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平成18年度北方四島交流後継者訪問事業に派遣されることになり、約1週間かけて根室から北方領土を訪れました。 <br /><br />仙台から根室まで行くには、まず千歳経由で中標津まで飛行機で行き、そこからバスに乗る必要があります。 <br /><br />色丹島では、島民として在住するロシア人の家庭を訪問することになっており、地域の民芸品などを持っていくと喜ばれるそうですので、仙台空港で遠刈田こけしと七夕祭の絵葉書を買っておきました。

色丹島へ 日本人が行けない日本

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2006/09/13 - 2006/09/19

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倫清堂

倫清堂さん

平成18年度北方四島交流後継者訪問事業に派遣されることになり、約1週間かけて根室から北方領土を訪れました。

仙台から根室まで行くには、まず千歳経由で中標津まで飛行機で行き、そこからバスに乗る必要があります。

色丹島では、島民として在住するロシア人の家庭を訪問することになっており、地域の民芸品などを持っていくと喜ばれるそうですので、仙台空港で遠刈田こけしと七夕祭の絵葉書を買っておきました。

  • 初めて訪れる中標津空港は、中規模の駅と同じくらいの広さしかないターミナルでした。一日に数便しか飛行機の入らない空港ですが、とても愛着の持てる建物でした。 <br /><br />根室行きのバスに乗ると、乗客が数えるほどしかおりません。自分は後方の座席に座りました。 <br /><br />前方で、荷物から訪問団の書類を取り出して読んでいる男性を発見。声をかけてみると、なんと同じ宮城からの参加者、Mさんでした。 <br /><br />県庁の担当の方からは、Mさんの名前だけは聞いておりました。しかし一度もお会いしたことがなく、どのような方なのか大変気になっていましたが、話してみるととても気さくな方でした。 <br /><br />Mさんは過去に一度、訪問団に参加したことがあるそうです。バスで移動する1時間半は、Mさんとの会話のおかげであっという間に過ぎました。 <br /><br />バスは根室駅前に到着。二人で受付のあるグランドホテルを目指しました。

    初めて訪れる中標津空港は、中規模の駅と同じくらいの広さしかないターミナルでした。一日に数便しか飛行機の入らない空港ですが、とても愛着の持てる建物でした。

    根室行きのバスに乗ると、乗客が数えるほどしかおりません。自分は後方の座席に座りました。

    前方で、荷物から訪問団の書類を取り出して読んでいる男性を発見。声をかけてみると、なんと同じ宮城からの参加者、Mさんでした。

    県庁の担当の方からは、Mさんの名前だけは聞いておりました。しかし一度もお会いしたことがなく、どのような方なのか大変気になっていましたが、話してみるととても気さくな方でした。

    Mさんは過去に一度、訪問団に参加したことがあるそうです。バスで移動する1時間半は、Mさんとの会話のおかげであっという間に過ぎました。

    バスは根室駅前に到着。二人で受付のあるグランドホテルを目指しました。

  • まだ担当の方が全員到着していないので、受付の手続きはできませんでした。それでも、お世話役をして下さるSさんや、訪問団で一緒に活動する学生さんの一部にお会いすることはできました。 <br /><br />ホテルを出て、まだ昼食をとっていないことに気付きました。 <br /><br />Mさんと一緒に周辺を歩くと、準備中の店ばかりがある中で、ようやく一軒のラーメン屋を発見。さっそく店内に入りました。 <br /><br />おかみさんのお勧めの半ライスを注文すると、なんと秋刀魚の刺身と塩焼きがサービスで出されました。ラーメンと半ライスの値段でこれだけ豪華な食事ができるとは思ってもいませんでした。 <br /><br />満腹になったところでMさんとは別れ、ホテルへチェックインに向かいました。 <br /><br />荷物の整理を終え、市内散策に出かけました。 <br /><br />14日は一日かけて研修、15日は朝すぐに乗船という日程なので、自由になる時間は今しかありません。徒歩で30分以上をかけて、根室港に近い金刀比羅神社を訪れました。

    まだ担当の方が全員到着していないので、受付の手続きはできませんでした。それでも、お世話役をして下さるSさんや、訪問団で一緒に活動する学生さんの一部にお会いすることはできました。

    ホテルを出て、まだ昼食をとっていないことに気付きました。

    Mさんと一緒に周辺を歩くと、準備中の店ばかりがある中で、ようやく一軒のラーメン屋を発見。さっそく店内に入りました。

    おかみさんのお勧めの半ライスを注文すると、なんと秋刀魚の刺身と塩焼きがサービスで出されました。ラーメンと半ライスの値段でこれだけ豪華な食事ができるとは思ってもいませんでした。

    満腹になったところでMさんとは別れ、ホテルへチェックインに向かいました。

    荷物の整理を終え、市内散策に出かけました。

    14日は一日かけて研修、15日は朝すぐに乗船という日程なので、自由になる時間は今しかありません。徒歩で30分以上をかけて、根室港に近い金刀比羅神社を訪れました。

    金刀比羅神社 寺・神社・教会

  • 金刀比羅神社は文化3年 高田屋嘉兵衛が漁場請負をした際に創祀されたそうです。 <br /><br />現在の場所に遷座されたのは明治14年。敗戦後の昭和21年には、北方領土の島々の神社御神体が仮鎮座されました。 <br /><br />そして昭和61年に行われた創祀180年記念祭において、高田屋嘉兵衛銅像が建立されたということです。<br />

    金刀比羅神社は文化3年 高田屋嘉兵衛が漁場請負をした際に創祀されたそうです。

    現在の場所に遷座されたのは明治14年。敗戦後の昭和21年には、北方領土の島々の神社御神体が仮鎮座されました。

    そして昭和61年に行われた創祀180年記念祭において、高田屋嘉兵衛銅像が建立されたということです。

  • 時間はちょうど夕暮れ時。境内にある展望台からは、根室湾に陽が沈んでゆく様子を見ることができました。<br /><br />帰りにグランドホテルに寄り、正式に受付手続きを行いました。 <br /><br />翌日の勉強会で使われる資料も受け取りましたので、しっかり予習してから寝ることにしました。

