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ぶどう発祥の菩薩さんのいる大善寺から勝沼宿、栗原宿と甲府盆地を歩きます。

甲州古道歩きno9. ぶどうの勝沼宿(29)から栗原宿(30)をへて石和宿(31)に向う

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2011/11/25 - 2011/11/25

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ぶどう発祥の菩薩さんのいる大善寺から勝沼宿、栗原宿と甲府盆地を歩きます。

  • 【新撰組の近藤勇像】この地の出身です。<br />下諏訪から甲州街道を通って江戸に迫る官軍を新撰組が迎え撃った場所だ。<br />柏尾古戦場跡(現在の深沢入口交差点の所)。近代装備の官軍に、剣一筋の新撰組は歯が立たず、一時間余りで勝敗が決した。新撰組はそれから散り散りになった。近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は官軍との1時間ほどの戦いで敗走し、江戸まで逃げ帰った。<br /><br />慶応4年(1868年)近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(幕府軍)は一旦勝沼まで進出したが、官軍に圧倒され柏尾まで撤退、東神願鳥居前を本陣とした。<br />対して板垣退助率いる東山道軍(官軍)は三手に分かれて柏尾に迫った。歯が立たず、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き払い、江戸に向けて敗走した。<br />勝沼町には柏尾戦争で戦死した、官軍側一名の墓があります。<br />

    【新撰組の近藤勇像】この地の出身です。
    下諏訪から甲州街道を通って江戸に迫る官軍を新撰組が迎え撃った場所だ。
    柏尾古戦場跡(現在の深沢入口交差点の所)。近代装備の官軍に、剣一筋の新撰組は歯が立たず、一時間余りで勝敗が決した。新撰組はそれから散り散りになった。近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は官軍との1時間ほどの戦いで敗走し、江戸まで逃げ帰った。

    慶応4年(1868年)近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(幕府軍)は一旦勝沼まで進出したが、官軍に圧倒され柏尾まで撤退、東神願鳥居前を本陣とした。
    対して板垣退助率いる東山道軍(官軍)は三手に分かれて柏尾に迫った。歯が立たず、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き払い、江戸に向けて敗走した。
    勝沼町には柏尾戦争で戦死した、官軍側一名の墓があります。

  • 【近藤勇 柏尾古戦場】<br />明治元年(1868)三月六日、近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる官軍の先鋒隊がこの地で戦った。<br />                        勝沼町教育委員会<br />【柏尾の戦い】<br />慶応4年(1868)3月5日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰め、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、宿内二箇所に通りを遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。夜にはいたる所で篝火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。<br />  3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道を因幡藩、諏訪藩、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。<br />  3月6日午後、最初の銃声は、等々力村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起こった。幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。柵を破り進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。宿通りを進軍する官軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。官軍は、五所大神の南ダイホウシンの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。<br /><br />【柏尾の古戦場】<br />  明治元年(1868)三月六日、近藤勇率いるかつての新撰組、会津藩兵からなる幕府軍甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。<br />  甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に二カ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道、岩崎方面、菱山越えの三手に分れ、攻撃を加えた官軍の前に破れ敢え無く敗走した。<br /><br /> 「この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。町内にはこの戦いで戦死した三人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が三個伝えられている。」<br />                 近藤勇像の台座に書かれた文章

    【近藤勇 柏尾古戦場】
    明治元年(1868)三月六日、近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる官軍の先鋒隊がこの地で戦った。
                            勝沼町教育委員会
    【柏尾の戦い】
    慶応4年(1868)3月5日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰め、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、宿内二箇所に通りを遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。夜にはいたる所で篝火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。
      3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道を因幡藩、諏訪藩、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。
      3月6日午後、最初の銃声は、等々力村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起こった。幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。柵を破り進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。宿通りを進軍する官軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。官軍は、五所大神の南ダイホウシンの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。

    【柏尾の古戦場】
      明治元年(1868)三月六日、近藤勇率いるかつての新撰組、会津藩兵からなる幕府軍甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。
      甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に二カ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道、岩崎方面、菱山越えの三手に分れ、攻撃を加えた官軍の前に破れ敢え無く敗走した。

     「この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。町内にはこの戦いで戦死した三人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が三個伝えられている。」
                     近藤勇像の台座に書かれた文章

