソウル→成田
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- アシアナ航空 アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
8月13日(月)
この日はソフィアを離れ、東端の黒海を目指してまずはトラキア平原の中央に位置するブルガリア第二の都市、プロヴディフに向かいます。
6時、ホテルをチェックアウトして、市の中央やや北に位置するツェントラルナ・アフトガーラ(中央バスターミナル)へ。
朝6時を過ぎたばかりのソフィアの街はまだ薄暗いですが、自動車に混じってトラムも運行を始めていました。 -
マリア・ルイザ通りを15分ほど北へ歩いてツェントラルナ・アフトガーラに到着。
トルコなどへの国際バスも発着する、ブルガリアで最大規模を誇るバスターミナルです。
早速中へ入ると朝早くからけっこうな数の旅行者が。
カウンターでプロヴディフ行きのチケットを買いますが(14Lv=700円)、事前予約なしでも次の便のものを難なく買えました。
ちなみに今回の旅行で参考にしたのが以下のサイト。
【ブルガリア交通機関時刻表(英語版)】
http://www.bgrazpisanie.com/?lang=en
キリル文字を使ったブルガリア語版のみならず英語版もあり、日付と都市名(イスタンブールなど外国の都市を含む)を入力すればバスや電車の発着時間が複数表示される優れモノで、移動のスケジュールを組むにあたって大いに役に立ちました。 -
7時、プロヴディフ行きの大型バスは、定刻通りツェントラルナ・アフトガーラを出発。
乗車率は6割ほどで、チケットは直前の購入で大丈夫なようです。
車窓からは、前日もソフィアからリラへの道で見たようなこんなのどかな風景が続きます。
なお、ブルガリア国内の移動手段としてはほかに電車もありますが、バスの方が多くの都市に通じていることや、密閉された空間のため怪しい人(ジプシーなど)が入って来ないこともあって、利便性や安全性が高いようです。
わたしも今回の旅行では都市間移動はすべてバスを使い、電車は一度も使いませんでした。 -
ソフィアを発って2時間後の9時、バスはほぼ予定どおりプロヴディフのアフトガーラ・ユク(南バスターミナル)に到着。
プロヴディフはキリル文字を使ったブルガリア語では“Пловдив”(Plovdiv)と表記され、道路標識が読めないと不安なので、バスの中で猛勉強。
Pは円周率のπ(パイ)、Lはλ(ラムダ)、DはΔ(デルタ)と、昔勉強した数学の知識と関連づければ案外すぐに覚えられますね(笑)。
アフトガーラ・ユクからは街の中心部のある北東方向を目指しますが、放射状に道路が延びていて方角がよくわかりません。
そこで通りにいたおじさんに道を聞くと、地図を食い入るように見てくれ、親身になって教えてくれました・・・ブルガリアはやっぱり素朴で親切な人が多い印象です。 -
おじさんが教えてくれたとおり、アフトガーラ・ユクからイヴァン・ヴァゾフ通りを北東へ歩いて行くと、広々とした中央広場へ到着。
広場をぶらぶらしていると、北側の通りの向こう側にまたまたこんな発掘現場を発見。
ここプロヴディフでもソフィアと同様、街のど真ん中に古代ローマの都市遺跡が野ざらしのまま残されていました。
プロヴディフの遥かな歴史を今に伝える重要なスポットですが、この国の厳しい経済情勢からか、観光施設としての整備が追い付かず、眺めるには中途半端な状況ですね・・・。 -
中央広場から北の歩行者天国となっているアレクサンダル・バテンベルグ通りへ。
・・・ここで驚いたのが、朝から通りを行き交う人の数が多いということ。
前日までの2日間で人通りが少なく寂しげなソフィアの街の様子を見ていただけに、びっくりです。
ソフィアの街の寂しさは、中央官庁が集中する官庁街だっただけに、賑やかな場所が別にあったということなのか、それとも、夏のバカンスで一時的に街の人口が少なくなっていたからなのか・・・。 -
ここで、アレクサンダル・バテンベルグ通りから少し脇道に入ったところにあるこの日の宿、スターホテルにチェックイン。
日本からネットで予約した、1泊2千円台の廉価な宿です。
まだ朝の10時前でしたが、宿泊客はそう多くないのか、断られもせずあっさりチェックインできました。 -
シングルの部屋はこんなふうに日本のビジネスホテル並みに狭く、廊下は明かりも少なく暗い感じ・・・。