    イチオシ

    時間はちょうど夕暮れ時。境内にある展望台からは、根室湾に陽が沈んでゆく様子を見ることができました。

    帰りにグランドホテルに寄り、正式に受付手続きを行いました。

    翌日の勉強会で使われる資料も受け取りましたので、しっかり予習してから寝ることにしました。

  • まるまる一日をかけて、訪問団に対する事前研修会が行われました。 <br /><br />8時半にグランドホテルに集合。チャーターバスに乗って北方四島交流センターに向かいました。 <br /><br />交流センターはホテルからそれほど遠くない、オホーツク海を見渡す丘の上にありました。 <br /><br />研修会に先立ち、結団式が行われました。 <br /><br />結団式と交流会は、研修会の終了後に宴会形式で行われる予定になっていましたが、先日根室の漁船がロシアの海上警備から銃撃を受け、乗組員が死亡するという痛ましい事件があったばかりなので、公式な宴会は自粛することに決まったのだそうです。 <br /><br />まず主催者である北方領土問題対策協会の井上達夫理事長よりご挨拶を頂きました。 <br /><br />次に団員36名それぞれの自己紹介。そして最後に団長の力のこもった挨拶が行われました。

    まるまる一日をかけて、訪問団に対する事前研修会が行われました。

    8時半にグランドホテルに集合。チャーターバスに乗って北方四島交流センターに向かいました。

    交流センターはホテルからそれほど遠くない、オホーツク海を見渡す丘の上にありました。

    研修会に先立ち、結団式が行われました。

    結団式と交流会は、研修会の終了後に宴会形式で行われる予定になっていましたが、先日根室の漁船がロシアの海上警備から銃撃を受け、乗組員が死亡するという痛ましい事件があったばかりなので、公式な宴会は自粛することに決まったのだそうです。

    まず主催者である北方領土問題対策協会の井上達夫理事長よりご挨拶を頂きました。

    次に団員36名それぞれの自己紹介。そして最後に団長の力のこもった挨拶が行われました。

    北海道立北方四島交流センター 美術館・博物館

  • 引き続き事前研修会。 <br /><br />まず、理事長からの講話「北方領土問題と返還運動 歴史と現実」です。 <br /><br />・北方領土問題の発生と返還運動の始まり <br />・日露(ソ)間の領土交渉 <br />・国民運動としての北方領土返還要求運動 <br />・当面の課題 <br />・クリル発展計画(07年から9年間で約170億ルーブルから180億ルーブルを投入) <br /><br />休憩の後、毎日新聞北海道報道部の本間浩昭氏による講話「拿捕・銃撃事件?日本船はなぜ撃たれたのか?」では、海洋資源枯渇問題と密漁問題の関係が明らかにされました。 <br /><br />印象的だったのは、島に住むロシア人にとっても「明日はわが身」の問題であるという事実です。 <br /><br />また、根室市総務部長の石垣雅敏氏による講話「北方領土返還要求運動の原点の地としての取り組み」も聞くことができました。 <br /><br />これにて午前の勉強会は終了となり、昼食と館内視察の時間となりました。 <br /><br />再びバスに乗り、北方館のある納沙布岬に向かいました。

    引き続き事前研修会。

    まず、理事長からの講話「北方領土問題と返還運動 歴史と現実」です。

    ・北方領土問題の発生と返還運動の始まり
    ・日露(ソ)間の領土交渉
    ・国民運動としての北方領土返還要求運動
    ・当面の課題
    ・クリル発展計画(07年から9年間で約170億ルーブルから180億ルーブルを投入)

    休憩の後、毎日新聞北海道報道部の本間浩昭氏による講話「拿捕・銃撃事件?日本船はなぜ撃たれたのか?」では、海洋資源枯渇問題と密漁問題の関係が明らかにされました。

    印象的だったのは、島に住むロシア人にとっても「明日はわが身」の問題であるという事実です。

    また、根室市総務部長の石垣雅敏氏による講話「北方領土返還要求運動の原点の地としての取り組み」も聞くことができました。

    これにて午前の勉強会は終了となり、昼食と館内視察の時間となりました。

    再びバスに乗り、北方館のある納沙布岬に向かいました。

  • 巨大なアーチは北方四島を象ったデザインです。<br /><br />その下に燃える火は、本土復帰を果たした沖縄で採火されたもので、四島返還の火まで消えることがないそうです。

    巨大なアーチは北方四島を象ったデザインです。

    その下に燃える火は、本土復帰を果たした沖縄で採火されたもので、四島返還の火まで消えることがないそうです。

  • 北方館では、北方領土語り部の中田勇氏による講話「元島民が語る北方領土」を聞きました。 <br /><br />北方四島の地理や当時の生活、北方領土が日本固有の領土である根拠などの説明がありました。 <br /><br />この後、色丹島訪問の際に行われる対話集会のための全体打ち合わせ、そして初心者のためのロシア語講座が行われました。会話でよく使われる表現などを学びました。

    北方館では、北方領土語り部の中田勇氏による講話「元島民が語る北方領土」を聞きました。

    北方四島の地理や当時の生活、北方領土が日本固有の領土である根拠などの説明がありました。

    この後、色丹島訪問の際に行われる対話集会のための全体打ち合わせ、そして初心者のためのロシア語講座が行われました。会話でよく使われる表現などを学びました。

    北方館(望郷の家) 美術館・博物館

  • ここでも少しの自由時間が与えられ、北方館の館内や納沙布岬の周辺などを見学することができました。

    ここでも少しの自由時間が与えられ、北方館の館内や納沙布岬の周辺などを見学することができました。

    納沙布岬 自然・景勝地

  • 交流事業という名の返還運動を始めた故末次一郎先生の顕彰碑もあり、今回の訪問に参加させて頂けたことへの感謝の気持ちと重い責任を、再確認しました。 <br /><br />それからバスに乗り、グランドホテルに到着したのは午後6時。その場で解散となりました。

    交流事業という名の返還運動を始めた故末次一郎先生の顕彰碑もあり、今回の訪問に参加させて頂けたことへの感謝の気持ちと重い責任を、再確認しました。

    それからバスに乗り、グランドホテルに到着したのは午後6時。その場で解散となりました。

  • いよいよ出航の日。8時半にグランドホテルに集合、それぞれ大きな荷物と一緒にバスに乗り込み、根室港に向けて出発しました。 <br /><br />根室港には、多くの見送りの方や一目でお偉いさんとわかる方たちの他、マスコミも多く駆けつけておりました。

    いよいよ出航の日。8時半にグランドホテルに集合、それぞれ大きな荷物と一緒にバスに乗り込み、根室港に向けて出発しました。

    根室港には、多くの見送りの方や一目でお偉いさんとわかる方たちの他、マスコミも多く駆けつけておりました。

  • 国後島に上陸する四島交流北海道推進委員会の方たちと合同で出発式を行った後、一人ずつチェックを受けてから「ロサ・ルゴサ」号に乗船しました。 <br /><br />ロサ・ルゴサとは、四島返還のシンボルとなっている「はまなす」の花をラテン語にした言葉です。480トンなので、それほど大きな船ではありません。