  • 【真言宗智山派の柏尾山大善寺】の山門と正面の石段。(甲州市勝沼町)<br />約1300年前、養老2年(718)、修行中の行基の夢の中に、葡萄を持った薬師如来が現れた。 行基は夢と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが寺の始まりで、甲州葡萄発祥の地の「ぶどう寺」と言われる。山門は圧倒されるほど重厚な構え。<br /><br />【大善寺山門】 勝沼町指定建造物(昭和61年4月指定)<br />  三間一戸楼門、入母屋造、銅版葺。棟札により寛政十年(1798)に、土屋但馬守英直により再建されたもので、大工は大和村諏訪神社、三島神社の本殿を手掛けた土橋文蔵茂祇である。上下層とも三手先の組物をもちい、当時流行していた彫刻をおさえ重厚さを備えた大建築であり、比較的改変も少なく十八世紀末の甲州建築を知る上で貴重な建造物です。<br />                           勝沼町教育委員会<br /><br />山梨県文化財の庭園を望み、和を感じながらグラスワインが飲めるのも、大善寺ならでは。境内にぶどう棚やタンクがあり、ワインは住職と近所の檀家さんが造っています。境内の入り口近くにある客殿の中、寺の台所「庫裏(くり)」で頂けます<br /><br />2016年TBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の撮影場所。<br /><br />

    【真言宗智山派の柏尾山大善寺】の山門と正面の石段。(甲州市勝沼町)
    約1300年前、養老2年(718)、修行中の行基の夢の中に、葡萄を持った薬師如来が現れた。 行基は夢と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが寺の始まりで、甲州葡萄発祥の地の「ぶどう寺」と言われる。山門は圧倒されるほど重厚な構え。

    【大善寺山門】 勝沼町指定建造物(昭和61年4月指定)
      三間一戸楼門、入母屋造、銅版葺。棟札により寛政十年(1798)に、土屋但馬守英直により再建されたもので、大工は大和村諏訪神社、三島神社の本殿を手掛けた土橋文蔵茂祇である。上下層とも三手先の組物をもちい、当時流行していた彫刻をおさえ重厚さを備えた大建築であり、比較的改変も少なく十八世紀末の甲州建築を知る上で貴重な建造物です。
                               勝沼町教育委員会

    山梨県文化財の庭園を望み、和を感じながらグラスワインが飲めるのも、大善寺ならでは。境内にぶどう棚やタンクがあり、ワインは住職と近所の檀家さんが造っています。境内の入り口近くにある客殿の中、寺の台所「庫裏(くり)」で頂けます

    2016年TBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の撮影場所。

  • 【大善寺本堂(薬師堂)】<br />武田勝頼一行は、居城の新府城に火を放ったのち、この大善寺に一泊している。<br />この寺には、理慶尼(りけいに)という、勝頼の乳母だった人物が暮らしていて、このとき薬師堂で、勝頼、勝頼夫人、勝頼の息子の武田信勝と寝所を共にし、薬師如来に祈りを捧げた。<br />その後「理慶尼記」というものを記し、これが「武田滅亡記」と呼ばれることになる。「滅び」というのは、人間が記しておくべき、最も大切なテーマ。<br /><br />【国宝 大善寺本堂 一棟 付厨子一基】 (昭和30年6月指定)<br />  新義真言宗智山派の名刹大善寺の本堂は、薬師三尊像(弘仁仏・重要文化財)を安置するので薬師堂とも呼ばれる。<br />  方五間(桁行18.02m、梁間17.40m)の堂宇で、正面は中の三間を両開き桟唐戸、両端を連子窓とし、両側面の前寄り一間と背面中央一間の出入口以外はすべて板壁で、四周に切目縁を回らす。太い円柱上に豪放な、実肘木つき和様二手先の斗栱を組み、中備に間斗束を置き、軒支輪を付け、二重繁棰によって雄大な寄棟造桧皮葺きの屋根を支える。<br />  内部は前から二間通りを外陣、つぎの二間通りの中央三間を内陣とし、その後方と入側の一間通りをそれぞれ後陣及び脇陣とする。内陣には須弥壇を設け、厨子を置き、本尊を納め、その左右に薬師十二神将を配する。<br />  内陣・外陣とも、長大な虹梁を架す技法で中央三間通りの柱を抜き、堂内を広く使えるように配慮されている。虹梁の上には特色ある繰形付の花肘木をのせて上部に天井を受ける。内・外陣の境界は五間とも格子戸・菱組吹寄欄間によって厳しく仕切られるなど、古い密教建築の様風がよく遺されている。<br />  この建物は、執権北条貞時が勅命を奉じ「弘安九参月十六日」(内陣背面両隅柱の刻銘)甲信二か国の棟別銭の喜捨を得て再興した、中世和様建築の典型を示すものであり、本県最古の遺構でもある。昭和二十九年十二月解体復元修補が竣工した。<br />    昭和五十六年三月三十一日  山梨県教育委員会  勝沼町教育委員会