もともと社会主義時代のホテルを改装したもののようで、建物はかなり年季が入っています。
それでも、プロヴディフの中心部に1泊2,000円台で泊まれるので、安く旅をしたい方にはおすすめの宿と言えます。
食堂もなく、当然朝食もついていませんでしたが、ホテルの周りにはお店がたくさんあるので困ることはないでしょう。 -
ホテルに荷物を置き、10時過ぎに観光に出発。
“地球の歩き方'11〜'12”の地図を頼りに、まずは丘の上にある旧市街“トリモンティウム”(3つの丘)へ行ってみようと試みますが、プロヴディフの通りは真っ直ぐなものがほとんどなく、脇道がたくさんあってどこをどう歩いているのか分からなくなってしまう始末・・・。
プロヴディフは東の旧市街の3つの丘のほかにも西の新市街に3つの丘があり、“6つの丘の街”と呼ばれ、中心部が起伏に富んだ地形をしています。
その上、道は細くて複雑で、“地球の歩き方”によると、“昔から「トリモンティウムで画家は夢を見、地図職人は悪夢を見る」と言われてきた”のだそうです。
もしかしたら地図をうまく作れなかった“地球の歩き方”の言い訳かもしれませんが(笑)。
そんなこんなで30分くらい彷徨った末、東側からぐるっとまわってようやく丘への階段を見つけることができました・・・ふう。 -
階段を昇りきったところに待っていたのは、狭い石畳の道と、2階より上の部分が道路に突き出た独特の様式の建物が並ぶ旧市街。
その写真奥に見えるピンクの壁の建物は、“ラマルティーヌ・ハウス”。
19世紀、オスマン帝国からの独立の機運が高まっていた民族復興期に建てられた建物で、本来はゲオルギ・マヴリディという人の家でしたが、高名なフランスのロマン派詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(1790-1869)が滞在したことから、この名前で呼ばれるようになりました。
このように2階より上の部分が道路に突き出しているのは、家の内部を広く使えるという単純な理由とのこと・・・日本だったら領空侵犯で除却を命じられますね(笑)。
内部は残念ながら月曜休館ということで入れず。 -
こちらの通りにも2階部分が道路に突き出た建物が。
先ほどのラマルティーヌ・ハウスと若干様式は違えど、ブルガリア建築の特色を表す建物となっています。
それにしてもブルガリアの石畳の道は歩きにくい・・・。
ほかのヨーロッパ諸国よりも石が大粒でゴツゴツしているような感じですね。
この道の粗さもやはり経済力が関係してくるのか。 -
交差点付近にはお土産屋も。
プロヴディフはソフィア同様それほど観光客は多くなく、お土産屋の数も旧市街にポツンポツンとあるくらいで少なかったですね。 -
こちらの石壁の向こうにあるのは聖コンスタンティン・エレナ教会。
やはり民族復興期の1832年に建設された、ブルガリア正教会の教会です。 -
教会の中では、家族でしょうか、地元の方々が大勢集まって、黄金に輝くイコノスタシスの前で、幼児洗礼か何かの儀式が行われているようでした。
教会は観光のためのものではなく、地元の人々の生活に息づいているものなんだなあと実感です。
・・・このコンスタンティン・エレナ教会、現在の建物が建設されたのは19世紀ですが、起源はこの街が“トリモンティウム”と呼ばれていた古代ローマ帝国時代の4世紀にまでさかのぼります。
キリスト教がまだ禁止されていた304年、ディオクレティアヌス帝の弾圧により、地元の37人のキリスト教徒が命を落とすなどしましたが、その後コンスタンティヌス帝によりキリスト教が公認されたため(313年のミラノ勅令)、キリスト教徒たちは皇帝とその母親に敬意を表して教会の名前としたのだそうです。 -
続いては同じ通りにある“地域民俗博物館”。
波打つような屋根と飾り模様が一際目を引くこの建物は、1847年にトルコ商人アルギル・クユムジオグルの家として建築家ハジ・ゲオルギが建てたもので、西欧のバロック・ロココ様式とブルガリア伝統の建築様式が融合した“プロヴディフ様式”の傑作となっています。
トラキア平原の中央に位置し、オスマン帝国下のヨーロッパ側の重要な経済拠点として商人が隆盛を誇っていたプロヴディフでは、より進んだ西欧の文化を取り入れた豪邸を建てることがステータスの証だったそうです。