    国後島に上陸する四島交流北海道推進委員会の方たちと合同で出発式を行った後、一人ずつチェックを受けてから「ロサ・ルゴサ」号に乗船しました。

    ロサ・ルゴサとは、四島返還のシンボルとなっている「はまなす」の花をラテン語にした言葉です。480トンなので、それほど大きな船ではありません。

  • 北海道班が上陸する国後島までは約4時間かかり、我々の目的地である色丹島までは更に4時間かかります。北方四島との時差は2時間とされており、中間点を越えた時点で時計の針は2時間進みます。 <br /><br />国後島までの海は大変穏やかで、ほとんど揺れを感じることはありませんでした。 <br /><br />船は国後島に着岸することができません。北海道班の約40名は、国後から迎えに来た艀に乗って上陸しましたが、我々は一歩足を踏み入れることもできませんでした。

    北海道班が上陸する国後島までは約4時間かかり、我々の目的地である色丹島までは更に4時間かかります。北方四島との時差は2時間とされており、中間点を越えた時点で時計の針は2時間進みます。

    国後島までの海は大変穏やかで、ほとんど揺れを感じることはありませんでした。

    船は国後島に着岸することができません。北海道班の約40名は、国後から迎えに来た艀に乗って上陸しましたが、我々は一歩足を踏み入れることもできませんでした。

  • ロサ・ルゴサ号は色丹島に向けて再出発。しかし、次第に船は大きく揺れ始め、軽い船酔いにかかってしまいました。 <br /><br />夕食はうなぎの蒲焼でしたが、一口食べるのが精一杯でした。ほとんどの人が美味そうに食べている中、青い顔をしたかわいそうな自分… <br /><br />船酔いでむかつく胃と格闘しながら、色丹島で行われる交流会で歌う日本の歌を全体で練習しました。曲は「ふるさと」と「上を向いて歩こう」 <br /><br />その後ベッドで休んでいるうちに、船は色丹島の穴澗湾に到着したようです。 <br /><br />揺れもおさまり、夜の空気を吸ったりしているうちに船酔いは解消しました。しかし、翌日からの活動に支障が出ることがないよう、そのままゆっくり休むことにしました。

    ロサ・ルゴサ号は色丹島に向けて再出発。しかし、次第に船は大きく揺れ始め、軽い船酔いにかかってしまいました。

    夕食はうなぎの蒲焼でしたが、一口食べるのが精一杯でした。ほとんどの人が美味そうに食べている中、青い顔をしたかわいそうな自分…

    船酔いでむかつく胃と格闘しながら、色丹島で行われる交流会で歌う日本の歌を全体で練習しました。曲は「ふるさと」と「上を向いて歩こう」

    その後ベッドで休んでいるうちに、船は色丹島の穴澗湾に到着したようです。

    揺れもおさまり、夜の空気を吸ったりしているうちに船酔いは解消しました。しかし、翌日からの活動に支障が出ることがないよう、そのままゆっくり休むことにしました。

  • 北方領土に関する問題について、ここで確認しておきたいと思います。 <br /><br />北方領土とは、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の四島を意味します。 <br /><br />北の国境画定のため、歴史上ロシアとの間でいくつかの条約が結ばれました。 <br /><br />・1855年 日魯通好条約(下田条約) <br />「今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島の間にあるべし」(第2条) <br />北方四島と千島列島の間に国境線が画定しましたが、樺太については決着が先送りされました。ちなみに、この条約が締結された2月7日が、「北方領土の日」とされています。 <br /><br />・1875年 千島・樺太交換条約 <br />樺太全体をロシアのものとするかわりに、カムチャッカ半島以南の全ての列島が日本のものとなりました。 <br /><br />・1905年 ポーツマス条約 <br />日露戦争の勝利により、樺太の北緯50度線以南が日本に割譲されました。 <br /><br />・1951年 サンフランシスコ平和条約 <br />「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」(第2条c)<br /><br />千島列島と樺太の北緯50度線以南の領有については未画定のままとなっておりますが、現実は北方四島と同様、ロシアが実効支配をしています。 <br /><br />返還要求運動は終戦後の秋から始まっております。当時の根室町長、安藤石典は、戦災者の救助のみならず、ソ連によって不法に占拠された北方領土からの引揚者の受入対策を全面的に取り上げ、援護の手を差し延べるとともに、北方領土返還運動推進の陣頭指揮を執りました。 <br /><br />その後、返還要求運動は根室市から北海道全体に広がり、元島民が多く居住する富山県をはじめとする各都府県にも飛び火することとなりました。 <br /><br />そして昭和55年の衆参両院の全会一致による「北方領土の日」制定と「北方領土問題の解決促進に関する決議」につながるのです。

    イチオシ

    北方領土に関する問題について、ここで確認しておきたいと思います。

    北方領土とは、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の四島を意味します。

    北の国境画定のため、歴史上ロシアとの間でいくつかの条約が結ばれました。

    ・1855年 日魯通好条約(下田条約)
    「今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島の間にあるべし」(第2条)
    北方四島と千島列島の間に国境線が画定しましたが、樺太については決着が先送りされました。ちなみに、この条約が締結された2月7日が、「北方領土の日」とされています。

    ・1875年 千島・樺太交換条約
    樺太全体をロシアのものとするかわりに、カムチャッカ半島以南の全ての列島が日本のものとなりました。

    ・1905年 ポーツマス条約
    日露戦争の勝利により、樺太の北緯50度線以南が日本に割譲されました。

    ・1951年 サンフランシスコ平和条約
    「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」(第2条c)

    千島列島と樺太の北緯50度線以南の領有については未画定のままとなっておりますが、現実は北方四島と同様、ロシアが実効支配をしています。

    返還要求運動は終戦後の秋から始まっております。当時の根室町長、安藤石典は、戦災者の救助のみならず、ソ連によって不法に占拠された北方領土からの引揚者の受入対策を全面的に取り上げ、援護の手を差し延べるとともに、北方領土返還運動推進の陣頭指揮を執りました。

