2010/03/06 - 2010/03/08
2037位(同エリア3074件中)
倫清堂さん
母が還暦を迎えた記念に、伊勢旅行に招待、案内しました。
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セントレア空港からレンタカーを借り、高速道路に乗って伊勢に向かいますが、雨が強い上に道路は大渋滞。
申し訳ないなと思いつつも、予定時刻を少し過ぎたくらいで最初の目的地の瀧原宮に到着。
伊勢神宮内宮の別宮である瀧原宮・瀧原竝宮は、「大神の遥宮(とおのみや)」と呼ばれるほど遠距離に鎮座し、天照坐皇大御神御魂をお祀りしています。 -
冷たい雨が杉の大森林に降り注ぎ、なんとも神秘的な雰囲気が漂っています。
他の参拝客の姿はほとんどなく、樹齢数百年の古木を見上げながら神域を進むと、御手洗場の表示が見えて来ました。
手水舎のかわりに、宮川の流れるせせらぎで手と口を清めます。皇大神宮別宮瀧原宮 寺・神社・教会
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まず瀧原宮に参拝。
式年遷宮の際にはこのお宮も建て替えられるらしく、隣の敷地は白い玉石が敷かれただけの空き地になっています。
それは、これからめぐる全てのお宮に共通した形式で、20年ごとに建て替えられるのです。
次の遷宮は平成25年。
現在のお宮は、茅葺屋根がかなり傷んでおり、遷宮の意味や大切さが実感されました。 -
なお、古殿地には小さな小屋のような覆屋が建てられ、心御柱を守っています。
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隣接するのは瀧原竝宮です。
伊勢神宮の歴史は古く、第10代崇神天皇の時代までさかのぼります。
その頃疫病が流行し、その原因が天照大御神の依代として宮中に祀られる神鏡の霊力にあることが分かります。
それを鎮めるために、御杖代として旅に出たのが豊好入姫命でした。
一度は大和国に鎮まったものの、神はまたしても遷座を願い、豊鋤入姫命の死後は第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命が、御杖代として長い旅に出るのでした。
丹後・備前・伊賀・尾張などを経てついに伊勢にたどり着き、ここを永遠の鎮座地とすることになります。
その旅の途中で鎮座した場所は元伊勢と呼ばれ、多くは現在も神社が建てられています。
瀧原宮も元伊勢の一つと考えられており、倭姫命が急流に阻まれて先へ進めないところに真奈胡の神が現れ、進むことができた土地に立てられたお宮であるとの伝説が残されています。 -
再び高速道路に乗り、伊勢市内まで入りますが、まだ市内の見物はせずに伊勢道路を南下します。
いつもの旅の鉄則で、遠い所から回ります。
内宮のすぐ近くを通りましたが、土曜日とあって観光客の姿がかなり多く見られました。
伊勢道路を志摩に向けて走り、途中で名所天の岩戸に寄りました。 -
天の岩戸は神話で天照大御神が隠れたとされる洞窟で、伝承地は日本各地にありますが、志摩の天の岩戸は洞窟内から清水が流れ出て来ています。
神社があるので参拝。
まるで待っていたかのように、ざあざあ降りだった雨がやみ、天の岩戸が開かれたように日差しが差し出したのでした。天の岩戸 名所・史跡
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次の目的地は内宮別宮の伊雑宮。
正式には伊雜宮と書き、志摩国一之宮に列せられています。
瀧原宮と同じく「遥宮」と称されており、御祭神も天照坐皇大御神御魂です。
先に団体客が来ていましたが、お宮に向けて手のひらをかざしたりするなど、少し変わった集団でした。
なにしろ、こちらが真の神宮であるとの噂もあるくらいで、江戸時代には「先代旧事本紀大成経事件」で処罰者が出たほどでした。
それ以来、『先代旧事本紀大成経』は偽書とされて来ましたが、伊勢神宮を3社構成とする説など、忘れられた神宮の歴史を知るために研究する価値がありそうです。 -
外宮の神官を代々務めて来た渡会氏による伝承では、伊雜宮は天照大御神が現在地に鎮座した後に、その御饌を奉るための田として指定された場所にお宮が建てられたことになっています。
