宇治旅行記(ブログ) 一覧に戻る
梅雨=アジサイという単純な思いつきで近場のアジサイ・スポットを検索した所、京都の宇治にある三室戸寺が目に留まりました。奈良時代に山奥の渓流から出現された千手観音菩薩を本尊に祀る、由緒ある古刹です。そして、ダメモトで京阪電車のお得情報を調べると宇治・伏見1DAYチケットがヒットしました。運賃は変わりませんが、拝観料やショップでの割引が得られ重宝しました。<br />三室戸寺のアジサイは関西屈指の名所だそうです。「牛に引かれて…」ではなく、「花に惹かれて」の境地です。春から夏にかけてツツジ、シャクナゲ、アジサイやハスと矢継ぎ早に移ろいで行きます。そして秋の紅葉もまた格別だそうです。リーフレットには1万株のアジサイと記載があり、寺の方でも「花の寺」としてかなりの力の入れようです。アジサイは想像以上の見事な咲きぶりで、心が洗われました。宇治は源氏物語の終焉となる「宇治十帖」の舞台です。千年の時を幻想的なアジサイが演じる紫絵巻と重ね合わせてみるのも一興です。<以上、前編><br /><br />三室戸寺を後にして源氏物語ゆかりの地をそぞろ歩きしました。宇治橋を渡った対岸から橘島と塔の島という二つの島で構成された宇治公園を巡り、朝霧橋を渡って宇治神社、宇治上神社(世界遺産)へと歩を進めました。<br />帰りがけには、中書島で途中下車し、坂本龍馬襲撃事件の舞台となった寺田屋や竜馬通り界隈を散策しました。竜馬通りは昭和の匂いを今に残す商店街が立ち並び、当時にタイムスリップしたような一種のトランス状態を満喫できました。 <br />

京都 宇治・伏見 紫絵巻紀行②<宇治・伏見>

704いいね!

2012/06/17 - 2012/06/17

2位(同エリア1422件中)

0

43

montsaintmichel

montsaintmichelさん

梅雨=アジサイという単純な思いつきで近場のアジサイ・スポットを検索した所、京都の宇治にある三室戸寺が目に留まりました。奈良時代に山奥の渓流から出現された千手観音菩薩を本尊に祀る、由緒ある古刹です。そして、ダメモトで京阪電車のお得情報を調べると宇治・伏見1DAYチケットがヒットしました。運賃は変わりませんが、拝観料やショップでの割引が得られ重宝しました。
三室戸寺のアジサイは関西屈指の名所だそうです。「牛に引かれて…」ではなく、「花に惹かれて」の境地です。春から夏にかけてツツジ、シャクナゲ、アジサイやハスと矢継ぎ早に移ろいで行きます。そして秋の紅葉もまた格別だそうです。リーフレットには1万株のアジサイと記載があり、寺の方でも「花の寺」としてかなりの力の入れようです。アジサイは想像以上の見事な咲きぶりで、心が洗われました。宇治は源氏物語の終焉となる「宇治十帖」の舞台です。千年の時を幻想的なアジサイが演じる紫絵巻と重ね合わせてみるのも一興です。<以上、前編>

三室戸寺を後にして源氏物語ゆかりの地をそぞろ歩きしました。宇治橋を渡った対岸から橘島と塔の島という二つの島で構成された宇治公園を巡り、朝霧橋を渡って宇治神社、宇治上神社(世界遺産)へと歩を進めました。
帰りがけには、中書島で途中下車し、坂本龍馬襲撃事件の舞台となった寺田屋や竜馬通り界隈を散策しました。竜馬通りは昭和の匂いを今に残す商店街が立ち並び、当時にタイムスリップしたような一種のトランス状態を満喫できました。

同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩

PR

  • 宇治橋<br />源氏物語の最後の「五十四帖(宇治十帖)夢浮橋」では、行方不明になっていた浮舟を探し当てて会いたいと願う薫の君と、「不倫を犯した私は会えませぬ」と突っぱねる浮舟の葛藤が描かれています。華麗なる女性遍歴の末路は、悲恋にて終焉します。<br /><br />夢浮橋とは、宇治橋のことだそうです。源平の古戦場でもある宇治橋は、周りの風光明媚な景観を損なわないように配慮されて造られているそうです。<br />

    宇治橋
    源氏物語の最後の「五十四帖(宇治十帖)夢浮橋」では、行方不明になっていた浮舟を探し当てて会いたいと願う薫の君と、「不倫を犯した私は会えませぬ」と突っぱねる浮舟の葛藤が描かれています。華麗なる女性遍歴の末路は、悲恋にて終焉します。

    夢浮橋とは、宇治橋のことだそうです。源平の古戦場でもある宇治橋は、周りの風光明媚な景観を損なわないように配慮されて造られているそうです。

  • 宇治橋 <br />橋の真ん中辺りにある出っ張りが、三の間と呼ばれる所です。昔、橋姫神社があった名残だそうです。ここからは、朝霧橋や宇治公園が一望できます。<br /><br />橋姫という神は、元々は外敵の侵入を防ぐ橋の守り神でした。ところが、瀬織津姫が古今和歌集に始まり源氏物語、御伽草子などに描かれて「恋する男を待ち続ける女の悲劇」という悲哀を背負うようになり、やがて平家物語、太平記などに登場する「橋を渡る恋人たちを食い殺す鬼女」へと変貌してきました。また、橋姫は、丑の刻参りの鉄輪の女の原型ともされているそうです。いつの世も、新たな刺激を求めて都市伝説は膨れ上がるもののようです。時代を経るとその属性は益々狂暴化するようです。 <br />通って来なくなった男に嫉妬するあまり、川に身を投じて自ら夜叉に変じた凄惨な恐怖譚は、今でも都市伝説として語り継がれています。宇治川に祀られた橋姫を祭神とする橋姫神社の神像もこのタイプの説話に拠るものだそうです。それは、緋袴を着けた裸形の羅刹女で、右手には蛇、左手には釣竿を持っているそうな。<br />この橋を通るカップは、嫉妬されないように三の間で手を合わせた方がよろしいかと存じます。

    宇治橋 
    橋の真ん中辺りにある出っ張りが、三の間と呼ばれる所です。昔、橋姫神社があった名残だそうです。ここからは、朝霧橋や宇治公園が一望できます。

    橋姫という神は、元々は外敵の侵入を防ぐ橋の守り神でした。ところが、瀬織津姫が古今和歌集に始まり源氏物語、御伽草子などに描かれて「恋する男を待ち続ける女の悲劇」という悲哀を背負うようになり、やがて平家物語、太平記などに登場する「橋を渡る恋人たちを食い殺す鬼女」へと変貌してきました。また、橋姫は、丑の刻参りの鉄輪の女の原型ともされているそうです。いつの世も、新たな刺激を求めて都市伝説は膨れ上がるもののようです。時代を経るとその属性は益々狂暴化するようです。
    通って来なくなった男に嫉妬するあまり、川に身を投じて自ら夜叉に変じた凄惨な恐怖譚は、今でも都市伝説として語り継がれています。宇治川に祀られた橋姫を祭神とする橋姫神社の神像もこのタイプの説話に拠るものだそうです。それは、緋袴を着けた裸形の羅刹女で、右手には蛇、左手には釣竿を持っているそうな。
    この橋を通るカップは、嫉妬されないように三の間で手を合わせた方がよろしいかと存じます。

