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2011年3月のプラハ旅行 第2日(その1b)プラハ国立技術博物館 自動車編2<br /><br />2-1 プラハ国立技術博物館 総集編<br />http://4travel.jp/traveler/amsterdam/album/10674102/<br /><br /> a. 自動車編1<br />http://4travel.jp/traveler/amsterdam/album/10674119/<br /><br /> b. 自動車編2 <br />http://4travel.jp/traveler/amsterdam/album/10674120/<br /><br /><br />2-2 軍事史博物館<br />

プラハ1泊2日 (2-1b):プラハ国立技術博物館 自動車編2

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2011/03/06 - 2011/03/06

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夜間飛行

夜間飛行さん

2011年3月のプラハ旅行 第2日(その1b)プラハ国立技術博物館 自動車編2

2-1 プラハ国立技術博物館 総集編
http://4travel.jp/traveler/amsterdam/album/10674102/

a. 自動車編1
http://4travel.jp/traveler/amsterdam/album/10674119/

b. 自動車編2
http://4travel.jp/traveler/amsterdam/album/10674120/


2-2 軍事史博物館

同行者
乳幼児連れ家族旅行
交通手段
鉄道 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • Tatra 11 (1925)<br />コブシヴニツェ(Koprivnice)の自動車工場は、1919年からタトラ(Tatra)のマークをつけた自動車を生産した。年に数十台の車を出荷する程度だったが、1923年にコブシヴニツェの新しい工場でTatra11を生産したのが自動車メーカーとしての転機となった。Tatra11には、空冷エンジン、鋼管製バックボーンフレーム、後輪スイングアスクルなどの技術が用いられ、そのデザインは後に続く自動車設計の模範となり、タトラを最先端の自動車メーカーの地位に押し上げた。<br /><br />#1103-08898(#8894)

    Tatra 11 (1925)
    コブシヴニツェ(Koprivnice)の自動車工場は、1919年からタトラ(Tatra)のマークをつけた自動車を生産した。年に数十台の車を出荷する程度だったが、1923年にコブシヴニツェの新しい工場でTatra11を生産したのが自動車メーカーとしての転機となった。Tatra11には、空冷エンジン、鋼管製バックボーンフレーム、後輪スイングアスクルなどの技術が用いられ、そのデザインは後に続く自動車設計の模範となり、タトラを最先端の自動車メーカーの地位に押し上げた。

    #1103-08898(#8894)

  • Walter Standard 6 (1931)<br />第一次世界大戦後の危機を乗り越えた1920〜1930年代はチェコ自動車工業の全盛期であった。人々の生活水準は向上し、自動車は単に移動の手段として使われるだけではなく、モダンタイムスや個人的な成功のシンボルとなった。この時代、Walter factoryは、1913年から1937年にかけて自動車を生産した。特にこの会社が生産した2.8L〜3.2L 6気筒の乗用車は、この時代の最高の国産車だった。<br /><br />#1103-08899(#8900)

    Walter Standard 6 (1931)
    第一次世界大戦後の危機を乗り越えた1920〜1930年代はチェコ自動車工業の全盛期であった。人々の生活水準は向上し、自動車は単に移動の手段として使われるだけではなく、モダンタイムスや個人的な成功のシンボルとなった。この時代、Walter factoryは、1913年から1937年にかけて自動車を生産した。特にこの会社が生産した2.8L〜3.2L 6気筒の乗用車は、この時代の最高の国産車だった。

    #1103-08899(#8900)

  • Z-4 (1936)<br />戦間期、チェコには約100の自動車メーカーが存在したが、1000台以上の自動車を生産したのは、たったの8社だった。すなわち、NW-Tatra、Laurin&amp;Klement-Skoda、Praga、Aero、Jawa、Walter、Wilkov、そしてZ.Cars。Z (Zbrojovka)はチェコの小火器メーカーで、1926年に最初の自動車を市場に出した。Z-4は、1933年に生産が開始された、チェコで最初の前輪駆動車だった。エンジンは、水冷2ストローク2気筒、981cc、25 bhp、前輪車軸後方縦置き。<br /><br />#1103-08903(#8904)