こちらも偽書とされる『倭姫世記』には、鳥の鳴き声がひねもすやまずに聞こえたため探したところ、鶴が稲穂をくわえて飛びまわり、そこには一本の根から千もの穂を出している稲が生えていたため、天照大御神に奉る米を生産するための神田に定めた跡が、現在の伊雜宮であると書かれています。
もともと、鶴を発見した伊佐波登美命という神が祀られていたのを、明治になって天照大御神とされたらしいのですが、神主さんにその伝説について尋ねてみても、公表されていること以外は教えてもらえませんでした。伊雑宮 名所・史跡
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隣接地には御料田が広がっており、よく見るとその中央には柱が建てられています。
神様に捧げる米を育てているため、普段は立ち入りが禁止されていますが、毎年6月24日には御田植式が行われ、笛や太鼓などのお囃子の中、昔ながらの装束をまとった氏子たちにより、手で苗が植えられます。
その際、先端に大うちわをつけた竹を御田の中心に倒し、青年たちが泥まみれになってそれを奪い合う竹取りが有名です。 -
志摩国の一之宮は伊雜宮と伊射波神社とされています。
漢字は違いますが読みは同じイザワなので、歴史の過程で別れてしまったものだと思います。
せっかくなので参拝に向かいますが、案内表示によると駐車場から20分ほど登山をしなければならない山の上に鎮座しているとのことで、母を置いて行くわけにもゆかず、今回は諦めることにしました。
そして向かったのが名勝、夫婦岩のある二見興玉神社です。 -
伊勢神宮に参拝する人は、先にこの二見浦で禊をして心身を清めるというのが、ずっと守られて来た慣習でした。
御祭神は猿田彦大神と宇迦御魂大神。
猿田彦は天孫降臨の際に道案内をした神様で、その後アメノウズメと結婚し、海で大きな貝に体を挟まれて溺れ死んでしまいました。
その猿田彦が降り立ったという興玉石が、かつては夫婦岩の東にありましたが、宝暦の大地震で海中に没し、今はその姿を確認することはできなくなっています。 -
境内には蛙の置物がいたる所に置いてあります。
蛙は猿田彦の使いと信じられ、参拝によって御神徳を得た人たちが奉献したものです。
どの蛙像もそれぞれ特徴があり、時間があればゆっくり見て回りたいものですが、人気の観光地とあって、人込みに疲れてしまいました。 -
夫婦岩を間近から拝みました。
夏至の前後は、ここから見る男岩と女岩の間から太陽が昇るという、絶妙な位置関係になっています。
きょうど潮が引いている時刻であることが原因か、写真などで見るより小さく感じました。
しかし、実際は男岩が9メートル、女岩が4メートル、注連縄の長さは35メートルもあります。
境内には天の岩戸もあり、こっけいな仕草で踊っているアメノウズメの像があります。
また、今回は気づきませんでしたが、夫婦岩の遙拝所から少し進んだ所には竜宮社が鎮座しています。
小腹が空いたので、近くの土産屋で伊勢うどんを食べて小休止。
極太のもちもちしたうどんに、真っ黒なたまり醤油の汁をかけた伊勢うどんは、初めて見た時は驚きました。
最近は百貨店の地方名産展で手に入りますが、やはり現地で食べるのが最もおいしいと思いました。二見興玉神社 寺・神社・教会
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春が近づくこの季節は、日が落ちるのもだいぶ遅くなり、時間に限りのある旅行をする者にとってはとてもありがたいです。
1日目の予定はすべて終えましたが、時間にも(母の)体力にも余裕があるので、このまま伊勢神宮外宮の豊受大神宮へ参拝に向かうことにしました。
外宮に到着したのは夕方5時。 -
空はだんだんと薄暗くなりつつありますが、まだ充分に境内を歩ける明るさはあります。
観光客の姿はほとんどなくなり、駐車場はがらんとしていました。
ここが日本の聖地、伊勢神宮かと思うと、親孝行ができてよかったと思います。
まず御正宮に参拝。
外玉垣南御門には絹のとばりがかけられており、中をうかがうことはできません。
それでも、俗人の立ち入ることができない聖域の中に、確かな存在感があります。
御祭神は豊受大御神。伊勢神宮外宮(豊受大神宮) 寺・神社・教会
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天照大御神に御饌を奉る神で、一説には天之御中主神と同一とされますが、神職の方にうかがったところ、その説はきっぱりと否定されました。
