2004/07/27 - 2004/07/28
435位(同エリア1930件中)
ねいちゃさん
これも、もうずいぶん前の旅の記録。
仕事の合間にわずかな暇を見つけては、
1年に一度か二度、ぶらりと旅に出ていました。
かつては、未だ見ていない歴史的なモノを求めて
あちこち足を伸ばしていたものです。
この頃は国内の遠出は
すっかりご無沙汰になってしまいましたねぇ。
というわけで、しばし国内旅行記なるものを
徒然なるままに、書き連ねてみたいと思います。
<旅程>
★7月27日 京都→名古屋→松本
松本城→開智学校→白骨温泉
★7月28日 松本→長野→松本→名古屋→京都
白骨温泉→川中島古戦場→松代城→象山地下壕
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- レンタカー JR特急
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
イチオシ
京都から名古屋まで新幹線で移動。
名古屋から中央本線で松本まで。
確か特急「しなの」だったような・・・
さすがに2004年(7年前)ともなると記憶がありませんねー。
松本でとりあえずレンタカーを・・・
現地まで行って車を借りるのが、わたしら流。
で、まずはじめに「お城」見学・・・。 -
松本城
古き名を「深志城」というこのお城は、
戦国時代の永正年間に、
本城の林城の前面を守るために、
小笠原長時がその基礎を築きました。
甲斐の武田信玄の信濃攻略を迎え撃つためです。
が! あっさり武田方の手に落ちて・・・
信玄はここを信濃経営の拠点とするのです。
歴史は川中島に向かっていくわけですねー。
その後、天正10年(1582年)、
本能寺の変による動乱に乗じて、
小笠原貞慶が深志城を取り戻し、
名を「松本城」と改め今日にいたります。 -
松本城は、その後、石川数正・康長父子が入り、
城と城下町の整備を進めます。
近世城郭としての松本城はこの時に生まれたのです。
天守は、文禄3年(1593年)と一応考えられていますが、
築造年代に関しては諸説あって定まってはおりません。
が、今日見られる辰巳附櫓・月見櫓が設けられるのは、
太平の世となった寛永10年(1633年)、
松平氏によって造りかえられたものと考えられています。
特に月見櫓などは、防衛施設としての城ではありませんよねー。
何でも3代将軍家光が善光寺参詣の際立ち寄る予定だったため、
急遽造営されたそうですが、結局将軍は来ず・・・
という謂われがあるそうですよ。 -
本丸御殿跡からのぞむ松本城も美しいものです。
天守は29.4mもあり、ビルの10階分に相当。
右の小さめのものは、乾小天守[いぬいこてんしゅ]といい、
渡櫓で天守と繋がっています。
左の付属建造物は、奥に辰巳附櫓[たつみつきやぐら]、
手前が月見櫓[つきみやぐら]で、
朱塗りの回廊と高欄を配する大変優美な建物。
ここからの眺望は素晴らしく花の季節や冬山も
さぞかし綺麗な眺めなんでしょうねぇ。
この5棟が国宝「松本城天守五棟」で、
天守構造は複合連結式層塔型で5重6階となってます。
難しいですねぇ?
このウンチクは私も「連結複合式」くらいまでしか
知らなかったので、
ウィキペディアからのパクリってきました(笑) -
城の壁は、上部は白漆喰で、
下部は黒漆塗の板塀に覆われています。
日本のお城の特徴として、ざっくりと黒いのは豊臣系、
白いのは徳川系と考えておけば、目安になります。
黒系の代表例としては加藤清正の熊本城ですし、
白系は姫路城・・・という具合。
松本城は徳川氏との関連が強いのですが、
天守は石川数正・康長親子によるもので、
石川氏は豊臣秀吉の信頼の厚い武将、秀吉の大坂城は黒。
数正はおそらく秀吉への忠誠を
こういう形で示したものと考えていいと思います。
写真は、黒門枡形にある黒門[一の門・櫓門]です。 -
黒門枡形を出て、左に向かうと、
二の丸御殿跡が見えてきます。
ここには昭和53年まで、
松本地方裁判所が置かれていたそうですが、
移転された後、全面発掘調査が行われ、
建物の配置が示された史跡公園となっています。
一時復元計画もあったようですが、
建物の構造が不明なため実施されていません。
時代に合わない変な建物が建つよりも、
この方がいいような気がします。
復元ってイメージしやすいのですが、
間違ったものだと誤解してしまうので難しいですね。 -
こちらは平成11年3月に復元された太鼓門[一の門・櫓門]
正面石垣の巨石が見えますでしょうか?