    Z-4 (1936)
    戦間期、チェコには約100の自動車メーカーが存在したが、1000台以上の自動車を生産したのは、たったの8社だった。すなわち、NW-Tatra、Laurin&Klement-Skoda、Praga、Aero、Jawa、Walter、Wilkov、そしてZ.Cars。Z (Zbrojovka)はチェコの小火器メーカーで、1926年に最初の自動車を市場に出した。Z-4は、1933年に生産が開始された、チェコで最初の前輪駆動車だった。エンジンは、水冷2ストローク2気筒、981cc、25 bhp、前輪車軸後方縦置き。

    #1103-08903(#8904)

  • Jawa 750 (1935)<br />1929年、武器メーカー Zbrojovka のエンジニア Frantisek Janecek が Jawa motorcycles を設立した。Janecekは1934年にドイツDKW社のライセンスで乗用車の生産を開始、のちにオリジナルの設計で生産した。1935年に開催されたチェコスロバキア1000マイルレースに、Jawa は6台の自動車で参加し、750ccクラスで優勝、また最優秀チームとして共和国大統領賞に輝いた。<br /><br />#1103-08906

    Jawa 750 (1935)
    1929年、武器メーカー Zbrojovka のエンジニア Frantisek Janecek が Jawa motorcycles を設立した。Janecekは1934年にドイツDKW社のライセンスで乗用車の生産を開始、のちにオリジナルの設計で生産した。1935年に開催されたチェコスロバキア1000マイルレースに、Jawa は6台の自動車で参加し、750ccクラスで優勝、また最優秀チームとして共和国大統領賞に輝いた。

    #1103-08906

  • Tatra 80 (1935)<br />6気筒水冷エンジンを積んでいた一部の高級車を除けば、Tatraの乗用車は空冷エンジンが一般的だった。そのなかで、Tatra 80は、12気筒水冷エンジンの超高級車としてTatraのラインナップに加わった。製造された26台のTatra 80は、いずれも顧客の好みに合わせたカスタムデザインのボディが架装された。展示のTatra 80は、1935年、初代チェコスロバキア大統領トマーシュ・マサリクの公用車として使われた。<br /><br />#1103-08913(#8912)

    Tatra 80 (1935)
    6気筒水冷エンジンを積んでいた一部の高級車を除けば、Tatraの乗用車は空冷エンジンが一般的だった。そのなかで、Tatra 80は、12気筒水冷エンジンの超高級車としてTatraのラインナップに加わった。製造された26台のTatra 80は、いずれも顧客の好みに合わせたカスタムデザインのボディが架装された。展示のTatra 80は、1935年、初代チェコスロバキア大統領トマーシュ・マサリクの公用車として使われた。

    #1103-08913(#8912)

  • Tatra 77a (1937)<br />1934年に、Tatra は空気力学に基づいた流線型デザイン車、Tatra 77 の販売を開始した。Tatra 77は、V型8気筒3L空冷エンジンを搭載していたが、1937年には、排気量を3.4Lに上げた Tatra 77aをリリースした。エンジンは後車軸後方縦置き、後輪駆動。排気量3380cc、出力70bhp、最高速度150km/h。<br /><br />#1103-08919

    Tatra 77a (1937)
    1934年に、Tatra は空気力学に基づいた流線型デザイン車、Tatra 77 の販売を開始した。Tatra 77は、V型8気筒3L空冷エンジンを搭載していたが、1937年には、排気量を3.4Lに上げた Tatra 77aをリリースした。エンジンは後車軸後方縦置き、後輪駆動。排気量3380cc、出力70bhp、最高速度150km/h。

    #1103-08919

  • Tatra 77a を上から。全体の流線型シルエットがよくわかる。ボディ後部には垂直尾翼と、ラジエータの空気取り入れ口が見える。<br /><br />#1103-09079

    Tatra 77a を上から。全体の流線型シルエットがよくわかる。ボディ後部には垂直尾翼と、ラジエータの空気取り入れ口が見える。

    #1103-09079

  • SS Jaguar 3.5 Litre (1938)<br /><br />スタイルと機能性に優れた外国製の自動車もチェコ国内市場で販売されたが、高価格であったため、数はあまり多くなかった。1920年代から1930年代前半は、Bugattiが、1930年代後半からは、MGやSS Jaguarを所有することがステイタスであった。<br />#1103-08924(#8925)

    SS Jaguar 3.5 Litre (1938)