現在この建物は貴重な文化遺産となり、家具調度や民族衣装などを展示する民俗博物館として使われているのですが、先ほどのラマルティーヌ・ハウスと同じく月曜のため休館・・・中には入れませんでした。 -
聖コンスタンティン・エレナ教会と地域民俗博物館の間を東西に貫く通りを東に降りて行くと、狭い通りに“ヒサル・カピヤ”(トルコ語で“要塞門”)と呼ばれる、石とレンガでつくられた古めかしい門が姿を現しました。
この門の起源は紀元前4世紀の古代マケドニア、フィリッポス2世(東方遠征をしたアレクサンドロス大王の父)の時代とも、紀元1世紀にこの地を属州とした古代ローマ帝国の時代とも言われ、その後、ゲルマン民族やフン族、アヴァール人など異民族の侵入やビザンツ帝国、オスマン帝国など支配者の交代とともに破壊と修復が繰り返されたのだそうです。
・・・このプロヴディフの街の歴史は遥か紀元前数千年紀のトラキア人の集落に始まり、紀元前342年には前述の古代マケドニアの王、フィリッポス2世により征服、王の名をとって“フィリッポポリス”と呼ばれるようになりました。
この時の“フィリッポポリス”(フィリッポスの都市)のトラキア語読み“プルプデヴァ”が、現在の都市名“プロヴディフ”の語源となっています。 -
ヒサル・カピヤから伸びる道をさらに下っていくと、こんな古代ローマ時代の道路の跡が、これまた野ざらしで放置されていました。
・・・紀元前2世紀に古代マケドニア王国を滅ぼしてバルカン半島に進出した古代ローマは、紀元後46年にトラキアを属州とし、フィリッポポリスをトリモンティウム(3つの丘)と名を改め、属州の中心都市として城壁や円形劇場、競技場、浴場などを整備しました。 -
ヒサル・カピヤに戻ってくる途中、脇道には寂れた感じの聖ネデリャ教会が。
ソフィアにもあった聖ネデリャ教会と同じ名前の教会で、聖コンスタンティン・エレナ教会と同じく1832年に建設された、民族復興期の建物です。
寂れた外壁とは対照的に、鮮やかなオレンジ色の塔が印象的。
・・・どうやらこの教会は修復中のようで、中に入ってみると、キリストの描かれている天井のドームに向かってたくさんの足場が組まれていました。
それでも、信者にとっては日常の祈りに欠かせない教会らしく、内部のあちこちに点けたばかりのロウソクが捧げられていました。 -
ヒサル・カピヤに戻ってきました。
右側にはやはり道路に2階部分が突き出たピンクの鮮やかな建物が。
後で入ってみることにしてまずは左の道を進むと・・・。 -
生い茂った木々の緑の中、石とレンガで積み上げられた廃墟のような城壁が、そのはかない姿を眼前にさらしていました。
古代マケドニア、古代ローマ、ビザンツ帝国、ブルガリア帝国、オスマン帝国、いつの時代の城壁なのか・・・。
・・・古代ローマ帝国による都市建設の後、この街はゲルマン民族、フン族、アヴァール人、スラヴ人、ブルガール人といったアジアなどからの異民族の侵入にさらされ、ローマ帝国の後を引き継いだビザンツ帝国(東ローマ帝国)の手によって城壁が強化されていきます。
その後もトラキア平原の中央という交通の要衝に位置するこの街は、十字軍やブルガリア帝国、オスマン帝国の争奪の場となり、何度も壊滅的な打撃を受けながらも、その都度、新しい支配者により復興していきました。
・・・こうしてみると、プロヴディフに限らずバルカン半島の都市の歴史は、東西交通の要であるだけに絶えず民族間の争奪の場となった本当に血塗られた歴史で、何度も古代の遺跡がさらしっぱなしの状態になるほど人口がスカスカになっても、そのたびに必ず復興をとげてきたんだなあと感じ入るものがあります。
復興・・・我が国の現実にとっては重く厳しい言葉ですが、誤解を恐れずに言えば、長い歴史の中では何度も繰り返される出来事のひとつだと、将来に向かっては必ず成るものだと、そう信じたいものです。 -
さて、先ほどのヒサル・カピヤの前に戻ってきて、その右側に並んでいたカラフルな建物のうち、まずは手前の黄色い“ネドコヴィッチ・ハウス”へ。
1863年に建造された、富豪ニコラ・ネドコヴィッチの邸宅で、現在は当時の家具調度などを展示する博物館となっています。
・・・中に入ろうとしたところ、隣の建物から気さくな感じの細身のおばさんが出てきて、“あなた学生?(違いますが(笑))じゃあ、ここでちょっと待っててちょうだい”と言って、ほかにいたフランス人の子連れカップルとイタリア人のカップルとともに、一緒のガイドツアーになってしまいました(笑)。
