2010/09/25 - 2010/09/27
480位(同エリア625件中)
倫清堂さん
旅の後半は、京都から北陸へ。
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ホテルに荷物を置いたまま、バスで京都駅に向かいます。
京都観光はバスが主になるので、一日乗車券を購入。
京都駅から、まず東本願寺に向かいました。
もともと本願寺は一つでしたが、関ヶ原の戦いの直後に分裂し、東西に分かれたのでした。
そのきっかけとなったのは、豊太閤が文禄2年に法主の教如を引退させ、対立する准如を立てたことです。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康公は後陽成天皇の勅許をいただいて烏丸七条の土地を寄進し、教如を立てたのでした。
本願寺を分裂させた理由としては、強大な真宗の勢力をそぐことが目的だったと言われていますが、それ以上に豊太閤の神への再生を封じたという側面があったとも指摘されています。
つまり、秀吉公の廟所から豊国神社を通り、本願寺へと一直線にのびる東西の線を、家康公が分断したということです。 -
イチオシ
その後3代将軍家光公も、この東西線上にある土地を隠居所として宣如に与えました。
それが現在の枳殻邸渉成園です。
入場料のかわりに協力寄付金を支払い、立派なパンフレットを受け取って園内へ。
他に見学者もなく、ゆったりと京都の自然を満喫したのでした。渉成園 (枳殻邸) 名所・史跡
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渉成園の見学を終え、その東西線に沿って西へ向かいます。
鴨川を渡ると、ひときわ幅の広い車道となり、真正面に豊国神社が見えてきます。
右手には、有名な耳塚がありました。
豊太閤の晩年、天下統一の功績が全て水泡に帰すような愚かな決定がなされました。
家臣への褒美となる土地が国内にはなくなってしまったため、新たにそれを海外に求めて朝鮮に出兵したのです。
当時は、現地で朝鮮や明の兵士を討ち取ったら、首の代わりに鼻や耳を切り取って、本国へ持ち帰ったのでした。
ただ、日本人の日本人らしい所は、それらの鼻や耳に対しても、供養を欠かさず丁重に弔ったことです。耳塚 名所・史跡
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もし本能寺の変がなければ、信長公の天下統一事業を継いだのは、やっぱり家康公になったのではないかと、私は思います。
秀吉公は海外まで出兵するという貪欲さを見せたために、拾い物であった天下をまた落としてしまったのではないでしょうか。
ただ、百姓から天下人に登りつめた秀吉公の生涯は、やはり多くの日本人に夢とロマンを与えてくれます。
そんなことを考えつつ、豊国神社を参拝しました。豊国神社 寺・神社・教会
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豊国神社は豊太閤の死後に建てられましたが、隣接する方広寺は生前に建てられた天台宗のお寺です。
豊太閤の死の前後には、地震による倒壊や火災による大仏の消失など、まるで豊臣家が呪われているかのように不幸が続いたのでした。
そして、豊臣家の滅亡を招いた大阪の冬の陣は、ここにある大梵鐘が原因で起きたのです。
慶長19年4月、南禅寺の僧文英清韓によって選定された銘文の刻まれた梵鐘が完成します。方広寺 寺・神社・教会
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家康公が金地院崇伝らにこの銘文を解読させたところ、そこに「国家安康」「君臣豊楽」という文字が見つかったことが問題になったのです。
「国家安康」は家康の名を分断し、「君臣豊楽」は豊臣が再び繁栄することを願う意味として、徳川家に対する呪詛であると解釈したのでした。
鐘を実際に見てみると、表面に隙間のないほどの数の漢字が刻まれており、件の8文字は観光客向けに白線で囲まれていますが、大量生産された商品に不良品が混じっている程度の些細な量に過ぎません。
もちろん撰文した僧や秀頼公にも、徳川家を呪詛する意図などなかったことでしょう。
