2011/11/24 - 2011/11/26
5508位(同エリア11689件中)
真珠さん
卒論のテーマに、第二次世界大戦間の日本の対ユダヤ人政策を選択しました。
街並みを歩く事で、何か感じ取れるのでは?と思い、上海へ・・・。
1943年2月の日本軍の布告によって、無国籍避難民とされたユダヤ人は指定地域(虹口)に強制移住されました。
虹口は現在でもその名残を見ることができます。
ロシア系ユダヤ人が設立した旧摩西会堂は、ユダヤ難民記念館として公開、展示されています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- タクシー
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
PR
-
今回ホテルは、JCマンダリン。
ホテルからタクシーで15分ほど?
虹口にある上海ユダヤ難民記念館に到着。
入場料は50元。
どこかのサイトで、学割で入った!と言うのを見たけど。
係りの人に学割ありますか?とつたない英語で聞くと、通じなかったのか、無いのか、結局1人50元で入りました。
最終入館16:30。17:00閉館。
16時頃着きました。 -
旧摩西会堂です。これは中庭側から撮りました。
教会と2つの展示室で構成されています。 -
旧摩西会堂の中の様子。
3階建てだったような・・・。
1階が教会、2階がミーティングルームのようになっていて、3階が絵画など飾られていた(と思います。) -
展示室の中です。
杉原千畝さんの写真も飾られています。
杉原千畝さんが発行したビザによって、神戸に逃れて来たユダヤ難民。
運の良い者は、希望地のアメリカなどへ。
神戸から先に行く場所が無い人々は、上海に渡ったそうです。
上海で待ち受けていたのは・・・。 -
床にはナチス・ドイツと旧日本軍の写真が配置されていました。
当時は日本が上海を支配下に置いていたので、上海にいたユダヤ難民への対応は、日本政府、日本軍が担うことになりました。
しかし、当時日本はドイツと同盟国であり・・・。
杉原ビザで脱出できたはずのユダヤ難民は、ドイツと同盟国である日本の支配下・上海に逃れるしかなかったのです。
当時上海は、世界で唯一の無査証で行ける場所だったからです。 -
3つ目の展示室です。
ユダヤ難民の中で有名な日本人?と言えば、カノウ・ゴーヤ。
彼の名は、VTRのインタビューの中にも出て来ました。
ユダヤ難民がこう呼んだ「上海ゲットー」から、勤務や通学のため、指定地域から出るためには日本が管理する「許可証」が必要でした。
その管理を行っていたのが、カノウ・ゴーヤ。
ユダヤ難民には常に威圧的で、機嫌を損ねると、「許可証」を取り上げられたりされたようです・・・。
終戦後、ユダヤ人達にボコボコにされていたと言う目撃情報があります。
上海で暮らしたユダヤ人少女ウルスラ・ベーコンさんの自叙伝にありました。 -
上海ユダヤ難民記念館の周辺には、ユダヤ難民収容所が現存しています。
そしてこの歴史的建築物には、現在は中国人が住んでいるとのこと!
(確か魯迅の家も、今では中国人が住んでいると以前TVで見たような。) -
何と!文房具店まで!
-
この文具店の近くにいた猫タソ。
中国らしい、パンダカラー。
可愛かったなぁ〜♪
よかったら、旅行記サイト「もっと旅してたい」でも詳しく載せていますので、併せてご覧いただければと思います。
http://logbook.lolipop.jp
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 墨水さん 2013/03/16 23:51:53
- 興味深い。
- 真珠さん、今晩は。
「第二次大戦下の日本のユダヤ人政策」が卒論のテーマとか、非常に興味深いですね。
日本政府は、開戦後にジュネーブ条約遵守を敵対国に通達しています。
(当時の日本はジュネーブ条約に調印していますが、批准はしていないので条約遵守義務はない。)
ちなみに当時の米国は、ジュネーブ条約に調印していない。
うがった言い方をすれば、米国がおこなった日独に対する無差別爆撃は問題が有りませんが。
(米軍)無差別爆撃開始後の日独軍の(米軍)捕虜に対する待遇を変化させて、戦後の軍事裁判に米国は「人道に対する罪」を持ち出してくる結果と成りました。
(話が、始めから脱線してしまいました、申し訳ありません。)
上海ゲットーに居たユダヤ人のインタビューを、私もテレビで見ました。
ヒストリーチャンネルだったかな。
「ゲットー」という言葉は同じでも、上海の場合は意味が違っています。
世界中が戦争に巻き込まれていた時代、上海ゲットーは平和そのものでした。
死んだと思われていた人々が、戦後上海から米国に渡り米国の肉親達を驚かせた事は有名な話で。
極東軍事裁判での訴追条項から外されました。
(良い行いは、消し去られた。笑)
スピルバーグは映画「太陽の帝国」を製作したのは、日本に対する感謝の表れであると言われて言る。
当時の上海は租界地で形成されているが、開戦当時の租界地は主権を中華民国に返還しているが、行政権は占領という形で南支派遣軍が掌握していた。
租界地における証明書の管理は日本が一番厳格ですが、証明書があれば身分保障も厳格だった。
最も安全だった所が皮肉にも日本軍占領地だったので、当時の中国人が殺到した為に、厳格に行わないと治安が保てなかった為で、言葉の行き違いの為に混乱が生じていた事は事実ですが、差別的行為を日本が行った訳ではない。
墨水。
- 真珠さん からの返信 2013/03/23 17:44:47
- 墨水さま
- こんにちは。
返信が遅くなり、すみませんでした。
書き込みありがとうございます。
興味深いお話をありがとうございました。
確かに上海の「ゲットー」はユダヤ避難民が名づけた名称で、日本軍は「ユダヤ人居住区」としていたようです。
通行許可証がないと居住区内外の行き来も許可されず、厳格に管理されていたと研究書にありました。
その通行許可証の発給に関しては、「ゴーヤ」と言う日本人が掌握していたようです。元避難民のインタビューでも「ゴーヤ」の名前は出てきました。彼はある意味、有名人のようです。
上海ゲットーではとりあえず命は保障されていたかもしれませんが、平和そのものだったかどうかはわかりません・・・。実際は狭小で不衛生な環境下におかれていたようですから・・・。
少なくとも、私が参考した研究書等には、「日本政府と日本軍はユダヤ避難民を”保護”した」と言う意見はありませんでしたね。
何だかまとまらずにすみません。
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