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次に、池にかかる一枚岩の橋である亀石を渡り、多賀宮に参拝。
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石段を登って参拝しますが、この石段がなんとも風情があります。
また、暗さが増してきたために燈籠に明りが灯され、神域は幻想的な雰囲気を増しています。 -
多賀宮は外宮の第一別宮で、豊受大御神の荒御魂をお祀りしています。
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石段を降りた正面に、大土乃御祖神をお祀りする土宮があり、参拝。
これらのお宮は全て古殿地と隣り合わせになっており、式年遷宮の時には全て建て替えられるのです。
古くなったお宮は、震災などで社殿を失ってしまった神社に譲られ、新しい神の宮居として大切にされます。
鉋屑ひとつ決して無駄にしないのが、式年遷宮の精神なのだそうです。 -
次に外宮域内に鎮座する最後の別宮、風宮に参拝。
風の神である級長津彦命と級長戸辺命をお祀りしています。
自分が大祭に必ず参列している宮城縣護國神社は、戦災によって本殿が失われてしまったため、昭和28年の式年遷宮に際してこの風宮の社殿が下げ渡されました。 -
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それから勾玉池へ行ってみました。
かなり薄暗くなり、閉門時間も迫っています。
ここ勾玉池には、6月には花菖蒲が満開に咲き、舞楽が奉納されます。
夕食の時間になったので、母の希望で「喜多や」へ行きました。
たれをご飯に満遍なくまぶした「まぶし丼」が有名です。
こうして伊勢での1日目は暮れ、翌日に向けて休んだのでした。 -
伊勢旅行2日目。
母と相談し、この日も人込みを避けるために早朝から内宮に参拝することにしました。
時刻は7時前。天気は雨。天岩戸はまた閉じてしまったようです。
案の定、駐車場はガラ空きで、宇治橋からすぐの所に車を停めることができました。
皇大神宮の宇治橋も20年に1度掛け替えられます。
先日、渡始式が行われたばかりの宇治橋はまだ新品同様です。
この宇治橋の両端に立てられた鳥居は、式年遷宮によって取り下げられた旧正殿の棟持柱で、内側が内宮、外側が外宮の柱が使われます。
そして次の20年後には、それぞれ鈴鹿峠のふもとの「関の追分」と桑名の「七里の渡」の鳥居として再利用されます。
こんな所にも、無駄を出さない心遣いが息づいています。 -
瀧原宮と同様、御手洗場で心身を清めます。
内宮の御手洗場は五十鈴川のせせらぎです。
五十鈴川は、かつて倭姫命が汚れた御裳のすそを洗ったことから、御裳濯(みもすそ)川とも呼ばれています。
敷きつめられた石畳は、5代将軍徳川綱吉公の生母である桂昌院が寄進したものです。 -
広々とした神苑には、梅の花が咲いていましたが、まずは正宮へと向かいます。
巨大な石による石垣の先に、正宮へと続く石段が見えました。
ここが天照大御神の坐します皇大神宮の正宮です。
天照大御神が最後に鎮まった場所は、かつて高天原から地上へ投げられた天の逆太刀・逆桙・金鈴などが光り輝いていた土地でもありました。
この地に鎮まったのは、垂仁天皇26年と伝えられており、その際に天照大御神は倭姫命に対して「これ、神風の伊勢国は、即ち常世の浪の重浪帰す国なり、傍国の可怜国なり、この国に居らむと欲ふ」という有名な神託を下しました。伊勢神宮内宮(皇大神宮) 寺・神社・教会
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古殿地を横に見ながら北へ向かい、荒祭宮へ進みます。
途中、御正殿と同じ唯一神明造りによる御稲御倉を間近で見ることができました。 -
そして石段を降った先に、天照大御神の荒御魂を祀る第一別宮の荒祭宮が見えて来ます。
この降りの石段には、「天」という文字の形に割れた「踏まぬ石」があり、これを踏まないように歩くのが習わしとなっていますが、標識などが全くないため注意しなければなりません。 -
次に風日祈宮に参拝。
級長津彦命と級長戸辺命をお祀りしています。 -
もともとは末社格でしたが、弘安4年の元寇の際に神風を起こして皇国を守ったとして、別宮に昇格しました。
昭和50年、三重国体に皇太子殿下(今上)が行啓することに反対する極左の過激派が、火炎瓶による放火という信じられない狼藉に及んだのがこの場所です。