これが玄蕃石。何でも責任者の玄蕃頭康長が、
運搬に文句を言った人夫の首を刎ね、
叱咤激励して運ばせたものだそうで、ずいぶんヒドイ話ですね。
この太鼓枡形を抜けると、
二の門・高麗門があって、外堀となっています。 -
戦国末期の日本最古の城、
約四百年の長きにわたって風雪に耐えた松本城は、
明治以後は競売に掛けられ解体の危機も迎えました。
また天守の傾きも激しく、倒壊の危機もあったそうです。
それらの苦難も市民の情熱や
明治の大修理などによって、
乗り越えて今日のような威風堂々とした
優美な姿を私たちに見せてくれています。 -
イチオシ
内堀より西南角から松本城をのぞむ。
この方角から見る松本城が一番美しいと言われています。
ただ気のせいかもしれませんが、
じっと見ていると天守が若干南側に
歪んでいるような感じを受けます。
天守の一階二階の壁面もやや内に曲がっているような・・・。
この天守の傾きは、農民一揆の指導者の
多田嘉助が磔になるとき、城主を恨んだ怨念だという
伝説があるのですが、これはウソ。
この傾きは明治になってからで、
天守台に埋め込まれた基礎木が朽ち果てたのが原因だそうです。
こういう伝説が出てくるのも面白いですねー。 -
真夏の炎天下に、お城見学という暴挙をクリアした私たちは、
とりあえず「ざるそば」を食べながら涼をとります。
では、次は旧開智学校に参りましょう。
松本城からだと徒歩10分くらいの所にあります。
私らは車ですから5分もかからなかったですっ。
入場料は2011年12月現在で、300円。 -
イチオシ
開智学校は1873年(明治6年)に開校、
現在は教育資料を展示する博物館となってます。
建築はヨーロッパ風で、一見左右対称のようで、
よく見ると若干違っているのも特徴。
校名の由来は明治5年の学制発布時に
交付された「被仰出書」の文中の
「智ヲ開キ・・・」から命名されたと言われております。
ちなみに「被仰出書」って
、普通に読める方って少ないでしょうね。
「おおせいだされしょ」って読むんですよね〜。 -
開智学校を見学したら、今日の見学はおしまい。
ここから今宵の宿泊地、白骨温泉へ・・・。
写真は、剛毅にも部屋風呂付きのお部屋の模様。
・・・この2004年という年、みなさん覚えておられますか?
温泉偽装事件・・・白骨温泉は、乳白色のお湯で有名な所ですが
近年薄くなってしまったようで、入浴剤を入れてごまかした。
これ自体は違法ではないのですが、告知しなかったという点で
モラルが問われることとなったのです。 -
この事件が発覚したのが6月、私たちが訪れたのか7月。
まさにその騒動のまっただ中だったわけです。
旅行を手配した旅行会社は、
「報道などでご存じとは思いますが、行かれます?」
と直前に電話をしていただいたので、すごく記憶に残っております。
野天風呂の「都合により休業」という張り紙をバックに記念撮影? -
お湯が抜かれた、残念な野天風呂の姿?
