アジャンター旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 激動のインド仏教を目のあたりに見て(はじめに)關 口 道 潤<br /> 平成22年10月14日から21日までの8日間、西インドのユネスコ世界遺産とナグプールの龍樹菩薩大寺落慶の旅に出た。この旅の始まりは私が平成19年6月から7月にかけてインド・マハラシュトラ州ナグプールを訪問した事が縁となり、今年の正月にナグプール在住の日本出身の仏教僧アーリヤ・ナーガルジュナ・シューレイ・ササイ長老(日本名・佐々井秀嶺)から「龍樹菩薩大寺落慶式」への参加要請があったためだ。私は昨年春、ネパールに行ったばかりだし、自坊惠林寺の客殿工事もあって躊躇していたが、佐々井長老からの熱心な要請があったのと、改宗広場におけるヒンドゥー教から仏教への改宗式の様子を直接この目で見たかったからでもある。<br /> 今やナグプールはインド仏教徒の根本道場となり、インド総人口12億人の四分の一をうかがう3億人仏教徒の心の故郷であり、54年前この地で集団改宗を挙行したビーム・ラーオ・ラムジー・アンベードカルは既にこの地では「アンベードカル菩薩」と尊崇され、挨拶が「ナマステ」から「ジャイビーム」に変わっている。それはその菩薩に幸あれとの意味だ。<br />  中部国際空港からキャセイ・パシフィックの香港乗継便を利用し、実質的には八日間。10月17日が改宗記念日であり、ナグプールは異様な熱気に満ち溢れていた。夜行寝台でナグプール駅に到着すると、その熱気をひしひしと感じた。改宗広場、周辺道路、今回落慶式が行われた龍樹菩薩大寺があるナグプール郊外のラムテックへの途上、現地、帰路いずれでも大きな仏旗が何本も何本も翻り、道行く人たちが異口同音に「ジャイビーム、ジャイビーム」と挨拶する。中には異国の僧侶と見た信徒たちは足礼の真心を捧げる。ここはもう貧しいだけの国や都市ではない。経済力も相応に整い、教養や礼儀、都市環境も一変しつつある。前回訪問時のナグプール人口は170万人、現在では240万人、仏教僧も、仏寺も確実に増加した。今回は改宗広場(ディークシャ・ブーミ)で国際仏教徒大会が開かれ、改宗式を含め三日間の「アショーカ王法勝利の日―黄金祭」には150万人の人出だったと聞く。もちろん人数が多ければ、そのまま価値があるとは言えないが、いまインドは確実にしかも激流のように急速に変化している。その変化に気付かない日本人がいたなら、そちらの方が大問題だ。帰国後すぐに瞼に浮かぶのはあの「ジャイビーム、ジャイビーム」という市民の熱狂と至る所に翻る仏旗の色だった。<br />  今回訪問した西インドのユネスコ世界遺産は、訪問以前には夢にも見る事の出来ぬ広大、精巧なものであったことに驚愕し、別天地を垣間見た心地だった。そして今回これらの石窟彫刻が古代建築史上の快挙にとどまらず、中国、韓国、日本の建築にも大きな影響を及ぼしていたことも理解され、私自身がそうした建築の常識として「ファザード」―語源上では建築物の正面あるいは外観をいう。「エンタブラチャ」ー円柱の上部にある水平な帯状の部分のこと。「ポーチコ」―玄関というよりも廊下を差す。「メダリオン」―大きな徽章やメダルの付いた飾り。「マカロ・アーチ」―インドラ神とマカラ(魔竭魚)が2匹のナーガを吐き出す。中国の伝説では仙人がヘビのようにとぐろを巻いた虹に変身する。昇龍虹梁―などと言う基礎的な建築用語や知識を持たずに訪問したため、よいガイドが細かく説明しても、容易に理解できなかった。<br />  その建設や開鑿が西紀元前300年も以前のアショーカ王時代から始まって、千年ほどの期間を経過してあるいは彫刻され、もしくは建造されたものであり、それらの根本にはアショーカ王の法―ダルマで世界を統治することが最も素晴らしい政治であると学んだ事が、実に大きかった。一時途絶えていた仏陀の教えと自覚の法がいまインドで復興している。<br />    <br />     ユネスコ世界遺産エローラ石窟アジャンタ石窟の観光ー10月15日<br /> 8時40分、私たちはアウランガバード空港を後にしてエローラ遺跡に向かった。専用車はまだ真新しい日本トヨタ製イノーバ7人乗りエアコン付。ドライバーはアショーク氏。デカン高原の都市を快適に出発し、ほどなく郊外に出た。道路は比較的良好に整備されている。しばらくすると前方に小高い要塞が見えてきた。ダウラターバードの砦だ。デカンの岩山をそっくり砦にしたもので、その大きさと美しさは数あるインドの砦の中でも最高の部類に属するといわれている。近づいてくると私はもう我慢ができなくなり、ガイドのシバレ氏に「写真を撮りたいので車を止めてほしい」と話したら、「もう少し走って砦の裏側が小高い丘になっているので、そこからの眺望が美しい」との返事があった。<br />私たちが休息してダウラターバードの砦を眺めたのは午前9時15分頃だった。この砦は1187年にヤーダヴァ朝の首都として築かれ、後に数代のイスラム王朝によって占領が繰り返されたが、ハルジー朝の時代には首都がデリーからこの地に移された異もあったと伝えられている。ここで十分ほど眺望を楽しんだのちに再び高原のドライブとなった。道路は10メートルほどの舗装道路でセンターラインも引かれ、凹凸はなく快適なドライブだ。三輪のオートリクシャーやオートバイも見られる。もちろんジープやバス、トラック、乗用車も多くみられるが、北インドのような古い車は比較的に少ない。<br />ダウラターバードの砦を出て20分ほどするとエローラ遺跡の入口駐車場に到着した。入口で入場券を求める。インドにおける世界遺産の入場料は250ルピーと決まっているらしく、私はシバレ氏の指示に従って4人分の1000一ルピーを支払った。<br />    <br />エローラ石窟の観光は仏教窟から。<br />私たちのエローラ石窟観光が始まったのは午前10時05分だった。気温は30度℃。快晴だが少しどんよりしている。入場券発売所から道はなだらかな上り坂で、百メートルほどで第16窟のカイラーサナータ寺院が聳えている。ここは誰が見てもエローラの中心であり、最も注目すべき遺跡に間違いない。それ故、ここを最初に見てしまうと他の石窟遺跡の遜色を招くために、私はガイドのシバレ氏に「カイラーサナータは最後にお願いします」と依頼したところ、「私はいつもそのように案内してますので、先に右側の仏教窟に行きましょう」という回答があった。私はシバレ氏とともに緩やかな登り道をゆっくり上り始めて5分ほど歩いたら、S氏、K氏、Y氏の3人が見当たらない。仕方がないので木陰に入ってしばらく待ったが、姿が見えない。そこで引き返すと3人はそれぞれてんでにカメラやらビデオを遺跡に向けて撮影している。彼らにはこちらの作戦が伝わらなかったのか、あるいはそんな作戦を無視したのか、すでに収集がつかなくなっていた。別な表現をすればこの遺跡がそれほど魅力的だったのだろう。3人を督励して私たちは最初に第1窟に入った。<br />シバレ氏の説明はかなり専門知識に裏付けられており、聞いているだけでも一々感心させられるものだった。ここで私はインドの石窟寺院にチャイティヤ窟とヴハーラ窟の二つがあり、その中のチャイティヤ窟が別名、礼拝堂・制多堂と呼ばれるということを学んだ。『修証義』の中に「いたずらに山神鬼神等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ」とある。その制多が仏教以外の神殿霊廟を指すことは知っていたが、このように一般的な用語とは知らなかった。