2012/01/26 - 2012/01/26
856位(同エリア4590件中)
愛吉さん
あじさい会に入っています。
あじさい会とは、同じ区内に住む60歳以上の親睦団体で、元は区主催の勉強会がスタートです。
月1回幹事を定め、定例会を開催します。
今月の幹事を担当しました。
テーマは、NHKの大河ドラマ 坂の上の雲 からヒントを得て、正岡子規 終焉の地、根岸子規庵をスタートし、その足跡を訪ねて根岸の里を歩く事にしました。
下見も済ませ、今日が開催日です、参加は10名でした。
表紙は、根岸子規庵のパンフレット
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- JRローカル
- 旅行の手配内容
- その他
-
集合は、JR鴬谷駅北口、午前10時30分。
天候は晴、全員揃った処で出発です。 -
5分も歩くと道の脇に、小さな道標が出ています。
それに従い横道に入ります。 -
すると、片側の塀に、このような説明板と子規の句が掲示されて居ました。
”はなすすき 百万石を 枯れにけり” -
説明板にあった八二神社です。
昔は、加賀屋敷の中に在りましたが、今はビルに埋まりそうです。
”坂の上の雲”では、この社に、秋山真之夫人が夫の武運長久を、長時間祈っているのを、正岡家の人々が迎えに出るシーンが有りましたね。 -
子規庵に到着しました、正面の門です。
戦災で焼けましたが、当時のまま復元されています。
開場は10時半、本日の一番乗りです。
子規はこの家に、明治27年2月から亡くなる明治35年9月19日迄の8年半住み続けました。
”加賀様を 大家に持って 梅の花” 子規
又その間、多くの文人達が訪ねています。
パンフに依ると、夏目漱石、森鴎外、中村不折、浅井忠、高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節、島崎藤村、与謝野鉄幹、等々がこの門を潜りました。
尚子規亡き後も、母親と妹が、この家に住み続けています。
”坂の上の雲”最終回、日本海海戦後、秋山真之が、この門の前に立ちながら、そのまま立ち去る場面が印象的でした。 -
門の脇に掲げられている案内板です。
それでは、中に入りましょう。
家の中は、撮影禁止です。
間取りは、玄関、八畳の居間、六畳の病室、4畳半の次の間、台所、トイレといった小さな家です。
句会その他の会合は、八畳の居間で行い、病室との境は衝立で仕切ったそうです。
ドラマでは子規死後、この八畳間で夏目漱石が、妹の律に叱られる場面が有りましたね。 -
家の中で当時を偲び、写真に残る子規そのままに、その場に横になり、庭の糸瓜を眺めて来ました。
次は庭に出て、糸瓜棚と病室を写します。
病室前の糸瓜棚は、冬の間もそのまま残しておくそうです。
”をとといの、へちまの水も、取らざりき”
子規の絶筆三句の内、最後の句です。 この句をつくった数時間後に亡くなりました。 -
今度は踏み石に乗って庭の奥を写します。
手前の立て札には、
”ごてごてと 草花植えし 小庭かな”
今小園は、余が天地にして、草花は余が唯一の詩料となりぬ。
小園の記 明治三一年と記されています。 -
上の写真で、奥の方に写っているのが、この石碑です。
立て札には、子規庵の保存に尽力された寒川鼠骨翁の句 と記されて居ます。
”三段に、雲南北す、今朝の秋”
いい句ですね。
鼠骨が居たからこそ、今日の子規庵が維持され、多くの資料が残りました。
感謝感激です。
鼠骨自身も、子規の没した同じ六畳間で、昭和二九年八月一八日、七九歳で亡くなりました。 -
庭の横にある井戸です。
当時正岡家が使用していたそうですが、位置から考え、共同井戸だったと思われます。
少なくとも二軒長屋のもう一軒とは共用です。 -
庭の片隅にある、絶筆三句の碑です。
絶筆三句の書かれた経緯が書かれています。
”糸瓜咲きて、痰のつまりし、仏かな”
”痰一斗、糸瓜の水も、間にあわず”
”をとといの、へちまの水も とらざりき”
上の方に嵌めてある銅版が欠けてしまいました。
紙の大きさ、字体等、そのまま銅版に写したものです。 残念 -
庭の片隅にある子規文庫、子規死後、鼠骨が建てた土蔵で、この中に遺品、資料等を納めていた為、戦災での焼失を免れました。
今も倉庫として使用しています。
子規文庫の壁には、子規庵訪問時に投句された俳句が張られて居ました。
これで子規庵の内外部を一巡しました、もう少し明治の余韻に浸りたいとこですが、お別れして向いの、台東区立書道博物館に向います。 -
書道博物館の入口です。
この博物館は、洋画家でもあり、書家でもあった中村不折が、生涯を掛けて収集した日本及び中国の書道に関する資料館で、重要文化財12点、重要美術品5点を含む一大コレクションです。
平成7年12月、中村はこれを台東区に寄贈し、平成12年4月、この地に区立博物館として開館されました。
建物は、本館と中村不折記念館の2棟からなります。 -
中庭には、中村不折の胸像が建っています。
-
今回見学したのは、写真のパンフレットの内容です。
素晴らしい内容です、現在国立博物館で開催されている、北京故宮博物院展にも劣らないと思います。
王義之、王献之の書を始め、世界的有名な拓本も多く展示され、感動しました。
展示会場は、写真不可なのが残念です。
昼食の予約時間が迫ったので、後ろ髪を引かれる思いで、博物館を後にします。 -
昼食の場所は、ここ根岸 笹乃雪です。
笹乃雪は、元禄時代から続く老舗で、初代が上野の宮様のお供で京から江戸に出て、江戸で初めて絹ごし豆腐を作り評判となり、この地で豆腐茶屋を開いたのが始まりだそうです。
名前の由来は、その宮様が豆腐を見て、笹の上に積もりし雪の如き美しさ、と褒めた事から取ったそうです。
子規もここの豆腐は食べた筈です。 -
店の前には、子規の句碑が建って居ます。
子規直筆だそうです。