ここって確か混浴だったような、上からよく見えるんですねー。
この後、偽装事件は拡大し、
源泉掛け流し偽装なども起こったり、
入浴剤「なんとかハップ」がバカ売れしたり、
それを何か別の薬品と混ぜて有毒ガス自殺事件が頻発したり、
えらい騒ぎとなってました。 -
白骨温泉を出て、松本を抜け長野市にやってきました。
今日もすごく良い天気で、かなり暑いです。
写真は「八幡原史跡公園」にある佐久間象山先生像。
象山の像がここにあるのは、彼が松代藩士だったから。
江戸末期の思想家で、博識豊かな人でしたが、
やや傲慢な性格がネックだったみたいで、
人には余り好かれなかったようです。
1864年公武合体論者であったため、京都三条木屋町で暗殺、享年54歳。
現在、ここには遭難の石碑が建立されております。 -
八幡原史跡公園−上杉謙信像と武田信玄像
ここ八幡原は、かの有名な「川中島の戦い」が行われた場所。
ここには、謙信と信玄の一騎打ちの銅像がドーンと鎮座しております。
史実はともかくとして、歴史好きの人なら、
思わずテンション上がること間違いなしの
躍動感にあふれております。
私も思わず「ニヤリ」と笑っておりました。
何の興味もない方から見れば、
思い切り変なヤツだったかもしれません。 -
「越後の龍」上杉謙信という人は、
戦国乱世にあって、かなり特異な部類に入る戦国武将。
領土拡大という俗な考えを否定し、
純粋に弱者を護り「義」を貫く姿勢を戦いの動機としていました。
自らを「毘沙門天」の生まれ変わりと信じ、
圧倒的な軍事的手腕はまさに軍神そのもの。
また女人を近づけず生涯妻帯せず、
常に孤高を保った稀代のストイックな人物でした。
対する「甲斐の虎」武田信玄は、真逆の人物。
「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉は、
人材の有用性を高く評した信玄の根本にある考え方で、
事実武田二十四将と言われるように、
キラ星のごとく有能な人材が集まっておりました。
本人のカリスマ性もさることながら、
人間味あふれる信玄は、
小国甲斐を瞬く間に一大勢力にのし上げていく戦国大名だったのです。 -
この両者が壮絶な戦いを繰り広げたのがここ川中島で、
前後5度に及ぶ戦いの中でも、1561年9月の第4回川中島の戦いが、
歴史上最も有名な激戦となったもので、
その最大のクライマックスが「一騎打ち」のシーンなのです。
お話の詳細は、写真の解説をお読みいただくとして、
少し検証してみましょう。
大将同士の一騎打ち・・・本当にあったとしたら
大変興味深いのですが、たぶんなかったでしょうね。
あり得ないとは断言できませんが、全軍の総大将たるもの、
そんな無謀な賭けにはたぶん出ません。
領国の民百姓の安全や家臣団の生活を考えると、
背負ってるものが重いです。
消極的な否定的見解ですけど、現実ってそんなもの、
のような気がしませんか。
また当時は「影武者」も数名いたでしょうし、
案外影武者同士の一騎打ちだったりして・・・。 -
第4回川中島の戦い
8月16日1万3千の軍勢を率いた上杉謙信は、
千曲川を越え、海津城西南の妻女山に布陣します。
これに対して武田信玄は2万の軍勢を率いて、
24日妻女山北方の茶臼山に布陣。
互いに退路を断ったこの布陣は、
両者ともこの戦いへの並々ならぬ意気込みを感じさせるのに十分でした。
双方の睨み合いは5日間続いた後、
29日信玄は海津城に兵を入れます。
その後この状態は10日余も続き、
双方ともに焦りの色が見え始めてきます。 -
この時武田方の軍師山本勘助は、
別働隊を組織し上杉本隊に奇襲をかけ、
山を下った所を本隊で挟撃する「きつつき戦法」。
キツツキが木を嘴で叩いて驚いて出てきた虫を捕食する・・・
膠着状態の戦況を一気に打開する作戦を考案したのです。
9月10日別働隊1万2千は
午前1時夜陰に紛れて海津城を出立。
信玄は弟典厩信繁・嫡男義信を率い、
8千の兵でもって八幡原に布陣し、
夜の明けるのを密かに待っていました。 -
イチオシ
一方、前日9日の夕刻。
海津城をいつものように眺めていた
謙信はある変化に気づいていました。
ニヤリっ!不敵な笑みをうかべた後、諸将を集め
「手勢百余を残し、全軍ただちに下山せよ!」