その説明によると<br /> ここは仏教窟の中では珍しいチャイティヤ。七世紀の建造で、インドのチャイティヤ建築の最高峰とされている。エローラの仏教窟はチャイティヤとヴハーラの二種類があり、チャイティヤ窟は礼拝施設で佛菩薩などが祀られ、ヴハーラ窟は比丘の修行施設で僧堂とか僧院と訳され、比丘たちがここで寝泊まりをし、禅定・経行に励んだ。またアジャンタは壁画が見事だが、これに対しエローラは彫刻が優れている。今から千三百年も以前に自然の岩山を刳り貫いて佛菩薩像やら人口の石造建築に似せて彫り出したものであり、この壮大な建築物が二百年ものあいだ鑿で割り続けられた。当時の人間の寿命が30年ほどだったから六代から七代にわたって継承された。エローラ遺跡は、三つの宗教窟が集まり、構成されており、番号を打たれた窟は34、それ以外の小窟を合わせると計70余の石窟が、南北1.5kmに点在する。アジャンタ遺跡が一八一九年、イギリス人将校に発見されるまでは、土中に埋もれて全く存在を知られていなかったのとは対象的に、エローラ遺跡は、交易道付近にあったせいか、隊商宿として利用されたりして、ずっとその存在は意識されて来た。イギリスの統治を受ける中で、イギリスの学者によって学術的研究がなされ、文化遺跡としてその真価が認められ今日に至っている。1983年にユネスコ世界文化遺産に登録された。世界遺産の石造というジャンルでは、カンボジアのアンコールワット、エジプトのスフィンクスと並ぶレベルのものと思われる。アジャンタ石窟は1815年ハイダラバード藩王国の藩王に招かれて狩猟をしていたイギリス人士官ジョン・スミスが虎狩の際、大きな虎を追ってワーグラー渓谷に迷い込んだ時に、断崖に細かな装飾が施された馬蹄形の窓のようなものを見たのが発見のきっかけになった。それまでの約一千年の間は誰にもきづかれる事なく歴史の表舞台から姿を消していた。スミスはすっかりコウモリの住処となっていた遺跡の一か所に自分の名前を書き遺している。―私はシバレ氏の話に聞き入っていたが、S氏、Y氏の両人は専らビデオ撮影に余念がない。しかしこれほど精巧で広大な殿堂を根気よく長い年月をかけて彫り続けたものだ。石材店を営んでいるY氏は自分の職業柄、さらに興味が尽きないようだった。<br />  <br />  壮大な遺跡カイラーサナータ寺院で仏教徒家族に逢う<br />仏教窟の拝観には十分な時間をかけて、次にヒンドゥー窟で、エローラ最高の技術を傾注した広大な遺跡カイラーサナータ寺院に入った。カイラーサ・ナータとヒンドゥー窟については前述したとおりだ。ここでもゆっくりした時間をかけて参拝した。私が本殿裏側に回ったとき、若い2組の夫婦と二歳くらいの男の子の家族に逢った。親しそうにこちらを見つめていたので私は無言のまま合掌した。するとその中の男性が「ジャイビーム」と挨拶した。明らかに仏教徒だ。私もすかさず大きな声で「ジャイビーム」と声をかけ、改めて合掌した。するとこの家族は一斉に再び「ジャイビーム」を繰り返した。すぐさま親しい会話となり、私が日本から来た大乗仏教の僧侶だと告げると、彼は「私たちも全員仏教徒です。」と旧知に出逢ったような親近感を表した。やはりここはインド近代仏教の父「ビーム・ラーオ・ラムジー・アンベードカル」出身の州だと実感した。<br /> その後、いくつかのヒンドゥー窟を回ったが概ね仏教窟よりも手が込んだ技法が取り入れられ、完成度はさらに高くなっていた。これはシバレ氏の話では仏教窟よりも後期に作られたので、仏教窟に対抗して作られた可能性があるとのことだった。何んといっても第21窟の神殿や神像が印象的だった。奥にはさらにジャイナ教窟があるがそれらは割愛して、次のアジャンタへ向かった。<br /><br />  壁画で有名なアジャンタ石窟の鑑賞<br />エローラから北東へ90キロほど行ったところにアジャンタがある。専用車での所要時間は二時間十分だった。デカンの台地を走り続けて、一つの緩やかな峠を越えると左側に大きな渓谷が見えてきた。車は左折して渓谷への道を取ると間もなく渓谷が少し広くなった河川敷のような場所に出たが、ここに大きな駐車場があり、ここからは専用バス以外は入れないので、緑色の大型バスに乗り換えた。しかしそれは電気バスのように環境配慮型のものではないようだ。十分ほどの乗車でアジャンタ石窟の入口に到着。ここでは片言の日本語でしつこく土産物を勧める売り子がいた。私たちは遅まきの昼食をここのレストランでとった。もう既に午後二時ころとなっていた。<br /> レストランで遅い昼食を取った後、入場券売り場で4人分の代金を支払ったが、合計1200ルピー、1人当たり300ルピーだった。少し急な登り坂のあちこちには駕籠のような乗り物が用意され、頻りに「チェアー、チェアー」と客引きをしていた。高齢者や体の不自由な人のために、竹や丸太に椅子を結びつけた簡単な乗り物だ。私も何回か勧められた。たぶん年寄と思われたのだろう。意地になって歩いて行ったが、結構きつかった。五分ほどの登り坂を過ぎると、後は左側にワーグラー川が断崖の下を流れている。右側の岩肌続きにアジャンタの石窟遺跡群が続いている。道にはリスやサルが何匹も顔を出すが、日本の観光地のサルのように餌を欲しがったり、人を襲うことはない。<br />アジャンタ洞窟は広大であり、内容も濃密だ。ぼっとして観光していたら、いつの間にか時間が過ぎて、外へ出てしまった。・・・そんな狐につままれたような感覚を持った人も多いのではないか。今回、私は重要と思われる二か所に焦点を絞った。それは第一窟の壁画と第二十六窟の彫像だ。他にも素晴らしい窟があるが、印象を強くして、よい想い出のためには割愛しなくてはならない。<br /><br />     アジャンタからジヤルガオンへ<br /> アジャンタでの滞在時間は二時間弱であった。2時間では、とてもすべてを見ることはできない。知識欲は消化不良だが、身体はかなり疲労している。それでも充実感を持ちながら遺跡出口を出て、昼食を取ったレストランで休憩し、専用バス駐車場に向かった。レストランを出ると片言の日本語でアジャンタの写真集をしつこく販売する売子男性に出逢った。私はすでにその本を購入していたので断った。しかし彼は何としても販売したかったらしく、最初は千ルピーだったが、次第に値下げし、バスに乗り込んできて、最後には50ルピーにしたので、仕方なく購入した。日本円なら二千円の本を百円で購入したことになる。彼には何がしかの儲けがあったのだろうか。そんな心配をしながら、アジャンタを後にした。ガイドのシバレ氏は途中ファルダプルのバス停から、バスを利用してアウランガバードに帰るというので、彼に専用車の代金と千ルピーのチップを渡して別れた。車は夕暮れ近い道路を一路ジャルガオンに向かった。ファルダプルからジャルガオンまでの距離は五十五キロだが、1時間10分ほどを要した。今回の旅行は大方ホテルの予約を済ませていたが、ジャルガオンのホテルだけは予約していなかった。サイババ・トラベルから「運転手に駅前の適当なホテルに案内するように申し付けた」というメールを受けていたが、なんとなく不安なもので、アショーク氏に確認すると、「承知しているから心配ない」との回答を受けた。私たちは夕闇が訪れかけたジャルガオンの駅前にある「プラザ・ホテル」というビジネスホテルに到着した。駅は目と鼻の距離だ。午後六時半頃だった。ドライバー氏には200ルピーのチップを渡して別れた。フロントで3時間ほどの休憩をし、シャワーを浴びて、夕食をとり、少し体を休めたいという内容で交渉をした。交渉の係は児島耕道さん。彼はインドで比較的安価な旅をすることにたけているので、首尾よく商談を成立させた。