2011/11/22 - 2011/11/22
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captainfutureさん
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2011年11月22日(火)イスファハーン3日目
今日は昨日見られなかったエマーム・ホメイニー広場にあるこの街一番の観光名所の宮殿と2つのマスジェド(モスク)を見た後、昨日招待を受けた絨毯屋の昼食へ。
その後は迷路のようなバザールを通り、かつて砂漠の道しるべとして隊商の命綱の役割をしていたという高い塔を持つメナーレ・マスジェデ・アリー(モスク)を訪れた。
日没が16:30頃であり、もう17時には暗くなったので、せっかくここまで来たが翌日また来ることにした。
日程
D1 11/19(土) 成田1405-モスクワ1925 (SU582)、モスクワ2340-テヘラン0310(SU515)、
D2 11/20(日) イスファハンへ(バス6H)、
★D3 11/21(月) イスファハン【葬式、エマーム広場、街歩き】
D4 11/22(火) イスファハン【エマーム広場、昼食招待、街歩き】
D5 11/23(水) イスファハン【バザール巡り、マスジェデ・ジャーメ、街歩き】
D6 11/24(木) イスファハン【バザール巡り、ザーヤンデ川橋巡り】
D7 11/25(金) イスファハン【ザーヤンデ川橋巡り、イランイラク戦争殉教者墓地、アーシュラー祭】
D8 11/26(土) イスファハン【アルメニア人地区、アーシュラー祭】
D9 11/27(日) イスファハン【ユダヤ人地区、チャイ招待、メナーレ・ジョンバーン、ズールハーネ】
D10 11/28(月) トゥデシュクへ(車 1H) 【旧市街巡り、砂漠体験】
D11 11/29(火) ヤズドへ 【旧市街巡り】
D12 11/30(水) テヘランへ (夜行バス 9H)
D13 12/ 1(木) テヘラン 【街歩き】
D14 12/ 2(金) テヘラン0415-モスクワ0835(SU516)、モスクワ2100-成田1140(SU581) +1日
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
6時起床。まだ真っ暗。
廊下には昨日の猫が甘えに来る。
ドアを開けると入ってこようとする。
機内でもらったパンとマーガリンをやってみるが、鼻をつけただけで食べず。 -
今日は宿前通り反対側に渡ってエマーム・ホメイニー広場へ行くことに。
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イランというとこのイメージが強くてつい撮らせてもらってしまう。
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魚屋さん
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どうも皆種類は同じみたいだ。
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大きさごとに仕分けしていた。
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ペルシャ湾とオマーン湾の魚とのこと。
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家具製造店
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奥の工房では、木片に浅い溝を掘ったところに、
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薄く伸ばした金属をはめて、金槌で埋めていく作業をしていた。
根気が要るなあ。 -
通りに戻ると、ナンを買っていく人多数あり。
出来たてホヤホヤ。小さいのをかじりながら。
もうすぐナン屋がありそうだ。 -
本屋さん
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ナン屋発見〜。
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昨日のナン屋と違い、熱された窯に張って焼くのではなく、熱された小石の上で焼いている。
昨日のナン屋はちょうどこの道の反対側辺り。
きっと味も違うんだろうな。 -
ここのは長細いナン。
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ここでも行列してる。
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反対側にある雰囲気のある少し古い建物
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同上
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キオスク
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エマーム・ホセイン広場到着
昨日のモスクでは今日も葬式をやっているようだ。 -
またチャイと菓子を振舞って頂く。
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赤い花輪前の男性のお母さんが亡くなったとのこと。
手前の小さな子は孫。 -
最初、この案内状の上部に印刷された小さな子の葬式かと驚いてしまったが、これは単なるイメージとのこと。
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広場に面した交番。
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セパー通りにあった招待状屋さん。
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エマーム・ホメイニー広場到着。
昨日はここにたどり着くまでにあちこち道草して何時間もかかったが、さっさと歩くと3、40分。
ツーリスト・ポリス前。
パトカー前の警官と挨拶しWelcome to Isfahan! と言われる。 -
今日は昨日のように回廊の工芸品店、職人街巡りで時間が無くならないように、まずはこの広場の宮殿、2つのモスクを必ず見なくては!と思いながらも、一つの工芸品店に入ってみる。
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ミーナ−・カーリーと呼ばれる、銅製の皿や壺などに、エナメルで彩色を施した工芸品とのこと。