と厳命。謙信は敵の作戦を見破ったのです。
家臣がなぜ今夜襲撃を受けると見抜いたのかと尋ねると
「立ち上る炊煙が、いつもよりも多いではないか」と。
炊煙=飯を炊く煙・・・いつもより多いということは
夜食の準備をしているに違いない。なぜ大量の夜食が
必要なのか。それは・・・夜襲。
山頂には皓々と篝火を焚き、幟を打ち立てた後
午後10時上杉本隊1万3千は妻女山を降り、
「鞭声粛々、夜河渡る」千曲川の雨宮の渡しを越えて
八幡原に着陣し、濃霧の晴れるのをただただ待つのでした。
両軍の距離はそう離れておらず、ただ濃霧がお互いを
隠しているだけでした。
午前7時半、やがて霧が開け始めてゆきます。 -
「毘」と染め抜かれた上杉の軍旗が、
「風林火山」の目の前に突然現れる。
その刹那剛勇無双の柿崎景家が
武田方の飯富昌景めがけて突撃を敢行し、
ここに第4回川中島の戦いの火ぶたが切って落とされました。
上杉軍はこの一戦に興亡をかける「車懸の陣」。
対する武田方は「鶴翼の陣」で迎え撃ちます。 -
本来「車懸」は少数の部隊で
大軍の中央突破を図る陣立て、
「鶴翼」は大軍で小部隊を取り囲むもの。
上杉1万3千に対し、別働隊不在の武田は8千。
多勢は上杉、少数は武田と形勢は逆転しています。
次から次へと新手を繰り出す上杉軍に武田方は防戦一方。
武田の旗本12旗中9旗までもが壊滅し
典厩信繁討死、義信負傷により後退。
作戦を看破された軍師山本勘助も壮絶なる討死を遂げます。 -
その時、白手巾で頭を包み、放生月毛の馬が
ただ一騎武田本陣に猛然と突入してきました。
三尺の小豆長光の太刀を振りかざした
鬼の形相の謙信その人でした。
馬上より三度信玄に斬り結び、
床机に腰掛ける信玄は太刀を抜く間もなく、
軍配団扇で謙信の太刀を防ぐも、
三の太刀は信玄の肩先を斬りつけた。
あわや信玄!
駆けつけた原大隅守が
槍にて謙信の馬を突き上げると、
驚いた馬が跳ね上がり駆けだした。
これが後世語り継がれる「謙信と信玄の一騎打ち」。
川中島の戦いのクライマックスです。 -
やがて武田の別働隊が本隊に到着する頃、
上杉軍は形勢不利と見て善光寺に退却した。
上杉軍の死者3千4百、負傷者6千余人。
一方武田軍の死者4千6百、負傷者1万3千余人。
戦国時代の合戦は農民が主体であったため
「士気」が肝心で、「士気」が下がると逃亡を始めるため、
実際ここまでの死傷者は出ないものですが、
今回は大将級の武将までもが討死をしている所から、
いかに壮絶な合戦となったかが伺えます。 -
勝敗は戦局的には謙信の圧勝と見て
間違いないと思われますが、
戦略的にはこの北信濃は信玄は領有し続けるわけで、
戦略的には信玄が守りきったと見ていいでしょうか。
いずれにせよ、こういった戦いの様子は
「甲陽軍鑑」などの軍記物で取り上げられる
「お話」であって、「史実」ではありません。
ただ歴史に思いをはせるという点では
面白いお話として知っておいても損はありません。 -
実際の所、武田騎馬隊なるものも存在しないし、
大河ドラマや時代劇で語られるようなものは
大部分が「史実」ではないのですが、
「史実」といかに違うかは高尚な歴史家の先生にお任せして、
こういう遺跡や史跡を前にして
「歴史って面白いかも・・・」と、多くの人に
思ってほしいなぁといつも思ってます。 -
あの像だけでここまで語った私は、
調子に乗って海津城にまでやってきました。
現在は松代城と呼ばれますが、
戦国時代の永禄3年に武田信玄が北信の要として築き、
川中島の合戦の舞台となった所です。
平成14年までの整備事業によって、
太鼓門や北不明門や石垣などが復元されています。
写真は南の太鼓橋を抜けて入ったところの太鼓門。 -
天正十年、その武田氏が滅ぶと
織田方の森長可が城主となりましたが、
本能寺の変の時、森長可は城を放棄し逃亡。
その後、上杉景勝の支配下になりましたが、
会津移封により秀吉の蔵入地に編入。
関ヶ原以後は家康の子松平忠輝や酒井忠勝が
城主となりましたが、最終的には信州上田の
真田信之が10万石を領して入封し、
明治までこの真田氏が支配することになります。 -
本丸御殿跡に建てられた「海津城址之碑」
真田の松代城よりも、武田の海津城といった方が
ネームバリューがあるってことでしょうか?