ホテル代は合計600ルピー。一人当たり300円程度だった。シャワーのお湯が出ないので、バケツでお湯を運んでもらって、体を洗った後に街に繰り出して夕食をとることにした。ジャルガオンJalgaonはかなり人口が多く、夕方の街には多くの市民があふれており、あちこちでお祭りがあり、買い物をする人を至るところで目にする。ホテルでもらったパンフレットにはおおむね次のように記載されている。<br /> ジャルガオンJalgaon北デカン台地のJalgaonはマハラシュトラの北西部分に位置している。ここは農業と商業の交易拠点となっている。アジャンタAjantaとエローラElloraという世界的に有名な観光遺産に近いために多くの観光客が訪れる。アジャンタは、ここからおよそ50KM。また郊外にはパトナ・デヴィ聖堂やオーム・カレシュワル寺院などのシヴァ神を祀る寺院、およびエチャプルティ・ガネシュ寺院Ecchapurti Ganesh Templeなどの宗教施設がここの主要な魅力となっている。川の合流点は神聖な場所であるが、ここもタピー川とフルナ川の合流点に当たっている。インドで著名な科学者バスカルチャルヤBhaskaracharyaの発祥地のために彼を顕彰するパトナ・マンディルもよく知られている。他の観光名所としては、Chopda Talukaの温泉なども知られている。高原避暑地は良いピクニック点でもある。Jalgaon地区は、15の地方行政管区(talukas)と12の選挙区から成っており、2021年のインド国勢調査によれば人口は、およそ367万9936人となっている。<br />Jalgaonで話される主要な言語は、マラティー語Marathi、アヒラニ語Ahirani、ヒンディー語と英語。経済的には農業がJalgaonの主な収入源。ここで生産される主な収穫は、バナナ、綿、落花生類、ライム、雑穀。この街のことはまったく知らないで、インド国鉄に乗り換えるためにたまたま立ち寄った街だが、日本でいえば善光寺の門前町として発展した長野市のようなところなのだろうか。プラザ・ホテルから教えてもらった別のホテルのレストランで食事をするために出かけたが、満員のためかなり待たされたて、別のレストランを探して入った。店のメニューはデーヴァナーガリー文字のため皆目わからない。私は大学時代に多少サンスクリットの勉強もしたのだが、40年以上経過した現在では全く役に立たない。それでもこのレストランには多少の英語表記もされていたのだが、やはり役に立たない。私は外へ出ようとしたが耕道さんは気に入ったらしく、すぐさまメニューの確認をして、何やら注文をしたところ、金属のお盆や食器に乗せられたご飯とカレーの如きものが運ばれた。私は全然食欲がわかないのだが、他の3人は何でも食べる現地適応型の胃袋をしているらしく、おいしそうに食べていた。<br /> 食事がすんで一旦ホテルに戻り、荷物を整えて五分ばかりの距離にあるジャルガオン駅まで歩いた。<br />列車は一路ナグプールへと進んだ。私は列車が走っていると寝ているが、停車駅や、信号などで停車すると直ぐに目を覚ます。そのたびごとに時刻表と停車駅での遅れ時間を確認した。ナグプール駅には45分遅れの6六時55分に到着。<br /><br />    ナグプールでの初日 10月16日<br />  駅に降りると直ちに予定のホテル・ハルディオに向かった。私の頭では直ぐにタクシー利用を考えるが、耕道さんは、反対に三輪のオートリクシャーを考えるようだ。通称「トゥク・トゥク」、私も一度乗ってみたかったので、耕道さんの交渉で確保した車両に佐々木さんと二人で乗って駅からそれほど離れていない「ホテル・ハルディオ」に着いた。料金は50ルピー、チップ10ルピー。初めての体験だった。<br /> 日本を出てから少し強行軍だったので、この日は予備日というか休息日。夜には空港近くの『ザ・プライド・ナグプール・ホテル』を予約してあるのだが、ここで朝食をとって、ナグプールでの行動を再確認する必要があった。龍樹菩薩大寺の落慶式に参加してほしいという佐々井秀嶺長老からの依頼があって、ここまで出かけたのだが、日本での式典招待と違って、まず宿泊先が確保されていない。その上、具体的な予定表や集合場所も決まっていない。さらに駅や空港まで誰かが出迎えに来るというのでもない。私が知っているのは17日にディークシャ・ブーミで黄金祭があり、翌日にラムテックで落慶式があるという、その二点だけだ。そこでホテルから佐々井師に直接電話をかけると直ぐに応対があった。佐々井師の回答は明確。「私は今日、チャンドラプールの改宗式に臨むため、これから出発して不在です。夜の『世界仏教徒大会』までには戻ります。インドーラ寺では、日本人のお寺さんたちも集まっていますから、そちらに顔を出してください。」 会話としては取りつく島もないようだが、ともあれインドーラ寺に出かけてみることにした。この寺は佐々井師がインドでの活動拠点としている言わば自坊のような寺であり、私も以前、佐々木秀玄さんと訪問したお寺だ。私たちはホテルで朝食とも昼食ともつかない食事を済ませて、市内のインドーラ寺に向かった。再びトゥク・トゥクを利用して出かけたが、今度は130ルピーだった。本堂にお参りすると、寺の僧らしいインド人が、私たちを別室へ案内してくれた。そこにはすでに岡山県の宮本光研師、京都南禅寺事務総長の冨士玄峰師、以前ここで逢ったことのある三浦義金さんもいた。挨拶を済ませて、これからの予定、明日の予定も知った。冨士師の話では、今夜5時からディークシャ・ブームで世界仏教徒会議があるので、これに参加するのがよいとの事だった。冨士師たちはディークシャ・ブーミ近くの「トリ・インペリアル・ホテル」に泊まっており、そこからは会場へ歩いて行けるから、よかったら一緒に行きませんかということになった。なお佐々井長老が改宗式に臨んだチャンドラプールというのはナグプールから南に250キロほど離れた同じマハラシュトラ州の都市で人口二十九万人程で、石炭産業で知られている。<br /> その後、私たちは『ザ・プライド・ナグプール・ホテル』に移った。ここがナグプールで二泊する私たちの宿となった。ホテルで暫らくゆっくりし、約束通り「トリ・インペリアル・ホテル」に行き、冨士師たちとともに会場に向かった。周辺の幹線道路は自動車通行止め、いわゆる歩行者天国となっている。佐々井師の話では、昨年のこの期間にナグプールには百万人の人出があり、ヒンドゥー教から仏教へ改宗する改宗式に臨んだ者は30万人。出家得度を受けた者は5千人に及んだとの事だった。今年も同じ規模なのか、そのあたりのことはわからない。しかし、そのデータも強ち過大なものと思えないほどの人出だった。私たちの姿を見た現地の参加者は、異口同音に「ジャイビーム」と声をかけてくる。私も合掌してそれに応えると「オオーッ!ジャイビーム、ジャイビーム」とさらに返答する。中には「中国人か?韓国人か?」と質問するものも少なくない。「日本人だ」と答えると、嬉しそうに納得したり、中には私の足元に五体投地の礼拝をする者もいる。会場への通路の両側にはたくさんの出店がある。私は少し大きめな仏旗を二枚、アンベードカルの写真を数枚求めた。<br /><br />第56回大改宗記念大祭(ダンマチャクラパリワルタン) 10月17日(日)<br /><br />  佐々井師のやっていることは「ノーベル平和賞」に値するほどのものだが、伝統的な日本人からすれば、何をやっても破天荒。だからこの人は日本の国を出てインドに来たのかもしれない。逆に表現すれば、インドでは佐々井師のような人柄でなければやってゆけないのだろう。