それは家康公にも言えることで、もし本当に呪詛を疑っていたのなら、この鐘を潰すことなど造作もなかったはずなのに、鐘は当時の姿のまま現在まで残されているのです。
まるで言いがかりのような鐘銘事件ですが、豊臣家を存続させるべきかどうかを決める、豊太閤の遺臣に対する最後のテストだったような気がします。 -
京都駅までバスで戻り、荷物を預けたままにしているホテルの近くを観光することにしました。
壬生寺へ行きます。
最寄りのバス停からの道が分からず、近くの商店で訪ねると、本当に目と鼻の先だったので、看板を見落としていたことにも気付きました。
壬生寺は、平安時代に建てられた律宗の寺で、新選組が境内を兵法調練場として使用したことで有名です。壬生寺 寺・神社・教会
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本堂などは参拝自由ですが、新選組局長近藤勇の像もあり、こちらは入場料が徴収されます。
そこは壬生塚と呼ばれ、池の中の島となっています。
近藤勇の遺髪塔の他、暗殺された芹沢鴨・平山五郎の墓、勘定方河合耆三郎の墓、池田屋騒動で討ち死にした隊士3名を含む7名の合祀塚などがあります。
また、昭和に入って作詞作曲された「あゝ新撰組」の歌碑もあり、お金を入れると録音が流れるようになっています。
加茂の河原に 千鳥が騒ぐ
またも血の雨 涙雨
武士という名に 生命をかけて
新撰組は 今日もゆく
恋も情も 矢弾に捨てて
軍かさねる 鳥羽伏見
ともに白刃を 淋しくかざし
新撰組は 月に泣く
菊のかおりに 葵が枯れる
枯れて散る散る 風の中
変わる時勢に 背中を向けて
新撰組よ 何処へ行く -
新選組は、尊王攘夷の志士たちを襲撃するなどして明治維新を遅らせた悪者のように扱われますが、もし偽の錦旗を掲げる新政府軍の鎮圧に成功していれば、南朝の忠臣にも勝る英雄として今頃は顕彰されていたはずです。
偽の錦旗を振る長州と、偽の錦旗にひれ伏して矛を収めた幕府と、いったいどちらが真の尊皇であったのか、答えは明らかなはずです。 -
壬生寺の近くには、新選組の屯所であった八木家も現存しています。
歴史好きな観光客、特に若い女性の姿が、この一角には目立ちます。
八木家は、江戸からやって来た浪士たちが一番初めに宿舎とした建物で、近藤一派と芹沢一派が共同で使用しました。
芹沢鴨は水戸藩の浪士で、天狗党の前身である玉造組に所属していたために投獄されますが、その後釈放され、江戸で結成された浪士組に参加します。
そこで近藤勇たちと出会いました。
京都へ入り、ここ八木邸を本拠としていた頃は、壬生浪士組を名乗っていました。
しかし、目に余る芹沢の酒乱に耐えかねた近藤一派は、泥酔して眠る芹沢鴨とその妾、また腹心などを暗殺します。
八木家の鴨居には、芹沢襲撃の際についた刀傷が、生々しく残されています。
友人の車でホテルへ向かって荷物を受け取り、京都をあとにしました。 -
京都の抜けて滋賀に入りました。
北陸へ向かう場合、普通は名神高速・北陸道という琵琶湖の東側を通りますが、今まで一度も通ったことのない西側の一般道を今回は選びました。
まずは大津京跡に鎮座すり近江神宮へと向かいます。近江神宮 寺・神社・教会
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近江神宮は天智天皇をお祀りし、昭和15年の御創建と、比較的新しい神社です。
天智天皇は、皇太子時代に中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし、大化改新を行った天皇です。
即位後6年目に都を奈良から大津へ遷し、日本最初の官立学校を創設したり、近江令を発布するなどの功績を残しました。 -
また、民衆の生活を律するために漏刻(水時計)を造って時刻制度を定めたことから、神社にはたくさんの時計が国内外から奉納されています。
近江朝廷に漏刻が設置された6月10日は、「時の記念日」と制定され、神社でも毎年この日には漏刻祭が斎行されています。 -
しばらく北上すると、次の目的地である白鬚神社が見えてきました。
しらひげ神社と読みますが、その語源は新羅から来ているとされ、朝鮮半島にゆかりがあるともされています。