  • 宇治橋のたもと 紫式部の石像<br />外国語に翻訳された源氏物語を学校の図書室で読んでいた少女が、「先生!紫式部の新作は、いつ発売されますか?」と聞いたとか。まさか千年以上も前に書かれたものとは知らず、ワクワクしながら読み耽り、もっと読みたくなったというお話。さもありなん。そんな世界に誇れる古典文学「源氏物語」は全編五十四帖あり、主人公の光源氏が亡くなった後、息子の薫の君を主人公にし、舞台は宇治へと移ります。この最後の十帖は地名をとって『宇治十帖』と呼ばれます。最終章を執筆するうえで、川霧にけむる宇治川はなくてはならない存在でした。宇治は、日本最古の神社建築 宇治上神社が鎮座する場所であり、栄華を誇った藤原氏が極楽浄土を夢見た場所。そして源氏物語のラブストーリーの舞台でもあり、源氏と平家が戦った歴史の舞台でもあります。類稀な天才 紫式部がなせるまやかしの世界に浸れます。<br /><br />「むらさき」という言葉は鰯の隠語でもあり、かの紫式部も間接的に関与しているそうです。次のような逸話があります。紫式部は、何かのきっかけで鰯を食してその美味しさが忘れられず、もう一度食べたいと切望しました。しかし、貴族である彼女は、下賤とされる鰯を公に食べることが適いません。そこで、夫 藤原宣孝の留守中にこっそり焼いて食したところ、夫が残り香に気付き、彼女を叱りつけました。彼女はすぐさま、「日の本に はやらせ給ういわしみず まいらぬ人は あらじとぞ思ふ」という歌を詠んで切り返します。「日本で流行っている石清水八幡宮に参らない人がいないように、鰯を食べない人などいません」というわけです。これ以降、宮廷の女房詞(隠語)で鰯のことを「むらさき」と呼ぶのが流行りになったそうです。実は、それ以前にすでに「むらさき」は鰯を現す隠語だったそうです。これは、鰯の群がる海面が紫色に染まることから、鰯が「鮎(アユ)」に勝ることを、紫は「藍(アイ)」に勝るとかけたものだそうです。これと紫式部の逸話を掛け合わせ、爆発的に大流行していったのでしょうね。<br /><br />

    宇治橋のたもと 紫式部の石像
    外国語に翻訳された源氏物語を学校の図書室で読んでいた少女が、「先生!紫式部の新作は、いつ発売されますか?」と聞いたとか。まさか千年以上も前に書かれたものとは知らず、ワクワクしながら読み耽り、もっと読みたくなったというお話。さもありなん。そんな世界に誇れる古典文学「源氏物語」は全編五十四帖あり、主人公の光源氏が亡くなった後、息子の薫の君を主人公にし、舞台は宇治へと移ります。この最後の十帖は地名をとって『宇治十帖』と呼ばれます。最終章を執筆するうえで、川霧にけむる宇治川はなくてはならない存在でした。宇治は、日本最古の神社建築 宇治上神社が鎮座する場所であり、栄華を誇った藤原氏が極楽浄土を夢見た場所。そして源氏物語のラブストーリーの舞台でもあり、源氏と平家が戦った歴史の舞台でもあります。類稀な天才 紫式部がなせるまやかしの世界に浸れます。

    「むらさき」という言葉は鰯の隠語でもあり、かの紫式部も間接的に関与しているそうです。次のような逸話があります。紫式部は、何かのきっかけで鰯を食してその美味しさが忘れられず、もう一度食べたいと切望しました。しかし、貴族である彼女は、下賤とされる鰯を公に食べることが適いません。そこで、夫 藤原宣孝の留守中にこっそり焼いて食したところ、夫が残り香に気付き、彼女を叱りつけました。彼女はすぐさま、「日の本に はやらせ給ういわしみず まいらぬ人は あらじとぞ思ふ」という歌を詠んで切り返します。「日本で流行っている石清水八幡宮に参らない人がいないように、鰯を食べない人などいません」というわけです。これ以降、宮廷の女房詞(隠語)で鰯のことを「むらさき」と呼ぶのが流行りになったそうです。実は、それ以前にすでに「むらさき」は鰯を現す隠語だったそうです。これは、鰯の群がる海面が紫色に染まることから、鰯が「鮎(アユ)」に勝ることを、紫は「藍(アイ)」に勝るとかけたものだそうです。これと紫式部の逸話を掛け合わせ、爆発的に大流行していったのでしょうね。

  • 平等院 表参道<br />紫式部像を眺めながら昼食を摂った後、はんなりかふぇ・京の飴工房「憩和井」で和みサンデーをデザートに購入。通常、350円ですが1DAYチケットを見せると300円になります。「憩和井」は、創業半世紀を誇る京の飴屋の直営店です。<br />ショップ割引等の詳細は、次のサイトでご確認ください。<br />http://www.keihan.co.jp/traffic/valueticket/ticket/uji-fushimi_2012/

    平等院 表参道
    紫式部像を眺めながら昼食を摂った後、はんなりかふぇ・京の飴工房「憩和井」で和みサンデーをデザートに購入。通常、350円ですが1DAYチケットを見せると300円になります。「憩和井」は、創業半世紀を誇る京の飴屋の直営店です。
    ショップ割引等の詳細は、次のサイトでご確認ください。
    http://www.keihan.co.jp/traffic/valueticket/ticket/uji-fushimi_2012/

  • 和みサンデー<br />あんみつ風の宇治金時ソフトクリームです。ボリューム満点で大人の味です。

    和みサンデー
    あんみつ風の宇治金時ソフトクリームです。ボリューム満点で大人の味です。

  • 平等院 表参道 中村藤吉平等院店<br />生茶ゼリーが人気。この界隈には宇治茶の老舗が立ち並びます。

    平等院 表参道 中村藤吉平等院店
    生茶ゼリーが人気。この界隈には宇治茶の老舗が立ち並びます。

  • 平等院 表参道 伊藤久右衛門<br />「心潤す上質の宇治茶」がキャッチフレーズ。通販で数回スウィーツを購入したことがありますが、高級と言うのが正直な感想です。色々悩んだ挙句、ほうじ茶をゲット。

    平等院 表参道 伊藤久右衛門
    「心潤す上質の宇治茶」がキャッチフレーズ。通販で数回スウィーツを購入したことがありますが、高級と言うのが正直な感想です。色々悩んだ挙句、ほうじ茶をゲット。