通常料金(5Lv=250円)でガイドまでしてくれるなんて、ここでもブルガリア人の親切さを感じることができました。 -
内部はこんな感じ。
1階部分は居室になっていて、当時の家族の肖像も掲げられています。 -
寝室にはこんなベッドもありました。
幸せそうに暮らした家族の顔が浮かんできます。 -
そして2階部分は応接間。
床は歩くとミシミシと音を立てる木造のものでしたが、こういうのも味があっていいものです。
・・・ここで一緒に見学していたフランス人やイタリア人の方に声をかけられましたが、みんな一様に“日本大好き!”と言ってくれました。
やはりまだまだ記憶に新しい東日本大震災のことを思ってくれてのことでしょうか。
・・・反日的な国家ばかりに囲まれていると、遠い旅先でこういう言葉を聞くのは本当にうれしいものですね。
この旅の最後の最後に訪れたソウルでのトランジットの旅とはえらい違いです(詳しくは後日掲載予定)。
ブルガリアというマイナーな国を旅する人は、同じヨーロッパ諸国でも旅慣れた方が多く、人と人との出会いなど、旅の楽しみ方を知ってる方が多いなという印象ですね。 -
続いてはネドコヴィッチ・ハウスのすぐ隣にある“ゲオルギアディ・ハウス”へ。
先ほどの地域民俗博物館と同じく、建築家ハジ・ゲオルギが1848年に富豪ゲオルギ・ケンディンデノルグのために建てたプロヴディフ様式の邸宅で、その後ケンディンデノルグの娘がデメトリオス・ゲオルギアディに嫁ぐ際に持参金として贈られたことから“ゲオルギアディ・ハウス”と呼ばれています。
現在は“ブルガリア民族復興博物館”として、主に19世紀の民族復興期の歴史的資料が展示されている博物館となっています。
ここは普段、見学者がいないときは扉を閉めているらしく、扉の脇のインターフォンを押して中に入れてもらいました。 -
入場料は2Lv(100円)。ただし撮影料が別に3Lvかかるので、結局は先ほどのネドコヴィッチ・ハウスと同じく5Lv(250円)となります。
1階は主にプロヴディフ全般の歴史、2、3階は民族復興期の独立運動の歴史を解説する資料や写真、絵などが展示されていました。
こちらの写真は2階。
外壁と同じくピンクの壁で彩られたその空間は、中央部にホール、その周辺に小部屋を配するという典型的なスタイルとなっています。
しかし壁の形や天井の幾何学模様、そして床の絨毯がイスラム建築のようです・・・。
“民族復興様式”と言いながら、けっこうオスマン帝国のイスラミックな要素を取り入れていたんですね。 -
小部屋の一角にはブルガリアの衣装でしょうか、それともオスマン帝国側の衣装でしょうか、戦争の場面を描いた絵とともに、かつての衣装が展示されていました。
この博物館、ブルガリア語の解説ばかりで英語の解説がほとんどなく、肝心の民族復興期の展示がよく分かりませんでした・・・。 -
こちらは3階の中央ホール。
この辺は軍事博物館と言ってもいいくらいで、1876年の四月蜂起(ブルガリア人の独立活動家がオスマン帝国に対して反旗を翻したものの、オスマン帝国の軍事力の前に徹底的に鎮圧されてしまった事件)とそれに続く1877年の露土戦争を描いた絵とともに、大砲などの武器も多数展示されていました。 -
外に出るともう13時。
日が高く昇ってだいぶ暑くなってきました。
標高550mの高地にあるソフィアと違って、トラキア平原のど真ん中に位置するプロヴディフは、蒸し暑い日本ほどではないにせよ、夏の暑さが強烈です。
空気がからっとしているので、日陰に入ってしまえば多少は暑さが和らぎますが。
・・・さて、次はヒサル・カピヤを再びくぐって、左手の方向にある古代ローマの円形劇場を目指します。 -
ヒサル・カピヤの先の通りを左(南)へ、ゴツゴツした石畳の道を踏みしめながら歩いて行くと・・・丘の突き当たりに柵で囲まれた開けた場所があり、その向こうにローマの円形劇場が。
現在も夏の野外劇などに使われている、極めて保存状態の良い劇場です。
丘の向こうには赤い屋根をしたプロヴディフの街並み、そして遥か先にはトラキア平原の南を東西に走るロドピ山脈が見え、すがすがしい気分にさせてくれます。 -
円形劇場は柵の外からでも眺められ、観光客の多くは中に入らず柵に沿って並べられているテーブルでそれぞれ一服しているところでしたが、わたしはせっかくなので中に入ってみることにします。
入場料は3Lv(150円)。