    その後、返還要求運動は根室市から北海道全体に広がり、元島民が多く居住する富山県をはじめとする各都府県にも飛び火することとなりました。

    そして昭和55年の衆参両院の全会一致による「北方領土の日」制定と「北方領土問題の解決促進に関する決議」につながるのです。

  • 北方四島の朝は早い。朝食の準備ができたとの放送が入ったのは5時半のことでした。 <br /><br />外に出て、朝の少し冷たい空気をいっぱい吸い込みました。 <br /><br />船が停泊しているのは、色丹島の。昨夜、暗くなっていた到着時には気付かなかったのですが、茶色く錆びた廃船があちこちに放置されています。 <br /><br />水面を見ると、頭を上にして浮いている死んだ魚。 <br /><br />この湾は、見た目だけでなく、海水の汚染も相当に進んでいるとのことでした。 <br /><br />昨年までは港に直接船を接舷することができたそうですが、海底のヘドロがかなり堆積してしまったため、底の浅い艀を使って上陸しなければならなくなってしまいました。 <br /><br />ヘドロの原因は、処理されないままに垂れ流される汚水です。生活用水から工業排水まで、全てがこの湾に流れて来ているのです。 <br /><br />ここで獲れる魚介類は、島の住人でも食べないのだとか。

    北方四島の朝は早い。朝食の準備ができたとの放送が入ったのは5時半のことでした。

    外に出て、朝の少し冷たい空気をいっぱい吸い込みました。

    船が停泊しているのは、色丹島の。昨夜、暗くなっていた到着時には気付かなかったのですが、茶色く錆びた廃船があちこちに放置されています。

    水面を見ると、頭を上にして浮いている死んだ魚。

    この湾は、見た目だけでなく、海水の汚染も相当に進んでいるとのことでした。

    昨年までは港に直接船を接舷することができたそうですが、海底のヘドロがかなり堆積してしまったため、底の浅い艀を使って上陸しなければならなくなってしまいました。

    ヘドロの原因は、処理されないままに垂れ流される汚水です。生活用水から工業排水まで、全てがこの湾に流れて来ているのです。

    ここで獲れる魚介類は、島の住人でも食べないのだとか。

  • ヘドロの原因のひとつと言える株式会社クラボザボツク水産工場へ、まずは視察に訪れました。 <br /><br />加工する上で出てくる廃棄物は、魚のえさになるので海に流しているのだと説明していました。 <br /><br />休憩中にビールを飲む青年がいることなど、本土ではまず見られないと思い、印象的でした。

    ヘドロの原因のひとつと言える株式会社クラボザボツク水産工場へ、まずは視察に訪れました。

    加工する上で出てくる廃棄物は、魚のえさになるので海に流しているのだと説明していました。

    休憩中にビールを飲む青年がいることなど、本土ではまず見られないと思い、印象的でした。

  • 次に島民が用意した自動車に乗って、穴澗に新設された学校へ向かいました。 <br /><br />道路は全く舗装されていません。轍だけでなく、あちこちに陥没が見られます。当然砂ぼこりも舞います。 <br /><br />ロシア人が運転する車は日本車なのですが、何年も前の車検証が張ってあるままです。一度も洗車したことがないのでしょうか、車体は土にまみれています。 <br /><br />でこぼこ道に揺られるなんてものではありません。ディズニーランドのアトラクションのように、身体は上下左右に振り回されるのです。 <br /><br />学校は少し坂を登ったところにありました。黄色い外観が、遠くから見てもかなり目立ちます。

    次に島民が用意した自動車に乗って、穴澗に新設された学校へ向かいました。

    道路は全く舗装されていません。轍だけでなく、あちこちに陥没が見られます。当然砂ぼこりも舞います。

    ロシア人が運転する車は日本車なのですが、何年も前の車検証が張ってあるままです。一度も洗車したことがないのでしょうか、車体は土にまみれています。

    でこぼこ道に揺られるなんてものではありません。ディズニーランドのアトラクションのように、身体は上下左右に振り回されるのです。

    学校は少し坂を登ったところにありました。黄色い外観が、遠くから見てもかなり目立ちます。

  • 学校内部をざっと見学しました。体育館には、吊輪や高い鉄棒まであります。

    学校内部をざっと見学しました。体育館には、吊輪や高い鉄棒まであります。

  • パソコン室もありますが、インターネットには接続されていないようでした。音楽室には、まだピアノもありませんでした。

    パソコン室もありますが、インターネットには接続されていないようでした。音楽室には、まだピアノもありませんでした。

  • 広い教室に訪問団員のための席が用意されていました。 <br /><br />全員が着席すると、生徒たちも参加してロシア文化講座が始まりました。 <br /><br />まだ小学生でしょうか。とてもかわいらしいロシア人の子供たちが、上手に日本語で自己紹介をします。歓迎の歌も歌ってくれました。

    広い教室に訪問団員のための席が用意されていました。

    全員が着席すると、生徒たちも参加してロシア文化講座が始まりました。

    まだ小学生でしょうか。とてもかわいらしいロシア人の子供たちが、上手に日本語で自己紹介をします。歓迎の歌も歌ってくれました。

  • その後、穴澗村長も交えての意見交換を行いました。クリル発展計画と環境問題について、意見が交わされました。

    その後、穴澗村長も交えての意見交換を行いました。クリル発展計画と環境問題について、意見が交わされました。

  • それから5つの班に分かれ、ホームビジットに向かいました。 <br /><br />自分達のビジット先は、建設業に勤めるご主人と音楽教師の奥さん、そして11歳の次女の3人家族のご家庭です。 <br /><br />これまでビザなし交流で何度も日本人を受け入れて来たご家族で、本土に来たこともあるとのことです。簡単な単語なら日本語も通じます。こちらからは通訳も同伴していますので、会話で不自由することはありませんでした。 <br /><br />リビングには、日本人から贈られたプレゼントが並ぶコーナーがあり、今回差し上げたこけしもここに飾られるとのことです。

    それから5つの班に分かれ、ホームビジットに向かいました。

    自分達のビジット先は、建設業に勤めるご主人と音楽教師の奥さん、そして11歳の次女の3人家族のご家庭です。

    これまでビザなし交流で何度も日本人を受け入れて来たご家族で、本土に来たこともあるとのことです。簡単な単語なら日本語も通じます。こちらからは通訳も同伴していますので、会話で不自由することはありませんでした。