    【大善寺本堂(薬師堂)】
    武田勝頼一行は、居城の新府城に火を放ったのち、この大善寺に一泊している。
    この寺には、理慶尼(りけいに)という、勝頼の乳母だった人物が暮らしていて、このとき薬師堂で、勝頼、勝頼夫人、勝頼の息子の武田信勝と寝所を共にし、薬師如来に祈りを捧げた。
    その後「理慶尼記」というものを記し、これが「武田滅亡記」と呼ばれることになる。「滅び」というのは、人間が記しておくべき、最も大切なテーマ。

    【国宝 大善寺本堂 一棟 付厨子一基】 (昭和30年6月指定)
      新義真言宗智山派の名刹大善寺の本堂は、薬師三尊像(弘仁仏・重要文化財)を安置するので薬師堂とも呼ばれる。
      方五間(桁行18.02m、梁間17.40m)の堂宇で、正面は中の三間を両開き桟唐戸、両端を連子窓とし、両側面の前寄り一間と背面中央一間の出入口以外はすべて板壁で、四周に切目縁を回らす。太い円柱上に豪放な、実肘木つき和様二手先の斗栱を組み、中備に間斗束を置き、軒支輪を付け、二重繁棰によって雄大な寄棟造桧皮葺きの屋根を支える。
      内部は前から二間通りを外陣、つぎの二間通りの中央三間を内陣とし、その後方と入側の一間通りをそれぞれ後陣及び脇陣とする。内陣には須弥壇を設け、厨子を置き、本尊を納め、その左右に薬師十二神将を配する。
      内陣・外陣とも、長大な虹梁を架す技法で中央三間通りの柱を抜き、堂内を広く使えるように配慮されている。虹梁の上には特色ある繰形付の花肘木をのせて上部に天井を受ける。内・外陣の境界は五間とも格子戸・菱組吹寄欄間によって厳しく仕切られるなど、古い密教建築の様風がよく遺されている。
      この建物は、執権北条貞時が勅命を奉じ「弘安九参月十六日」(内陣背面両隅柱の刻銘)甲信二か国の棟別銭の喜捨を得て再興した、中世和様建築の典型を示すものであり、本県最古の遺構でもある。昭和二十九年十二月解体復元修補が竣工した。
        昭和五十六年三月三十一日  山梨県教育委員会  勝沼町教育委員会

  • 【大善寺本堂(薬師堂)】<br />関東で最も古い建造物。鎌倉時代に建てられたされ築730年以上。<br />流麗な線を持つ檜皮葺きの屋根は落ち着きを見せ、鎌倉時代の力強さがあらわれている。<br />薬師堂。そりが入った屋根は、「檜皮葺き(ひわだぶき)」という檜(ひのき)の樹皮を用いた工法で造られています。男性的で力強い、鎌倉時代の建築の特徴です。<br />本尊の薬師如来像は国重要文化財で、安置している薬師堂は弘安9年(1286年)の建立で国宝です。<br /><br />武田勝頼一行は、居城の新府城に火を放ったのち、この大善寺に一泊。<br />この寺には、理慶尼(りけいに)という、勝頼の乳母だった人物が暮らしていて、このとき薬師堂で、勝頼、勝頼夫人、勝頼の息子の武田信勝と寝所を共にし、薬師如来に祈りを捧げた。その後「理慶尼記」というものを記し、これが「武田滅亡記」と呼ばれることになる。