確かに真田氏のさして大きくないお城を見に
関西くんだりから来る人はいないかも・・・。
川中島ゆかりの・・・となると、ちょっと
行ってみようか〜となるもんです。 -
戌亥櫓台から妻女山を。
わかります?
海津城からは上杉謙信が布陣したという
妻女山がくっきり見えています。
おそらく妻女山山頂からもよく
この城が見えたんでしょうねー。
確かに炊煙が上る様もよく見える距離です。
どれが妻女山かというと・・・
山の稜線と手前の電線が交差している所の
やや盛り上がってる辺りではないかと
思われます。 -
本丸は当初は本丸御殿があったのですが、
1717年の火災で焼失。
また度々千曲川も氾濫を起こしたことから
生活の場は花の丸御殿に移ってゆきました。
この本丸、総石垣造りで、北西隅部には
、天守閣に相当する戌亥隅櫓が築かれていた
櫓台跡がよく残っています。
何でもこの櫓台の石垣が最も古いそうです。
千曲川の水を利して内堀と外堀で囲む、
平城でありながら、かなり堅固なお城であったことでしょう。 -
こちらは北不明門。
これも復元遺構です。
よく見るとこの城門、石垣の上には建っていません。
石垣と石垣の狭間に独立しております。
こういう城門の建て方は中世的な様相だそうです。 -
説明書きによると・・・
江戸時代の造成で
石垣の下部が埋められていたらしい。
今あるのはそれを掘り出して
使用したってことなのかな?
この写真の意味がよくわかりませんね。
説明不足・・・?! -
北不明門の枡形のもう一つの櫓門高麗門。
18世紀前半までは、千曲川の河川敷に接していた城門で
「水ノ手御門」とも呼ばれていたそうです。
現在の千曲川はかなり北方を流れておりますが
地形的な変化も考えて城の有り様に思いをはせるのも
また面白いものです。 -
とはいうものの
遺構的には石垣と城門だけしかないので、
ものの30分もいればさすがに飽きてきます。(笑)
いくら私でもそんなに思いをはせていられないので
ちょっと町に行ってみましょう。
松代の町には真田邸や武家屋敷もあるようですし・・・。 -
松代城跡 附 新御殿跡
この新御殿(真田邸)は第八代藩主真田幸貫の
嫡男幸良の奥様だった貞松院のために建てられたもの。
幕末の1862年「文久の改革」ってご存じでしょうか。
公武合体派の薩摩藩主の父島津久光が、江戸にやってきて
断行した一連の人事・職制・諸制度の改革のこと。
1854年ペリー来航による開国以来、
混沌状態にあった幕政に対し、
批判的な立場であった朝廷公卿らの主導のもとで
実施されたもので、幕臣ではない外様の大名が行うという
異例の改革となっています。 -
日本史的には、将軍後見職に徳川慶喜、
政事総裁職に越前前藩主松平春嶽、
京都守護職に会津藩主松平容保を任命し、
安政の大獄以来の幕府独裁体制の崩壊を
物語るもので、ここから一気に政局が
流動化していく端緒となったものという
認識でほぼ間違いないです。 -
また、松平容保の配下として、
悪名高い「新撰組」が結成されるのも
この改革の延長線にあるものだし、
島津久光帰国時の「生麦事件」から、
薩英戦争の勃発、
薩摩藩論が公武合体・攘夷を捨て
尊皇・開国路線に舵をきり、
坂本龍馬仲介による薩長同盟結成と
流れていく大変重要な
ターニングポイントであったわけです。 -
なぜ「文久の改革」を長口上しているかというと
これを言わないとこの真田邸の説明が始まらないんで・・・^^;
この改革の中に参勤交代の緩和策があって
隔年実施から3年一回となるなどあって
人質として置かれた大名の妻子の帰国が許された。
しかし、真田藩では
帰国された奥方が住まわれる家がない・・・
そこで急遽、松代城の堀の南に造営されたのが
真田邸なのです。
やれやれ、やっとたどり着きましたネ。 -
造営当初は、貞松院の居宅として使用されていましたが、
その後九代藩主幸教の隠居所、また明治維新後は
真田家の私邸となってます。
邸内には御殿と土蔵7棟、長屋などの建造物や
こざっぱりとした庭園があります。
江戸時代の庭園をもつ御殿建築は、
大変めずらしいものだそうです。 -
などと言ってる間に、写真はいつしか松代藩文武学校。
えーいつの間に???