キズが付かないよと、金具でカリカリやったり、火を付けてみせてくれりする。 -
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まずはアーリー・カープ宮殿へ
入場料5,000R(30円)。
1〜2階はアッバース1世(1571〜1629年)の時代に、バルコニーと3〜7階は2世の時代に建てられた、イランで最初の高層建築。 -
あちこちで補修工事中。
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結構女性も多い。
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階段を上り、
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2階へ
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西洋人や中国人が描かれた壁画。
いろんな人種や文化が行き交っていたんだろうな。 -
バルコニー到着。
補強工事中。
このバルコニー中央に池があり(現在は抜かれていた)、18本の支柱が支えている。かつてシャー(王族)がこのエマーム広場で行われたポロをここから楽しんだという。 -
ここからはエマームホメイニー広場の全容が。
右はマスジェデ・エマーム -
正面にマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー(王族専用モスク)
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左にはバザール・ゲイサリーイェ
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遠く、今日の午後に歩いて行く高い塔のあるメナーレ・マスジェデ・アリーも見えた
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正面のマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー(王族専用モスク)のドーム
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裏には、遠くに見える庭園を通ってチェヘル・ソトゥーン宮殿に行けるようになっていたとのこと。
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1885年のマスジェデ・エマーム
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19世紀のマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー
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最上階はこの宮殿で一番有名な音楽堂。
当時の著名な細密画家によりミニチュアールで美しく飾られている。
天井部分の装飾的な穴は演奏の際に余分な音を効果的に吸収し、美しい演奏を楽しむために計算されて開けられたものとのこと。
私が訪れた時は音楽室内に当時のと思われる音楽CDが静かに流されるサービスが行われていた。 -
木製ではなく漆喰とのこと。
ここもほとんど人が来ず、独占状態、 -
エマーム広場へ。
こちらのカラス(または同じカラス科のカササギか?)は白黒。
胸にも変わった羽がある。
鳴き声は日本のカラスと似ていたような。 -
マスジェデ・エマームへ。
アッバース1世の命を受けて1612年に着工。 -
「CLOSE」。
補修工事中で観光客は入れないとのこと。 -
広場に面して正面にそびえる門の上部。
天井の鍾乳石飾りが見事。
これは建造者が自費で建てたもので、5年掛けて作られ、入口上にはモザイク文字で、上段には大帝の名と完成年(1616年)が、下段には建造者の名が記されているとのこと。 -
工事関係者や地元の礼拝者の後に付いて、門をくぐってみる。
(地球の歩き方より:45度斜め奥にメッカの方角を向いたエイバーン(えぐられた形になっている門)がどーんと構えているのが目に入ってくる。この大胆かつ劇的な演出が、この寺院の名を世界中に高めているのは間違いない。) -
中庭も工事中
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中央礼拝堂周囲
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中央礼拝堂。
(地球の歩き方より:7色の彩色タイルで覆われた天井ドームは息をのむ程の美しさだ。このドームは外側のドームの高さが54m、内側は38mと二重構造になっている。このため、かなり小さな音でも様々に反響し、建物全体にこだまする。)
ガイドブック通りに中央の床の真ん中に埋められている床石(タイル1枚)を踏み鳴らしてみると、0.5秒位遅れてズシンと体に響くような重低音で返ってきた。
誰もおらず独占状態。
いろんな音を立ててみる。 -
中央礼拝堂
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中央礼拝堂周囲
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中央礼拝堂周囲
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回廊を通っていくと、
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昨日夕方礼拝後、大胆にも説教中の聖職者の隣りに座るよう言って写真を撮ってくれたアリさん(緑のシャツ)に再会。
ここの工事関係者らしく、女性用礼拝室入口の高さをメジャーで測っていた。 -
礼拝前に手足などを清めるところ
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ここは使われていないようだった。
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ちょうど一周してきたところで、警備中の若い兵隊さん3人組に丁寧な英語で工事中なので入ってはいけませんと言われる。
テヘラン出身とのこと。兵役かな。 -
イランのカラスも同じことしている。
(カラス科のカササギなのかも。) -
13時半に招待された昼食まで間もなく。
昨日、一人静かに広場で礼拝し、店でギャズを試食させてくれた青年の菓子店へ何か手土産を探しに行く。 -