古代ローマ、トラヤヌス帝時代の114年から117年にかけて建設され、当初28段あったという観客席は、5世紀のフン族の侵入により一部が破壊。現在は20段ほどとなって復元されています。
現在は3千人ほどを収容できる劇場ですが、当時は5千人以上を収容できたと言われ、この街がローマ帝国トラキア属州の中心市として、いかに繁栄していたかを想像することができます。 -
この日はステージ上にイタリアの国旗が敷かれていましたが、何かイタリア関係の劇でもやるのでしょうかね。
この日の夜は遠くからライトアップされているのが見えましたが、劇が上演されていたかどうかは確認できませんでした・・・。
それにしても、こんな素晴らしい眺めなのに、ケチって中に入らず柵の外から眺める人ばかり。
おかげで劇場内は人が数人しかおらず、がらんとしています(笑)。 -
14時、古代ローマの円形劇場から今度は北の丘へ。
先史時代から集落があったとされ、トラキア人、古代マケドニア、古代ローマへと引き継がれていった“ネベット・テペ”の遺跡です。
今も古代ローマ帝国時代の城壁の跡が残り、廃墟系の展望スポットといった感です。
くず折れた城壁の先、丘の西側には、新市街のうち比較的低層の赤い屋根をした家々が広がっています。
中にはオスマン様式のモスクの鉛筆状ミナレットも。
奥には“6つの丘の街”の残りの3つの丘も見えますね。 -
そして丘の北側、マリッツァ川の向こうには、高層ビルが立ち並ぶ近代的な新市街が。
・・・こういう高さや屋根の色による市街地のきっちりしたすみ分けというのが、ブルガリアも例にもれずヨーロッパの都市計画の特徴ですよね。
こういった景色を見るといつも日本の都市計画のことを考えてしまいます・・・。 -
15時、ネベット・テペを降りてその西側に広がる新市街を散策。
まずは北側のマリッツァ川近くにあるイマレット・ジャーミヤ(モスク)へ。
オスマン帝国支配時代の1444年に、この地の総督の息子シハベティン・パシャによって建てられたオスマン様式のモスクです。
・・・ちなみにオスマン帝国がこのプロヴディフを第2次ブルガリア帝国から奪ったのは1364年で、以後、露土戦争後に自治を認められたブルガリア公国にこの街が編入される1885年まで、500年以上もオスマン帝国の支配が続くことになりました。
オスマン帝国支配時は街の名前も“フィリッポス”のトルコ語読み“フィリベ”と改められていたとのことです。 -
モスク内にも入ってみます。
この時間帯は誰も礼拝をしている人はいませんでしたが、管理人と思われる白い帽子をかぶったムスリムのおじさんが、別の欧米系の観光客を案内しているところでした。
建物内は白をベースとした明るい空間で、南側にはメッカの方向を示すミフラーブ(壁のくぼみ)やミンバル(金曜の集団礼拝で用いる説教壇)、ドームとアーチの間にはムカルナス(鍾乳石のような持ち送り構造のデザイン)といったモスクの標準装備が施されていました。
・・・黄金のイコノスタシスや数々のイコンで装飾され、神秘的な雰囲気のある正教会の教会と違って、イスラム教のモスクは単に礼拝の場と割り切った空間であるため、非常にシンプルで明るいつくりのものが多いです。 -
天上のドームもいたってシンプルです。
凸型をした三廊式構造の中央部分(身廊)に2つのドームが載った格好になっています。
なお、イマレット・ジャーミヤの“イマレット”とはトルコ語で“救貧院”という意味で、このモスクの周辺が救貧施設だったことを表しています。
・・・イスラム教の支配者は、こういった救貧院とか公衆浴場(ハマム)とか、民衆のためになるものを設けたんですけどね。
キリスト教の側からはいまひとつ評価されていないですよね・・・。 -
イマレット・ジャーミヤの北、マリッツァ川に架かる橋をわたって対岸から川と南側の新市街をパチリ。
やっぱりブルガリアは自然の景色が美しいなという印象です。
ちなみにこの橋は、イタリア・フィレンツェのポンテベッキオのように両側が店舗になっていて(それほど古い橋ではないですが)、渡りながら買い物をする地元の人々でそこそこ賑わっていました。 -
15時30分、イマレット・ジャーミヤからライコ・ダスカロフ通りを南に進んでジュマヤ広場(金曜広場)へ。
一角に発つ“ジュマヤ・ジャーミヤ”(金曜モスク)で金曜の集団礼拝が行われることからつけられた、イスラミックな名前の広場です。