    【大善寺本堂(薬師堂)】
    関東で最も古い建造物。鎌倉時代に建てられたされ築730年以上。
    流麗な線を持つ檜皮葺きの屋根は落ち着きを見せ、鎌倉時代の力強さがあらわれている。
    薬師堂。そりが入った屋根は、「檜皮葺き(ひわだぶき)」という檜(ひのき)の樹皮を用いた工法で造られています。男性的で力強い、鎌倉時代の建築の特徴です。
    本尊の薬師如来像は国重要文化財で、安置している薬師堂は弘安9年(1286年)の建立で国宝です。

    武田勝頼一行は、居城の新府城に火を放ったのち、この大善寺に一泊。
    この寺には、理慶尼(りけいに)という、勝頼の乳母だった人物が暮らしていて、このとき薬師堂で、勝頼、勝頼夫人、勝頼の息子の武田信勝と寝所を共にし、薬師如来に祈りを捧げた。その後「理慶尼記」というものを記し、これが「武田滅亡記」と呼ばれることになる。

  • 正面で参拝した後は、ぜひ薬師堂の中へ。薬師堂には国重要文化財の「薬師三尊像(やくしさんぞん)」を安置しています。<br />手にぶどうをのせた「薬師如来像」を拝顔できるのは、五年に一度の御開帳時のみ。普段は手前に置かれた、前立ち木彫り「前立薬師如来(まえだちやくしにょらい)」が拝観できる

    正面で参拝した後は、ぜひ薬師堂の中へ。薬師堂には国重要文化財の「薬師三尊像(やくしさんぞん)」を安置しています。
    手にぶどうをのせた「薬師如来像」を拝顔できるのは、五年に一度の御開帳時のみ。普段は手前に置かれた、前立ち木彫り「前立薬師如来(まえだちやくしにょらい)」が拝観できる

  • 芭蕉句碑「勝沼や馬子は葡萄を喰ひなか?ら」<br /><br />甲州ぶどうの原種は、ワインに適したヴィテス・ヴィニフェラ種で、これがシルクロードを通り、日本にもたらされ、気候風土が適している勝沼地区に根付いたとされている。<br />江戸時代、このあたりはぶどうの産地として既に知られていた

    芭蕉句碑「勝沼や馬子は葡萄を喰ひなか?ら」

    甲州ぶどうの原種は、ワインに適したヴィテス・ヴィニフェラ種で、これがシルクロードを通り、日本にもたらされ、気候風土が適している勝沼地区に根付いたとされている。
    江戸時代、このあたりはぶどうの産地として既に知られていた

  • 楽屋堂。<br />上の本堂を背にして

    楽屋堂。
    上の本堂を背にして

  • 大善寺付近から、甲州市の町並みを展望できる絶景のスポットでもある。

    大善寺付近から、甲州市の町並みを展望できる絶景のスポットでもある。

  • 南アルプス連峰をのぞむ

    南アルプス連峰をのぞむ

  • 【勝沼宿】に到着です!<br />元和4年(1618年)に勝沼宿が開設され、甲府盆地の東端に位置し、この地方の物資集積の地として栄え、万治元年(1658)より市が立ち大いに賑わった。<br />天保14年(1843年)頃、勝沼宿の宿内家数は192軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠23軒で、宿内人口は786人でした。<br /><br />【槍掛けの松】のようです<br /><br />勝沼宿本陣に大名、公家などが泊まると、その目印に槍を立て掛けた老松。<br /><br />勝沼宿本陣跡、大名宿泊時の目印に槍を立て掛けた松<br /><br />上町に入ると脇本陣跡です、池田本陣跡があります。<br />本陣跡地に残る【槍掛けの松】と言われる。<br />勝沼宿本陣跡、大名宿泊時の目印に槍を立て掛けた松

    【勝沼宿】に到着です!
    元和4年(1618年)に勝沼宿が開設され、甲府盆地の東端に位置し、この地方の物資集積の地として栄え、万治元年(1658)より市が立ち大いに賑わった。
    天保14年(1843年)頃、勝沼宿の宿内家数は192軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠23軒で、宿内人口は786人でした。

