2012/01/28 - 2012/01/28
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風に吹かれて旅人さん
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(この写真は三重県庁舎内)
今回の明治村散策は
⇒ボランティアのガイド
幸田露伴住宅「蝸牛庵」
神戸山手西洋人住居
⇒催しが三重県庁舎なので
それらを中心に真冬の博物館明治村を
木枯らしが吹き捲くり
寒さも加わり、人影も少なく
趣くまま歩いてみました。
注釈コメントは、殆ど明治村サイトより
後日コメントを入れます・
2011 冬の明治村へ
http://4travel.jp/traveler/isazi/album/10540214/
少し前の
新春の明治村を訪ねて
http://4travel.jp/traveler/isazi/album/10300659/
博物館明治村を散策
http://4travel.jp/traveler/isazi/album/10414776/
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帝国ホテル中央玄関 5丁目67番地
旧所在地 東京都千代田区内幸町
建設年代 大正12年(1923)
この建物は、20世紀建築界の巨匠、
アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、
大正12年(1923)4年間の大工事の後に完成した
帝国ホテルの中央玄関部である。 -
帝国ホテル中央玄関
皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは
総面積34,000?余の大建築で、
中心軸上に玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、
左右に客室棟が配されていた。
全体計画から個々の客室に到るまで、
きわめて多様な秀れた空間構成がなされ、
それまでの建築空間が主として平面的なつながりであったものを、
立体的な構成へと発展させた世界的に重要な作品である。 -
内閣文庫
大蔵省技師の大熊喜邦により、
1911年に皇居大手門内に建てられた。
ルネサンス様式による明治洋風建築の教科書的作品で、
正面の円柱はギリシャ・ローマの神殿をほうふつとさせる。
政府の公文書や古文書などが収蔵された。 -
内閣文庫
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内閣文庫
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川崎銀行本店 5丁目57番地
旧所在地 東京都中央区日本橋
建設年代 昭和2年(1927)
川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調としており、
当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築である。
構造は鉄筋コンクリート(一部鉄骨)造、
外壁は御影石積で地上3階、地下1階建、間口約38メートル、
高さ約20メートルの建築であった。
関東大震災以前の大正10年に起工され、
6年間の工期を費やして昭和2年に竣工した。
設計者の矢部又吉は、ドイツのベルリン工科大学に学び、
帰国後多くの銀行建築を設計したが、
この建物はその代表作といえる。 -
イチオシ
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川崎銀行本店
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ハワイ移民集会所
旧所在地 アメリカ・ハワイ州ヒロ市
建設年代 明治22年(1889)頃 -
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宗教大学車寄
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宗教大学車寄 3丁目33番地
旧所在地 東京都豊島区西巣鴨
建設年代 明治41年(1908)
この建物は、現在明治村3丁目の岬の広場に
「あずまや」の如く建てられているが、
本来は明治41年(1908)東京郊外の巣鴨に新築された
私立宗教大学本館の車寄であったものである。 -
神戸山手西洋人住居
3丁目32番地
旧所在地 神戸市生田区山本通
建設年代 明治20年(1887)代 -
神戸山手西洋人住居
神戸市の街中に、明治中期に建てられた外国人住居。
狭い敷地という悪条件の中、
ベランダの柱間に変化を持たせ、
左右非対称とするなど、
洗練されたデザインを駆使して、
建物を実際よりも大きく見せている。 -
神戸山手西洋人住居
それぞれ木造総二階建の主屋と
付属屋からなる住宅であるが、
建物の沿革は余り明確にはなっていない。
明治20年代(1887〜1896)に建てられたものと推定され、
当初は外国人のものであったと思われるが、
同29年(1896)には日本人増田周助の所有であったとの記録がある。 -
神戸山手西洋人住居
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神戸山手西洋人住居
主屋は上下階とも同じ間取りになっている。
玄関、階段、中廊下を一まとめにし、