    リビングには、日本人から贈られたプレゼントが並ぶコーナーがあり、今回差し上げたこけしもここに飾られるとのことです。

  • 事務局からは、ウォッカの飲みすぎにくれぐれも注意するようにと釘を差されていましたが、乾杯のペースはとてもゆっくりで、却って物足りなく感じられたほどでした。 <br /><br />料理にはかなり力が入っていました。ボルシチに始まり、ナスやピーマンなど庭でとれた野菜を使った料理が次々に出され、最後にミルクレープ風の手作りケーキまで。 <br /><br />味付けも日本人向けなのでしょうか、飽きることなくとても美味しいものでした。

    事務局からは、ウォッカの飲みすぎにくれぐれも注意するようにと釘を差されていましたが、乾杯のペースはとてもゆっくりで、却って物足りなく感じられたほどでした。

    料理にはかなり力が入っていました。ボルシチに始まり、ナスやピーマンなど庭でとれた野菜を使った料理が次々に出され、最後にミルクレープ風の手作りケーキまで。

    味付けも日本人向けなのでしょうか、飽きることなくとても美味しいものでした。

  • ご主人は日本文化に対して興味を持っており、士農工商などの身分について質問されたりもしました。 <br /><br />ロシア人女性としては珍しくとてもスマートな奥さんは、本土に来た時の思い出話などをしてくれました。 <br /><br />お嬢さんは最初に日本語で自己紹介をし、その後大人たちが会話をしている時は、料理や食器を運ぶことを進んで行っていました。

    ご主人は日本文化に対して興味を持っており、士農工商などの身分について質問されたりもしました。

    ロシア人女性としては珍しくとてもスマートな奥さんは、本土に来た時の思い出話などをしてくれました。

    お嬢さんは最初に日本語で自己紹介をし、その後大人たちが会話をしている時は、料理や食器を運ぶことを進んで行っていました。

  • 予定されていた3時間は、あっという間に過ぎてしまいました。最後に奥さんとお嬢さんが連弾でピアノを披露してくれました。

    予定されていた3時間は、あっという間に過ぎてしまいました。最後に奥さんとお嬢さんが連弾でピアノを披露してくれました。

  • 家族といっしょに坂を少し下りた集合場所まで歩いて行きました。 <br /><br />訪問団員はあらかじめ用意していたルーブルを持って、近くの商店で買い物をすることができました。 <br /><br />ここで家族とはいったんお別れです。

    家族といっしょに坂を少し下りた集合場所まで歩いて行きました。

    訪問団員はあらかじめ用意していたルーブルを持って、近くの商店で買い物をすることができました。

    ここで家族とはいったんお別れです。

  • 次に日本の人道支援で建設した発電所を訪れました。 <br /><br />午前に視察した水産工場ができてから、フル稼働で発電しているそうですが、それができる以前は3分の1の稼動で全家庭の電力を供給できていたそうです。

    次に日本の人道支援で建設した発電所を訪れました。

    午前に視察した水産工場ができてから、フル稼働で発電しているそうですが、それができる以前は3分の1の稼動で全家庭の電力を供給できていたそうです。

  • 建設以来一度も点検していないとのことで、湾にあった廃船や道端の廃車同様、この施設も使い捨てになってしまうのでしょうか。

    建設以来一度も点検していないとのことで、湾にあった廃船や道端の廃車同様、この施設も使い捨てになってしまうのでしょうか。

  • それからただ一軒あるレストラン「インペリアル」に移動して、夕食交流会が開かれました。 <br /><br />ホームビジットをしたエブゲニエビッチご夫妻もお見えになり、隣の席へ座っていただきました。 <br /><br />ここでロシア歌曲集の楽譜を取り出し、個人的に披露しました。楽譜には多くのロシア歌曲が収められていますが、どれも名曲ばかりとのことです。 <br /><br />次の訪問まで、より多くの曲を練習しておきたいと思います。

    それからただ一軒あるレストラン「インペリアル」に移動して、夕食交流会が開かれました。

    ホームビジットをしたエブゲニエビッチご夫妻もお見えになり、隣の席へ座っていただきました。

    ここでロシア歌曲集の楽譜を取り出し、個人的に披露しました。楽譜には多くのロシア歌曲が収められていますが、どれも名曲ばかりとのことです。

    次の訪問まで、より多くの曲を練習しておきたいと思います。

  • また、ロシア側と日本側からそれぞれショーを行いました。アコーディオンに似た楽器バヤーンを弾きながら歌ってくださったのは、午前に訪れた学校で音楽を教えるタチヤーナ先生。 <br /><br />日本側からは合気道の演舞を行いました。 <br /><br />最後に全員で「カチューシャ」をロシア語で、「ふるさと」「上を向いて歩こう」を日本語で歌いました。すばらしい出会いでしたが、とうとうお別れの時間が来たのです。 <br /><br />島民のみなさんは、訪問団に対して非常に親切でした。 <br /><br />国境が未画定の土地に暮らし、娯楽もほとんどないような生活をする中、訪問団との交流は数少ないイベントのひとつなのです。 <br /><br />いずれ四島が返還されれば、この人たちはロシアに戻るのか日本人として暮らすのか、選択を迫られることになるでしょう。 <br /><br />もし日本人として暮らすのであれば、喜んで受け入れたいと思います。彼らは日本人を信頼し、愛しているのですから。

    また、ロシア側と日本側からそれぞれショーを行いました。アコーディオンに似た楽器バヤーンを弾きながら歌ってくださったのは、午前に訪れた学校で音楽を教えるタチヤーナ先生。