  • 平等院 表参道 泉園<br />さすがは本場です。お茶屋さんはどこも賑わっています。

    平等院 表参道 泉園
    さすがは本場です。お茶屋さんはどこも賑わっています。

  • 宇治 あじろぎの道<br />夏場は、昔から宇治の風物詩として知られる鵜飼いが行われます。本日は昨日降った雨のため、ダムの放水が行われるようで休業です。橋を渡ると宇治川に浮かぶ橘島と塔の島という二つの島で構成された宇治公園が広がっています入り口の塔の島には、十三重の石塔が聳え立っています。<br />

    宇治 あじろぎの道
    夏場は、昔から宇治の風物詩として知られる鵜飼いが行われます。本日は昨日降った雨のため、ダムの放水が行われるようで休業です。橋を渡ると宇治川に浮かぶ橘島と塔の島という二つの島で構成された宇治公園が広がっています入り口の塔の島には、十三重の石塔が聳え立っています。

  • 宇治 喜撰橋<br />鵜飼船が一列に整然と並んでいます。

    宇治 喜撰橋
    鵜飼船が一列に整然と並んでいます。

  • 宇治公園<br />対岸へ通じる朝霧橋です。塔の島の南側からは、屋形船の遊覧船が500円で周辺を廻ってくれます。

    宇治公園
    対岸へ通じる朝霧橋です。塔の島の南側からは、屋形船の遊覧船が500円で周辺を廻ってくれます。

  • 宇治公園<br />朝霧橋のたもとに楚々と咲くユリ科の植物。

    宇治公園
    朝霧橋のたもとに楚々と咲くユリ科の植物。

  • 宇治 朝霧橋のたもと<br />宇治川のほとりで逢瀬を重ねた匂宮と浮舟をイメージして造られたモニュメントがあります。小舟で対岸の隠れ家に渡る二人を想像するには趣きのある場所です。当然、往時は朝霧橋などはありませんでしたが…。 <br /><br />真向いには平等院の屋根、流れの早い宇治川の真ん中に中の島が横たわっています。宇治十帖の舞台に八宮の宇治の山荘を選ぶ際、橋寺やこの宇治神社を思い浮かべたことは想像に難くないと思われます。

    宇治 朝霧橋のたもと
    宇治川のほとりで逢瀬を重ねた匂宮と浮舟をイメージして造られたモニュメントがあります。小舟で対岸の隠れ家に渡る二人を想像するには趣きのある場所です。当然、往時は朝霧橋などはありませんでしたが…。

    真向いには平等院の屋根、流れの早い宇治川の真ん中に中の島が横たわっています。宇治十帖の舞台に八宮の宇治の山荘を選ぶ際、橋寺やこの宇治神社を思い浮かべたことは想像に難くないと思われます。

  • 宇治神社<br />兄の仁徳天皇と皇位を巡った末、兄に皇位を譲るために自殺した悲運の皇子・菟道稚郎子の等身大の坐像が祀られ、この辺り一帯は彼の造営した桐原日桁宮の跡と伝えられています。祭神の菟道稚郎子は、「源氏物語 宇治十帖」の八宮のモデルとも言われています。<br /><br />八宮は、桐壷院の皇子で光源氏の異腹の弟宮。時勢が源氏になびいてからは、宇治の山荘で娘二人を男手ひとつで育てることに明け暮れます。その一人が、薫に見初められた、大君です。内省的な大君は、妹の中君を薫と結び付けようとしますが、薫は計略にのらず、好敵手の匂宮と契りを結ばせてしまいます。大君は、匂宮が中君を粗末に扱うと思い込み、病に伏し、出家の願望を遂げずに亡くなります。中君はこの後幸福に暮らしますが、もう一人異腹の妹が存在することを薫に仄めかします。それが、大君そっくりの浮舟です。ここから、薫と匂宮の浮舟争奪戦が展開されていきます。

    宇治神社
    兄の仁徳天皇と皇位を巡った末、兄に皇位を譲るために自殺した悲運の皇子・菟道稚郎子の等身大の坐像が祀られ、この辺り一帯は彼の造営した桐原日桁宮の跡と伝えられています。祭神の菟道稚郎子は、「源氏物語 宇治十帖」の八宮のモデルとも言われています。

    八宮は、桐壷院の皇子で光源氏の異腹の弟宮。時勢が源氏になびいてからは、宇治の山荘で娘二人を男手ひとつで育てることに明け暮れます。その一人が、薫に見初められた、大君です。内省的な大君は、妹の中君を薫と結び付けようとしますが、薫は計略にのらず、好敵手の匂宮と契りを結ばせてしまいます。大君は、匂宮が中君を粗末に扱うと思い込み、病に伏し、出家の願望を遂げずに亡くなります。中君はこの後幸福に暮らしますが、もう一人異腹の妹が存在することを薫に仄めかします。それが、大君そっくりの浮舟です。ここから、薫と匂宮の浮舟争奪戦が展開されていきます。

  • 宇治神社 狛犬の石像<br />本殿外陣に安置されている木製の狛犬は鎌倉時代の作。特に狛犬は、阿形と吽形で一対をなす木製として現存する最大級の物です。前脚をふんばり胸を張った緊張感のある姿勢、豊かなたてがみのそよぎや面部の肉取り、背筋が立ち、肋を露呈した引き締まった体など、随所に鎌倉時代ならではの写実的な表現が垣間見られます。この石像は木像を模して造られたものだそうで、どことなくその片鱗が見られます。<br />

    宇治神社 狛犬の石像
    本殿外陣に安置されている木製の狛犬は鎌倉時代の作。特に狛犬は、阿形と吽形で一対をなす木製として現存する最大級の物です。前脚をふんばり胸を張った緊張感のある姿勢、豊かなたてがみのそよぎや面部の肉取り、背筋が立ち、肋を露呈した引き締まった体など、随所に鎌倉時代ならではの写実的な表現が垣間見られます。この石像は木像を模して造られたものだそうで、どことなくその片鱗が見られます。

  • 宇治神社 ニホントカゲの幼体<br />これも縁起物だと思います。頭と胴体には黒褐色で黒っぽいラインがあり、幼体の時だけ尻尾がコバルトブルーなんだそうです。<br /><br /><br /><br />

    宇治神社 ニホントカゲの幼体
    これも縁起物だと思います。頭と胴体には黒褐色で黒っぽいラインがあり、幼体の時だけ尻尾がコバルトブルーなんだそうです。



  • 宇治神社 兎の手水舎<br />みかえり兎と呼ばれ、宇治神社の神使いと伝えられています。菟道稚郎子尊が河内から宇治に移る時、道に迷い困っていた折、一羽の兎が振り返りながら先導して無事に宇治に辿り着いたのだそうです。三室戸寺の狛兎と同じ由来のようです。<br />

    宇治神社 兎の手水舎
    みかえり兎と呼ばれ、宇治神社の神使いと伝えられています。菟道稚郎子尊が河内から宇治に移る時、道に迷い困っていた折、一羽の兎が振り返りながら先導して無事に宇治に辿り着いたのだそうです。三室戸寺の狛兎と同じ由来のようです。