文武を奨励した八代松代藩主・真田幸貫により、
学問と武道の学び舎として1855年に開校された藩校。
質実な藩の気風がうかがえるたたずまいで、
西洋の軍学なども教える先進的な教育が
行われたそうです。
儒教を廃し、他の多くの藩校に見られるような
孔子廟を設けていない点も特徴的です。 -
文学所・教室2棟(東序・西序)
剣術所・柔術所・弓術所・槍術所・文庫蔵などからなり、
ほとんど開設当時そのままの構造と面影を残しています。
写真は剣術所か槍術所だと思われます。
重厚な梁に往時は勇ましいかけ声や
竹刀の音が響いたことでしょう。 -
さて、無料休憩所でしばし休息をとってから
次に向かうのは「松代象山地下壕」です。
戦国から江戸時代・幕末と色々めぐって
最後は現代・大戦末期となります。
ここは観光地ではありませんが、戦争というものの
一面を学ぶ場所として、今旅では外せない場所でした。 -
第二次世界大戦の末期、本土決戦最後の拠点として
大本営、政府各省等を松代に移すという
軍部の極秘計画のもとに構築した地下壕。
着工は昭和19年11月から翌20年8月15日の終戦まで
約九ヶ月の間に当時のお金で約二億円の巨費と
延べ300万人の住民および朝鮮の人々が
労働者として強制的に動員され、
過酷な条件下で多くの犠牲者を出したと言われます。
-
松代地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に
皆神山、象山の3箇所に掘られたもので、
その延長は10?余りに及んでいます。
現在は、西条口(恵明寺口)から500mの
区間を見学できるように整備してあります。
(長野市観光課HPより抜粋) -
施設内は無料で、無料駐車場もありました。
壕内に入るにはヘルメット着用が義務づけられ
貸出しがされております。
壕内に入ると、真夏の暑さがウソのようで
一気にひんやりとしてきます。ほのかな明かりが
壕の掘った跡を照らし、一種異様な風景です。
所々に慰霊のためか、飾りが施されていて
一層冷気が高まるようでした。 -
本土決戦を間近に控えた大本営は、
何トンもの爆弾にも絶えうる
岩盤の固いこの地に本拠を移し、
多くの犠牲を顧みないまま、
さらなる戦争継続を模索していた場所。 -
その間にも、20年4月からの沖縄上陸作戦、
8月には広島・長崎の原爆の惨禍を招きました。
大本営のみが爆風の恐怖のない安全な
場所作りを進めている間に、
数十万人もの国民が
むごたらしい死を拒めなかった
・・・やはり考えさせられる場所です。
指導者をしっかりと選ばないと
暗雲しかやってこないということでしょうか。
今回の旅も最後が重い話ですいません。
まだ、いくつか国内編が残っていますので
またいつかご紹介させていただきます。
今回もご覧いただきまして本当に
ありがとうございました。。。。。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- るなさん 2013/02/17 17:39:05
- すごい!!(;゜0゜)
- こんにちは、ねいちゃさん♪
私のつたない旅行記に来て頂いてるので、私も過去記を覗かせてもらおっと!と、来てみたら、エジプトも見たいけど、こっちが気になりましたぁ〜
来月、松本に行くのでしっかり見させて頂きました。
メインは松本から更に山奥の温泉なんですが、せっかくなので東京に戻る前に松本を歩いてみようかと思ってます。
で、すげぇ〜って感じ*\(^o^)/*
日本史なんて頭痛い世界なので、さっぱり???ですが、ねいちゃ先生素晴らしい♪
私、松本行ってきてもこんな旅行記出来まへん(;´Д`A
いつものアホなコメントだな(汗)まぁいっか。
旧開智学校も行くつもりです。
この建築が見たい!