    日本側からは合気道の演舞を行いました。

    最後に全員で「カチューシャ」をロシア語で、「ふるさと」「上を向いて歩こう」を日本語で歌いました。すばらしい出会いでしたが、とうとうお別れの時間が来たのです。

    島民のみなさんは、訪問団に対して非常に親切でした。

    国境が未画定の土地に暮らし、娯楽もほとんどないような生活をする中、訪問団との交流は数少ないイベントのひとつなのです。

    いずれ四島が返還されれば、この人たちはロシアに戻るのか日本人として暮らすのか、選択を迫られることになるでしょう。

    もし日本人として暮らすのであれば、喜んで受け入れたいと思います。彼らは日本人を信頼し、愛しているのですから。

  • 島内での活動、2日目はまず学校で対話集会から始まりました。 <br /><br />前日よりも領土問題の核心に迫る対話にしたいというのが、訪問団側の希望です。 <br /><br />学校に通う生徒たちの姿も前日より多く見ることができ、教育現場で領土問題がどのように取り上げられているのかを聞き出すチャンスだと思いました。 <br /><br />しかし、日本人向けに印刷されたと思われる名刺大のカレンダーカードを配られた時、無言の対話の拒絶を感じ取りました。 <br /><br />そこに描かれた地図はまさしく北海道と四島の間に国境線が太々しく引かれており、また日本語で「ロ日有効関係万歳」との言葉も書かれています。「友好」ではなく「有効」ですよ。 <br /><br />訪問団は漢字の誤りを何年間も指摘し続けているそうですが、カレンダーは書き換えられても文字は変わらないそうです。有効期限つきの関係だとでも言いたいのでしょうか。 <br /><br />カードを見て見ぬふりをして対話集会は始まりました。 <br /><br />まずはお互いのよりよく知るために、「日本人、ロシア人の国民性」というテーマで意見を出し合いました。 <br /><br />ロシア人側からは、日本人は勤勉でよく働くという意見が出ました。 <br /><br />逆に日本人側からは、なかなか意見が出されません。そこで団長、なぜ日本人がロシア人のイメージを語らないかというと、それはロシア人への印象があまりよくないからだと述べました。 <br /><br />それがここにいる訪問団員の一致した考え方だと言った時、団員の中には顔を見合す人も…。 <br /><br />また領土問題については、政府の問題であって、生徒たちがいるこの場で討論するべき題材ではないというのがロシア人側の主張でした。 <br /><br />次の世代が解決してくれるでしょう、というのがロシア人の決まり文句です。もちろんその真の狙いは、元島民の完全なる死滅と、歴史的事実の風化なのです。 <br /><br />島民の代表者の言葉を直接聞くことができましたが、返還要求運動は手法を変えて行かねばならないことがはっきりしました。

    島内での活動、2日目はまず学校で対話集会から始まりました。

    前日よりも領土問題の核心に迫る対話にしたいというのが、訪問団側の希望です。

    学校に通う生徒たちの姿も前日より多く見ることができ、教育現場で領土問題がどのように取り上げられているのかを聞き出すチャンスだと思いました。

    しかし、日本人向けに印刷されたと思われる名刺大のカレンダーカードを配られた時、無言の対話の拒絶を感じ取りました。

    そこに描かれた地図はまさしく北海道と四島の間に国境線が太々しく引かれており、また日本語で「ロ日有効関係万歳」との言葉も書かれています。「友好」ではなく「有効」ですよ。

    訪問団は漢字の誤りを何年間も指摘し続けているそうですが、カレンダーは書き換えられても文字は変わらないそうです。有効期限つきの関係だとでも言いたいのでしょうか。

    カードを見て見ぬふりをして対話集会は始まりました。

    まずはお互いのよりよく知るために、「日本人、ロシア人の国民性」というテーマで意見を出し合いました。

    ロシア人側からは、日本人は勤勉でよく働くという意見が出ました。

    逆に日本人側からは、なかなか意見が出されません。そこで団長、なぜ日本人がロシア人のイメージを語らないかというと、それはロシア人への印象があまりよくないからだと述べました。

    それがここにいる訪問団員の一致した考え方だと言った時、団員の中には顔を見合す人も…。

    また領土問題については、政府の問題であって、生徒たちがいるこの場で討論するべき題材ではないというのがロシア人側の主張でした。

    次の世代が解決してくれるでしょう、というのがロシア人の決まり文句です。もちろんその真の狙いは、元島民の完全なる死滅と、歴史的事実の風化なのです。

    島民の代表者の言葉を直接聞くことができましたが、返還要求運動は手法を変えて行かねばならないことがはっきりしました。

  • 対話集会が終わり、車に乗って斜古丹の日本人墓地への墓参に行きました。

    対話集会が終わり、車に乗って斜古丹の日本人墓地への墓参に行きました。

  • また、海が見渡せる海辺の丘に建てられたロシア正教会を視察しました。

    また、海が見渡せる海辺の丘に建てられたロシア正教会を視察しました。

  • 神父の話はかなり専門的で、キリスト教の知識がない人には退屈だったかも知れません。

    神父の話はかなり専門的で、キリスト教の知識がない人には退屈だったかも知れません。

  • 景色のきれいなマタコタンで野外昼食会を行いました。ハナサキガニが食べ放題。学生たちは大喜びでした。

    景色のきれいなマタコタンで野外昼食会を行いました。ハナサキガニが食べ放題。学生たちは大喜びでした。

  • 食事を終え、イネモシリの日本人墓地へ。

    食事を終え、イネモシリの日本人墓地へ。

  • それからイネモシリ海岸へ行きました。 <br /><br />途中かなり道が悪く、ついに5号車がパンクしてしまいました。しかし、ロシア人にとってはこれもよくあること。交換できるタイヤはいつでも車に積んであるのだそうです。

    イチオシ

    それからイネモシリ海岸へ行きました。

    途中かなり道が悪く、ついに5号車がパンクしてしまいました。しかし、ロシア人にとってはこれもよくあること。交換できるタイヤはいつでも車に積んであるのだそうです。

  • 正教会の近くにあった「スタジアム」に戻り、島民ロシア人との文化交流が行われました。 <br /><br />パンクを克服した5号車も、到着を目の前にしてついに故障、力尽きてしまいました。

    正教会の近くにあった「スタジアム」に戻り、島民ロシア人との文化交流が行われました。

    パンクを克服した5号車も、到着を目の前にしてついに故障、力尽きてしまいました。

  • 子供たちとは竹とんぼや剣玉、青年たちとはサッカーやバレーボールをして交流を行いました。

    子供たちとは竹とんぼや剣玉、青年たちとはサッカーやバレーボールをして交流を行いました。

  • 訪問団の団員が無邪気な子供たちと遊んでいる間、自分はトイレの帰りに出会ってしまったスキンヘッドの若者5人と、彼らの持っていたビールを飲みながら戯れました。 <br /><br />自分たちは軍人だと言っていましたが、まだ入隊したばかりなのでしょう。威厳は感じられず、子供らしさが残っています。 <br /><br />5人の中で一番目つきの悪い青年が、聞いたことのない言葉を何度も繰り返し使うので、後で車に乗ってから通訳の方に訊いてみました。 <br /><br />すると運転していたロシア人がびっくりして、それは使ってはいけない言葉なのだと教えてくれました。 <br /><br />楽しい裏交流の一コマです。