  • 宇治神社 桐原殿<br />入母屋造の建物拝殿で、桐原の名は応神天皇の離宮の名(地名)からとられているそうです。<br />

    宇治神社 桐原殿
    入母屋造の建物拝殿で、桐原の名は応神天皇の離宮の名(地名)からとられているそうです。

  • 宇治神社 本殿<br />菟道稚郎子皇子の宮居跡と伝えられています。鎌倉時代後期に建立されたもので、重要文化財に指定されています。 <br />

    宇治神社 本殿
    菟道稚郎子皇子の宮居跡と伝えられています。鎌倉時代後期に建立されたもので、重要文化財に指定されています。

  • 宇治神社 本殿<br />

    宇治神社 本殿

  • 宇治上神社 一の鳥居<br />宇治川の東に位置する朝日山の麓、さわらびの道が通る小高い丘の中にひっそりとした佇まいの宇治上神社があります。派手な極彩色や装飾こそありませんが、京都で最も静寂感に包まれている世界文化遺産で、湧き水が流れ、厳かで清らかな凛とした空気間、宇治の守り神としての片鱗を今に伝える古刹です。 周りが緑に囲まれ、鶯の鳴き声に和まされ、まるで昔話に出てきそうな趣です。参道を進むと朱塗りの大きくて立派な鳥居と世界文化遺産の石碑が出迎えてくれます。<br />

    宇治上神社 一の鳥居
    宇治川の東に位置する朝日山の麓、さわらびの道が通る小高い丘の中にひっそりとした佇まいの宇治上神社があります。派手な極彩色や装飾こそありませんが、京都で最も静寂感に包まれている世界文化遺産で、湧き水が流れ、厳かで清らかな凛とした空気間、宇治の守り神としての片鱗を今に伝える古刹です。 周りが緑に囲まれ、鶯の鳴き声に和まされ、まるで昔話に出てきそうな趣です。参道を進むと朱塗りの大きくて立派な鳥居と世界文化遺産の石碑が出迎えてくれます。

  • 宇治上神社 拝殿<br />小さな山寺を思わせる山門を潜ると正面が開け、意外に大きな拝殿が現れます。拝殿の前には「清めの砂」の円錐の盛り砂がしてあります。これは神が降りてくる時の依り代となるものだそうで、年一回、9月1日の八朔祭で氏子によって奉納されます。1215年頃の建立で、鎌倉時代の建築技術を知るための手がかりとして貴重であり、神社でありながら住宅建築を思わせる寝殿造りの建造物として国宝に指定されています。縋破風(すがるはふ)と呼ばれる手法を用いた独特の美しい屋根が特徴的です。その美しさから、宇治離宮「宇治院」の建物が下賜されたのではないかとも伝えられています。切妻造の桧皮葺きで、左右にひさしを出し、中央には板唐戸、左右に蔀戸(しみど)が配置され、神社と言うより離宮と呼ぶ方がふさわしい佇まいです。 <br /><br />

    宇治上神社 拝殿
    小さな山寺を思わせる山門を潜ると正面が開け、意外に大きな拝殿が現れます。拝殿の前には「清めの砂」の円錐の盛り砂がしてあります。これは神が降りてくる時の依り代となるものだそうで、年一回、9月1日の八朔祭で氏子によって奉納されます。1215年頃の建立で、鎌倉時代の建築技術を知るための手がかりとして貴重であり、神社でありながら住宅建築を思わせる寝殿造りの建造物として国宝に指定されています。縋破風(すがるはふ)と呼ばれる手法を用いた独特の美しい屋根が特徴的です。その美しさから、宇治離宮「宇治院」の建物が下賜されたのではないかとも伝えられています。切妻造の桧皮葺きで、左右にひさしを出し、中央には板唐戸、左右に蔀戸(しみど)が配置され、神社と言うより離宮と呼ぶ方がふさわしい佇まいです。

  • 宇治上神社 桐原水<br />宇治七名水として唯一現在でも湧き続けているのがこの「桐原水」です。拝殿の右側に「手水舎」と書かれた小さな小屋に囲われています。他の宇治七名水が枯れ上がってしまったのに、湧き水は絶えることがありません。しかし、飲用には適さなくなっているようです。<br /><br />宇治七名水とは、①桐原水、②阿弥陀水(平等院鳳凰堂南崖)、③法華水(平等院塔頭・浄土院)、④公文水(橋姫神社)、⑤泉殿(JR宇治駅北)、⑥高浄水(泉殿付近)、⑦百夜月井・桃の井(宇治町四番保)です。<br />

    宇治上神社 桐原水
    宇治七名水として唯一現在でも湧き続けているのがこの「桐原水」です。拝殿の右側に「手水舎」と書かれた小さな小屋に囲われています。他の宇治七名水が枯れ上がってしまったのに、湧き水は絶えることがありません。しかし、飲用には適さなくなっているようです。

    宇治七名水とは、①桐原水、②阿弥陀水(平等院鳳凰堂南崖)、③法華水(平等院塔頭・浄土院)、④公文水(橋姫神社)、⑤泉殿(JR宇治駅北)、⑥高浄水(泉殿付近)、⑦百夜月井・桃の井(宇治町四番保)です。

  • 宇治上神社 春日神社<br />本殿の東側には摂社「春日神社」が鎮座しています。祭神は、武甕槌命と天児屋根命。平等院の鎮守社であり、藤原氏の守護神、祖神を祀っています。鎌倉時代に建立され、重要文化財に指定されています。本殿同様に桧皮葺の一間社流造りです。<br />

    宇治上神社 春日神社
    本殿の東側には摂社「春日神社」が鎮座しています。祭神は、武甕槌命と天児屋根命。平等院の鎮守社であり、藤原氏の守護神、祖神を祀っています。鎌倉時代に建立され、重要文化財に指定されています。本殿同様に桧皮葺の一間社流造りです。

  • 宇治上神社 本殿<br />拝殿の裏手に回ると幅の広い石段があり、その上には拝殿に比べて一回り小さい造りの本殿が佇みます。神社全体の規模を考えると本殿は大き目と言っても過言ではありませんが、この建屋は実際は覆屋で、その中には左殿、中殿、右殿と三つの社があり、1060年に建立され、日本最古の平安後期の神社です。簡素で華奢な造りの本殿が、千年の風雪に耐えたものとは信じがたく、神がかり的です。宇治上神社は、悲運の皇子・菟道稚郎子と父の応神天皇、兄の仁徳天皇を祀る神社。宇治上神社は1994年に世界文化遺産に登録されました。以前は、隣接の宇治神社と二社一体で離宮上社(宇治神社は下社)と呼ばれていたそうです。<br /><br />左右の扉の内側には重要文化財に指定されている絵が描かれており、リーフレットで見ることができます。人物像が描かれていますが、色彩が薄れて存在感がありません。この本殿も国宝に指定されており、側面から見た屋根の曲線が大胆で奇抜で、職人技の矜持が垣間見れる秀逸なものです。<br />