国家の永続には必ず神聖なものが必要であり、日本においては伊勢神宮を中心とする神道と、万世一系の皇室の存在がそれに当たります。
この両者のどちらが欠けても日本は日本でなくなることを、子供のうちにしっかり教育しなければならないのだと思います。 -
参集殿の近くでは、神の遣いである鶏を飼っています。
天照大御神が天岩戸にお隠れになり、八百万の神々がなんとか出てもらうために知恵を働かせ、常世の長鳴鳥(鶏)を集めて啼かせたりしたと、神話に伝えられています。
ここに若者男子4人のグループが登場。
鶏を見て「かわいい」などと言いながら、手で持ち上げた姿を写真に収めたりしています。
近くにいる女性の神職はただ見て見ぬふりをしているだけ。
よほど注意しようかと思いましたが、ここは御神域なので、心を動かすまいと努力します。
無言で見据えているうちに、遊ぶのをやめて去って行きました。
やはり教育は大事です。 -
朝食をとるために、いったんホテルに戻りました。
しかし自分は短い時間も無駄にせぬよう、車でホテルを出ました。
向かったのは光明寺。テルから自動車で数分ですが、駐車場を探して周辺をしばらくさまよってしまいました。
伊勢神宮は、僧を髪長・尼を女髪長と言うなどの忌み言葉を設けるほど仏教色を嫌いましたが、周辺の寺も鐘の音を鳴らすことが許されず、この光明寺だけが例外的に鐘楼を建てることを許可されています。
そのような理由で「伊勢の一つ鐘」として有名ですが、まだ早い時間に訪れたためか、寺はかなり荒廃して見えました。
ここは延元3年、南朝方が巻き返しのために陸奥に船団を送り、暴風雨によって打ち上げられた結城宗広公が再起を期すために留まったものの老齢のために死去した場所で、結広公の墓所があります。
結城宗広公は津市の結城神社に祀られていますが、帰りに寄れるかどうか、日程的に微妙なところです。
ホテルに戻り、急いで朝食をとってチェックアウトしました。 -
母とともにまず向かったのは月夜見宮。
伊勢市駅からすぐの場所に鎮座していますが、周辺は静謐な雰囲気を保っています。
前の道路に有料駐車スペースがありました。
月夜見宮外宮の別宮で、月夜見尊と月夜見尊荒御魂をお祀りしています。
天照大御神の弟神にあたる月夜見尊は、夜之食国を治めるよう伊邪那岐命から命じられます。
それ以外に目立った記載が残されておらず、謎の多い神様です。月夜見宮 寺・神社・教会
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月夜見宮は外宮の別宮で、月夜見尊と月夜見尊荒御魂をお祀りしています。
天照大御神の弟神にあたる月夜見尊は、夜之食国を治めるよう伊邪那岐命から命じられます。
それ以外に目立った記載が残されておらず、謎の多い神様です。 -
次に、伊勢神宮の宝物館と呼ぶのが相応しい神宮徴古館に見学に入りました。
徴古館は明治42年に創設され、2年後に建物と所蔵品の全てが神宮に奉納されました。
西洋化の時代の建築物らしく、ルネッサンス様式の外観をしています。
かつて20年に一度の遷宮のたびに、神宝は全て埋められるか焼却されていました。
当代最高の職人の手による美術的価値の高い神宝が、一度人の手に渡ってしまえば、金儲けのために悪用されてしまうからです。
しかし、次の遷宮にも確実に技術を伝えるために、徴古館での保存が始まったのでした。
収蔵品の一部は展示され、神様が召された御衣などを見ることができます。
御正殿の全体模型や、実物の鰹木などもあり、神宮の規模の大きさが改めて実感できます。
また、戦国時代に神宮は荒れ果ててしまいましたが、全国を行脚して再興させた清順尼の功績などを知ることもできます。神宮徴古館 美術館・博物館
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神宮徴古館からすぐの所に、倭姫宮への裏参道がありますが、工事のため通行止めとなっていたため、表参道から入ることにしました。
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倭姫宮は内宮の別宮で、伊勢神宮を創建した倭姫命をお祀りしています。
倭姫命は第11代垂仁天皇の皇女で、豊鋤入姫命から御杖代に定められ、長い長い道のりを天照大御神を奉戴しながら鎮座地を求めて歩き続け、ついに伊勢の五十鈴川の川上に永遠に鎮まる場所を見つけたのでした。