    スタイルと機能性に優れた外国製の自動車もチェコ国内市場で販売されたが、高価格であったため、数はあまり多くなかった。1920年代から1930年代前半は、Bugattiが、1930年代後半からは、MGやSS Jaguarを所有することがステイタスであった。
    #1103-08924(#8925)

  • これがステイタスシンボル。SS Jaguar 3.5L(1938)に取り付けられたマスコット「リーピング・ジャガー」。<br /><br />#1103-08928

    これがステイタスシンボル。SS Jaguar 3.5L(1938)に取り付けられたマスコット「リーピング・ジャガー」。

    #1103-08928

  • 右側手前から、Jawa 750、Z-4、Walter Standard 6、Tatra 11。<br />左側手前から、Tatra 80、Tatra 77a、SS Jaguar 3.5 Litre、Jawa Minor<br /><br />#1103-09114

    右側手前から、Jawa 750、Z-4、Walter Standard 6、Tatra 11。
    左側手前から、Tatra 80、Tatra 77a、SS Jaguar 3.5 Litre、Jawa Minor

    #1103-09114

  • Jawa Minor (1939)<br />戦間期のチェコの自動車生産は実に多様であり、主要メーカー8社が300種を越えるモデルをこの期間に市場に出していた。その中でも最も小さく安価なモデルがこの、Jawa Minor だった。これは良くつくられた車だったが、登場したのがミュンヘン協定の直前。タイミングが悪かった。時代はドイツによるチェコスロバキアの占領、そして第二次世界大戦へとつながっていく。<br /><br />#1103-08930(#8931)

    Jawa Minor (1939)
    戦間期のチェコの自動車生産は実に多様であり、主要メーカー8社が300種を越えるモデルをこの期間に市場に出していた。その中でも最も小さく安価なモデルがこの、Jawa Minor だった。これは良くつくられた車だったが、登場したのがミュンヘン協定の直前。タイミングが悪かった。時代はドイツによるチェコスロバキアの占領、そして第二次世界大戦へとつながっていく。

    #1103-08930(#8931)

  • Jawa Minor<br /><br />#1103-08892

    Jawa Minor

    #1103-08892

  • Z-5 Express (1936)<br />ブルノの武器メーカー Zbrojovka は、2ストローク2気筒エンジンの乗用車をつくっていたが、ラインナップ拡充のため、2ストローク4気筒エンジン搭載したのが、Z-5 Express。展示されている車の最初のオーナーは将軍アロイス・エリアーシ(Alois Elias)。1939年にナチス占領下のチェコスロバキアの首相となったが、同時にナチスに対するレジスタンス活動のリーダーでもあった。1942年に、ナチスは将軍エリアーシを処刑した。<br /><br />#1103-08934(#08935)

    Z-5 Express (1936)
    ブルノの武器メーカー Zbrojovka は、2ストローク2気筒エンジンの乗用車をつくっていたが、ラインナップ拡充のため、2ストローク4気筒エンジン搭載したのが、Z-5 Express。展示されている車の最初のオーナーは将軍アロイス・エリアーシ(Alois Elias)。1939年にナチス占領下のチェコスロバキアの首相となったが、同時にナチスに対するレジスタンス活動のリーダーでもあった。1942年に、ナチスは将軍エリアーシを処刑した。

    #1103-08934(#08935)

  • Praga Lady roadster (1938)<br />1930年代の終わりには、上流階級の顧客は市販車で満足できなくなり、一点もののデザインの車をリクエストでつくらせた。Praga Ladyは2台だけがつくられ、そのディテールはそれぞれ異なるものだった。この車は1938年のプラハモーターショーへの出展が予定されていたが、それが開催されることはなかった。<br /><br />#1103-08997(#8992)

    Praga Lady roadster (1938)
    1930年代の終わりには、上流階級の顧客は市販車で満足できなくなり、一点もののデザインの車をリクエストでつくらせた。Praga Ladyは2台だけがつくられ、そのディテールはそれぞれ異なるものだった。この車は1938年のプラハモーターショーへの出展が予定されていたが、それが開催されることはなかった。

    #1103-08997(#8992)