    宇治上神社 本殿
    拝殿の裏手に回ると幅の広い石段があり、その上には拝殿に比べて一回り小さい造りの本殿が佇みます。神社全体の規模を考えると本殿は大き目と言っても過言ではありませんが、この建屋は実際は覆屋で、その中には左殿、中殿、右殿と三つの社があり、1060年に建立され、日本最古の平安後期の神社です。簡素で華奢な造りの本殿が、千年の風雪に耐えたものとは信じがたく、神がかり的です。宇治上神社は、悲運の皇子・菟道稚郎子と父の応神天皇、兄の仁徳天皇を祀る神社。宇治上神社は1994年に世界文化遺産に登録されました。以前は、隣接の宇治神社と二社一体で離宮上社(宇治神社は下社)と呼ばれていたそうです。

    左右の扉の内側には重要文化財に指定されている絵が描かれており、リーフレットで見ることができます。人物像が描かれていますが、色彩が薄れて存在感がありません。この本殿も国宝に指定されており、側面から見た屋根の曲線が大胆で奇抜で、職人技の矜持が垣間見れる秀逸なものです。

  • 宇治上神社 拝殿(裏手より)<br />静寂な森のしじまに包まれ、耳を澄ませると遙か彼方より宇治川の流れが聞こえてきます。源氏物語の橋姫の巻にある風景は、まさしくこの情景を切り取ったものです。現在の平等院のあたりに夕霧の別荘を配置したと思われます。

    宇治上神社 拝殿(裏手より)
    静寂な森のしじまに包まれ、耳を澄ませると遙か彼方より宇治川の流れが聞こえてきます。源氏物語の橋姫の巻にある風景は、まさしくこの情景を切り取ったものです。現在の平等院のあたりに夕霧の別荘を配置したと思われます。

  • 宇治上神社 拝殿(裏手より)<br />源氏物語の宇治十帖は、紫式部の手によるものではないとの説もありますが、定説では、暫くの時を経て慧眼を授かった後の作品ではないかと言われています。確かに、前編に比べて仏教色が濃くなっているのは否めません。紫式部の後年は記録がないようですが、ひょっとしたら出家して宇治の山荘辺りで悠々自適の老後を送りながら、のんびりと宇治十帖を綴っていたのかもしれません。<br /><br />浮舟は、この世に恨みを遺した死霊に憑りつかれ、二人の男の板挟みになったことを思い悩んだあげく入水自殺を決意します。前編の六条御息所の嫉妬の生霊の続きで物語に無関係な死霊を脇役に抜擢しますが、少し違和感を覚えるのは当方だけではないように思います。最後は、浮舟の生存を風の便りに聞いた薫が、浮舟の弟に手紙を持たせて再会を企てますが、あっさり退けられてしまう件で筆が置かれています。身分の高くなかった桐壺が宮中で苦悩の挙句にこの世を去るところから始まった物語は、さらに身分の低い浮舟がこの世の愛憎や栄華を決然と捨て去るところでTHE END。<br />薫の性格上、これほどあっけなく終焉することはあり得ず、読者が抱くモヤモヤ感は想像に難くありません。紫式部の身に何があったのか?悟りを開き、こうしたまやかしを綴る情熱を喪失したのか、突然、病の床に臥せたのだろうか、それとも時代そのものが変わったのだろうか?<br />

    宇治上神社 拝殿(裏手より)
    源氏物語の宇治十帖は、紫式部の手によるものではないとの説もありますが、定説では、暫くの時を経て慧眼を授かった後の作品ではないかと言われています。確かに、前編に比べて仏教色が濃くなっているのは否めません。紫式部の後年は記録がないようですが、ひょっとしたら出家して宇治の山荘辺りで悠々自適の老後を送りながら、のんびりと宇治十帖を綴っていたのかもしれません。

    浮舟は、この世に恨みを遺した死霊に憑りつかれ、二人の男の板挟みになったことを思い悩んだあげく入水自殺を決意します。前編の六条御息所の嫉妬の生霊の続きで物語に無関係な死霊を脇役に抜擢しますが、少し違和感を覚えるのは当方だけではないように思います。最後は、浮舟の生存を風の便りに聞いた薫が、浮舟の弟に手紙を持たせて再会を企てますが、あっさり退けられてしまう件で筆が置かれています。身分の高くなかった桐壺が宮中で苦悩の挙句にこの世を去るところから始まった物語は、さらに身分の低い浮舟がこの世の愛憎や栄華を決然と捨て去るところでTHE END。
    薫の性格上、これほどあっけなく終焉することはあり得ず、読者が抱くモヤモヤ感は想像に難くありません。紫式部の身に何があったのか?悟りを開き、こうしたまやかしを綴る情熱を喪失したのか、突然、病の床に臥せたのだろうか、それとも時代そのものが変わったのだろうか?

  • 宇治上神社 拝殿脇のクチナシの花<br />梅雨時に甘い香りを漂わせ、一重咲きと八重咲きがあります。一重咲きがアメリカに渡り改良されて八重咲きになり、ガーデニアと呼ばれてウェディングブーケに良く使われています。しかし実が成るのは、一重咲きです。中国では気持ちを落ち着かせる薬効とされています。名前の由来は、果実が熟しても開かないので口無しと呼ばれるようになったそうです。<br /><br /><br />

    宇治上神社 拝殿脇のクチナシの花
    梅雨時に甘い香りを漂わせ、一重咲きと八重咲きがあります。一重咲きがアメリカに渡り改良されて八重咲きになり、ガーデニアと呼ばれてウェディングブーケに良く使われています。しかし実が成るのは、一重咲きです。中国では気持ちを落ち着かせる薬効とされています。名前の由来は、果実が熟しても開かないので口無しと呼ばれるようになったそうです。


  • 伏見 竜馬通り商店街<br />京阪電車 中書島駅から徒歩10分弱。<br />蓬莱橋からアーケード商店街まで伸びる狭い一本道が、幕末の志士 龍馬と縁の深い竜馬通商店街です。龍馬がかって闊歩した道筋であり、寺田屋襲撃の際に三吉慎蔵と共に屋根伝いに逃げたと言うエピソードから、元の「南納屋町商店街」から「竜馬通り」に改名されました。人物名が入った全国でも珍しい通りとして地元の人のみならず観光客からも親しまれています。龍馬館や幕末関係のグッズを集めた店がある位で龍馬の足跡を辿れる訳ではありませんが、この辺りは由緒ある酒蔵が軒を連ね、黄桜記念館や月桂冠大蔵記念館といった名酒館も見所です。下戸なので、酒蔵は興味の無い所だというのも歯痒いのですが…。<br />

    伏見 竜馬通り商店街
    京阪電車 中書島駅から徒歩10分弱。
    蓬莱橋からアーケード商店街まで伸びる狭い一本道が、幕末の志士 龍馬と縁の深い竜馬通商店街です。龍馬がかって闊歩した道筋であり、寺田屋襲撃の際に三吉慎蔵と共に屋根伝いに逃げたと言うエピソードから、元の「南納屋町商店街」から「竜馬通り」に改名されました。人物名が入った全国でも珍しい通りとして地元の人のみならず観光客からも親しまれています。龍馬館や幕末関係のグッズを集めた店がある位で龍馬の足跡を辿れる訳ではありませんが、この辺りは由緒ある酒蔵が軒を連ね、黄桜記念館や月桂冠大蔵記念館といった名酒館も見所です。下戸なので、酒蔵は興味の無い所だというのも歯痒いのですが…。