倭姫命を祀る神社はありませんでしたが、大正の初めからその祭祀を行う神社の創建の運動が起こり、大正10年に皇大神宮別宮としての創建が許可され、12年に御鎮座祭が行われたのでした。
伊勢神宮を構成する全125社の中で最も新しく、唯一創設の経緯が明らかなお宮です。倭姫宮 寺・神社・教会
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すぐ近くには倭姫命の陵墓とされる古墳があります。
『倭姫命世記』によると、倭姫命は「天を尊び地に仕え、神を崇めて祖を敬い、宗廟の祀りを絶やすことなく天業を経綸し、異教の教えを遮って神祇を拝することを続けよ」と天照大御神が降したお告げを明らかにした後、それを守ることで朝廷を中心に四方の民は安らぐことができるとの言葉を残して尾上山へ登り、そのまま帰らなかったとのことです。
倭姫の御陵は尾上御陵と呼ばれて、宮内庁の管理下にあります。 -
雨はやむ気配はありません。
次に向かったのは、内宮別宮の月読宮。
正式には月讀宮と表記します。 -
境内には4社が並んで鎮座しており、月讀宮には月讀尊、月讀荒御魂宮には月讀尊荒御魂、伊佐奈岐宮には伊弉諾尊、伊佐奈弥宮には伊弉冉尊が祀られています。
右から2番目の月讀宮から参拝する習わしとなっており、よくみると月讀宮だけが少し大きく作られています。
古殿地はそれぞれの隣にあるのではなく、4社まとめて遷宮する敷地が設けられています。
伊弉諾尊・伊弉冉尊は天照大御神の御親の神で、大八洲と呼ぶ日本列島の他、たくさんの神々を生みました。
両親と兄弟が同じ敷地に鎮座しているということになります。
これで本宮と別宮の全ての参拝を終えることができました。
摂社・末社・所管社を含めると、125社という数になります。
それらも今後機会があったら参拝したいと思います。月読宮 寺・神社・教会
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ここからは母にとってはお楽しみの時間、自分にとっては苦痛の時間となります。
それは、人でごった返すおはらい町での買い物です。
内宮の駐車場は60分待。近くの無料駐車場も空きがありません。
まずは母だけを降ろし、自分は駐車場を探して車を走らせました。
そこで見つけたのが、猿田彦神社の参拝者用駐車場です。
ちょうど参拝する予定だったことだし、おはらい町からも近いので、有料であることなど気にせずに駐車しました。
そしておはらい町で母と合流して昼食をとり、おかげ横丁で長い買い物に付き合いました。
荷物が極限まで膨らんだところで満足したらしく、駐車場のある猿田彦神社まで歩きます。
そして改めて参拝。
御祭神は有名な猿田彦大神ですが、相殿には大田命が祀られています。
大田命は猿田彦の後裔で、倭姫命に対してその祖と同じく道案内をしたことで、天照大御神は無事に鎮まりました。
猿田彦神社の宮司は、大田命の子孫の宇治土公氏が代々継いで今に到っています。
導きの神さまの神社なので、伊勢神宮の前に参拝するのが正式らしいです。
御本殿はさだひこ造りという二重破風の妻入造りで、全国的に珍しい建築様式です。猿田彦神社 寺・神社・教会
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境内には、猿田彦と結婚して猿女君の祖となった天宇受売命の祀られる佐瑠女神社も鎮座しています。
天宇受売命は、天照大御神が天岩戸に隠れた時に、乳を出したり女陰のすぐ上まで裾を下げたりきわどい踊りで神々を湧かせ、天照大御神を岩戸から引っ張り出すためのきっかけをつくりました。
そのことから、踊りを含む芸能の神様として崇敬されています。
佐瑠女神社の本殿は、八角形をしています。
猿田彦神社は、この佐瑠女神社を含め、八角形のものがたくさんあります。 -
中央の古殿地には、八角形の方位石。
鳥居はもちろん、手水舎の柱まで八角形でした。
見て確認することはできませんでしたが、御本殿の鰹木や欄干も八角形をしているそうです。
方位除けの御神徳を仰ぐためとのことです。 -
裏の駐車場には、本居宣長大人の歌碑があります。
神世より神の御末とつたへ来て
名くはし宇治乃土公わが勢
寛政11年に大人が伊勢神宮を参拝した際、宇治土公家に宿って定津神主に贈った歌です。
こうして伊勢の旅は終わりました。
明日はセントレアからの飛行機に乗るので、今夜は名古屋泊。