・・・と言っても、この周辺にはムスリムしかいないというわけではなく、正教徒のブルガリア人も当たり前のように行き交い、宗教の違いなどまるで空気のように気にすることなく共存しています。 -
ジュマヤ・ジャーミヤの内部はこんな感じ。
さすがプロヴディフでいちばんのモスクだけあって、先ほどのイマレット・ジャーミヤと比べて大きさもさることながら、内壁の細密模様に非常に凝ったつくりをしています。
・・・このモスク、ソフィアの国立考古学研究所付属博物館に転用されたビュユック・ジャーミヤ(ブルガリア〜イスタンブール紀行(1)参照)と同型の、長方形をした三廊式構造となっており、中央の身廊部に3つのドームが並ぶ格好となっています。
建築年代もビュユック・ジャーミヤとほぼ同じ頃、15世紀後半から16世紀前半にかけてと言われています。 -
そのドームはこのとおり、植物のような細密模様とアラビア文字が凝った感じです。
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ジュマヤ広場には、モスクのほかにももうひとつ、歴史的な見どころがあります。
広場の中央にぽっかり開いた、古代ローマ時代の城壁で囲まれた空間を降りていくと・・・。 -
地下にこんな古い石造の通路が現れました。
さらにこの通路を通り抜けると・・・。 -
なんと古代ローマの競技場跡につながっていました。
この競技場跡は1973年に道路の下から発見されたもので、現在残っているのは北側の観客席の一部のみです。
2世紀末のマルクス・アウレリウス帝時代に建造されたこの競技場は、長さ約250m、幅約70mで、3万人もの観客を収容できる巨大建造物だったようです。 -
16時、お腹もすいてきたのでこのへんで昼食。
ジュマヤ広場のすぐ近くの“アリーナ”というお店に入ります。
注文したのはまず、ブルガリアの伝統料理“カヴァルマ”(今回はポークではなくチキンを選択)。
前々日ソフィアで注文したときは、オムレツのような料理だったのですが、今回出てきたのは壺のような容器に入れられた煮込み料理。
チキンのほか、玉子やタマネギ、それに唐辛子のようなものが入っています・・・。
早速スプーンですくって食べてみると、ピリっとした感じのスパイスが効いていて美味しく、前回食べた料理とはまるで別物です。
・・・今回のブルガリア旅行では計3回、それぞれに違うカヴァルマを食べましたが、このプロヴディフのアリーナのものがいちばん美味しかったですね。 -
続いて注文したのは“カルナチェ”というソーセージのような肉料理。
この店は全体的に味がいいのか、これもまた美味しかったです。
・・・終わってから考えてみれば、ここがブルガリア旅行全体を通していちばんよかったレストランかもしれません。
お代はビールや食後のコーヒーも含めて14.4Lv(720円)。
ブルガリア第二の都市プロヴディフの中心部にもかかわらず、ものすごい安さにも驚きです(笑)。 -
美味しい料理にあまりにも気分がよかったのでそのときの風景をパチリ。
平和な昼下がりの景色といった感じですね。
ちなみにプロヴディフでは日本人の旅行者はいずれも年配の方を2組見かけたくらいで、アジア系の人はほかにまったく見かけませんでした。
ソフィアでもそのくらいしか見かけませんでしたし、日本人以外のアジア系というとこの先最後までまったく見かけませんでしたね。
どうやらブルガリアは他のアジア諸国にとってもマイナーな旅先であるようです。 -
食後の17時も貪欲に観光を続けます(笑)。
まずはジュマヤ広場から東側の旧市街に向かって坂を登ったところにある聖処女マリア教会。
この教会も1844年の民族復興期に建てられたもので、優しげなピンクの鐘楼が印象的です。
中にも入ってみようとしましたが、何やら行事を行っているらしく、扉が閉められていたので外観だけ見て帰ることにしました。
・・・午前中に見た旧市街のハウスミュージアム群を含め、19世紀にこれだけたくさんの芸術的な建物が建てられたというのは、当時の産業革命の進展による世界経済の発展から来る街の成長もあったのかもしれませんが、オスマン帝国の支配下で抑圧されていたエネルギーが、1830年のギリシャ独立を機に、ブルガリアにおいても一気に噴出したということが大きいのでしょうね。 -
教会のすぐ下の通りでは、結婚式を終えたばかりと思われるカップルが、親類や友人たちから祝福を受け、大撮影会が行われているところでした。