  • 伏見 蓬莱橋<br />蓬莱橋から眺める、川風になびく柳とアジサイの色彩コラボレーションが優美な濠川。龍馬も高知と京都の行き来に利用した水路だそうです。宇治川派流の濠川は昭和になって幅を狭められましたが、かつては今の倍ほどの川幅を持ち、元禄期に架橋された蓬莱橋は全長70mもあったそうです。 <br /><br />柳つながりで、柳の効用について興味深い記事がありました。<br />実は、アスピリンは、柳の抽出液に含まれる天然の消炎鎮痛成分「サリチル酸」が起源だそうです。古代ギリシャの医学の父、ヒポクラテスも処方した由緒ある薬ですが、現在では脳卒中の発症要因の血栓形成を抑える薬としても使用しているそうです。近年、がん予防効果も知られるようになりました。報告によると、5年未満「低用量」のアスピリンを継続服用した人は、全てのがんで発症率が20%、5年以上の場合は30%、それぞれ低下したそうです。一方、アスピリンには出血を助長する副作用があります。脳出血等の頭蓋内出血、消化管出血などの出現について<br />注意が必要。勿論、胃潰瘍持ちは使えません。米人は、日本人の10倍アスピリンを服用しているそうで、出血性消化管合併症で年間2万人が死亡しています。そういえば、知り合いの米人も風邪薬だと言ってアスピリンを服用していました。もう一つ注意が必要なのは、市販アスピリンは成分量が多過ぎて、出血リスクが大きいこと。つまり、日本で低用量アスピリンを服用するには、処方箋が必要になります。消化管の害さえ抑えられれば、まさに夢の薬です。製薬メーカーは、アスピリンと胃酸分泌を抑える合剤の開発を進めているらしいです。乞うご期待。<br /><br />

    伏見 蓬莱橋
    蓬莱橋から眺める、川風になびく柳とアジサイの色彩コラボレーションが優美な濠川。龍馬も高知と京都の行き来に利用した水路だそうです。宇治川派流の濠川は昭和になって幅を狭められましたが、かつては今の倍ほどの川幅を持ち、元禄期に架橋された蓬莱橋は全長70mもあったそうです。

    柳つながりで、柳の効用について興味深い記事がありました。
    実は、アスピリンは、柳の抽出液に含まれる天然の消炎鎮痛成分「サリチル酸」が起源だそうです。古代ギリシャの医学の父、ヒポクラテスも処方した由緒ある薬ですが、現在では脳卒中の発症要因の血栓形成を抑える薬としても使用しているそうです。近年、がん予防効果も知られるようになりました。報告によると、5年未満「低用量」のアスピリンを継続服用した人は、全てのがんで発症率が20%、5年以上の場合は30%、それぞれ低下したそうです。一方、アスピリンには出血を助長する副作用があります。脳出血等の頭蓋内出血、消化管出血などの出現について
    注意が必要。勿論、胃潰瘍持ちは使えません。米人は、日本人の10倍アスピリンを服用しているそうで、出血性消化管合併症で年間2万人が死亡しています。そういえば、知り合いの米人も風邪薬だと言ってアスピリンを服用していました。もう一つ注意が必要なのは、市販アスピリンは成分量が多過ぎて、出血リスクが大きいこと。つまり、日本で低用量アスピリンを服用するには、処方箋が必要になります。消化管の害さえ抑えられれば、まさに夢の薬です。製薬メーカーは、アスピリンと胃酸分泌を抑える合剤の開発を進めているらしいです。乞うご期待。

  • 伏見 寺田屋<br />寺田屋は、幕末を語る上で欠かせない存在です。京都伏見の濠川畔にある船宿で、幕末期には薩摩藩など多くの志士が定宿としたそうです。文久2年(1862)4月23日、ここで大事件が起きました。寺田屋に集結していた尊王派の薩摩藩士 有馬新七らが薩摩藩公 島津久光の派遣した刺客に襲撃されたのです。龍馬が寺田屋を定宿とするようになったのは、その3年後の慶応元年(1865)夏頃だそうです。当時の寺田屋は女将のお登勢が切り盛りしており、龍馬は逗留の度にお登勢と密談したそうです。<br /><br />

    伏見 寺田屋
    寺田屋は、幕末を語る上で欠かせない存在です。京都伏見の濠川畔にある船宿で、幕末期には薩摩藩など多くの志士が定宿としたそうです。文久2年(1862)4月23日、ここで大事件が起きました。寺田屋に集結していた尊王派の薩摩藩士 有馬新七らが薩摩藩公 島津久光の派遣した刺客に襲撃されたのです。龍馬が寺田屋を定宿とするようになったのは、その3年後の慶応元年(1865)夏頃だそうです。当時の寺田屋は女将のお登勢が切り盛りしており、龍馬は逗留の度にお登勢と密談したそうです。

  • 伏見 寺田屋<br />「寺田屋は鳥羽伏見の戦で焼失し、その後再建されたと考えられる」と2008年に京都市が公式見解を発表しました。史実を明らかにするのは重要なことですが、真実によって歴史のロマンが色褪せてしまうこともあります。現代版寺田屋騒動の結末に興ざめした人も少なくなかったのでは・・・。寺田屋では、龍馬の暗殺未遂事件もありました。入浴中のお龍が裸のまま急を知らせ、龍馬が難を逃れたのは有名な話。再建された寺田屋の柱には、龍馬が放ったとされる弾痕や刀傷が残されています。ここを訪れて維新時の動乱に思いを馳せた人も多いはずです。宿側は「全て焼失したのではなく、修繕して現在に至っている」とし、弾痕や刀傷は本物だと主張しているそうです。世に真偽を問うものは多々ありますが、龍馬や維新信者にとって事の真相解明は無意味なことだと思いますが・・・。<br /><br />寺田屋と記された軒提灯が吊るされており、現在でも宿泊できるそうです。

    伏見 寺田屋
    「寺田屋は鳥羽伏見の戦で焼失し、その後再建されたと考えられる」と2008年に京都市が公式見解を発表しました。史実を明らかにするのは重要なことですが、真実によって歴史のロマンが色褪せてしまうこともあります。現代版寺田屋騒動の結末に興ざめした人も少なくなかったのでは・・・。寺田屋では、龍馬の暗殺未遂事件もありました。入浴中のお龍が裸のまま急を知らせ、龍馬が難を逃れたのは有名な話。再建された寺田屋の柱には、龍馬が放ったとされる弾痕や刀傷が残されています。ここを訪れて維新時の動乱に思いを馳せた人も多いはずです。宿側は「全て焼失したのではなく、修繕して現在に至っている」とし、弾痕や刀傷は本物だと主張しているそうです。世に真偽を問うものは多々ありますが、龍馬や維新信者にとって事の真相解明は無意味なことだと思いますが・・・。