左右に一部屋づつを配して、
ベランダをL字に添わせている。
付属屋一階には使用人が居たが、
他のどの部屋とも結ばれておらず、
主人家族のプライバシーの枠外とされていた。 -
神戸山手西洋人住居より宗教大学車寄
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神戸山手西洋人住居
この住宅では、敷地が狭いという悪条件の中で
建物をより良く見せるため、
工夫がこらされている。
ベランダの柱を整然とは建てず、
場所によって二本、三本と並べ、
その間隔もまちまちにすることにより、
建物に変化を持たせ実際以上に大きく見せている。
又、ベランダから室内へ数多くの出入り口を設けているのは、
余り広くない室内をベランダと一体で使うための配慮であろう。 -
菅島燈台付属官舎
1873年、三重県鳥羽沖合の菅島に
イギリス人技術者によって建設された
菅島燈台の付属官舎。
西様風住宅の形式は当初の外国人職員のためのもの。
当時の島民も建設に協力し、
建物に使われたレンガや瓦も地元の産である。 -
「品川燈台」
フランス人技術者の手により
1870年に建設された現存最古の燈台。
江戸防備のために築かれた人工島の品川台場に建ち、
対岸の木更津まで光が届いた。
西を示す方位文字に仏語の
「Ouest」の頭文字が残されている。
文・石川新太郎(明治村建造物担当) -
「品川燈台」 から入鹿池
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「品川燈台」から川崎銀行
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「品川燈台」 から入鹿池
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西園寺公望別邸「坐漁荘(ざぎょそう)」
1920年に西園寺公望が、
静岡市の海岸に建てた。随所に竹が使われ、
欄間や玄関、取次ぎが特にしゃれている。
うぐいす張りの廊下や浴室の非常用くぐり戸など、
要人の邸宅としての工夫もあちこちにされていた -
西園寺公望別邸「坐漁荘(ざぎょそう)」
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西園寺公望別邸「坐漁荘(ざぎょそう)」
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幸田露伴住宅「蝸牛庵」 3丁目26番地
旧所在地 東京都墨田区東向島
建設年代 明治初年(1868)代
明治10年代(1877〜1886)、
下火となっていた戯作文学が、
自由民権論、国権論、アジア主義等の隆盛に呼応した
政治小説の形で復活してくるが、
これとは別に人間の内面を描き出そうとする動きも出てきた。
明治18年(1885)坪内逍遥は「小説神髄」を刊行して
小説の新しい方向を提唱、
これに応じる形で二葉亭四迷の「浮雲」が生まれたが、
逍遥の内面尊重の主張はさらに幸田露伴へと受け継がれ、
東洋的な観念を主題とする作品に結実してゆく。 -
幸田露伴住宅「蝸牛庵」
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幸田露伴住宅「蝸牛庵」
露伴は幼少の頃算術を得意とし、
長じて電信を学び、電信技手を勤めるが、
傍ら漢籍や仏書を読破し、
「小説神髄」に触発されて明治20年(1887)21才の時、
官を辞した。
その翌年発表した処女作「禅天魔」が尾崎紅葉の目にとまると、
文筆の世界に足を踏み入れ、
「風流仏」「対髑髏」「五重塔」等次々に発表、
紅葉とともに紅露時代として一世を風靡した。 -
幸田露伴住宅「蝸牛庵」
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露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、
やどかりのように幾度となく住まいを変えている。
隅田川の東にあったこの家もその内の一つで、
明治30年(1897)からの約10年間を過ごしている。
周辺には江戸時代から豪商の寮(別邸)や下屋敷が多く、
この建物もその雰囲気を伝えるとともに、
深い土庇のある座敷には水鳥を形どった釘隠しが付けられ、
墨東の名残もとどめている。
町屋と異なり、まわりの広い庭に自由に延び拡がった建物で、
廊下を軸に玄関、和室、付書院のある座敷が千鳥に配されている。 -
幸田露伴住宅「蝸牛庵」
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北里研究所本館・医学館
細菌学の大家・北里柴三郎が1915年、
東京都港区内に建てた。
八角形の塔や小窓の付いた腰折れ屋根などが目を引く。
顕微鏡観察のため、建物南側に廊下を配し、
北側の部屋に外光を直接取り込めるよう工夫された -
北里研究所本館・医学館 3丁目25番地
旧所在地 東京都港区白金
建設年代 大正4年(1915)
八角尖塔を頂く木造二階建のこの建物は、
日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が
大正4年(1915)芝白金三光町に建てた研究所の本館である。 -
三重県庁舎
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三重県庁舎
三重県土木課技師の清水義八により、
1879年に建てられた。模擬風建築で、
玄関を挟み左右対称の造りは、
当時の官庁の典型だった。
扉や額縁には、
素地を見せずペンキで木目を描く
木目塗りという技法が使われている。 -
三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎
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三重県庁舎からレンガ通りへ
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三重県庁舎から東山梨郡役所へ
東山梨郡役所 2丁目16番地
《重要文化財》
旧所在地 山梨県山梨市日下部町
建設年代 明治18年(1885) -
北里研究所本館・医学館から
東山梨郡役所へ -
レンガ通りから三重県庁舎へ
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宇治山田郵便局
伊勢神宮外宮前に1909年、建てられた。
正面中央の3つのドームや
欄間部分のしっくい塗りレリーフなど
斬新な造りとなっている。
内部も高窓から取り込んだ外光と
チューリップ形の照明が、
ハイカラな空間を演出している。 -
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宇治山田郵便局
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イチオシ
宇治山田郵便局 4丁目46番地
《重要文化財》旧所在地 三重県伊勢市豊川町
建設年代 明治42年(1909)
明治3年(1870)太政官から郵便事業開始の達示が出され、
翌4年には郵便の利用方法についての細かい規則が布告された。
これに伴ない、
同年東京江戸橋に日本最初の郵便役所(郵便局)が建てられ、
近代郵便事業が開始された。
その後各地に郵便役所が建てられ、
伊勢の宇治山田にも同5年わずか4坪(13.2?)の小さな役所が開業した。
郵便事業が近代国家の一翼を担って発展し、
電信電話事業をも行うようになると、
事業の拡大につれて、宇治山田郵便局は移転につぐ移転を重ね、
明治42年(1909)伊勢外宮前の角地にこの建物を新築した。 -
宇治山田郵便局
木造平家建銅板葺で、
中央には円錐ドームの屋根を頂き、
両翼屋には寄棟の屋根をふせており、
正面の左右には小ドームの載る角塔を立てている。
外装はハーフティンバー様式で、
漆喰塗と下見板張の壁が使いわけられ、
欄間部分には漆喰塗のレリーフが施されている。
窓には3段或いは4段の回転窓が付けられているが、
これは他に余り例をみない形式である。
入口を入ると円形の「公衆溜」と呼ばれたホールがあり、
その周囲にはカウンターが廻らされている。
ホールの天井は、まわりの事務室部分より一段と高くされ、
高窓から光を入れている。
天井の中心からはチューリップ型のシャンデリアが下げられている。
このように公衆用のホールを中心に据えた形は、
新時代の計画といえよう。 -
宇治山田郵便局
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聖ザビエル天主堂
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聖ザビエル天主堂 5丁目51番地
旧所在地 京都市中京区河原町三條
建設年代 明治23年(1890)
この白亜の教会堂は、
近世初頭日本に渡来しキリスト教の
伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、
明治23年(1890)かつてザビエルがいたことのある
京都の地に献堂されたカトリックの教会堂で、
フランス人神父の監督の下に、
本国から取寄せた設計原案に基づき、
日本人の手で造られたものである。 -
聖ザビエル天主堂
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イチオシ
聖ザビエル天主堂
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聖ザビエル天主堂
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聖ザビエル天主堂
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聖ザビエル天主堂
フランス人神父の指導の下、
1890年に日本人大工の手で、
京都・河原町に建てられた。
典型的なゴシック建築によるカトリック教会堂で、
総ケヤキの列柱、色ガラスに草花を描いた
ステンドグラスが生み出す内部空間が美しい。 -
天童眼鏡橋
1887年に山形県天童市の倉津川に
架けられた石造アーチ橋。
山寺石という地元の砂岩が使われている。
西洋土木技術による街路の近代化が、
地方にも波及した一例で、
中国から伝来した長崎の眼鏡とは、
構造などが異なる -
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米国の建築家F.L.ライトの設計。
幾何学的に彫られた大谷石や
透かし入りのレンガが使われた姿は、
宮殿のような品格と、積み木の楽しさを持ち、
20世紀を代表する名建築の一つとして、
世界中から賞賛されている。
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