考えてみたら、国内をまともに旅してない私です。
日本史勉強しろよ!って?はい…………。
るな
- ねいちゃさん からの返信 2013/02/17 22:12:24
- RE: すごい!!(;゜0゜)
- 「よぅお越しぃ〜、まぁお茶なと、おあがりやす。」
こんばんわ、るなさん。
> 来月、松本に行くのでしっかり見させて頂きました。
温泉っすか、いいっすねー。行きたいなぁ・・・温泉。
東京からだと新幹線ですぐなんでしょー、いいなぁ。
> で、すげぇ〜って感じ*\(^o^)/*
> 日本史なんて頭痛い世界なので、さっぱり???ですが、ねいちゃ先生素晴らしい♪
めんどくさいでしょ、読むの。写真さっぱりだから
せめてご覧いただいたみなさんに何か残せないかなぁと・・・。
歴史って言葉が難しくて、とっつきにくいんです。
そのまんまの解説だと???なので、
わかりやすくしようとすると長くなる。
私の旅行記こんなのばっかりです。
でも、デジカメ買ったから、少しはるなさんのような
素敵な写真も載せられるようにがんばりますね。(^o^)/
> 旧開智学校も行くつもりです。
きれいっすよ、欧米風に気取ろうとした日本がよくわかる所です。
一生懸命、背伸びしててむしろ可愛らしい建物ですね。
旅行楽しんできてくださいね。3月ならまだ寒いかもネ。
-
- サウスピーチさん 2012/02/13 11:21:17
- 美しいお城ですね・・・
- ねいちゃさん、こんにちは♪
今回はまた詳細な説明で、力作でしたね。 大変読み応えありましたョ!
松本城、美しいお城ですね。 今まで見たことがありませんでした・・・。
日本の歴史にはちょっと疎いのですが、昨年は「ザ・今夜はヒストリー」という番組で日本史を楽しく学んでいたのに、
番組は早々と終わってしまい、かなり残念でした。 この番組は、毎回ある歴史事件にスポットを当て、
それを現代(スタジオ)と中継で結んで、当事者へのインタビューがあったりしてワイドショー的に出来事や
背景を伝えるとても分かりやすく面白い番組だったのですが・・・。 ご存知ですか?
(まあ、もう終わっちゃった話ですけど・・・苦笑)
お城と言えば、私が大好きなのが熊本城。 お城だけでなく、その周辺が大きな公園のようになっていて、
ゆったりと散策できるのが好きで、外観もスケールも全くケタ違いですが、
地元の人や訪れる人々の憩いの場になっているところが、ヴェルサイユ宮殿に似ているな・・・と、
ヴェルサイユ宮殿の庭園を歩きながら思ったのを思い出しました。
熊本城は、数年前に本丸御殿の復元も終わり、次回帰国する際には、絶対に行きたいと思っています。
(一応、一口城主ですし・・・笑)
次の作品、楽しみにしています♪
サウスピーチ :)
- ねいちゃさん からの返信 2012/02/13 13:13:25
- RE: 美しいお城ですね・・・
- サウスピーチさん、こんにちわ〜。
ご購読いつもありがとうございます。
> 松本城、美しいお城ですね。
なかなか優美なお城でしたね、実際じっくり見たのはこの時が
はじめてだったようなきがします。
私、結構お城巡りっていうのが好きで、行った所に
城郭遺構があるとついついのぞいてしまいますね。
>ご存知ですか?
BSで再放送していますねー、たぶん。
あんまり見たことないかも・・・。
> 熊本城は、数年前に本丸御殿の復元も終わり、次回帰国する際には、絶対に行きたいと思っています。
熊本城は私もまだ見たことないので、是非ご一緒に!(笑)
本丸御殿には秀頼の間が復元されていて、清正が早死に
しなければ・・・とつねづね思っております。
秀頼の間のふすまの取っ手の模様を見ておきたいですね。
> (一応、一口城主ですし・・・笑)
一口城主って、なんです??????
