2012/03/18 - 2012/03/18
79位(同エリア193件中)
滝山氏照さん
西武新宿線の新井薬師前駅から徒歩20分、妙正寺川に臨む江古田公園を訪問しました。この公園一帯が「江古田が原・沼袋古戦場(えごたがはら・ぬまぶくろこせんじょう」跡で江戸城を本拠とする太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)と石神井城を本拠とする豊島泰経(としま・やすつね、生誕死没不詳)とが水利権の主導権を巡って合戦をしたところです。
合戦に至る経緯としては「長尾景春(ながお・かげはる、1443~1514)の乱」が伏線となっています。つまり文明5年(1473)関東管領山内上杉氏の家宰の長尾景信(ながお・ただかげ)の死去に対し当主山内顕定(やまのうち・あきさだ)は後任に実弟忠景(ただかげ)を指名、これに不服とした嫡男景春は文明8年(1476)遂に謀反を起こし、これに呼応した豊島氏が江戸と川越を結ぶ通行を妨害し、道灌の主家の扇谷上杉氏の行動を制限することになります。
文明9年(1477)泰経は石神井城(東京都練馬区)で挙兵、弟の泰明は平塚城(東京都北区)で挙兵し道灌の江戸城と川越城や岩槻城との連絡路を断ちますが、これに対し道灌は相模国の景春勢の討伐を済ませた後に豊島氏に攻勢をかけます。
道灌はまず泰明の守る平塚城下に火を放ちますが、平塚城支援の為泰経は石神井城から出陣、道灌はいったん兵を引きます。
兵を引いた道灌を追撃、泰明も平塚城を出撃しますが、道灌勢は主家の扇谷・上杉朝昌(うえすぎ・ともまさ、生没不詳)並びに武蔵千葉氏の千葉自胤(ちば・よりたね、1446ー1494)らと合流すると、取って返しここに江古田川と妙正寺川の合流地点、江古田・沼袋付近で豊島勢と衝突します。
数では上回る豊島軍に対し、道灌勢は巧みな用兵により勝利を収め、泰明は討取られる事になります。総崩れの泰経は石神井城に逃げ込み、遂には道灌軍に包囲され城の破却を条件に降伏する申し出をしますが約束果たさず道灌は遂に石神井城に総攻撃をかけ石神井城は落城、泰経は夜陰に紛れて逃亡をはかり武蔵国小机城にて再起を計ろうとしますが、道灌の追討を受けて名門豊島氏は滅亡に至ります。
2023年5月15日追記
現地に配された説明板には下記の通り掲載されています。
「 江古田古戦場
このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明9年(1477)太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。
ここでの合戦は、享徳の乱(1454~1481)という長期にわたる内乱の中の戦でした。
享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏と太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。
この乱により関東は二分され、幕府などの支援を受けた上杉方は、武蔵・相模。西上野をおさえましたが、その時、江戸城を根拠地とした道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、戦を有利に進めるために重要な役割をはたしました。
ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏が武蔵の支配を確立するうえで、大きな意味をもっていました。
昭和57年2月
中野区教育委員会 」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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江古田公園
公園の端には妙正寺川(みょうしょうじがわ)が流れ、その向かい側の高台には住宅地となっています。 -
イチオシ
江古田ケ原・沼袋古戦場石碑
江古田公園のバス通り側の一隅に立派な石碑が建立されています。 -
妙正寺川と江古田公園
高台と妙正寺川の間には僅かながらスペースがあり公園となっています。 -
江古田公園
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江古田公園
公園は一部妙正寺川を挟んで広がっています。 -
江古田公園と住宅地
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公園広場
片隅にベンチが置いてありますが、その他の施設は見当たりません。 -
妙正寺川
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妙正寺川
この先上流に江古田川と妙正寺川の合流地点があります。
妙正寺川上流は豊島領であり、反対に下流は江戸城下の平川に注いでいたので豊島氏と江戸城を預かる太田氏との水利権をめぐるトラブルも日常的にあったと思われます。 -
周辺地図
地図を見ますと北から江古田川、南から妙正寺川が公園の西側で合流しています。
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