    訪問団の団員が無邪気な子供たちと遊んでいる間、自分はトイレの帰りに出会ってしまったスキンヘッドの若者5人と、彼らの持っていたビールを飲みながら戯れました。

    自分たちは軍人だと言っていましたが、まだ入隊したばかりなのでしょう。威厳は感じられず、子供らしさが残っています。

    5人の中で一番目つきの悪い青年が、聞いたことのない言葉を何度も繰り返し使うので、後で車に乗ってから通訳の方に訊いてみました。

    すると運転していたロシア人がびっくりして、それは使ってはいけない言葉なのだと教えてくれました。

    楽しい裏交流の一コマです。

  • 前日と同じ「インペリアル」で夕食会が行われ、エブゲニエビッチ夫妻は来ていませんでしたが、バヤーンの演奏が得意なタチヤーナ先生とご主人と一緒のテーブルになり、音楽教育について話すことができました。 <br /><br />タチヤーナ先生からは、ロシア民謡や歌曲の入った2本のテープをプレゼントされました。

    前日と同じ「インペリアル」で夕食会が行われ、エブゲニエビッチ夫妻は来ていませんでしたが、バヤーンの演奏が得意なタチヤーナ先生とご主人と一緒のテーブルになり、音楽教育について話すことができました。

    タチヤーナ先生からは、ロシア民謡や歌曲の入った2本のテープをプレゼントされました。

  • 交流会が終わり、穴澗湾の桟橋では花火大会が行われました。ここにはエブゲニエビッチ夫妻やエレーナも来てくれました。 <br /><br />訪問団員が全員艀に乗り込むと、桟橋はあっという間に遠ざかってしまいました。我々も彼らも、お互いの姿が見えなくなるまで手を振り続けていました。 <br /><br />ある団員が独り言のようにつぶやきました。 <br /><br />「行きたい時に行けないのが問題なんだよな」と。

    交流会が終わり、穴澗湾の桟橋では花火大会が行われました。ここにはエブゲニエビッチ夫妻やエレーナも来てくれました。

    訪問団員が全員艀に乗り込むと、桟橋はあっという間に遠ざかってしまいました。我々も彼らも、お互いの姿が見えなくなるまで手を振り続けていました。

    ある団員が独り言のようにつぶやきました。

    「行きたい時に行けないのが問題なんだよな」と。

  • 国後島の古釜布湾に停泊して朝を迎えました。朝食は5時。 <br /><br />朝日が幻想的でした。 <br /><br />国後島で活動を終えた北海道班が船に帰って来ました。彼らの表情にも、やはり疲れは浮かんでいました。

    国後島の古釜布湾に停泊して朝を迎えました。朝食は5時。

    朝日が幻想的でした。

    国後島で活動を終えた北海道班が船に帰って来ました。彼らの表情にも、やはり疲れは浮かんでいました。

  • 船は根室に向けて動き出しました。 <br /><br />4日も行程を共にした仲間たちとも、別れの時が迫って来ました。 <br /><br />今更ながら名刺交換をしたり、またそれぞれの地元での仕事や活動などを話したりしているうちに、根室はすぐ目の前に近づいて来ました。 <br /><br />港には、出迎えの方が多く参集して下さいました。 <br /><br />我々一行はバスに乗ってグランドホテルまで行き、そこで解散となりました。

    船は根室に向けて動き出しました。

    4日も行程を共にした仲間たちとも、別れの時が迫って来ました。

    今更ながら名刺交換をしたり、またそれぞれの地元での仕事や活動などを話したりしているうちに、根室はすぐ目の前に近づいて来ました。

    港には、出迎えの方が多く参集して下さいました。

    我々一行はバスに乗ってグランドホテルまで行き、そこで解散となりました。

  • 代表者記者会見がホテルの一室で行われたので、見学しました。 <br /><br />北対協側からは団長、学生代表、元島民3世(大学生)の3名が記者の質問に答えました。以下はその記事です。 <br /><br /><br />北方四島ビザなし交流:国後と色丹で対話、訪問団が帰港 /北海道 <br /><br /> 今年度最後の日本側ビザなし交流で、国後、色丹両島を訪れていた二つの訪問団が18日、3泊4日の交流を終えて根室市根室港に戻った。 <br /> 国後島で交流した元島民2世や大学生ら38人の訪問団の野潟龍彦団長(54)は記者会見で、「混住を共通テーマに、輪になって、『ことば』『労働』『年金』『インフラ整備』など(克服しなければならない問題点)のカードをお互いが出し合って作業した。歴史に残る1ページになった」と述べた。 <br /> 2日間の作業を終え、ロシア側は「こういう交流であれば、もっと仲間を集めたかった」と感想を漏らしたという。野潟団長は「これまで(の対話集会)は、相手に通じるか通じないか分からない中で一方的に話すだけ。14年間それで終わっていた」と指摘。「後継者という、混住になれば一緒に暮らす確率の高い人が共生をテーマに作業する。仮に10年やって文書にまとめる。それを国や道に働きかけ、早期返還を求めたい」と意義を強調した。 <br /> 一方、色丹島を37人で訪れた「後継者の船訪問団」に参加した元島民3世、亀岡志保さん(20)=学習院大3年=は、対話集会でロシア側は「『次世代で解決したい』と言いながら、話を若者に向けたら、『子供たちには関係のない話』と大人が遮った」と話し、対話の難しさを実感していた。【本間浩昭】 <br />(毎日新聞) - 9月19日<br /><br /><br />また北海道班の団長からは、銃撃・拿捕された船長と会うことができたという、驚くべき報告を聞くことができました。このことは、我々の訪問中に新聞で報道されたようです。 <br /><br /><br /><漁船銃撃拿捕>坂下船長と面会 ビザなし交流訪問団 <br /><br /> 北方領土ビザなし交流訪問団が15日、国後島に入り、野潟龍彦団長ら4人がロシア国境警備隊に銃撃・拿捕された「第31吉進丸」の坂下登船長と面会した。訪問団から外務省に入った連絡によると、坂下船長は腰の持病のため足の付け根に痛みがあるほかは健康状態に大きな問題はない様子だったという。 <br />(毎日新聞) - 9月15日<br /><br /><br />記者会見に臨んだ学生たちは、とても立派な態度で質問に答えていました。 <br /><br />特に学生代表のS君は、島内活動で対話集会の司会を務めるなど、重要な役割を責任をもって果たしてくれました。将来は政治家を志望しているとのことですが、今回の経験は大きな財産になったことだと思います。 <br /><br />夜には学生を中心とする一部の有志で、慰労会を行いました。 <br /><br />会場や料理を提供して下さったのは、北方館に勤めている方で、なにかと訪問団の活動を支援して下さっている方です。 <br /><br />事務局のSさんは別として、私と長州生まれの女性Yさんのふたりだけ30代。あとは20代か10代の若者ばかりでした。 <br /><br />この4日間の思い出話で、会はとても盛り上がりました。特に酒の肴にされたのは、風邪を引いてしまいこの場には参加できなかった学生N君。 <br /><br />彼は船内や色丹島で幾度となく忘れ物をしていた、おっちょこちょいの学生なのですが、バレバレの手品をして我々酒飲みの社会人を楽しませるなど、多くの功績を残しました。 <br /><br />時間が過ぎるのを忘れるほど、楽しい宴会となりました。 <br /><br />そして、事故や怪我などもなく、全員が無事に帰ることができたことを実感できるほどに緊張がほぐれている自分を、この時になってようやく発見しました。