    【槍掛けの松】のようです

    勝沼宿本陣に大名、公家などが泊まると、その目印に槍を立て掛けた老松。

    勝沼宿本陣跡、大名宿泊時の目印に槍を立て掛けた松

    上町に入ると脇本陣跡です、池田本陣跡があります。
    本陣跡地に残る【槍掛けの松】と言われる。
    勝沼宿本陣跡、大名宿泊時の目印に槍を立て掛けた松

  • 三階建ての蔵。<br />明治二十年頃(1887)の大火後、自己所有の山林(大和村)の木材にて造った、地下一階、地上三階の土蔵。<br />明治二十年頃の大火の後、自己所有の山林(大和村)の木材にて造った。<br />

    三階建ての蔵。
    明治二十年頃(1887)の大火後、自己所有の山林(大和村)の木材にて造った、地下一階、地上三階の土蔵。
    明治二十年頃の大火の後、自己所有の山林(大和村)の木材にて造った。

  • 栗原宿に残る【旧田中銀行社屋全景】<br />旧田中銀行社屋があります、国登録有形文化財で、経済産業省近代化産業遺産です、明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられ、大正9年(1920年)より昭和7年(1932)頃まで山梨田中銀行の社屋として利用された藤村式洋風建築の建物です<br /><br />藤村式建築の流れをくむ建物。明治三〇年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承をもつ入母屋造り、瓦葺、二階屋の建物で、大正九年より昭和七年ごろまで山梨田中銀行の社屋として利用された。<br /><br /> 外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに凝洋風建築の名残があります。また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。               勝沼町教育委員会

    栗原宿に残る【旧田中銀行社屋全景】
    旧田中銀行社屋があります、国登録有形文化財で、経済産業省近代化産業遺産です、明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられ、大正9年(1920年)より昭和7年(1932)頃まで山梨田中銀行の社屋として利用された藤村式洋風建築の建物です

    藤村式建築の流れをくむ建物。明治三〇年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承をもつ入母屋造り、瓦葺、二階屋の建物で、大正九年より昭和七年ごろまで山梨田中銀行の社屋として利用された。

     外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに凝洋風建築の名残があります。また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。               勝沼町教育委員会

  • 旧田中銀行

    旧田中銀行

  • 【諏訪神社】<br />等々力の産土神です。<br />境内のケヤキは目通り4.8m、樹高30m、樹齢300年と推定される勝沼町最大のケヤキです(勝沼町天然記念物指定)、境内には丸石道祖神が祀られています。

    【諏訪神社】
    等々力の産土神です。
    境内のケヤキは目通り4.8m、樹高30m、樹齢300年と推定される勝沼町最大のケヤキです(勝沼町天然記念物指定)、境内には丸石道祖神が祀られています。

  • 諏訪神社本殿

    諏訪神社本殿

  • この地でしばしば見かける球形道祖神

    この地でしばしば見かける球形道祖神

  • 自然石と組み合せた文化6年(1809)建立の【秋葉山常夜燈】があります。<br />傍らには丸石道祖神(上のフォト)が祀られています。

    自然石と組み合せた文化6年(1809)建立の【秋葉山常夜燈】があります。
    傍らには丸石道祖神(上のフォト)が祀られています。

  • 【栗原宿】に到着です!<br />栗原の地名はこの地を治めた栗原氏に由来。<br />天保14年(1843年)の頃、栗原宿の宿内家数は240軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠20軒で、宿内人口は1,057人でした。

    【栗原宿】に到着です!
    栗原の地名はこの地を治めた栗原氏に由来。
    天保14年(1843年)の頃、栗原宿の宿内家数は240軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠20軒で、宿内人口は1,057人でした。

  • ぶどうマンホール

    ぶどうマンホール

  • 【大宮五所大神】<br />大宮五所大神は栗原筋五十五ケ村の総鎮守でした。<br />社殿は歌舞伎造りになっています、往時歌舞伎興行の一座はここで芝居を打ち、評判を確認してから甲府に入りました。

    【大宮五所大神】
    大宮五所大神は栗原筋五十五ケ村の総鎮守でした。
    社殿は歌舞伎造りになっています、往時歌舞伎興行の一座はここで芝居を打ち、評判を確認してから甲府に入りました。