  • Praga Lady のエンブレム<br /><br />#1103-08994

    Praga Lady のエンブレム

    #1103-08994

  • Mercedes Benz 540K (1939/1942)<br />ドイツによるチェコ占領は、左側通行から右側通行への変更をもたらしたが、それは、その後50年間にわたる2つの独裁主義政権に比べれば些細なものであった。その最初はナチスによる占領であり、当時最高権力者だったのは、ヒトラー内閣のヘミア・モラヴィア保護領担当相、親衛隊大将カール・ヘルマン・フランクだった。彼の車は、過給器付き8気筒の540K。1939年に製造されたときはカブリオレだったが、ラインハルト・ハイドリヒが1942年にプラハで暗殺された後、防弾仕様のサルーンに改造された。フランクは1946年に戦争犯罪のため処刑され、彼の車が博物館に展示されている。<br /><br />#1103-08950(#8951)

    Mercedes Benz 540K (1939/1942)
    ドイツによるチェコ占領は、左側通行から右側通行への変更をもたらしたが、それは、その後50年間にわたる2つの独裁主義政権に比べれば些細なものであった。その最初はナチスによる占領であり、当時最高権力者だったのは、ヒトラー内閣のヘミア・モラヴィア保護領担当相、親衛隊大将カール・ヘルマン・フランクだった。彼の車は、過給器付き8気筒の540K。1939年に製造されたときはカブリオレだったが、ラインハルト・ハイドリヒが1942年にプラハで暗殺された後、防弾仕様のサルーンに改造された。フランクは1946年に戦争犯罪のため処刑され、彼の車が博物館に展示されている。

    #1103-08950(#8951)

  • Tatra 87 (1947)<br />1945年になってもチェコスロバキアに自由経済は戻ってこなかった。国家の統制による計画経済により、戦後まもなく自動車の生産は3車種に制限された。すなわち、Aeroが2気筒の小型車Minorを、Mlada Boleslavは、Scodaの戦前モデルをベースにしたより小型の車を、そしてTatraのKoprivniceでは、8気筒の空力モデルを生産することになった。展示のTatra 87は、旅行家Jiri HanzelkaとMiroslav Zikmund が1947年から1950年にアフリカを旅したときに使われたもので、1959年にHanzelkaが博物館に寄付した。<br /><br />#1103-08959(#8960)

    Tatra 87 (1947)
    1945年になってもチェコスロバキアに自由経済は戻ってこなかった。国家の統制による計画経済により、戦後まもなく自動車の生産は3車種に制限された。すなわち、Aeroが2気筒の小型車Minorを、Mlada Boleslavは、Scodaの戦前モデルをベースにしたより小型の車を、そしてTatraのKoprivniceでは、8気筒の空力モデルを生産することになった。展示のTatra 87は、旅行家Jiri HanzelkaとMiroslav Zikmund が1947年から1950年にアフリカを旅したときに使われたもので、1959年にHanzelkaが博物館に寄付した。

    #1103-08959(#8960)

  • Mercedes Benz 770 (1939/1952)<br />チェコの歴史を物語る一車。戦前のダイムラーベンツのラインナップで最も高価で豪華なモデル、過給器付き水冷4ストローク8気筒OHVエンジンの Mercedes Benz 770。このカブリオレは、当初ドイツ軍のノルウェー占領軍司令官用であったが、戦後のチェコスロバキアで重要な式典の際に使われるようになった。1948年に共産主義者が国の実権を握ると、イデオロギー的な理由から完全に新しいボディに改造された。当初の帝国主義的な外観は失われ、新しい独裁主義に見合う外観をまとっている。<br /><br />#1103-08955(#8957)

    Mercedes Benz 770 (1939/1952)
    チェコの歴史を物語る一車。戦前のダイムラーベンツのラインナップで最も高価で豪華なモデル、過給器付き水冷4ストローク8気筒OHVエンジンの Mercedes Benz 770。このカブリオレは、当初ドイツ軍のノルウェー占領軍司令官用であったが、戦後のチェコスロバキアで重要な式典の際に使われるようになった。1948年に共産主義者が国の実権を握ると、イデオロギー的な理由から完全に新しいボディに改造された。当初の帝国主義的な外観は失われ、新しい独裁主義に見合う外観をまとっている。

    #1103-08955(#8957)

  • ZIS 110 B (1952)<br />ソヴィエト製の重厚なリムジン。コーナーポール(旗ポール)付き。<br /><br />#1103-08962

    ZIS 110 B (1952)
    ソヴィエト製の重厚なリムジン。コーナーポール(旗ポール)付き。

    #1103-08962

  • Skoda Felicia Super (1964)<br /><br />#1103-08984

    Skoda Felicia Super (1964)