    寺田屋と記された軒提灯が吊るされており、現在でも宿泊できるそうです。

  • 伏見 寺田屋 石碑<br />伏見寺田屋殉難九烈士之碑。玄関の横に立てられています。室内見学は15時40分で打ち切られ、内部を見学することはかないませんでした。庭園はまだ閉められていなかったので、立ち寄ってみました。

    伏見 寺田屋 石碑
    伏見寺田屋殉難九烈士之碑。玄関の横に立てられています。室内見学は15時40分で打ち切られ、内部を見学することはかないませんでした。庭園はまだ閉められていなかったので、立ち寄ってみました。

  • 伏見 寺田屋 庭園 龍馬の銅像と薩摩九烈士碑<br />庭園の一番奥にある大きな石碑の右に、高知 桂浜に建つ龍馬像と同じ格好をした銅像が建っています。右端の大木は「誓いの楠」。寺田屋騒動で犠牲になった有馬新七の名があることから、新七にゆかりのある木なのだと思います。 石碑は1894年建立の「薩摩九烈士碑」。有栖川宮熾仁親王の筆になる篆額で題字は「薩藩九烈士遺蹟志」と篆書で刻まれています。寺田屋事件で 藩主 島津久光によって殺害された尊皇攘夷派薩摩藩士9名を追慕して建てられた記念碑です。久光は薩摩藩から暴挙を起こす人間は出せないと激怒し、新七らの計画を断念させて藩邸に戻るよう説得させるために、 藩士奈良原喜八郎ら8名を派遣したが説得に失敗、乱闘となり有馬新七ら7名が斬られ、2名は重傷を負って翌日切腹しました。殉難者は、寺田屋のお登勢が伏見鷹匠町の大黒寺に手厚く葬り、その後西郷隆盛は九烈士の墓碑を建立して墓標文を揮毫しています。この寺田屋騒動は薩摩藩士の同士討ちでしたが、勤王派と佐幕派が戦う維新への道の始まりを告げる事件でした。<br />九烈士とは、有馬新七、田中謙助、柴田愛次郎、橋口壮介、橋口傳蔵、弟子丸龍助、西田直五郎、森山新五左衛門、山本四郎を指します.<br /><br />「世の人は われを 何とも言はばいへ わがなすことは 我のみぞしる」<br />龍馬が自由奔放な性格の持ち主であったことが、自作の句からも伺われます。この句は10代の頃の作品のようですが、その頃から我が道を行くタイプ。 悪く言えばマイペース人間であるがゆえに、周囲からは低脳呼ばわりされていたそうです。すなわち、アウトローを地で行く凄みがあります。<br /><br /><br />

    伏見 寺田屋 庭園 龍馬の銅像と薩摩九烈士碑
    庭園の一番奥にある大きな石碑の右に、高知 桂浜に建つ龍馬像と同じ格好をした銅像が建っています。右端の大木は「誓いの楠」。寺田屋騒動で犠牲になった有馬新七の名があることから、新七にゆかりのある木なのだと思います。 石碑は1894年建立の「薩摩九烈士碑」。有栖川宮熾仁親王の筆になる篆額で題字は「薩藩九烈士遺蹟志」と篆書で刻まれています。寺田屋事件で 藩主 島津久光によって殺害された尊皇攘夷派薩摩藩士9名を追慕して建てられた記念碑です。久光は薩摩藩から暴挙を起こす人間は出せないと激怒し、新七らの計画を断念させて藩邸に戻るよう説得させるために、 藩士奈良原喜八郎ら8名を派遣したが説得に失敗、乱闘となり有馬新七ら7名が斬られ、2名は重傷を負って翌日切腹しました。殉難者は、寺田屋のお登勢が伏見鷹匠町の大黒寺に手厚く葬り、その後西郷隆盛は九烈士の墓碑を建立して墓標文を揮毫しています。この寺田屋騒動は薩摩藩士の同士討ちでしたが、勤王派と佐幕派が戦う維新への道の始まりを告げる事件でした。
    九烈士とは、有馬新七、田中謙助、柴田愛次郎、橋口壮介、橋口傳蔵、弟子丸龍助、西田直五郎、森山新五左衛門、山本四郎を指します.

    「世の人は われを 何とも言はばいへ わがなすことは 我のみぞしる」
    龍馬が自由奔放な性格の持ち主であったことが、自作の句からも伺われます。この句は10代の頃の作品のようですが、その頃から我が道を行くタイプ。 悪く言えばマイペース人間であるがゆえに、周囲からは低脳呼ばわりされていたそうです。すなわち、アウトローを地で行く凄みがあります。


  • 伏見 寺田屋 庭園 恩賜紀念之碑<br />6代目 伊助の女房で寺田屋の女将 お登勢と寺田屋の由来碑。お登勢は、機転が利き、優しく、母親のように藩士たちを助けたと記されています。また、寺田屋は、1661年に久世郡寺田村(現 城陽市寺田)出身の初代 伊助という人物が創業したこと、屋号は出身地からとったことが記されています。<br /><br />

    伏見 寺田屋 庭園 恩賜紀念之碑
    6代目 伊助の女房で寺田屋の女将 お登勢と寺田屋の由来碑。お登勢は、機転が利き、優しく、母親のように藩士たちを助けたと記されています。また、寺田屋は、1661年に久世郡寺田村(現 城陽市寺田)出身の初代 伊助という人物が創業したこと、屋号は出身地からとったことが記されています。

  • 伏見 寺田屋 庭園 龍馬君忠魂碑<br />庭の中ほどに、横にして置かれている石碑。「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」と記されています。<br /><br />この庭園は、往時の寺田屋が建てられていた所だそうです。<br /> 

    伏見 寺田屋 庭園 龍馬君忠魂碑
    庭の中ほどに、横にして置かれている石碑。「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」と記されています。

    この庭園は、往時の寺田屋が建てられていた所だそうです。
     

  • 伏見 寺田屋 庭園 お登勢明神 絵馬<br />龍馬とお龍さんを結んだ女将 お登勢が、百年祭を記念して寺田屋保存会によってお登勢明神に祀られました。若い男女の守り神とされているそうです。<br /><br />ミーハー的な絵馬を発見。多分、何かの番組の収録で来られたんでしょう。 <br />

    伏見 寺田屋 庭園 お登勢明神 絵馬
    龍馬とお龍さんを結んだ女将 お登勢が、百年祭を記念して寺田屋保存会によってお登勢明神に祀られました。若い男女の守り神とされているそうです。

    ミーハー的な絵馬を発見。多分、何かの番組の収録で来られたんでしょう。

  • 伏見 竜馬通商店街 魚料理店『辻政』 <br />店先に立派なアザミの花が植えられていました。アザミは、意外にもキク科の多年草。淡紅や淡紫色の花が咲いている景観はとても涼げで心が和む気がします。 でも葉には大きな棘が沢山あり、どこか人を寄せ付けない所があります。アザミの根は、きんぴら風にしていただくと美味しいと何かの本に書いてありました。収穫時期は秋が最適だそうです。<br /><br />