  • 神社の門も立派で、中には右大臣、左大臣が鎮座している。

    神社の門も立派で、中には右大臣、左大臣が鎮座している。

  • 大宮五所大神の境内<br />市指定の【天然記念物”クロマツ”】<br />幹は東に約30度傾き、地上約9.5mまでは枝はなく真っすぐに伸び、そこから数本の枝が笠状にしだれています。<br />本殿再建の時、クロマツを植えたと記されていますが、現存するクロマツの樹齢は不明です。台風などの災害で枝が折れましたが枝垂れ樹形もよく、特に樹皮の亀裂の深さやウロコの大きさはすばらしく、樹勢も旺盛です。<br /><br />根回り 3.25m<br />目通り 2.83m<br />樹高 12.00m<br />

    大宮五所大神の境内
    市指定の【天然記念物”クロマツ”】
    幹は東に約30度傾き、地上約9.5mまでは枝はなく真っすぐに伸び、そこから数本の枝が笠状にしだれています。
    本殿再建の時、クロマツを植えたと記されていますが、現存するクロマツの樹齢は不明です。台風などの災害で枝が折れましたが枝垂れ樹形もよく、特に樹皮の亀裂の深さやウロコの大きさはすばらしく、樹勢も旺盛です。

    根回り 3.25m
    目通り 2.83m
    樹高 12.00m

  • 【大宮五所大神】<br />社殿の前がかなり広い板敷きとなっており、舞台になる歌舞伎造りという珍しい建物。<br />勧請の年月日は不詳であるが、千百余年前の大同二年に神殿を再建したといふ言ひ伝へがある。往昔旧栗原筋五十五ヶ村の総鎮守と伝へ崇敬篤かったとのこと。御朱印旧社領は七石二斗七百六十九坪であった。今より二百数十年前「正一位大宮五所大権現」を拝し明治時代現在の社号とし郷社に列し現在に至る。境内の老松は山梨県指定天然記念物で、拝殿の絵馬七点は山梨市指定文化財。

    【大宮五所大神】
    社殿の前がかなり広い板敷きとなっており、舞台になる歌舞伎造りという珍しい建物。
    勧請の年月日は不詳であるが、千百余年前の大同二年に神殿を再建したといふ言ひ伝へがある。往昔旧栗原筋五十五ヶ村の総鎮守と伝へ崇敬篤かったとのこと。御朱印旧社領は七石二斗七百六十九坪であった。今より二百数十年前「正一位大宮五所大権現」を拝し明治時代現在の社号とし郷社に列し現在に至る。境内の老松は山梨県指定天然記念物で、拝殿の絵馬七点は山梨市指定文化財。

  • 南アルプス

    南アルプス

  • 【田安陣屋跡・水上稲荷神社】<br />第八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武は、1746(延享3)年、領地として甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨の6カ国にわたって10万石を与えられている。<br />甲斐ではこのあたり一帯を含めて、石高3万ほどを得ていた。<br />御三卿は、大名や御三家のように、家臣団による藩政を行っていたわけではなく、常時江戸城内にいて領国経営は幕府に任せていた。<br />「将軍家の家族・身内」という位置づけゆえで、彼らの役割は、将軍家の血筋を絶やさぬこと、その一点にあった。<br />第七代将軍徳川家継の死去により、秀忠からの男系子孫の将軍家が絶えたのちに、紀州藩主の四男という身の上からいきなり将軍になってしまった吉宗にとって、徳川の血筋を絶やさぬ仕掛けは、御三家だけでは不十分と見ていた<br /><br />【田安陣屋跡】 山梨県指定史跡(昭和56年5月指定)<br />  江戸幕府第八代将軍徳川吉宗の二男田安宗武は、延享三年(1746)領地として甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨の六か国にわたって十万石を与えられた。<br />  そのうち甲斐は山梨郡(ごおり)二十八か村、八代郡三十五か村の計六十三か村で、石高は三万四十一石六斗二升八合五勺、その後天保三年(1832)山梨・八代・巨摩三郡のうち四十か村、一万七千石が加えられた。<br />  現在、陣屋を囲んで濠の一部が北部と西部に遺り、北東の石積みの上には守護神の水上稲荷社が祀られている。<br />              昭和56年12月1日  山梨市教育委員会<br />