サウスピーチさんって、城持ちのお姫様?(笑)
ではではー。
- サウスピーチさん からの返信 2012/02/14 08:52:40
- RE: RE: 美しいお城ですね・・・
- ねいちゃさん、
> 熊本城は私もまだ見たことないので、是非ご一緒に!(笑)
> 本丸御殿には秀頼の間が復元されていて、清正が早死にしなければ・・・とつねづね思っております。
> 秀頼の間のふすまの取っ手の模様を見ておきたいですね。
アハハ。 楽しそうですね!
上にも書きましたが、日本史には疎い(受験では日本史を選択したくせに)ので、
「秀頼の間のふすまの取っ手の模様」とは何ぞや?と全く意味が分かりませんでした・・・。
> 一口城主って、なんです??????
> サウスピーチさんって、城持ちのお姫様?(笑)
はい。 お城に住んでおりました。 多分、過去世で・・・。(笑) ふふっ。 過去の世界では誰々だったかも、とか、
どこに住んでいたかも、とか、自分の都合のいいように(笑)考えたこと、ないですか?
ただ、私は多分、普通の人だったとは思いますが・・・。(悲)
一口城主とは、熊本城復元への寄付(一万円以上)をすると、「一口城主」となり、「城主証」や「城主手形」がもらえ、
名前も天守閣に掲示されるんです。 「城主手形」では、対象施設での特典(熊本市が管理する16の有料施設へ無料で
入園できたり)があるみたいですよ。 ただ、熊本市も、「一口城主」とはいいネーミングを考えたもんだと思いました。
何しろ、どんな意味合いにしても「城主」ですから・・・(笑)。
他にもうちは、家族全員の名前(プレート)が宇宙を彷徨っていたり(ちょっと名前は忘れましたが、
何かの探査機に積まれて宇宙へ飛んでいったと思います)、私は母の誕生日に、月の土地をプレゼントしたこともあります。
知ってます、これ? 面白いことに、一応、月の土地に区画があり、どの部分が自分のもの、ということまで分かる
ようになっているのですが、うちの母は真剣になって「これって次の世代に譲渡できるのかしら・・・」などと
言ってました。(笑) まあ、ロマン・・・ですよ・・・ね。
あと、シーランド公国ってご存知ですか? まあ単なる自称国家なんですけど、
そこでは、「公爵」とかの称号も発行しているんで、父にどうかなぁ・・・なんて考えたこともあります。(笑)
プレゼントって、まともなものばかりじゃ面白くないんで、結構こーゆーの、好きなんですョ。
まあ、単に考案者にうまくのせられてると言われればそれまでですが・・・。
それじゃ、また!
サウスピーチ :)
- ねいちゃさん からの返信 2012/02/15 00:46:29
- 一口馬主はやったことあるんですが・・・。
- こんばんわ〜。
> 「秀頼の間のふすまの取っ手の模様」とは何ぞや?と全く意味が分かりませんでした・・・。
加藤清正は熊本城の本丸御殿に、主君を迎えるための部屋を作ったのです。
それがなぜ秀頼かというと、ふすまの取っ手に豊臣の紋章桐の御紋が
使われていたからで、徳川の政権がほぼ確定した時代に
こういう御殿を作った・・・これは徳川に秀頼を押し立て反旗を翻す
覚悟というか用意があると示しているんですよねー。
熊本城の土壁には食用にできる干瓢?のようなものを入れてあったり
庭には果実になる木々がいっぱい植えてあったり、井戸が必要以上に
あったりと、籠城の備えが万全だったと言われています。
これから平和な安定した時代が到来する中での戦構え、
これが加藤清正なんですよね。そのために二条城での会談後
病死した清正の死因については、家康による毒殺説もあるほどです。
日本史もなかなかどうして、面白いものでしょう?
> プレゼントって、まともなものばかりじゃ面白くないんで、結構こーゆーの、好きなんですョ。
いい娘さんですねー、実利がない分余計に気持ちのこもった
プレゼントだと思います。
きっとお父様やお母様はいつも遠く離れた娘さんを
ご心配されていることでしょうね。
しょっちゅうはムリでしょうけど、
たまーには帰って顔を見せてあげてくださいね。
私にも離れて暮らす息子がおりますから、よーくわかります。
それでは、お月様の地主様?とお姫様?へ
これじゃ「かぐや姫」じゃん・・・(笑)
またね〜。
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