琵琶湖に立つ鳥居が印象的ですが、琵琶湖から船で陸を見れば、更に感動的な景色が見られると想像できます。
海上の鳥居は、広島県の厳島神社が有名ですが、白鬚神社は「近江の厳島」と呼ばれています。
ご祭神は猿田彦命で、同じく全国で猿田彦をお祀りする白鬚神社の本社です。白鬚神社 寺・神社・教会
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御創建は垂仁天皇25年で、皇女倭姫命によるとされます。
鳥居正面に本殿、少し登った所に若宮社などが鎮座しています。
これらの社殿は全て豊太閤の遺命により秀頼公が造営したもので、これまで各地で秀吉公によって破壊された神社を見て来た経験から、珍しいものだと感じました。
社殿後方の山は天の岩戸と呼ばれており、御祭神にゆかりのある誰かの陵墓ではないかと言われているそうです。
この辺りはコンビニなどもなく、古きよき日本が残されています。
ただ、交通量はそれなりに多いので、海上に立つ鳥居を見るために車道を横断するのは、少し危険を覚えました。
横断歩道用の信号機を立てては景観が損なわれるし、地下道を掘れるような地形でもなく、難しい問題です。 -
更に北上すると、近江聖人と讃えられる中江藤樹先生をお祀りする藤樹神社があります。
藤樹先生は江戸時代初期の陽明学者で、学徳が兼ね備わった学者として多くの弟子に慕われ、多大な影響を与えたことから、日本陽明学の祖と呼ばれています。
藤樹神社は、その私塾であった藤樹書院に鎮座しています。
境内にある藤の古木は、生前からそこにあったもので、この木にちなんで藤樹先生と呼ばれたとのことです。藤樹神社 寺・神社・教会
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また、境内には近江聖人中江藤樹記念館もあり、自筆の「致良知」の書などが展示されています。
最近、藤樹先生の生涯が映画化され、そのシナリオが無料で配布されていました。 -
イチオシ
滋賀県を抜けて、いよいよ福井県に入りました。
宿泊地の敦賀市では、まだチェックインの時間には早いため、遅い昼食を食べた後、氣比神宮に参拝に行きました。
氣比神宮は2回目。
2年前に訪れた時は、あいにくの雨でしたが、今回は天候に恵まれました。
新しい社務所の建築が、その2年間のうちに進んでいたようです。
また、最高裁の大法廷で、公有地にある宗教施設は違憲であるので撤去するようにという馬鹿げた判決が出たのもこの2年の間の出来事でした。
事情によって小学校の敷地内に土公という大切な祭祀場所があるこの神社のことを大変心配していましたが、土公の変わらない姿に安心しました。
その後ホテルに入り、夜は夜でお楽しみの屋台ラーメンを食べに行きました。氣比神宮 寺・神社・教会
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旅も四日目となり、丸一日を旅先で過ごせるのは最後の日となりました。
前に福井県を訪れた時には行けなかった東尋坊が、この日の最初の目的地です。
敦賀から福井市を通り越して加賀まで行き、そこから一般道で向かいました。
東尋坊は有名な観光地であるため、土産物の店も多く、ほとんどの店は無料で駐車をさせてくれます。
もちろん、帰りには何がしかの商品を自主的に購入します。
真っ先に見えた店の駐車場に車を停め、断崖絶壁の方へ進みました。
すでに多くの観光客でにぎわっており、小さい子供の姿も多いため、子供たちが崖から落ちないかというよりも、ふざけて遊ぶ子供に後ろから押されて自分が落ちてしまわないかが心配になりました。
それほど東尋坊の崖は危険で、さあ落ちて下さいと言わんばかりの姿なのです。 -
イチオシ
東尋坊の名は、よく知られるとおり、平泉寺の僧の名から取られています。
かつて平泉寺に、東尋坊という名の粗暴な僧侶がいて、他の僧侶たちには手がつけられず困り果てていました。
その東尋坊はある娘に恋をし、恋敵の真柄覚念という僧侶といがみ合っていました。
平泉寺の僧侶たちは東尋坊をこの崖に誘い出し、宴会を行って酒に酔わせ、真柄覚念に東尋坊を崖から突き落とさせたのでした。