・・・こじんまりとした街はいいなあと思ってしまいます。 -
丘を取り囲む城壁には、“PLOVDIV”ならぬ“LOVE”を強調した“PLOVEDIV”の文字が。
この街を観光都市としてもっと発展させていこうという人々の熱意が感じられます。 -
17時30分、ジュマヤ広場からアレクサンダル・バテンベルグ通りを南下して、ホテルの近くまで戻ってきました。
だいぶ日が傾いてきて通りはもう陰になっています。
それでも、プロヴディフ一のメインストリートはまだまだ賑わいが続いています。 -
18時、まだ体力が余っていたので、ホテルのすぐ近くにある博物館“トラカルト文化センター”へ。
“トラカルト”とは“トラキア”と“アート”の合成語ですが、展示内容は古代ローマ帝国時代のものがほとんどとなっています。
そして入口のそばにあるこの地下通路、博物館に入る前に、実はこの地下通路の石畳の道そのものが、古代ローマ帝国時代のものとなっているのです。
2000年後の現在も、貴重な文化遺産が普通に人々が行き交う通路として利用されていることに驚くと同時に、現在まで壊れず存続している古代ローマの土木技術の水準の高さに感心しっぱなしです。 -
入場料5Lv(250円)を払って中に入ってみると、先ほどの古代ローマ帝国の地下通路のガラスを隔てた脇にはモザイクの床が。
欠損している部分は少なく、保存状態はかなりいいですね。
このモザイク床は、まさにここにあった古代ローマ帝国時代の邸宅の床そのものだそうで、床の模様にも気を遣うオシャレな家の様子が伝わってきます。
・・・以上のことどもはこの博物館の年配の女性の係員から聞いたことで、ここでも“あなた学生?”とまず言われ(笑)、こちらが展示物を見て立ち止まるたびに駆け寄ってきてくれ、懇切丁寧に教えていただきました。
こういうところでは学生のフリをするに限りますね(笑)。 -
手前の横長の石の上には、引き戸を設置したらしい跡も見られます。
外の通路から入ってきて、この引き戸を引いて“ただいま”と家族に呼びかけている古代ローマ人の姿が想像できますね。
なんとなく“テルマエ・ロマエ”の阿部寛を想像してしまいますが(笑)。 -
19時、日もだいぶ落ちてきましたが、まだまだ明るいです。
もう博物館などの展示施設はすべて閉まってしまったので、中央広場やその隣の自由公園を散策。
公園のベンチには、老若男女様々な人々が一定の距離を保って腰かけており、思い思いの日暮れを楽しんでいました。
我が国にもこんなゆったりとした公園がたくさんあればいいですね。 -
アレクサンデル・バテンベルグ通りにある噴水のそばでも、たくさんの地元の人々があちらこちらに腰かけて、思い思いにその日の夕暮れを楽しんでいました。
こういう景色を見るのって、なんだか平和でいいものです。 -
ホテルでしばらく休んだ後、夜の風景でも撮ろうと21時に再びアレクサンデル・バテンベルグ通りに繰り出します。
通りの遥か向こうには暗くなりつつある夕空。
それにしても、ソフィアでもそうでしたが、ブルガリアの街は街灯が少なく、お店が明りを消してしまば通りは真っ暗になってしまいます。
なので、夜の街の写真も暗くなりすぎてしまいイマイチ・・・。 -
すっかり日が沈んだ後、先ほどの噴水の場所へ行ってみると、噴水そのものやバックの建物など、鮮やかなライトアップがなされ、ブルガリアの夜景にしては珍しくいいものを撮ることができました。
プロヴディフ、古代からの様々な文化が重なり合った、なかなかいい街でした。
街にはソフィアであまり感じられなかった活気もありましたし。
・・・さて、プロヴディフを一日で後にし、翌日はヴェリコ・タルノヴォへ。
第2次ブルガリア帝国の首都として栄えた歴史ある街であるとともに、我が国では大相撲の琴欧州のふるさととしても知られていますが、いったいどんな街なのでしょうか?
(ブルガリア5日目=ヴェリコ・タルノヴォ観光へ続く。)
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この旅行記へのコメント (6)
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- liberty-libertyさん 2012/10/08 17:17:34
- 様々な時代が残る街ですね♪
- エンリケさん、こんにちは!