当日、どのような経過で一連の行事が行われたかについては、私自身の見てきた範囲でしかわからないが、後日、11月の半ばになって、佐々井師から私の許へお礼の手紙が届いた。その中に、その一連の行事が記されているので、ここに記載する。これは私と共に参加した仲間への報告でもある。<br />    第五六回大改宗記念大祭とダンマチャクラパリワルタン<br />歴史的南天龍宮城龍樹連峰龍樹山正面山麓龍樹大菩薩の大寺とその大像の大落慶法要<br />①2010年10月14日アンベードカル菩薩の改宗した10月14日、荘厳心魂込めて改宗広場に於いて大地鎮祭を行う。<br />②2010年10月15日午前9時より、一日中全インドより参加する人々への改宗式と法衣着用の沙弥戒の授与式を決行。約三千人。<br />③2010年10月16日、一日中改宗式 一部の比丘衆は私と共にチャンドラプール大改宗記念日、仏教復興祭に向かって出張する。午後4時までにナグプール改宗広場に帰還する。午後5時よりディークシャブーミ(改宗広場)に於いて例年の如く国際仏教徒大会を開く。日本僧全員参加。その他各国の比丘および仏教徒代表が出席する。<br />④2010年10月17日午前9時聖地改宗広場に於いて全員全市民起立合掌して三帰五戒文と二十二の誓いを合唱し誓約する。午後5時いよいよクライマックスの大改宗記念仏教復興祭が挙行される。会長はケララ州総督のR・Sガワイ氏。マハラシュトラ州政府代表、中央政府代表、各国仏教徒代表が出席し、百万人仏教徒の大祭典が興行される。大体午後11ころ祭典は終了する。<br />⑤2010年10月18日午前八時、改宗広場を出発。長いトラックに比丘衆すべてが乗り込み、仏教徒民衆と共にナーグプル市内を大行進しつつカムチィ・カナン・マンセル・ラムテクの各市と町を通り抜け龍樹連峰龍樹山龍樹菩薩大寺に到着。午後2時、龍樹菩薩大寺の落慶法要と龍樹菩薩大像の開眼入魂式を行う。各宗代表の読経、上座部仏教長老方のパーリー聖典の読経等々の種々な荘厳なる儀式法要が展開される。<br />日本国よりの御出席者 各宗代表者名<br />スリランカ国よりの御出席者 タイ国よりの御出席者<br />その他インド比丘大僧師<br />そのほか日本国僧俗併せて第五六回ダンマチャクラパリワルタン(第56回大改宗インド仏教復興大祭)と歴史的南天龍宮城龍樹山正面山麓にこのほど建設湧現せし、大乗仏教の大成者として八宗の御祖師といわれる龍樹菩薩大像および龍樹菩薩大寺の歴史的大落慶法要に参加する人数100名、また東南アジア各国よりの上座仏教の大長老比丘衆ないしまた全インド各州各地より結集するインド法兵軍とその比丘僧伽衆、ないし沙弥衆併せて約5000名、ないしまた全インド各州各地よりの仏教徒民衆、各仏教教会団体等のインド大地を揺るがす仏教徒と共にカムチィ・カナン・マンセル・ラムテク等々の各市街を市中大行進を敢行展開する。<br />またマハラシュトラ州各省大臣5名様、中央政府より大臣1~2名様御出席下さるとの由です。全インド仏教協会 全アンベードカル各協会 大団結しての大行進展開<br />主催 全仏教協会 全アンベードカル菩薩協会 <br />世界龍樹菩薩記念学術協会 全インド法兵軍ないし比丘大僧伽 <br />   <br />  この行事予定表は、現実的には多少の出入りがあり、その後の礼状にはさらに多くの日本人名が記されていた。また私が「曹洞宗代表」となっているが、私と他の3氏はすべて個人参加であり、日本曹洞宗から何の委嘱も受けない自由人であるが、佐々井師が独自に判断して、そのような記載をしたものと思われる。ナグプール市内南西に位置するディークシャ・ブーミの広さは約44,500平米。アンベードカルの死後間もなく州政府が彼の功績を称えて寄付したものであり、アンベードカル大学など二つの大学と僧院、記念大塔などが敷地内および隣接地に置かれている。<br />      世界仏教徒大会<br /> 10月17日の夕刻6時から改宗広場での一連の会合があった。それはすでに述べられたとおりだが、私たちは午後5時開催という極めて曖昧な情報を信じて定刻より一時間ほど早く集合したが、ちっともはじまらない。もともと一時間遅れていたのだ。しかも実際には6時半ころに始まった。最初は、我々は公式参加ではないから、高見の見物と気楽でいたが。どうもその会場は改宗式という、受戒羯磨の場ではなく、むしろ何かの演説会場のような光景だった。広いディークシャ・ブーミにはすでに数万人の参詣者が集まって、あるいは椅子席、あるいは茣蓙席となっていたが、私たちは演壇近くに設けられた仕切りの所で立っていた。やがて左手の比丘席にいたインド人比丘が、私たちを「こちらへどうぞ」と自分たちの椅子席に案内してくれた。それからしばらくして佐々井師が現れて、私たちに気付いたらしく、側近の僧に演壇に上がるように促された。K、Sの二師は下がよいということで、なかなか動こうとしなかったが、私は佐々井師の立場を慮り、壇上のあまり目立たない場所に移動した。その頃になると日本から参加した宮本師、冨士師などとも合流し、さらに十数名の日本人僧侶とも合流した。別に在家の参加者数人も加わった。ただこの会が改宗式だとは聞いていたが、世界仏教徒大会が伴われていたことは知らないでいた。私は宮本師たち三人で日本語の般若心経を誦むように依頼されたので、それを勤めた。タイから来た三人の女性はタイ語の読経をし、スリランカの比丘は英語であいさつ。日本から参加した女性は日本語で感想を述べ、それらとは別に三帰五戒と「アンベードカル二十二の誓い」も読まれたので、あるいはこれが改宗式の羯磨だったのかもしれない。それらが終了すると、来賓が祝辞とも、演説とも知れないマラティー語あるいはヒンディー語のスピーチを延々と続ける。私どもには何を喋っているか皆目わからないが、参加者は耳を澄まして聞き入っているらしい。その証拠には「マハトマ・ガンディー」という言葉が出ると、満堂の聴衆が一斉に拍手をする。これはアンベードカルの仏教への改宗や、その復興活動を終始妨害し、反対した逆賊に対する非難の拍手だった。日本人が考えるガンディーとは別人のガンディーがそこにあったのだ。時間はどんどん過ぎて行き、旅行社の添乗員に管理されている日本人参加者は、八時を過ぎるとそわそわしながら、三三五五に消えて行った。佐々井師はその光景が気に入らないらしく、演説の途中で急に日本語となって、それら日本人の行動を非難する。それでも八時半過ぎには大半の日本人が消えた。私もそれに付き合って退場した。何しろ会場に到着して四時間が経過しているし、翌日の方針も立てなければならない。佐々井師の話では28日の午前七時にインドール寺に集結し、そこから行列を組んで、50キロの道のりを、ナグプール市の東北に当たるラムテック地区の龍樹菩薩大寺までパレードするのだという。しかもその日の落慶法要は午後2時に開始されるというのだ。こうなると私たちはナグプール市内観光もマンセル遺跡見学もできなくなる。そんなことは佐々井師の頭の中に入っていない。それらは、すべてをこちらの責任で処理せねばならない。私たちは一旦ホテルへ戻り、食事を済ませてから翌日の方針を立てなおした。それは一日貸切のタクシーでラムテックへゆき、落慶式が終了するかしないかの時間に中座して、ナグプール駅に行き、午後8時20分発の夜行列車に乗るというものだった。<br 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西インドのユネスコ世界遺産とナグプール龍樹菩薩大寺落慶の旅