それから49日の間、東尋坊の怨念によって、激しい暴風雨が続いたとのことです。東尋坊 自然・景勝地
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海からも眺めてみたいと思っていたので、遊覧船の乗り場を探しましたが、この日は乗り場が変更されていました。
日曜で人出が多いからかと思いましたが、後で訊いてみると、風が強く波が高いため、通常の乗り場からでは危ないというのが理由でした。
臨時の遊覧船乗り場までは、更に車で移動しなければならず、出航する間際になんとかたどり着くことができたのでした。 -
乗り込んだのは、東尋坊観光遊覧船という会社が運航する船で、出航時間は決まっておらず、お客さんが集まり次第随時出航という仕組みです。
船は80人乗りで、デッキに出ることはできません。
乗客は全部で20名弱でした。
なるほど、出航してすぐに波が高いことが分かりました。
かなり揺れるため、備え付けのビニール袋が必要になるお客さんも出てくるのではないかと心配になりました。
乗務員さんの説明と、録音によるアナウンスが交互に東尋坊の歴史や特徴を説明してくれます。
船内は空いているため、常に眺めのよい側に座ることができました。
ろうそく岩、屏風岩などが右手に見えます。 -
東尋坊を過ぎると、朱塗りの橋がかかる雄島が見えてきます。
橋の先には鳥居が立ち、大湊神社へと続く参道があるそうです。
雄島は東尋坊とは呼ばないらしく、地形も少し違っているように見えます。 -
鳥居の反対側の海岸には、波のように岩が浸蝕された波形岩があり、側面にはハチの巣岩があります。
本当に驚くような景観が続いています。
今は青く美しいこの海ですが、つい近年危険にさらされたことがありました。
ロシア船籍のタンカー・ナホトカ号が破断し、船首部分が漂着、積載していた重油が大量に流出してしまったのです。
船を所有するロシアの会社は何も対策を取らず、自衛隊の活動や地域の人たちのボランティアによって被害は最小限に止められましたが、船首部分が引き上げられたのは事故から4ヶ月も経過した後でした。 -
Uターンをするのも大変なほど、高い波がひっきりなしに船を持ち上げていました。
帰りは帰りで、断崖絶壁を海上から楽しむことができました。
夫婦岩やライオン岩、それに上から覗き込んで恐怖を覚えた大池も、壮大なスケールで見上げることができます。
30分のクルーズはあっという間に終わってしまいました。
幸い、ビニール袋のお世話になる乗客もいませんでした。 -
東尋坊の観光を終え、福井市内に引き返しました。
まず訪れたのは、福井市立郷土歴史博物館。
福井に関する資料が多数展示されていますが、残念ながら継体天皇についてはほとんど触れられていませんでした。
学会では古代の天皇の存在を認めないのが主流なようで、この博物館も偏向した歴史観にどっぷり漬かっているようで残念でした。福井市立郷土歴史博物館 美術館・博物館
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博物館前に銅像として立つ松平春嶽公は、どう思っているでしょうか。
春嶽公は、井伊大老が勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだ際には、徹底して抗議し謹慎処分に処せられます。
明治という元号は、春嶽公が定めたという説があります。
春嶽公は福井神社に祀られていますが、戦後再建された社殿ははコンクリート打ち放しの造りであることを知り、参拝しようという気持ちにはなれませんでした。 -
福井駅前で行われていたB級グルメのイベントで腹を満たし、福井城跡へ向かいました。
現在は城郭は残っておらず、石垣と井戸などが当時をしのばせるのみで、当時と同じく福井の行政を司るかのごとく、公官庁のビルが並んでいます。
どの時代にこの城の原型が築かれたかは定かではありませんが、現在の規模に達したのは、家康公の子で豊太閤の養子となった結城秀康公が、関ヶ原の後に福井に入封されて、天下普請で大規模な城を築いたことは確かです。 -
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石垣の一部は、福井大地震で崩れたままの姿となっています。