    #1103-08984

  • Skoda 130 RS (1978)<br />1964年から、スコダのムラダーボレスラフ工場ではリアエンジンの新しい小型車を生産しはじめた。この小型車は、1980年代の終わりまでには50万台がつくられ、外国からの輸入が極めて少なかったこともあってチェコスロバキアのモータリゼーションにおいて中心的な役割を果たした。4ドアセダンの他、台数は多くないが2ドアのスポーツタイプもあり、1970年代中ごろにおけるチェコスロバキアで最も成功したスポーツカーとなった。130 RSは、110 Rクーペをもとに開発され、欧州のレースで活躍した。<br /><br />#1103-08967(#8966)

    Skoda 130 RS (1978)
    1964年から、スコダのムラダーボレスラフ工場ではリアエンジンの新しい小型車を生産しはじめた。この小型車は、1980年代の終わりまでには50万台がつくられ、外国からの輸入が極めて少なかったこともあってチェコスロバキアのモータリゼーションにおいて中心的な役割を果たした。4ドアセダンの他、台数は多くないが2ドアのスポーツタイプもあり、1970年代中ごろにおけるチェコスロバキアで最も成功したスポーツカーとなった。130 RSは、110 Rクーペをもとに開発され、欧州のレースで活躍した。

    #1103-08967(#8966)

  • Renault 21 TSE (1989)<br />1989年の遅くに、共産党の一党独裁は平和的な市民革命で終わった。当時、反体制派の作家ヴァーツラフ ハベルが市民的権力を代表する存在となったとき、ポルトガル大統領マリオ・ソアレスは、支援の表明を具体的な形で示そうと、一台の車をプレゼントとして送ることにした。ソアレスは急いで準備したが、チェコスロバキアの政変の方が速く、1989年12月29日にこのルノー21 TSEがプラハに到着したとき、ちょうど数時間前にハベルは大統領に選出されていた。新大統領は、公用車として共産主義の前任者が残した黒塗り・8気筒車のZILやTatraを使うことを拒否し、ソアレスから贈られた普通のファミリーカーを使うことにした。<br /><br />#1103-08971(#8970)

    Renault 21 TSE (1989)
    1989年の遅くに、共産党の一党独裁は平和的な市民革命で終わった。当時、反体制派の作家ヴァーツラフ ハベルが市民的権力を代表する存在となったとき、ポルトガル大統領マリオ・ソアレスは、支援の表明を具体的な形で示そうと、一台の車をプレゼントとして送ることにした。ソアレスは急いで準備したが、チェコスロバキアの政変の方が速く、1989年12月29日にこのルノー21 TSEがプラハに到着したとき、ちょうど数時間前にハベルは大統領に選出されていた。新大統領は、公用車として共産主義の前任者が残した黒塗り・8気筒車のZILやTatraを使うことを拒否し、ソアレスから贈られた普通のファミリーカーを使うことにした。

    #1103-08971(#8970)

  • NW 12 HP &quot;Rennzweier&quot; (1900)<br />当時チェコが含まれていたオーストリア=ハンガリー帝国内で、初めて作られた自動車レース専用車。1900年6月1日から2日に開催されたザルツブルク〜リンツ〜ウィーンのレースに参加し、Theodor von Liebieg男爵はレーシングカー部門で2位を獲得した。水冷4ストローク水平対向2気筒エンジン、4248cc、18 bhp。最大速度80kh/h。<br /><br /><br />#1103-09047 (#9046)

    NW 12 HP "Rennzweier" (1900)
    当時チェコが含まれていたオーストリア=ハンガリー帝国内で、初めて作られた自動車レース専用車。1900年6月1日から2日に開催されたザルツブルク〜リンツ〜ウィーンのレースに参加し、Theodor von Liebieg男爵はレーシングカー部門で2位を獲得した。水冷4ストローク水平対向2気筒エンジン、4248cc、18 bhp。最大速度80kh/h。


    #1103-09047 (#9046)