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2010/10/14 - 2010/10/23

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erindojunさん

激動のインド仏教を目のあたりに見て(はじめに)關 口 道 潤
平成22年10月14日から21日までの8日間、西インドのユネスコ世界遺産とナグプールの龍樹菩薩大寺落慶の旅に出た。この旅の始まりは私が平成19年6月から7月にかけてインド・マハラシュトラ州ナグプールを訪問した事が縁となり、今年の正月にナグプール在住の日本出身の仏教僧アーリヤ・ナーガルジュナ・シューレイ・ササイ長老(日本名・佐々井秀嶺)から「龍樹菩薩大寺落慶式」への参加要請があったためだ。私は昨年春、ネパールに行ったばかりだし、自坊惠林寺の客殿工事もあって躊躇していたが、佐々井長老からの熱心な要請があったのと、改宗広場におけるヒンドゥー教から仏教への改宗式の様子を直接この目で見たかったからでもある。
 今やナグプールはインド仏教徒の根本道場となり、インド総人口12億人の四分の一をうかがう3億人仏教徒の心の故郷であり、54年前この地で集団改宗を挙行したビーム・ラーオ・ラムジー・アンベードカルは既にこの地では「アンベードカル菩薩」と尊崇され、挨拶が「ナマステ」から「ジャイビーム」に変わっている。それはその菩薩に幸あれとの意味だ。
中部国際空港からキャセイ・パシフィックの香港乗継便を利用し、実質的には八日間。10月17日が改宗記念日であり、ナグプールは異様な熱気に満ち溢れていた。夜行寝台でナグプール駅に到着すると、その熱気をひしひしと感じた。改宗広場、周辺道路、今回落慶式が行われた龍樹菩薩大寺があるナグプール郊外のラムテックへの途上、現地、帰路いずれでも大きな仏旗が何本も何本も翻り、道行く人たちが異口同音に「ジャイビーム、ジャイビーム」と挨拶する。中には異国の僧侶と見た信徒たちは足礼の真心を捧げる。ここはもう貧しいだけの国や都市ではない。経済力も相応に整い、教養や礼儀、都市環境も一変しつつある。前回訪問時のナグプール人口は170万人、現在では240万人、仏教僧も、仏寺も確実に増加した。今回は改宗広場(ディークシャ・ブーミ)で国際仏教徒大会が開かれ、改宗式を含め三日間の「アショーカ王法勝利の日―黄金祭」には150万人の人出だったと聞く。もちろん人数が多ければ、そのまま価値があるとは言えないが、いまインドは確実にしかも激流のように急速に変化している。その変化に気付かない日本人がいたなら、そちらの方が大問題だ。帰国後すぐに瞼に浮かぶのはあの「ジャイビーム、ジャイビーム」という市民の熱狂と至る所に翻る仏旗の色だった。
今回訪問した西インドのユネスコ世界遺産は、訪問以前には夢にも見る事の出来ぬ広大、精巧なものであったことに驚愕し、別天地を垣間見た心地だった。そして今回これらの石窟彫刻が古代建築史上の快挙にとどまらず、中国、韓国、日本の建築にも大きな影響を及ぼしていたことも理解され、私自身がそうした建築の常識として「ファザード」―語源上では建築物の正面あるいは外観をいう。「エンタブラチャ」ー円柱の上部にある水平な帯状の部分のこと。「ポーチコ」―玄関というよりも廊下を差す。「メダリオン」―大きな徽章やメダルの付いた飾り。「マカロ・アーチ」―インドラ神とマカラ(魔竭魚)が2匹のナーガを吐き出す。中国の伝説では仙人がヘビのようにとぐろを巻いた虹に変身する。昇龍虹梁―などと言う基礎的な建築用語や知識を持たずに訪問したため、よいガイドが細かく説明しても、容易に理解できなかった。
その建設や開鑿が西紀元前300年も以前のアショーカ王時代から始まって、千年ほどの期間を経過してあるいは彫刻され、もしくは建造されたものであり、それらの根本にはアショーカ王の法―ダルマで世界を統治することが最も素晴らしい政治であると学んだ事が、実に大きかった。一時途絶えていた仏陀の教えと自覚の法がいまインドで復興している。

ユネスコ世界遺産エローラ石窟アジャンタ石窟の観光ー10月15日
 8時40分、私たちはアウランガバード空港を後にしてエローラ遺跡に向かった。専用車はまだ真新しい日本トヨタ製イノーバ7人乗りエアコン付。ドライバーはアショーク氏。デカン高原の都市を快適に出発し、ほどなく郊外に出た。道路は比較的良好に整備されている。しばらくすると前方に小高い要塞が見えてきた。ダウラターバードの砦だ。デカンの岩山をそっくり砦にしたもので、その大きさと美しさは数あるインドの砦の中でも最高の部類に属するといわれている。近づいてくると私はもう我慢ができなくなり、ガイドのシバレ氏に「写真を撮りたいので車を止めてほしい」と話したら、「もう少し走って砦の裏側が小高い丘になっているので、そこからの眺望が美しい」との返事があった。
私たちが休息してダウラターバードの砦を眺めたのは午前9時15分頃だった。この砦は1187年にヤーダヴァ朝の首都として築かれ、後に数代のイスラム王朝によって占領が繰り返されたが、ハルジー朝の時代には首都がデリーからこの地に移された異もあったと伝えられている。ここで十分ほど眺望を楽しんだのちに再び高原のドライブとなった。道路は10メートルほどの舗装道路でセンターラインも引かれ、凹凸はなく快適なドライブだ。三輪のオートリクシャーやオートバイも見られる。もちろんジープやバス、トラック、乗用車も多くみられるが、北インドのような古い車は比較的に少ない。
ダウラターバードの砦を出て20分ほどするとエローラ遺跡の入口駐車場に到着した。入口で入場券を求める。インドにおける世界遺産の入場料は250ルピーと決まっているらしく、私はシバレ氏の指示に従って4人分の1000一ルピーを支払った。
   
エローラ石窟の観光は仏教窟から。
私たちのエローラ石窟観光が始まったのは午前10時05分だった。気温は30度℃。快晴だが少しどんよりしている。入場券発売所から道はなだらかな上り坂で、百メートルほどで第16窟のカイラーサナータ寺院が聳えている。ここは誰が見てもエローラの中心であり、最も注目すべき遺跡に間違いない。それ故、ここを最初に見てしまうと他の石窟遺跡の遜色を招くために、私はガイドのシバレ氏に「カイラーサナータは最後にお願いします」と依頼したところ、「私はいつもそのように案内してますので、先に右側の仏教窟に行きましょう」という回答があった。私はシバレ氏とともに緩やかな登り道をゆっくり上り始めて5分ほど歩いたら、S氏、K氏、Y氏の3人が見当たらない。仕方がないので木陰に入ってしばらく待ったが、姿が見えない。そこで引き返すと3人はそれぞれてんでにカメラやらビデオを遺跡に向けて撮影している。彼らにはこちらの作戦が伝わらなかったのか、あるいはそんな作戦を無視したのか、すでに収集がつかなくなっていた。別な表現をすればこの遺跡がそれほど魅力的だったのだろう。3人を督励して私たちは最初に第1窟に入った。
シバレ氏の説明はかなり専門知識に裏付けられており、聞いているだけでも一々感心させられるものだった。ここで私はインドの石窟寺院にチャイティヤ窟とヴハーラ窟の二つがあり、その中のチャイティヤ窟が別名、礼拝堂・制多堂と呼ばれるということを学んだ。『修証義』の中に「いたずらに山神鬼神等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ」とある。その制多が仏教以外の神殿霊廟を指すことは知っていたが、このように一般的な用語とは知らなかった。その説明によると
 ここは仏教窟の中では珍しいチャイティヤ。七世紀の建造で、インドのチャイティヤ建築の最高峰とされている。エローラの仏教窟はチャイティヤとヴハーラの二種類があり、チャイティヤ窟は礼拝施設で佛菩薩などが祀られ、ヴハーラ窟は比丘の修行施設で僧堂とか僧院と訳され、比丘たちがここで寝泊まりをし、禅定・経行に励んだ。またアジャンタは壁画が見事だが、これに対しエローラは彫刻が優れている。今から千三百年も以前に自然の岩山を刳り貫いて佛菩薩像やら人口の石造建築に似せて彫り出したものであり、この壮大な建築物が二百年ものあいだ鑿で割り続けられた。当時の人間の寿命が30年ほどだったから六代から七代にわたって継承された。エローラ遺跡は、三つの宗教窟が集まり、構成されており、番号を打たれた窟は34、それ以外の小窟を合わせると計70余の石窟が、南北1.5kmに点在する。アジャンタ遺跡が一八一九年、イギリス人将校に発見されるまでは、土中に埋もれて全く存在を知られていなかったのとは対象的に、エローラ遺跡は、交易道付近にあったせいか、隊商宿として利用されたりして、ずっとその存在は意識されて来た。イギリスの統治を受ける中で、イギリスの学者によって学術的研究がなされ、文化遺跡としてその真価が認められ今日に至っている。1983年にユネスコ世界文化遺産に登録された。世界遺産の石造というジャンルでは、カンボジアのアンコールワット、エジプトのスフィンクスと並ぶレベルのものと思われる。アジャンタ石窟は1815年ハイダラバード藩王国の藩王に招かれて狩猟をしていたイギリス人士官ジョン・スミスが虎狩の際、大きな虎を追ってワーグラー渓谷に迷い込んだ時に、断崖に細かな装飾が施された馬蹄形の窓のようなものを見たのが発見のきっかけになった。それまでの約一千年の間は誰にもきづかれる事なく歴史の表舞台から姿を消していた。スミスはすっかりコウモリの住処となっていた遺跡の一か所に自分の名前を書き遺している。―私はシバレ氏の話に聞き入っていたが、S氏、Y氏の両人は専らビデオ撮影に余念がない。しかしこれほど精巧で広大な殿堂を根気よく長い年月をかけて彫り続けたものだ。石材店を営んでいるY氏は自分の職業柄、さらに興味が尽きないようだった。