    【田安陣屋跡・水上稲荷神社】
    第八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武は、1746(延享3)年、領地として甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨の6カ国にわたって10万石を与えられている。
    甲斐ではこのあたり一帯を含めて、石高3万ほどを得ていた。
    御三卿は、大名や御三家のように、家臣団による藩政を行っていたわけではなく、常時江戸城内にいて領国経営は幕府に任せていた。
    「将軍家の家族・身内」という位置づけゆえで、彼らの役割は、将軍家の血筋を絶やさぬこと、その一点にあった。
    第七代将軍徳川家継の死去により、秀忠からの男系子孫の将軍家が絶えたのちに、紀州藩主の四男という身の上からいきなり将軍になってしまった吉宗にとって、徳川の血筋を絶やさぬ仕掛けは、御三家だけでは不十分と見ていた

    【田安陣屋跡】 山梨県指定史跡(昭和56年5月指定)
      江戸幕府第八代将軍徳川吉宗の二男田安宗武は、延享三年(1746)領地として甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨の六か国にわたって十万石を与えられた。
      そのうち甲斐は山梨郡(ごおり)二十八か村、八代郡三十五か村の計六十三か村で、石高は三万四十一石六斗二升八合五勺、その後天保三年(1832)山梨・八代・巨摩三郡のうち四十か村、一万七千石が加えられた。
      現在、陣屋を囲んで濠の一部が北部と西部に遺り、北東の石積みの上には守護神の水上稲荷社が祀られている。
                  昭和56年12月1日  山梨市教育委員会

  • 【田安陣屋跡碑】<br />一町田中の信号を、日川高校近くまで入った所。<br />第8代将軍徳川吉宗の次男田安宗武には延享3年(1746)甲斐山梨郡の領地として与えられ、ここに陣屋が置かれた。

    【田安陣屋跡碑】
    一町田中の信号を、日川高校近くまで入った所。
    第8代将軍徳川吉宗の次男田安宗武には延享3年(1746)甲斐山梨郡の領地として与えられ、ここに陣屋が置かれた。

  • 【田安家による甲斐国統治の拠点】<br />陣屋とは、江戸幕府の地方行政の拠点で、支配地における代官や旗本の役所や屋敷を指します。徳川吉宗の二男、田安宗武は、1746(延享3)年に甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨の6カ国・十万石を与えられました。<br />この陣屋は、その翌年の1747(延享4)年に置かれ、以後1870(明治3)年までの間、甲斐国の田安領統治の中心となりました。甲斐国は山梨郡28村・八代郡35村の計63村からなり、当初の石高は3万4千石でした。<br />現在、この陣屋跡は山梨市の指定史跡となっており、西側の一部に堀が残るほか、北東の隅の石積の上には守護神の水上稲荷社が祀られています。

    【田安家による甲斐国統治の拠点】
    陣屋とは、江戸幕府の地方行政の拠点で、支配地における代官や旗本の役所や屋敷を指します。徳川吉宗の二男、田安宗武は、1746(延享3)年に甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨の6カ国・十万石を与えられました。
    この陣屋は、その翌年の1747(延享4)年に置かれ、以後1870(明治3)年までの間、甲斐国の田安領統治の中心となりました。甲斐国は山梨郡28村・八代郡35村の計63村からなり、当初の石高は3万4千石でした。
    現在、この陣屋跡は山梨市の指定史跡となっており、西側の一部に堀が残るほか、北東の隅の石積の上には守護神の水上稲荷社が祀られています。

  • 【白山神社】南田中村の鎮守です。<br />この辺りは日川と重川と笛吹川の三河川が合流する所で、古来より河川氾濫に悩まされた。<br />白山神社は明治40年(1907)の水害後に再建されたものです。<br />社殿脇には水天宮が祀られ、境内には丸石道祖神がある。

    【白山神社】南田中村の鎮守です。
    この辺りは日川と重川と笛吹川の三河川が合流する所で、古来より河川氾濫に悩まされた。
    白山神社は明治40年(1907)の水害後に再建されたものです。
    社殿脇には水天宮が祀られ、境内には丸石道祖神がある。

  • 【響きの里】の呼び込み。ここで昼食をいただく。

    【響きの里】の呼び込み。ここで昼食をいただく。

  • 響きの里

    響きの里

  • 【白山神社【しらやまじんじゃ】

    【白山神社【しらやまじんじゃ】

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