  • Wilkov 7/28 Sport (1929/1931)<br />戦間期のチェコスロバキアで最大の農機具メーカーだったWichterle and Kovarik (Wilkov) は、1927年から1940年まで、高級乗用車とLight utility vehicle も生産していた。Wilkovは、7/28タイプ乗用車をベースにしたレーシングカーで1.5 Litreクラスに参入した。ワークスドライバーのAdolf Sczyzyckiは、1932年にマサリク・サーキットで開催されたグランプリレースの1500ccクラスで、この7/28 Sportに搭乗して6位に入賞した。ハンガリー自動車史で最初にグランプリ入賞をはたした自動車。<br /><br />#1103-09054 (#9052)

    Wilkov 7/28 Sport (1929/1931)
    戦間期のチェコスロバキアで最大の農機具メーカーだったWichterle and Kovarik (Wilkov) は、1927年から1940年まで、高級乗用車とLight utility vehicle も生産していた。Wilkovは、7/28タイプ乗用車をベースにしたレーシングカーで1.5 Litreクラスに参入した。ワークスドライバーのAdolf Sczyzyckiは、1932年にマサリク・サーキットで開催されたグランプリレースの1500ccクラスで、この7/28 Sportに搭乗して6位に入賞した。ハンガリー自動車史で最初にグランプリ入賞をはたした自動車。

    #1103-09054 (#9052)

  • Bugatti 51 (1931)<br />ブガッティは、1920年代から1930年代にかけての戦間期に開催されたほとんどのレースで優勝して、モータースポーツ史に名を残した。チェコスロバキアののJiri Kristian Lobkovicは、このBugatti 51で1931年のマサリク・サーキットグランプリでチェコスロバキアのドライバーとしてこれまでの最高位の成績となる4位に入賞した。1932年にLobkovicが悲劇的な死を迎えたあと、この車は彼の友人Zdenek Pohlに引き継がれ、Pohlは30年代を代表するチェコスロバキアのレーシングカードライバーの地位を確立した。<br /><br />#1103-09057

    Bugatti 51 (1931)
    ブガッティは、1920年代から1930年代にかけての戦間期に開催されたほとんどのレースで優勝して、モータースポーツ史に名を残した。チェコスロバキアののJiri Kristian Lobkovicは、このBugatti 51で1931年のマサリク・サーキットグランプリでチェコスロバキアのドライバーとしてこれまでの最高位の成績となる4位に入賞した。1932年にLobkovicが悲劇的な死を迎えたあと、この車は彼の友人Zdenek Pohlに引き継がれ、Pohlは30年代を代表するチェコスロバキアのレーシングカードライバーの地位を確立した。

    #1103-09057

  • Mercedes Benz W154 (1938/1939)<br />1930年代の後半には、ヨーロッパのグランプリレーシングサーキットはメルセデスベンツとアウトウニオンに席巻され、他を寄せ付けるものがなかった。そのなかでも、この時代の最高峰のデザインは1938年から1939年に現れたW154だった。メルセデスベンツのワークスドライバーとして最も成功し、1935年、1937年、1938年の3回、チャンピオンシップを獲得した Rudolf Caracciola は、このW154に搭乗し、1938年と1939年のシーズンに4回の2位を獲得した。そして第二次世界大戦前にニュルンベルクで行われた最後のグランプリでは、優勝を果たした。<br /><br />#1103-09061(#9060)

    Mercedes Benz W154 (1938/1939)
    1930年代の後半には、ヨーロッパのグランプリレーシングサーキットはメルセデスベンツとアウトウニオンに席巻され、他を寄せ付けるものがなかった。そのなかでも、この時代の最高峰のデザインは1938年から1939年に現れたW154だった。メルセデスベンツのワークスドライバーとして最も成功し、1935年、1937年、1938年の3回、チャンピオンシップを獲得した Rudolf Caracciola は、このW154に搭乗し、1938年と1939年のシーズンに4回の2位を獲得した。そして第二次世界大戦前にニュルンベルクで行われた最後のグランプリでは、優勝を果たした。

    #1103-09061(#9060)

  • Mercedes Benz W154  横から<br /><br />#1103-09074

    Mercedes Benz W154 横から

    #1103-09074

  • Mercedes Benz W154 上から<br /><br />#1103-09266

    Mercedes Benz W154 上から

    #1103-09266

  • 手前から、Mercedes Benz W154、Bugatti 51、Wilkov 7/28 Sport、NW 12 HP &quot;Rennzweier&quot; <br /><br />#1103-09131

    手前から、Mercedes Benz W154、Bugatti 51、Wilkov 7/28 Sport、NW 12 HP "Rennzweier"

    #1103-09131

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