    代表者記者会見がホテルの一室で行われたので、見学しました。

    北対協側からは団長、学生代表、元島民3世(大学生)の3名が記者の質問に答えました。以下はその記事です。


    北方四島ビザなし交流:国後と色丹で対話、訪問団が帰港 /北海道

     今年度最後の日本側ビザなし交流で、国後、色丹両島を訪れていた二つの訪問団が18日、3泊4日の交流を終えて根室市根室港に戻った。
     国後島で交流した元島民2世や大学生ら38人の訪問団の野潟龍彦団長(54)は記者会見で、「混住を共通テーマに、輪になって、『ことば』『労働』『年金』『インフラ整備』など(克服しなければならない問題点)のカードをお互いが出し合って作業した。歴史に残る1ページになった」と述べた。
     2日間の作業を終え、ロシア側は「こういう交流であれば、もっと仲間を集めたかった」と感想を漏らしたという。野潟団長は「これまで(の対話集会)は、相手に通じるか通じないか分からない中で一方的に話すだけ。14年間それで終わっていた」と指摘。「後継者という、混住になれば一緒に暮らす確率の高い人が共生をテーマに作業する。仮に10年やって文書にまとめる。それを国や道に働きかけ、早期返還を求めたい」と意義を強調した。
     一方、色丹島を37人で訪れた「後継者の船訪問団」に参加した元島民3世、亀岡志保さん(20)=学習院大3年=は、対話集会でロシア側は「『次世代で解決したい』と言いながら、話を若者に向けたら、『子供たちには関係のない話』と大人が遮った」と話し、対話の難しさを実感していた。【本間浩昭】
    (毎日新聞) - 9月19日


    また北海道班の団長からは、銃撃・拿捕された船長と会うことができたという、驚くべき報告を聞くことができました。このことは、我々の訪問中に新聞で報道されたようです。


    <漁船銃撃拿捕>坂下船長と面会 ビザなし交流訪問団

     北方領土ビザなし交流訪問団が15日、国後島に入り、野潟龍彦団長ら4人がロシア国境警備隊に銃撃・拿捕された「第31吉進丸」の坂下登船長と面会した。訪問団から外務省に入った連絡によると、坂下船長は腰の持病のため足の付け根に痛みがあるほかは健康状態に大きな問題はない様子だったという。
    (毎日新聞) - 9月15日


    記者会見に臨んだ学生たちは、とても立派な態度で質問に答えていました。

    特に学生代表のS君は、島内活動で対話集会の司会を務めるなど、重要な役割を責任をもって果たしてくれました。将来は政治家を志望しているとのことですが、今回の経験は大きな財産になったことだと思います。

    夜には学生を中心とする一部の有志で、慰労会を行いました。

    会場や料理を提供して下さったのは、北方館に勤めている方で、なにかと訪問団の活動を支援して下さっている方です。

    事務局のSさんは別として、私と長州生まれの女性Yさんのふたりだけ30代。あとは20代か10代の若者ばかりでした。

    この4日間の思い出話で、会はとても盛り上がりました。特に酒の肴にされたのは、風邪を引いてしまいこの場には参加できなかった学生N君。

    彼は船内や色丹島で幾度となく忘れ物をしていた、おっちょこちょいの学生なのですが、バレバレの手品をして我々酒飲みの社会人を楽しませるなど、多くの功績を残しました。

    時間が過ぎるのを忘れるほど、楽しい宴会となりました。

    そして、事故や怪我などもなく、全員が無事に帰ることができたことを実感できるほどに緊張がほぐれている自分を、この時になってようやく発見しました。

  • 台風が接近し、徐々に風が強まる中、根室の街中を少しだけ散策。<br /><br />横殴りの雨が降る中、千歳へ向かう飛行機は中標津空港を無事に離陸しました。 <br /><br />千歳から仙台への空路はほとんど台風の影響はありませんでした。 <br /><br />今回の旅はこれで終わりですが、音楽による交流を計画している自分にとって、この旅は四島返還まで続く長い旅の始まりでもあります。 <br /><br />色丹島を訪れた4日間、これ以上ないほどに天気に恵まれました。気温もこの季節にしては高く、雨にあたることも全くありませんでした。 <br /><br />日露間の関係は、いつも晴天ばかりとは限りません。 <br /><br />日本企業が「サハリン2」の認証を取り消されたというニュースが流れたのもこの日でした。 <br /><br />経済成長を続けるロシアは、これからますます強気の姿勢をとることになると思います。 <br /><br />しかし、そんな状況にあっても、島民との民間交流は常に前向きに進めて行くべきだと思います。 <br /><br />旅をご一緒した訪問団の皆さん、色丹島で歓迎して下さった皆さん、そして見えないところで訪問事業を支えて下さった皆さんに、心から感謝いたします。

    台風が接近し、徐々に風が強まる中、根室の街中を少しだけ散策。

    横殴りの雨が降る中、千歳へ向かう飛行機は中標津空港を無事に離陸しました。

    千歳から仙台への空路はほとんど台風の影響はありませんでした。

    今回の旅はこれで終わりですが、音楽による交流を計画している自分にとって、この旅は四島返還まで続く長い旅の始まりでもあります。

    色丹島を訪れた4日間、これ以上ないほどに天気に恵まれました。気温もこの季節にしては高く、雨にあたることも全くありませんでした。

    日露間の関係は、いつも晴天ばかりとは限りません。

    日本企業が「サハリン2」の認証を取り消されたというニュースが流れたのもこの日でした。

    経済成長を続けるロシアは、これからますます強気の姿勢をとることになると思います。

    しかし、そんな状況にあっても、島民との民間交流は常に前向きに進めて行くべきだと思います。

    旅をご一緒した訪問団の皆さん、色丹島で歓迎して下さった皆さん、そして見えないところで訪問事業を支えて下さった皆さんに、心から感謝いたします。

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