壮大な遺跡カイラーサナータ寺院で仏教徒家族に逢う
仏教窟の拝観には十分な時間をかけて、次にヒンドゥー窟で、エローラ最高の技術を傾注した広大な遺跡カイラーサナータ寺院に入った。カイラーサ・ナータとヒンドゥー窟については前述したとおりだ。ここでもゆっくりした時間をかけて参拝した。私が本殿裏側に回ったとき、若い2組の夫婦と二歳くらいの男の子の家族に逢った。親しそうにこちらを見つめていたので私は無言のまま合掌した。するとその中の男性が「ジャイビーム」と挨拶した。明らかに仏教徒だ。私もすかさず大きな声で「ジャイビーム」と声をかけ、改めて合掌した。するとこの家族は一斉に再び「ジャイビーム」を繰り返した。すぐさま親しい会話となり、私が日本から来た大乗仏教の僧侶だと告げると、彼は「私たちも全員仏教徒です。」と旧知に出逢ったような親近感を表した。やはりここはインド近代仏教の父「ビーム・ラーオ・ラムジー・アンベードカル」出身の州だと実感した。
 その後、いくつかのヒンドゥー窟を回ったが概ね仏教窟よりも手が込んだ技法が取り入れられ、完成度はさらに高くなっていた。これはシバレ氏の話では仏教窟よりも後期に作られたので、仏教窟に対抗して作られた可能性があるとのことだった。何んといっても第21窟の神殿や神像が印象的だった。奥にはさらにジャイナ教窟があるがそれらは割愛して、次のアジャンタへ向かった。

壁画で有名なアジャンタ石窟の鑑賞
エローラから北東へ90キロほど行ったところにアジャンタがある。専用車での所要時間は二時間十分だった。デカンの台地を走り続けて、一つの緩やかな峠を越えると左側に大きな渓谷が見えてきた。車は左折して渓谷への道を取ると間もなく渓谷が少し広くなった河川敷のような場所に出たが、ここに大きな駐車場があり、ここからは専用バス以外は入れないので、緑色の大型バスに乗り換えた。しかしそれは電気バスのように環境配慮型のものではないようだ。十分ほどの乗車でアジャンタ石窟の入口に到着。ここでは片言の日本語でしつこく土産物を勧める売り子がいた。私たちは遅まきの昼食をここのレストランでとった。もう既に午後二時ころとなっていた。
 レストランで遅い昼食を取った後、入場券売り場で4人分の代金を支払ったが、合計1200ルピー、1人当たり300ルピーだった。少し急な登り坂のあちこちには駕籠のような乗り物が用意され、頻りに「チェアー、チェアー」と客引きをしていた。高齢者や体の不自由な人のために、竹や丸太に椅子を結びつけた簡単な乗り物だ。私も何回か勧められた。たぶん年寄と思われたのだろう。意地になって歩いて行ったが、結構きつかった。五分ほどの登り坂を過ぎると、後は左側にワーグラー川が断崖の下を流れている。右側の岩肌続きにアジャンタの石窟遺跡群が続いている。道にはリスやサルが何匹も顔を出すが、日本の観光地のサルのように餌を欲しがったり、人を襲うことはない。
アジャンタ洞窟は広大であり、内容も濃密だ。ぼっとして観光していたら、いつの間にか時間が過ぎて、外へ出てしまった。・・・そんな狐につままれたような感覚を持った人も多いのではないか。今回、私は重要と思われる二か所に焦点を絞った。それは第一窟の壁画と第二十六窟の彫像だ。他にも素晴らしい窟があるが、印象を強くして、よい想い出のためには割愛しなくてはならない。

アジャンタからジヤルガオンへ
 アジャンタでの滞在時間は二時間弱であった。2時間では、とてもすべてを見ることはできない。知識欲は消化不良だが、身体はかなり疲労している。それでも充実感を持ちながら遺跡出口を出て、昼食を取ったレストランで休憩し、専用バス駐車場に向かった。レストランを出ると片言の日本語でアジャンタの写真集をしつこく販売する売子男性に出逢った。私はすでにその本を購入していたので断った。しかし彼は何としても販売したかったらしく、最初は千ルピーだったが、次第に値下げし、バスに乗り込んできて、最後には50ルピーにしたので、仕方なく購入した。日本円なら二千円の本を百円で購入したことになる。彼には何がしかの儲けがあったのだろうか。そんな心配をしながら、アジャンタを後にした。ガイドのシバレ氏は途中ファルダプルのバス停から、バスを利用してアウランガバードに帰るというので、彼に専用車の代金と千ルピーのチップを渡して別れた。車は夕暮れ近い道路を一路ジャルガオンに向かった。ファルダプルからジャルガオンまでの距離は五十五キロだが、1時間10分ほどを要した。今回の旅行は大方ホテルの予約を済ませていたが、ジャルガオンのホテルだけは予約していなかった。サイババ・トラベルから「運転手に駅前の適当なホテルに案内するように申し付けた」というメールを受けていたが、なんとなく不安なもので、アショーク氏に確認すると、「承知しているから心配ない」との回答を受けた。私たちは夕闇が訪れかけたジャルガオンの駅前にある「プラザ・ホテル」というビジネスホテルに到着した。駅は目と鼻の距離だ。午後六時半頃だった。ドライバー氏には200ルピーのチップを渡して別れた。フロントで3時間ほどの休憩をし、シャワーを浴びて、夕食をとり、少し体を休めたいという内容で交渉をした。交渉の係は児島耕道さん。彼はインドで比較的安価な旅をすることにたけているので、首尾よく商談を成立させた。ホテル代は合計600ルピー。一人当たり300円程度だった。シャワーのお湯が出ないので、バケツでお湯を運んでもらって、体を洗った後に街に繰り出して夕食をとることにした。ジャルガオンJalgaonはかなり人口が多く、夕方の街には多くの市民があふれており、あちこちでお祭りがあり、買い物をする人を至るところで目にする。ホテルでもらったパンフレットにはおおむね次のように記載されている。
 ジャルガオンJalgaon北デカン台地のJalgaonはマハラシュトラの北西部分に位置している。ここは農業と商業の交易拠点となっている。アジャンタAjantaとエローラElloraという世界的に有名な観光遺産に近いために多くの観光客が訪れる。アジャンタは、ここからおよそ50KM。また郊外にはパトナ・デヴィ聖堂やオーム・カレシュワル寺院などのシヴァ神を祀る寺院、およびエチャプルティ・ガネシュ寺院Ecchapurti Ganesh Templeなどの宗教施設がここの主要な魅力となっている。川の合流点は神聖な場所であるが、ここもタピー川とフルナ川の合流点に当たっている。インドで著名な科学者バスカルチャルヤBhaskaracharyaの発祥地のために彼を顕彰するパトナ・マンディルもよく知られている。他の観光名所としては、Chopda Talukaの温泉なども知られている。高原避暑地は良いピクニック点でもある。Jalgaon地区は、15の地方行政管区(talukas)と12の選挙区から成っており、2021年のインド国勢調査によれば人口は、およそ367万9936人となっている。
Jalgaonで話される主要な言語は、マラティー語Marathi、アヒラニ語Ahirani、ヒンディー語と英語。経済的には農業がJalgaonの主な収入源。ここで生産される主な収穫は、バナナ、綿、落花生類、ライム、雑穀。この街のことはまったく知らないで、インド国鉄に乗り換えるためにたまたま立ち寄った街だが、日本でいえば善光寺の門前町として発展した長野市のようなところなのだろうか。プラザ・ホテルから教えてもらった別のホテルのレストランで食事をするために出かけたが、満員のためかなり待たされたて、別のレストランを探して入った。店のメニューはデーヴァナーガリー文字のため皆目わからない。私は大学時代に多少サンスクリットの勉強もしたのだが、40年以上経過した現在では全く役に立たない。それでもこのレストランには多少の英語表記もされていたのだが、やはり役に立たない。私は外へ出ようとしたが耕道さんは気に入ったらしく、すぐさまメニューの確認をして、何やら注文をしたところ、金属のお盆や食器に乗せられたご飯とカレーの如きものが運ばれた。私は全然食欲がわかないのだが、他の3人は何でも食べる現地適応型の胃袋をしているらしく、おいしそうに食べていた。
 食事がすんで一旦ホテルに戻り、荷物を整えて五分ばかりの距離にあるジャルガオン駅まで歩いた。
列車は一路ナグプールへと進んだ。私は列車が走っていると寝ているが、停車駅や、信号などで停車すると直ぐに目を覚ます。そのたびごとに時刻表と停車駅での遅れ時間を確認した。ナグプール駅には45分遅れの6六時55分に到着。