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秀康公は双子として生まれましたが、当時は獣腹と言って、双子は忌み嫌われていました。
その上、肌の色も浅黒かったことから、父の家康公からはあまり愛されず、小牧・長久手の戦いを和解するための人質として、豊臣家の養子となったのでした。
その後、結城晴朝の姪と結婚して結城姓を名乗りますが、関ヶ原の戦いでの戦功が認められ、松平姓を名乗ることを許されました。
兄弟の順序としては将軍を継ぐ資格を持っているはずですが、実際は弟の秀忠公が継いだため、大阪と組んで幕府の転覆を目論んでいたとも伝えられます。
しかし、梅毒によって若くして亡くなり、ほどなく豊臣家も滅亡したのでした。
幕府重臣による暗殺説もありますが、真相は定かではありません。福井城址 名所・史跡
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次に柴田神社に参拝しました。
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鎮座地は柴田勝家公が居城とした北ノ庄城跡とされる場所で、境内のあちこちが掘られ、その石垣が見えるようになっています。
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御祭神の柴田勝家公は、織田信長公の側近で、本能寺の変御に豊臣秀吉公と対立し、ここ北ノ庄城で妻のお市の方とともに自害した武将です。
お市の方は信長公の妹で、嫁いだ先の浅井家は信長公に滅ぼされ、3人の娘を連れて勝家公に再婚した、絶世の美人と言われる女性です。
秀吉公は、北ノ庄攻めの際に、なんとかお市の方を救い出そうと工作しますが、お市の方は3姫だけを落とし、自らは自害して果てます。
生き延びて、秀吉公の側室にされてしまうことを嫌っての生害であったと推測されます。柴田神社 寺・神社・教会
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神社には、武将として雄々しい姿をした勝家公と、薄倖の美人の雰囲気そのもののお市の方の像が置かれています。
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お市の方が落とした3姫は、秀吉公のもとで養育されてすくすくと育ちますが、秀吉公は天下統一を目の前に、その中の一人である茶々姫を側室に入れました。
親子ほどの年の差があるにもかかわらず、側室に迎えたのは、やはり信長公の親族(姪)と血縁関係を結びたいという野望と、それ以上に姫の美貌を愛でる男としての本能があったのだと思います。
正室の寧々との間には子がなく、淀殿と呼ばれるようになった茶々姫との間に男子が生まれた時、秀吉公の歓喜は計り知れないものでした。
しかしその子は天下統一と前後して早世し、どうしようもない虚無感を朝鮮征伐に向けたとも解釈できます。
また、晩年に生まれた秀頼公を後継者とするため、すでに関白の座についていた甥の秀次公を切腹に追い込み、その子や室ら39名を惨殺するという粛清を断行したのです。
権勢を誇った豊太閤は、このように晩節を汚し、そこまでして後継者にしたかった秀頼公は実は秀吉公の子ではなかったと噂され、挙句の果てに徳川家によって滅ぼされてしまうのでした。
2番目の姫の初姫は京極高次の正室となって、徳川家と豊臣家の仲裁に全力を尽くし、3番目の姫のお江与は2代将軍徳川秀忠公の正室となって、3代将軍家光公を生みます。
3姫の運命も豊臣家滅亡の運命も、この地から3姫が落ちのびた時に定まっていたのかもしれません。
神社の境内には、3姫を祀る三姉妹神社も鎮座しています。 -
福井市内は、前に来た時にだいたい見てしまい、今回は少し変わったところへ行くことに。
いろいろ調べてみると、福井県内では古代の動植物の化石が多数発掘されており、それに関連して博物館が建てられているということが分かりました。
場所は勝山市と少し遠いですが、せっかくの機会なので、福井県立恐竜博物館を訪れることにしました。
有料道路が整備中なので、不便な一般道を通り、福井市内から車を普通に走らせておよそ1時間。
