2012/02/04 - 2012/02/04
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ちゃおさん
芭蕉がこの塩竃神社に参詣した江戸時代中期、元禄の頃は既に海も退潮し、この神社の長い石段のすぐ下から小舟に乗って松島まで渡ったとは思えないが、少なくともこの神社の創建当時は、石段の直ぐ下まで海が迫っていたと思われる。10年程前、その長い石段の上に立って、殆ど45度の角度で下に真っ直ぐ伸びている石段を見て、感慨深いものがあった。
江戸時代から比べ、今は又更に埋立等で神社は海岸線からより遠のいていて、塩釜港の近代的なフェリーターミナルを出て、海産物を売る土産物店街を通り抜け、更に東塩釜駅前を通り過ぎた先の丘の中腹に神社はあった。小雪舞う住宅地の裏の通りを神社に急ぐ。夕暮時、神社に向かう人も絶えていない。
裏の参道には尚何台かの車が駐車していて、この時間、まだ尚参詣者もいるし、車でやってきて、これから山門に向かう人もいる。夕暮時の参拝は自分一人ではなかったのだ。
塩竃神社。奈良時代初期、この直ぐ近くに大和朝廷の出先機関、多賀城並びに陸奥国司が置かれ、ほぼその頃この神社も創建されたと言われている。東北地方では一番古く且つ由緒ある神社。文治元年が何時の頃か知らないが、少なくとも奥州藤原が頼朝に滅ぼされる以前、藤原4代忠衡がこの神社に寄進した赤銅の灯篭があった。
芭蕉は奥の細道でその灯篭に触れ、「文治三年和泉三郎忠衡敬白」の文字を認めている。10年前、その大きな灯篭に触れ、赤錆びた表面をなで、芭蕉の時ですら既に500年経ち、芭蕉から数えても300年経った今もそこに灯篭があり、もう殆ど判別できない文字に触れ、義経を最後まで守り、衣川で打ち果てた忠衡を思い、芭蕉を思ったものだが、今又こうしてこの神社に来ることができる。無上の喜びであった。
今回の地震では多くの神社の石の鳥居が倒壊したが、この塩竃の鳥居は旧のままそこに立っていて、苔むした石の鳥居を潜り境内に入ると、山門の中にはまだ何人かの参詣者もいて、その参詣者に混じって一緒にお参りをした。正殿の左にある古木「多羅の葉」は旧来通りそこにあって今まさに赤い実を付けているが、右にある筈の「文治の灯篭」が見えない。
今回の地震で倒れたのだろうか、それとも何かの事情で別の場所に移動移されたのだろうか・・。諦めて一旦は帰りかえたのだが、まま、社務所に残っていた巫女の一人に聞いてみると、あるではないか!そこに! 一昨日の節分会の際、足場を組んだ豆撒き台の下に隠れるようにして、ひっそりと佇んでいた。
足場があるので近付いて触ることはできないが、遠くからでもその赤銅色のオーラを感ずることができる。800年の歴史を越えて錆びた鉄の塊は人々の魂に木霊する。300年前の芭蕉がそうであったように、20年前の司馬遼太郎がそうであったように。多くの見ず知らずの参詣者にとってもそうであった。
滅びることと滅びざること。義経、忠衡は無惨に滅び、司馬遼太郎も今はない。しかしこの神社、灯篭、俳句、司馬の精神は今に生きている。日本人が行き続ける限り滅びることはないだろう。
もう殆ど人気の絶えた境内を後に、山門の中腹から塩竃の町、塩竃湾を眺め、遠く江戸時代、平安時代、奈良時代を思い、時折小雪舞う参道を下り降り、東塩釜の駅に向かった。これから仙石線に乗って真っ直ぐ仙台駅へ出て、そのまま帰京しよう。この直ぐ先に多賀城址の壺の石文もあるが、今日は止めておこう。今からの時間ではもう真っ暗で何も見えない。既に今日1日で十分見歩いた。実に実り多い1日だった。
< 小雪舞ふ 古き社に 古き灯 >
完
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