ナグプールでの初日 10月16日
駅に降りると直ちに予定のホテル・ハルディオに向かった。私の頭では直ぐにタクシー利用を考えるが、耕道さんは、反対に三輪のオートリクシャーを考えるようだ。通称「トゥク・トゥク」、私も一度乗ってみたかったので、耕道さんの交渉で確保した車両に佐々木さんと二人で乗って駅からそれほど離れていない「ホテル・ハルディオ」に着いた。料金は50ルピー、チップ10ルピー。初めての体験だった。
 日本を出てから少し強行軍だったので、この日は予備日というか休息日。夜には空港近くの『ザ・プライド・ナグプール・ホテル』を予約してあるのだが、ここで朝食をとって、ナグプールでの行動を再確認する必要があった。龍樹菩薩大寺の落慶式に参加してほしいという佐々井秀嶺長老からの依頼があって、ここまで出かけたのだが、日本での式典招待と違って、まず宿泊先が確保されていない。その上、具体的な予定表や集合場所も決まっていない。さらに駅や空港まで誰かが出迎えに来るというのでもない。私が知っているのは17日にディークシャ・ブーミで黄金祭があり、翌日にラムテックで落慶式があるという、その二点だけだ。そこでホテルから佐々井師に直接電話をかけると直ぐに応対があった。佐々井師の回答は明確。「私は今日、チャンドラプールの改宗式に臨むため、これから出発して不在です。夜の『世界仏教徒大会』までには戻ります。インドーラ寺では、日本人のお寺さんたちも集まっていますから、そちらに顔を出してください。」 会話としては取りつく島もないようだが、ともあれインドーラ寺に出かけてみることにした。この寺は佐々井師がインドでの活動拠点としている言わば自坊のような寺であり、私も以前、佐々木秀玄さんと訪問したお寺だ。私たちはホテルで朝食とも昼食ともつかない食事を済ませて、市内のインドーラ寺に向かった。再びトゥク・トゥクを利用して出かけたが、今度は130ルピーだった。本堂にお参りすると、寺の僧らしいインド人が、私たちを別室へ案内してくれた。そこにはすでに岡山県の宮本光研師、京都南禅寺事務総長の冨士玄峰師、以前ここで逢ったことのある三浦義金さんもいた。挨拶を済ませて、これからの予定、明日の予定も知った。冨士師の話では、今夜5時からディークシャ・ブームで世界仏教徒会議があるので、これに参加するのがよいとの事だった。冨士師たちはディークシャ・ブーミ近くの「トリ・インペリアル・ホテル」に泊まっており、そこからは会場へ歩いて行けるから、よかったら一緒に行きませんかということになった。なお佐々井長老が改宗式に臨んだチャンドラプールというのはナグプールから南に250キロほど離れた同じマハラシュトラ州の都市で人口二十九万人程で、石炭産業で知られている。
 その後、私たちは『ザ・プライド・ナグプール・ホテル』に移った。ここがナグプールで二泊する私たちの宿となった。ホテルで暫らくゆっくりし、約束通り「トリ・インペリアル・ホテル」に行き、冨士師たちとともに会場に向かった。周辺の幹線道路は自動車通行止め、いわゆる歩行者天国となっている。佐々井師の話では、昨年のこの期間にナグプールには百万人の人出があり、ヒンドゥー教から仏教へ改宗する改宗式に臨んだ者は30万人。出家得度を受けた者は5千人に及んだとの事だった。今年も同じ規模なのか、そのあたりのことはわからない。しかし、そのデータも強ち過大なものと思えないほどの人出だった。私たちの姿を見た現地の参加者は、異口同音に「ジャイビーム」と声をかけてくる。私も合掌してそれに応えると「オオーッ!ジャイビーム、ジャイビーム」とさらに返答する。中には「中国人か?韓国人か?」と質問するものも少なくない。「日本人だ」と答えると、嬉しそうに納得したり、中には私の足元に五体投地の礼拝をする者もいる。会場への通路の両側にはたくさんの出店がある。私は少し大きめな仏旗を二枚、アンベードカルの写真を数枚求めた。

第56回大改宗記念大祭(ダンマチャクラパリワルタン) 10月17日(日)