”水無月や 根岸涼しき 笹の雪”
”あさがおに 朝商いす 笹の雪” -
反対側には、短冊が貼り付けて有ります。
叔父の欧羅巴へ赴かるるに、笹の雪を贈る
”春惜しむ、宿や日本の豆腐汁”
正岡子規 明治35年 -
料理は朝顔御膳を頼みました。
これは最初に出て来た、生盛なますと冷奴
ここの豆腐は、明治時代と同じ製法で造っているそうです。
子規も食べた味です。 -
胡麻豆腐
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あんかけ豆腐、2碗出て来ます。
これは上野の宮様が、ここで昼食をとった時、あまりに美味しいので、今後は2碗づつ出す様にと言われたのが始まりだそうです。 -
絹揚げ豆腐
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湯葉巻きの豆乳蒸し
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うずみ豆富 (御茶漬け) 香の物付
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最後は豆富アイスクリーム
これで一人2600円でした。
お腹が膨れたところで、子規の後を追って散策に出掛けましょう。
子規の歩いた道です。 -
笹乃雪を出て、子規庵より1本奥の辻を左に入ります。
子規、虚子別れの辻と呼ばれる通りで、突き当りが御陰殿通りです。
当時訪ねて来た虚子を、子規がここらあたり迄送って来たのでしょう。
左側に林家三平堂があります、当然当時は有りません。
しかも今日はお休みです。 -
少し歩くと、今度は引手資料館がありました。
襖の引手の資料館です。 色々な種類の引手があります。
中に入らず表の陳列ケースを覗くだけで素通りします。 -
今度は反対側に、根岸薬師寺(堂)が有りました。
昔寛永寺の住職が隠居したお寺で、御陰殿と呼ばれ、史跡に指定されています。
”藤咲いて めやみ籠るや 薬師堂”子規 -
道を線路に沿って進むと、左側に古風な造りの店が見えて来ました。
角に石の道標が立ち、王子街道と読めます、ここは昔の街道筋です。 -
暖簾には羽二重と書かれています。
ここが江戸時代から有名な羽二重団子の店です。
そういえば、”坂の上の雲”で、秋山真之が子規の自宅を訪問する折り、途中茶店で団子を食しながら、子規の家を知っているかと聞くシーンが有りましたね。
きっとこの団子やをイメージしたのでしょう。 -
入口横には、正岡子規と当店と書いた看板が掲げられていました。
又そこには団子屋の句三句も添えられています。
"芋坂の 団子の起こり 尋ねけり”
子規が食べたのと同じ、あん付3本焼1本を、御土産に購入します。 -
日暮里からJRに乗り、2つ目の田端で下車します。
秋山真之は、子規庵から田端迄歩いたそうですが、我々は電車に乗りました。
先ず駅前の田端文士村記念館に立寄ります。
田端は、明治から大正、昭和の初めに掛けて、多くの文士芸術家が移り住み、田端の文士村を形成しました。
尚芥川龍之介は、昭和2年この地で自殺しています。
この記念館は北区文化振興財団が運営する処で、当時の文士達の資料等を集めて展示しています、又散策用の地図も置いてあります。
しかし私達がここを訪れた目的は、ここに正岡子規のコーナーがあって、そこに子規の絶筆三句と自筆の墓碑銘原稿が展示されているからです。
勿論、現物通りに作られたレプリカですが、子規を知る者にとっては一見の価値があります。
その他にも、埋葬当時の墓の写真等も展示されていました。
館内撮影禁止なのが残念です。
それでは、ここを出て、いよいよ最後の子規の墓所へと向かいましょう。 -
大竜寺に到着しました。
思ったより大きなお寺です。 -
門の前には、子規居士の墓所と記した石碑が有ります。
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大竜寺の説明書
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本堂の正面
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本堂の屋根、立派です。
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本堂の裏にある墓地の中程、左側のはずれに子規の墓はあります。
中央に子規居士之墓、左に正岡氏累世墓、右に正岡八重墓とあります。
八重さんは、子規の母親です。子規に呼ばれて東京に出て来ました。
”母人は 江戸はじめての 春日かな”子規
田端文士村記念館で見た古い写真によると、当時の墓は一本の木の杭が立っているだけでした。
墓の裏側には、明治三十五年九月十九日没と書かれています。
三十四年と十一ヶ月の生涯でした。 -
墓の左側に、有名な自作の墓碑銘が立って居ます。
いくつもの名前を列記し、生まれた処を書き、父の藩名と役目を書き、父無き後は母に育てられた事を書き、勤め先を書き、月給40円で締めくくっています。
死亡の年月は明治三十口年口月口日没す 享年三十口と原稿のまま彫られています。
又銘板の石には糸瓜の模様が刻まれていました。
”坂の上の雲”最終章は、雨の中ここ大竜寺の子規の墓に、秋山真之が詣でて立ち去るシーンで終わっています。 感慨深いシーンでした。
尚その時にはまだこの墓碑銘は無かったと解説されていました。 -
大竜寺の墓地には、板谷波山の墓も在りました。
-
田端駅に戻って来ました。
これで今日の子規の足跡を辿る散策は終了です。
心が元気になりましたでしょうか。
では、これにて解散とします。
お疲れさまでした。
終
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