これから名古屋へ帰らなければなりません。
高速道路は混むと聞いていたので、のんびりと一般道を帰ることにしました。 -
名古屋へ向かう途中、松阪に立ち寄ることにしました。
なぜならここは、本居宣長大人ゆかりの地であるからです。
伊勢から約1時間。
松阪市内に入って本居宣長旧宅に向けて車を走らせると、とても立派な石垣が見えて来ました。
松阪城の石垣です。
本居宣長記念館はそこからすぐの所にあります。 -
まずは本居宣長ノ宮に参拝。
御祭神は秋津彦美豆櫻根大人。本居宣長大人のことです。 -
明治8年、山室山の奥墓の傍に社字を建て、山室山神社と号して祭祀を始めたのが創祀で、大正4年、現在の鎮座地に遷座。平成7年に社号が本居宣長ノ宮に改称されました。
大人の最も有名な歌を刻んだ歌碑がありました。
敷島のやまと心を人問はば
朝日ににほふ山さくらはな
雨が強くなっていたため、それ以上は境内を散策することができず、記念館に向かいました。本居宣長ノ宮 寺・神社・教会
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本居宣長記念館は、昭和45年に開館され、大人とその一族、門人の資料を収蔵保管しています。
本居宣長大人は享保15年にここ松阪で生まれ、京都での遊学などの他は、生涯のほとんどを松阪で送りました。
京都では儒学や医学を学び、松阪に帰郷してからは医者として開業しながら、国文学の研究を続けました。
本居宣長の生涯を方向付けたのは、伊勢参宮の途中で松阪に寄った賀茂真淵との一夜の会見でした。
古事記の研究を志す本居宣長に、賀茂真淵はその前に万葉集を読むことを指示し、その後は手紙の往復によって国学の研究を進めます。
そして「古事記伝」全44巻をはじめとする国学の研究成果が次々に著されたのでした。
漢意を去って大和心に帰るという本居宣長の主張は、決して偏狭で国粋主義的な思想ではなく、国の起こりの神代の自然な生き方を尊ぶという普遍的な精神だと思います。
その本質にあるのは、やはり人間としての、日本人としての良心に他ならないのではないでしょうか。 -
記念館には、大人が医業と研究の場としていた旧宅「鈴屋(すずのや)」が移築保存されています。
大人は鈴が大好きで、駅鈴の模型などを多く蒐集していたそうです。
自宅の書斎にまで「鈴屋」との名前をつけ、門人からは鈴屋大人と呼ばれていました。
書斎としていた2階には上がれませんが、その床の間には、生涯で最も尊敬する賀茂真淵の死後、命日に「縣居大人之霊位」と書かれた掛け軸をかけて、祀りを欠かさなかったそうです。本居宣長記念館 美術館・博物館
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この鈴屋の移築保存の運動が持ち上がり、そのための寄付金が募られた明治39年、当時の小学生までが「自分たちが学問を修められるのは大人の功績のおかげ」として、募金を行いました。
その時に添えられた手紙が、記念館で展示されています。
毛筆で書かれた手紙には、あちこちに誤字とそれを訂正する線が引かれ、心素直な子供が一生懸命に書いた跡をうかがうことができます。
その精神こそが大和心ではないかと思うと、じんと目頭が熱くなり、自然に頭が下がるのでした。 -
晴れていれば、松阪城跡を散策できたでしょう。
現在は松阪と表記しますが、大阪同様もともとは松坂と表記していました。
松坂城は豊太閤の家臣、蒲生氏郷が築いた城です。
その後、小田原攻めで功績の大きかった氏郷は会津を与えられ、松坂には服部一忠(小平太)が入りました。
しかし一忠は、秀次事件に連座したとして上杉景勝に預けられ切腹。代わって古田重勝が入城しました。
その後古田氏は石見国浜田城に転封となり、松坂は紀州藩の藩領となりました。
本居宣長大人は、紀州藩第9代藩主徳川治貞公に著書『秘本玉くしげ』『玉くしげ別巻』を献上したり、第10代藩主徳川治寶公に進講したりしました。
城下町に残された武家屋敷や豪商邸宅も見学したかったですが、これ以上遅くなると名古屋に着くのが深夜になってしまうと思い、出発することにしました。
高速道路は2時間渋滞と電光掲示板に表示されていましたが、一般道もところどころで渋滞し、もう一か所立ち寄る予定の津は素通りとなってしまいました。
3時間ほどのドライブで名古屋に到着しました。
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