佐々井師のやっていることは「ノーベル平和賞」に値するほどのものだが、伝統的な日本人からすれば、何をやっても破天荒。だからこの人は日本の国を出てインドに来たのかもしれない。逆に表現すれば、インドでは佐々井師のような人柄でなければやってゆけないのだろう。当日、どのような経過で一連の行事が行われたかについては、私自身の見てきた範囲でしかわからないが、後日、11月の半ばになって、佐々井師から私の許へお礼の手紙が届いた。その中に、その一連の行事が記されているので、ここに記載する。これは私と共に参加した仲間への報告でもある。
第五六回大改宗記念大祭とダンマチャクラパリワルタン
歴史的南天龍宮城龍樹連峰龍樹山正面山麓龍樹大菩薩の大寺とその大像の大落慶法要
①2010年10月14日アンベードカル菩薩の改宗した10月14日、荘厳心魂込めて改宗広場に於いて大地鎮祭を行う。
②2010年10月15日午前9時より、一日中全インドより参加する人々への改宗式と法衣着用の沙弥戒の授与式を決行。約三千人。
③2010年10月16日、一日中改宗式 一部の比丘衆は私と共にチャンドラプール大改宗記念日、仏教復興祭に向かって出張する。午後4時までにナグプール改宗広場に帰還する。午後5時よりディークシャブーミ(改宗広場)に於いて例年の如く国際仏教徒大会を開く。日本僧全員参加。その他各国の比丘および仏教徒代表が出席する。
④2010年10月17日午前9時聖地改宗広場に於いて全員全市民起立合掌して三帰五戒文と二十二の誓いを合唱し誓約する。午後5時いよいよクライマックスの大改宗記念仏教復興祭が挙行される。会長はケララ州総督のR・Sガワイ氏。マハラシュトラ州政府代表、中央政府代表、各国仏教徒代表が出席し、百万人仏教徒の大祭典が興行される。大体午後11ころ祭典は終了する。
⑤2010年10月18日午前八時、改宗広場を出発。長いトラックに比丘衆すべてが乗り込み、仏教徒民衆と共にナーグプル市内を大行進しつつカムチィ・カナン・マンセル・ラムテクの各市と町を通り抜け龍樹連峰龍樹山龍樹菩薩大寺に到着。午後2時、龍樹菩薩大寺の落慶法要と龍樹菩薩大像の開眼入魂式を行う。各宗代表の読経、上座部仏教長老方のパーリー聖典の読経等々の種々な荘厳なる儀式法要が展開される。
日本国よりの御出席者 各宗代表者名
スリランカ国よりの御出席者 タイ国よりの御出席者
その他インド比丘大僧師
そのほか日本国僧俗併せて第五六回ダンマチャクラパリワルタン(第56回大改宗インド仏教復興大祭)と歴史的南天龍宮城龍樹山正面山麓にこのほど建設湧現せし、大乗仏教の大成者として八宗の御祖師といわれる龍樹菩薩大像および龍樹菩薩大寺の歴史的大落慶法要に参加する人数100名、また東南アジア各国よりの上座仏教の大長老比丘衆ないしまた全インド各州各地より結集するインド法兵軍とその比丘僧伽衆、ないし沙弥衆併せて約5000名、ないしまた全インド各州各地よりの仏教徒民衆、各仏教教会団体等のインド大地を揺るがす仏教徒と共にカムチィ・カナン・マンセル・ラムテク等々の各市街を市中大行進を敢行展開する。
またマハラシュトラ州各省大臣5名様、中央政府より大臣1~2名様御出席下さるとの由です。全インド仏教協会 全アンベードカル各協会 大団結しての大行進展開
主催 全仏教協会 全アンベードカル菩薩協会 
世界龍樹菩薩記念学術協会 全インド法兵軍ないし比丘大僧伽 
   
この行事予定表は、現実的には多少の出入りがあり、その後の礼状にはさらに多くの日本人名が記されていた。また私が「曹洞宗代表」となっているが、私と他の3氏はすべて個人参加であり、日本曹洞宗から何の委嘱も受けない自由人であるが、佐々井師が独自に判断して、そのような記載をしたものと思われる。ナグプール市内南西に位置するディークシャ・ブーミの広さは約44,500平米。アンベードカルの死後間もなく州政府が彼の功績を称えて寄付したものであり、アンベードカル大学など二つの大学と僧院、記念大塔などが敷地内および隣接地に置かれている。
世界仏教徒大会
 10月17日の夕刻6時から改宗広場での一連の会合があった。それはすでに述べられたとおりだが、私たちは午後5時開催という極めて曖昧な情報を信じて定刻より一時間ほど早く集合したが、ちっともはじまらない。もともと一時間遅れていたのだ。しかも実際には6時半ころに始まった。最初は、我々は公式参加ではないから、高見の見物と気楽でいたが。どうもその会場は改宗式という、受戒羯磨の場ではなく、むしろ何かの演説会場のような光景だった。広いディークシャ・ブーミにはすでに数万人の参詣者が集まって、あるいは椅子席、あるいは茣蓙席となっていたが、私たちは演壇近くに設けられた仕切りの所で立っていた。やがて左手の比丘席にいたインド人比丘が、私たちを「こちらへどうぞ」と自分たちの椅子席に案内してくれた。それからしばらくして佐々井師が現れて、私たちに気付いたらしく、側近の僧に演壇に上がるように促された。K、Sの二師は下がよいということで、なかなか動こうとしなかったが、私は佐々井師の立場を慮り、壇上のあまり目立たない場所に移動した。その頃になると日本から参加した宮本師、冨士師などとも合流し、さらに十数名の日本人僧侶とも合流した。別に在家の参加者数人も加わった。ただこの会が改宗式だとは聞いていたが、世界仏教徒大会が伴われていたことは知らないでいた。私は宮本師たち三人で日本語の般若心経を誦むように依頼されたので、それを勤めた。タイから来た三人の女性はタイ語の読経をし、スリランカの比丘は英語であいさつ。日本から参加した女性は日本語で感想を述べ、それらとは別に三帰五戒と「アンベードカル二十二の誓い」も読まれたので、あるいはこれが改宗式の羯磨だったのかもしれない。それらが終了すると、来賓が祝辞とも、演説とも知れないマラティー語あるいはヒンディー語のスピーチを延々と続ける。私どもには何を喋っているか皆目わからないが、参加者は耳を澄まして聞き入っているらしい。その証拠には「マハトマ・ガンディー」という言葉が出ると、満堂の聴衆が一斉に拍手をする。これはアンベードカルの仏教への改宗や、その復興活動を終始妨害し、反対した逆賊に対する非難の拍手だった。日本人が考えるガンディーとは別人のガンディーがそこにあったのだ。時間はどんどん過ぎて行き、旅行社の添乗員に管理されている日本人参加者は、八時を過ぎるとそわそわしながら、三三五五に消えて行った。佐々井師はその光景が気に入らないらしく、演説の途中で急に日本語となって、それら日本人の行動を非難する。それでも八時半過ぎには大半の日本人が消えた。私もそれに付き合って退場した。何しろ会場に到着して四時間が経過しているし、翌日の方針も立てなければならない。佐々井師の話では28日の午前七時にインドール寺に集結し、そこから行列を組んで、50キロの道のりを、ナグプール市の東北に当たるラムテック地区の龍樹菩薩大寺までパレードするのだという。しかもその日の落慶法要は午後2時に開始されるというのだ。こうなると私たちはナグプール市内観光もマンセル遺跡見学もできなくなる。そんなことは佐々井師の頭の中に入っていない。それらは、すべてをこちらの責任で処理せねばならない。私たちは一旦ホテルへ戻り、食事を済ませてから翌日の方針を立てなおした。それは一日貸切のタクシーでラムテックへゆき、落慶式が終了するかしないかの時間に中座して、ナグプール駅に行き、午後8時20分発の夜行列車に乗るというものだった。

同行者
友人
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
鉄道 タクシー 飛行機
航空会社
ジェットエアウェイズ (運航停止) キャセイパシフィック航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • ダウラタバードの砦

    ダウラタバードの砦

  • エローラ石窟の火頭窓

    エローラ石窟の火頭窓

  • エローラの中心カイラーサナータ寺院で。これはすべて岩山から掘り出した彫刻だという。

    エローラの中心カイラーサナータ寺院で。これはすべて岩山から掘り出した彫刻だという。

  • ワーグラー川を隔てたアジャンタ石窟

    ワーグラー川を隔てたアジャンタ石窟

  • エローラ遺跡で逢ったインドの仏教徒家族との記念

    エローラ遺跡で逢ったインドの仏教徒家族との記念

  •  ナグプール改宗広場&lt;ディークシャ・ブーミ&gt;での黄金祭、後方に見えるのはは改宗大塔。

     ナグプール改宗広場<ディークシャ・ブーミ>での黄金祭、後方に見えるのはは改宗大塔。

  • 第54回世界仏教徒大会で挨拶する佐々井秀嶺長老

    第54回世界仏教徒大会で挨拶する佐々井秀嶺長老

  • ナグプールの黄金祭を報じる現地新聞の写真

    ナグプールの黄金祭を報じる現地新聞の写真

  • アダント・アーリア・ナーガルジュナ。シューレイ・ササイ長老によって執り行われた出家得度式(授沙弥戒)の様子。現地新聞から

    アダント・アーリア・ナーガルジュナ。シューレイ・ササイ長老によって執り行われた出家得度式(授沙弥戒)の様子。現地新聞から

  • ラムテックの龍樹菩薩大寺落慶式で祝辞を述べる中央政府閣僚。現地紙から引用。

    ラムテックの龍樹菩薩大寺落慶式で祝辞を述べる中央政府閣僚。現地紙から引用。

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