    伏見 竜馬通商店街 魚料理店『辻政』
    店先に立派なアザミの花が植えられていました。アザミは、意外にもキク科の多年草。淡紅や淡紫色の花が咲いている景観はとても涼げで心が和む気がします。 でも葉には大きな棘が沢山あり、どこか人を寄せ付けない所があります。アザミの根は、きんぴら風にしていただくと美味しいと何かの本に書いてありました。収穫時期は秋が最適だそうです。

  • 伏見 竜馬通商店街<br />商店街の生い立ちは、1594年豊臣秀吉が桃山の地に伏見城を築き、中書島に遊郭をつくった約420年前にさかのぼります。そこで働く遊女たちに着物や日常雑貨を売る店が自然発生的に生まれ、それぞれが情報を交換し合いながら仲間同士の結束を固め、やがて商店街の原型が出来上がったのだそうです。<br /><br />石畳舗装、ガス灯風街路灯、和風の統一看板、更に商店街の外壁を一軒ずつ町家風に修繕したなどの弛まぬ努力が報われて今日の賑わいがあるそうです。往時の風情が偲ばれ、少し昭和の匂いが残っている商店街にタイムスリップし、暫しのトランス状態を味わわれてはどうでしょうか。<br />

    伏見 竜馬通商店街
    商店街の生い立ちは、1594年豊臣秀吉が桃山の地に伏見城を築き、中書島に遊郭をつくった約420年前にさかのぼります。そこで働く遊女たちに着物や日常雑貨を売る店が自然発生的に生まれ、それぞれが情報を交換し合いながら仲間同士の結束を固め、やがて商店街の原型が出来上がったのだそうです。

    石畳舗装、ガス灯風街路灯、和風の統一看板、更に商店街の外壁を一軒ずつ町家風に修繕したなどの弛まぬ努力が報われて今日の賑わいがあるそうです。往時の風情が偲ばれ、少し昭和の匂いが残っている商店街にタイムスリップし、暫しのトランス状態を味わわれてはどうでしょうか。

  • 伏見 日本最古のアーケード街<br />伏見の町は豊臣秀吉の伏見城築城と共に栄え、江戸時代には水陸交通の要の宿場町、港町として発展し、幕末には、土佐藩や薩摩藩邸も建ち並び、歴史の表舞台となった町です。また、良質な湧き水で、酒処としても有名。昭和初期には京都市ではなく「伏見市」であったことを初めて知りました。また、このアーケード街は日本最古のものだそうで、創業100周年の旗が立ち並んでいました。閑静な佇まいながら、歴史の重みを実感させてくれます。<br />

    伏見 日本最古のアーケード街
    伏見の町は豊臣秀吉の伏見城築城と共に栄え、江戸時代には水陸交通の要の宿場町、港町として発展し、幕末には、土佐藩や薩摩藩邸も建ち並び、歴史の表舞台となった町です。また、良質な湧き水で、酒処としても有名。昭和初期には京都市ではなく「伏見市」であったことを初めて知りました。また、このアーケード街は日本最古のものだそうで、創業100周年の旗が立ち並んでいました。閑静な佇まいながら、歴史の重みを実感させてくれます。

  • 伏見 濠川河岸 「龍馬とお龍、愛の旅路」像<br />濠川の船着き場に二人の像が佇んでいました。

    伏見 濠川河岸 「龍馬とお龍、愛の旅路」像
    濠川の船着き場に二人の像が佇んでいました。

  • 伏見 濠川河岸<br />架かっている橋が京橋です。丁度、遊覧船の十石船が通り過ぎるところでした。<br /><br />中書島はかつて宇治川が流入していた巨椋池の入江の名残で、豊臣秀吉による伏見城築城の折、外堀(濠川)を開削した際に今の形になったそうです。その後明治になって琵琶湖から疏水が引かれ、濠川は墨染のインクラインで疏水とつながれて疏水の水を宇治川に流す運河となりました。ちなみにインクラインとは、ケーブルカーと同じ原理で船を線路上の台車に載せて移動させるもの。この運河は、近世から明治初期にかけて京都〜大坂を結ぶ淀川舟運で賑わったそうです。 <br /><br />伏見界隈は源氏物語と縁も所縁もないように思えますが、実は光源氏と係わりがあります。朧月夜との不義が弘徽殿女御の逆鱗に触れ、謀反の罪を着せられて官位を剥奪され、須磨へ退去する際、舟に乗ったのが伏見です。往時は、宇治川から淀川を下って須磨へ出るのが一般ルートだったそうです。<br />そよ風になびく柳の青葉と川面のせせらぎに、傷心して旅立つ源氏の心象風景を重ね合わせてみるのは如何でしょう。

    伏見 濠川河岸
    架かっている橋が京橋です。丁度、遊覧船の十石船が通り過ぎるところでした。

    中書島はかつて宇治川が流入していた巨椋池の入江の名残で、豊臣秀吉による伏見城築城の折、外堀(濠川)を開削した際に今の形になったそうです。その後明治になって琵琶湖から疏水が引かれ、濠川は墨染のインクラインで疏水とつながれて疏水の水を宇治川に流す運河となりました。ちなみにインクラインとは、ケーブルカーと同じ原理で船を線路上の台車に載せて移動させるもの。この運河は、近世から明治初期にかけて京都〜大坂を結ぶ淀川舟運で賑わったそうです。

    伏見界隈は源氏物語と縁も所縁もないように思えますが、実は光源氏と係わりがあります。朧月夜との不義が弘徽殿女御の逆鱗に触れ、謀反の罪を着せられて官位を剥奪され、須磨へ退去する際、舟に乗ったのが伏見です。往時は、宇治川から淀川を下って須磨へ出るのが一般ルートだったそうです。
    そよ風になびく柳の青葉と川面のせせらぎに、傷心して旅立つ源氏の心象風景を重ね合わせてみるのは如何でしょう。

  • おまけ<br />京阪 宇治・伏見1DAYチケットと三室戸寺でお頒ちいただいたお守りです。1DAYチケットは、ショップでの割引や三室戸寺拝観料の割引(100円引)や京阪電車の途中下車などの特典があり、とても重宝しました。梅雨の中休みを利用しての弾丸旅行でしたが、無事デジイチ・デビューを果たせました。ピントが甘いショットがあるのが残念ですが…。使いこなすための技量を高めて行きたいと思います。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。<br /><br />

    おまけ
    京阪 宇治・伏見1DAYチケットと三室戸寺でお頒ちいただいたお守りです。1DAYチケットは、ショップでの割引や三室戸寺拝観料の割引(100円引)や京阪電車の途中下車などの特典があり、とても重宝しました。梅雨の中休みを利用しての弾丸旅行でしたが、無事デジイチ・デビューを果たせました。ピントが甘いショットがあるのが残念ですが…。使いこなすための技量を高めて行きたいと思います。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

この旅行記のタグ

関連タグ

704いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP