2012/01/01 - 2012/01/01
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しんちゃんさん
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「日本三大地蔵」「念仏踊り発祥の地」「死者の集まる霊場」地元にいても中々訪れる機会がありませんでした。栃木県に存在する三重の塔、五重の塔は4.3塔。理由は「輪王寺三重塔、東照宮五重塔、西明寺三重塔、高勝寺三重塔、の4棟と茂木荒橿(あらかし)神社」の一部だからです」参考は「http://4travel.jp/traveler/hatago/album/10608005/」をご覧下さい。岩船山高勝寺 説明版からです。【岩船山高勝寺(天台宗)宝亀8年(西暦775年)第49代光仁天皇の御代伯州 (鳥取県)大山の僧弘誓坊明願によって、開山された岩船山に関東の高野山日本三地蔵の第一の霊場といわれている。先住民族の間に高い岩肌の出た山に霊魂が集まり死ぬと霊はこの山へ昇るという宗教があった。岩船山は、死者の集まる所、霊魂の集まる所として民族学的に非常に貴重な山である。岩船山とは山全体が一艘の船の形をしており、子供の霊を供養する所である。また位牌がなまって、岩船となったともいわれている。本尊は子育子授地蔵としても有名であり、徳川四代将軍は岩船地蔵の申し子といわれている。…続く
- 交通手段
- 自家用車
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…続きです_亨保年間に諸堂の大改修が行われ、寛延4年(1751年)に三重の塔が建立された。その頃、岩船節といわれる念仏が関東一円に流行したといわれ、昭和16・7年頃まであった。踊り念仏はその名残りといわれている。なお、春秋の彼岸には関東一円より多くの人々で賑わう。 昭和四47年4月 岩舟町教育委員会】仁王門から御参り開始。
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仁王の「阿(あ)」さんです。
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仁王の「吽(うん)」さんです。
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仁王門。お参りに600段の階段は“はしょり”ました。岩舟山東側から自動車にて駐車場へ、この仁王山門のお隣です。
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山門の彫刻
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本堂への階段。1月1日(元旦)ですが出店なし。人の賑わいは少々。
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「地蔵菩薩坐像」1724年(享保9年)鋳造。説明版からです。【岩舟町指定有形文化財 岩船山高勝寺の大仏・燈籠 昭和47年4月1日指定 岩船山高勝寺(いわふねさんこうしょうじ)は、宝亀(ほうき)年中(770〜781)に伯耆(ほうき)国(鳥取県)大山(だいせん)の山麓(さんろく)に住んでいた弘誓坊明願(ぐぜぼうみょうがん)がひらいたと伝えられています。高勝寺では、正徳(しょうとく)3年(1713)から大規模な寺院建築のために、岩船地蔵を各地にたてるなどの布教活動が行われました。このことにより岩船山の名声は一層高まり、多くの民衆の力によりお堂や塔などが完成しました。大仏や燈籠は、この活動がきっかけとなってたてられたものと考えられます。続く…
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手水鉢
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本堂。燈籠は…
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続きです…大仏は享保9年(1724)に、佐野天明鋳物師丸山善太郎毎昭(さのてんみょういものしまるやまぜんたろうことあき)によってつくられました。また本堂前の燈籠4基も、宝暦(ほうれき)13年(1763)に丸山善太郎毎昭によってつくられました。平成2年3月 岩舟町教育委員会】
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燈籠の施主。裕福な家柄でしょうか。
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本堂。
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本堂。
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本堂。
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本堂内部。
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初めて見る方はびっくりするでしょう。亡くなった方々の衣類が本堂内部に吊るしてあります。
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本堂わきの崖には塔婆がたくさん。
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しかも、墓碑に衣類が掛けてあります。亡くなった方が身に着けていた物のようです。
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異様な光景。
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「孫太郎尊」方向へ探索開始
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「孫太郎尊」から帰る親子
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「孫太郎尊」
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「孫太郎尊」内部。「松田孫太郎康郷」で検索すると多数のWebが出てきます。1564年上杉謙信が北条方の下総国臼井城を攻めたとき、上杉方を撃退した武勇があり、「岩舟山に赤鬼の住むと沙汰しけるは、一定彼がことなるべし。」と感嘆したという。
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さらに上へ登ります。
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途中のお地蔵さん
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頂上の広場とお堂
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お堂。この崖下でロケに使われる場所があります。岩船石の砕石場跡が多くのテレビ番組、映画の撮影に利用されました。地元PRの「わたらせからの風より」によると、夏目雅子・堺正章の「西遊記」、「美少女戦士セーラームーン(実写版)」、「仮面ライダー響鬼」、「ウルトラマンマックス」等の怪獣、妖怪と戦うシーン、滝沢秀明の「里見八犬伝」(2006)、長谷川京子の「最後のナイチンゲール」(2006)、福山雅治の「ガリレオ」(2007)、 2009年の「黒部の太陽」(フジテレビ)等々。
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お堂内部
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頂上の広場から西南側の「三毳山(みかもやま)」万葉集に詠まれた山です。
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頂上の広場から下山する途中も異様な風景
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卒塔婆一杯の山並み
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三重の塔へ下山しました。
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三重の塔
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三重の塔
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三重の塔の彫刻
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三重の塔の台座部分
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三重の塔の彫刻
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お寺の南側
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高勝寺が高台にあることが分かります。
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600段の階段を登って来る方
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六地蔵
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Wikipediaからです。【三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる(「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして、日本各地に存在する)。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。】
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「賽の河原」から「西院の河原堂」への階段
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説明版からです。【岩舟町指定文化財(建造物) 西院の河原堂 昭和47年4月1日指定 西院の河原堂とは俗に賽の河原のことで、賽の河原で地蔵が子供を救うということから、西院信仰もまた普及しました。特に「一重積んでは父を呼び、二つ積んでは母恋し…」という地蔵和讃がこの西院信仰を更に広めました。 平成13年3月 岩舟町教育委員会】
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本堂北側「奥の院」へ探索しました。本堂北側の「孫太郎尊」との分岐点から出発です。期待外れこんなもんでした。
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奥の院「地蔵尊」
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「奥の院」から北側は“崖っぷち”何もありません。崖だけ!
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「奥の院」北側の“崖っぷち”
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東日本大震災で崩れたはしご
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「寺務所」“事務所”ではありません。
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鐘楼堂
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「血の池」
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「血の池」
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岩船山から下山して「奥の院」北側の“崖っぷち”を撮りました。元旦の地震時は奥の院を歩いている最中でした。写真に夢中で気が付きませんでした。かみさんに「すごい地震だったでしょ」と言われても「ほんと?」平和な元旦でした。
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