遠くからでもそれと分かる特徴的な建物が見えてきました。
福井県では、1989年から開始した発掘調査の結果、多くの恐竜の化石の他、卵殻や幼体の骨も発見されたとのことです。
博物館は平成12年に完成しましたが、恐竜博物館が必要かどうかは県議会でも激論になったそうです。
しかし、完成した博物館の展示物や、見学に訪れている多くの家族連れを見ていると、建てて正解だったのではいかと思います。 -
入館してまず驚いたのは、その広さです。
館内は大きく3つのゾーンに分かれていて、実際に触れる化石もあれば、想像で復原され、実際に動いている実物大の模型もあります。福井県立恐竜博物館 美術館・博物館
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また、構造が立体的なため、下から見上げるばかりでなく、大きな化石を上から全体的に見下ろせるようなものもありました。
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そして最も驚いたのが、発掘された化石をクリーニングするための部屋が、ガラス張りで公開されていて、作業している様子を随時見学できることです。
ここまで来た甲斐がありました。 -
今回の旅の最終目的地である平泉寺白山神社は、恐竜博物館から車ですぐの場所に鎮座しています。
今年は、石川県側の白山登拝口にあたる白山比め神社にも参拝したので、白山イヤーと自分で勝手に考えたりもしまいた。
参道の石段の脇は緑色に覆われています。
その正体は驚くべきことに、芝生や草ではなく苔なのです。
今年の猛暑にも耐えて、みごとな苔の絨毯が敷き詰められていました。 -
平泉寺白山神社は養老元年、白山に登ろう路して訪れた泰澄大師によって、泉が湧き出ているのを発見されたのが始まりで、ここから登って白山を開き、下ってからお宮を建てたとのことです。
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その後比叡山延暦寺の勢力下に入り、多くの社殿や堂塔を有することになりますが、一向一揆により焼き討ちされて衰亡してしまうのでした。
平泉寺白山神社 寺・神社・教会
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また、建武中興にあっては官軍に加わって北条氏の武将を攻めたりもしました。
特に大楠公との関係は非常に密接で、湊川で大楠公が討ち死にして後、ただちに本社の後ろに鎮座する三宮の前に墓塔を建てたのでした。
寛文8年には、松平越前守光通公によって石柵が奉納されますが、それは水戸光圀公による湊川建碑よりも24年も前にあたり、大楠公顕彰の先駆けと言えます。 -
終戦直後に宮司に就任した平泉潔博士は、皇国史観による著作を数多く残したことで有名です。
戦前からの皇国史観には、明治維新の評価などに改めるべき点は多いし、昭和の大戦を聖戦であったとする戦後の皇国史観にも賛成はできません。
ですが、天照大御神の御神勅を賜って日本の国づくりを始めた天孫ニニギの命と、皇祖が示した仁慈による統治を引き継いだ歴代天皇を中心に見なければ、本当の歴史は見えて来ないというのも真実だと思います。 -
社務所のそばには、旧玄成院庭園と手洗池があります。
この池こそが、泰澄大師が養老元年に発見した池で、当時のままの姿で水を湛えています。
池の中ほどには、大師の祈念にこたえて白山大神が出現した影向石があります。
この池が神社の発祥であったことから、平泉寺の名前で呼ばれるようになったのでした。 -
また池の向かい側には、樹齢1200年を超える大師お手植えの杉があり、その幹は途中から三又に分かれ、白山三社をかたどる姿となっています。
参拝を終え、車に戻ろうとした時、泰澄大師の墓塔があることに気付き、手を合わせました。
泰澄大師が白山を開山したのは36歳の時と伝えられます。
今回は準備段階で泰澄大師のことは調べておらず、福井にはゆかりの史跡が多いことは、帰ってから知りました。
次に福井を訪れるときは、それらを巡ってみたいと思います。
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