今回も素敵な写真ばかりで
楽しく拝見させていただきました(^o^)
街の建物が
どれも可愛らしくて(*^o^*)
童話の背景そのものですね〜♪
そして
その建物の合間に写されている遺跡の数々。
ローマ帝国やオスマン帝国など
ブルガリアははるか昔から
ヨーロッパの成り立ちに関わってきているんだなぁと思いました。
あと
食事が美味しそう(*^o^*)
しかもやす〜い!
あれで720円なんて(^o^)
それではまた
次回作、楽しみにしています。
- エンリケさん からの返信 2012/10/20 15:57:13
- いつもご訪問ありがとうございます!
- liberty-libertyさん
こんにちは。いつもご訪問ありがとうございます!
ブルガリアは今でこそヨーロッパの東の端、人口が流出してしまうような遅れた国になってしまいましたが、先史時代から古代にかけてはヨーロッパでも進んだ地域のひとつだったんだなあという思いですね。
逆に、近代以降の発展が遅れたからこそ、古代の遺跡が開発のために撤去されたりせず、そのままの姿で残されることになったという、ある意味皮肉な結果にもつながるわけですが。
海外旅行をしていると、いろいろと考えさせられることが多いですね・・・。
-
- 川岸 町子さん 2012/10/01 22:41:49
- 陶器のよう・・・
- エンリケさん
こちらの図柄、まるでウェッジウッドの陶器のように見えました。
美しく、繊細で、深みがありますね!
さて、学生さんのようなエンリケさん☆
ふふふ、きっと初々しい雰囲気でいらっしゃるので、そんな風に優しく声をかけてもらえるのでしょうね〜。
旅先での人との出会い、何よりでしたね(*^^)v
川岸 町子
- エンリケさん からの返信 2012/10/07 22:17:37
- いつもご訪問ありがとうございます!
- 川岸 町子さん
こんばんは。いつもご訪問ありがとうございます!
2年前にエジプトを旅して以来、機能的なイスラム建築の魅力にハマり続けているので、今回もたくさんのモスクの写真を撮ってしまいました(笑)。
ブルガリアは正教の影響なのか、人々が本当に親切で、行く先々で優しい声をかけてもらいました。
こちらが道を尋ねると、単に答えを丁寧に教えてくれるだけでなく、“どこから来たんだ”とか“ブルガリアはどうだ”とか、本当に親しげに話してきてくれますね。
こんなに話しかけられたのは、ノルウェーやデンマークを旅行した時以来です。
ただ、ノルウェーやデンマークの人々は、会話がウィットに富んでいて洗練された感じがしたのに対し、ブルガリアの人々はどことなく素朴な印象ですね。
この先の街での人々とのやりとりも、できる限り旅行記に収めて臨場感を高めていきたいと思いますので、ぜひまたのぞきに来てください!
-
- ガブリエラさん 2012/10/01 21:30:25
- ステキな建物ですね〜(*^_^*)
- エンリケさん☆
こんばんは♪
ブロヴディフ、舌をかみそうな名前の町ですね(*^_^*)
ここの建物、素敵ですね!
とくに、地域民族博物館の壁、模様が本当に美しいですね!
こんな柄の洋服、ほしいです♪
色合いも、綺麗で(*^_^*)
ブルガリア料理って、全く知らなかったのですが、ソーセージみたいなのとか、おいしそうですねヽ(^o^)丿
でも、この街にもし私が行ったら、遭難します(^_^;)
普通の町でも、よく方向わからなくなったりするのに、地図作り泣かせの町だったら、グルグルしちゃいそうでう(>_<)(^O^)
また、続きを楽しみにしています♪
ガブ(^_^)v
- エンリケさん からの返信 2012/10/07 19:31:05
- いつもご訪問ありがとうございます!
- ガブリエラさん
こんばんは。いつもご訪問ありがとうございます!
ブルガリア料理、キョフテ(ミートボール)とかケバブチェとか、けっこうトルコ料理に似ているものが多いそうですよ。
あのヨーグルトも実はトルコが起源だそうですし。
やっぱり、500年もの長い間オスマン帝国に支配されていただけあって、食文化の面でもかなりトルコの影響を受けているようです。
ブルガリアの街はこじんまりとしていて、それほど道に迷うことはないのですが、プロヴディフだけは違いましたね・・・。
まだまだブルガリアのマニアックな街が続きますが、ぜひまた遊びに来てください!
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