昨日の青年は不在。
手土産を探している旨を話すと、昨日試食でくれた人気商品というピスタチオ40%入りの箱詰めギャズを勧めてくれたので、それにする(写真)。
50,000R(300円)。
他のイラン人観光客も箱ごとまとめていくつも買っていっていた。 -
だいたい箱詰めで100〜700円の範囲であるようだ。
一番高いものは、飾っておけるような綺麗な缶に入ったもの。 -
いろんな種類が置いてあった。
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広場回廊の昨晩の絨毯屋に行くと、昨日最初に話しかけてきたハサンさん(水色シャツ)が出迎えてくれた。
2時過ぎになってモルザさんが母手作りの料理を鍋ごと持ってきて、皆で床に食事用カーペットを敷き、車座になって食べ始める。 -
隣りの店の人も食べに来たようだ。
大皿に米を沢山盛りつけて、そこに各自自分が食べる分のスープを掛けて食べていた。
昨晩夕食に「ノウバハール」で食べた「Khoresh&Rice」のもう一つの方のものらしい。
http://4travel.jp/traveler/captainfuture/pict/23969244/src.html
(メニューの下から3段目一番右)
豆がメインのスープをこちらの米とナンにかけて食べる。 -
私には美味しいとされるおこげ部分(皿の右側)も頂いた。
3時前にお開き。
その後、2年前に山梨県のワイナリーに来日したというオーストリア人が300ユーロの絨毯をVISAカードで購入。
イランでは使えないのでは?とハサンさんに聞くと、この店はドバイに口座を持っているので海外カードOKとのこと。
その後他店でも海外カードOKのステッカーが張ってあったが、そういうことだったのか。
礼を言って別れる。 -
店の前にて。
エスファハン到着日に、ウォシュカさんにペルシャ語訳してもらった紙「私はイランの文化に大変関心があります。撮らせて頂いていいですか。」を見せると、快く応じてくれた。 -
マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーへ。
入場料4,000R(24円)。 -
広場に面した門の上部。
アッバース1世の命によって建造された、マスジェデ・エマームと並ぶサファビー朝建築の傑作で、王族専用のマスジェッド(モスク)とのこと。 -
回廊を通って中へ。
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地球の歩き方より:
「シャーの妻たちは宮殿の背後にあったハラムから、他人に姿を見せることなく地下道を通ってこの寺院に通い、地下の間で礼拝をした。地下道や地下室の見学は出来ないが、床にある明かり取りの天窓からその存在を伺うことができる。」
明かり取り窓らしきものはあったが、その下が暗くてそれなのか分からなかった。 -
宿の朝食で一緒になった一人旅の中国(中華人民共和国)人男性にばったり会い、挨拶。
このイランの旅では中国からの一人旅に何人か会った。
イランでは一人旅は解禁されているらしい。 -
広場に戻り回廊にある工芸店、職人街へ。
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ここでも見事なミーナ−・カーリーを見る。
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この店で作っていた。
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一旦外に出て、広場北のバザール・ゲイサリーイェ入口へ。
手前の支柱のようなものは、ガイドブックにある「当時のポロ競技のゴールの石柱跡」のことか。
この入口左2階にある広場沿いテラスにあったチャイハネ「ゲイサリーイェ」は閉店したとのこと。また別のチャイハネ「アーザーガーデン」は今は観光用になっていて高いと、地元の人が教えてくれた。 -
入口門の上部。
-
今まで見て来た広場回廊の職人がいる工芸品店街は上品な感じだったが、こちらのバザールは日常品が多く庶民的な雰囲気。
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このバザールも、広場の回廊同様、延々と石造りの壁とドームで連なっている。明かり取りの穴もきれいに見える。
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ここからは迷路のようで、バザールがあちこちにが枝分かれして広がっている。
そのうちの一つの通り。 -
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いろいろな香辛料や乾物の店。
袋ごとにいろいろな香りがした。 -
何と何が混ざってあるか一目瞭然
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ここは豆専門店らしい
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メナーレ・マスジェデ・アレーへは、バザールを抜けてこちら方面らしい。
突然視界が開けてバイク駐車場が。 -
この道をまっすぐ通って行くと、
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右側に城壁のような壁が続く。
あそこから車が出入りしているので入らせてもらう。 -
昔の建物を上手く再利用した電化製品等の倉庫のようだ。
この辺りは電化製品等の問屋街になっていて、やはり韓国製品が多く目に付く。 -
こちらに気付くと道行く人も、ハローやサロームと声を掛けてくる。
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方向ではこの先なので、このモスクに入ってみる。
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中庭のガラス越しに一人読書中
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モスクの小さな裏口を出て左側を進む(この写真の方角とは反対方向)。
だいたいの方角を掴んでおけば、後は道に迷っても皆親切丁寧に直ぐに道を教えてくれるので、それに甘えてあっちこっち寄り道しながら進む。 -
ここにもモスク
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問屋街がずっと続く中、ドラム缶で火を起こし暖を取っている男性達。
しばらく休憩して私も温まらせてもらう。 -
一家に一つはあるという水たばこ。
-
おお、見えて来ました。
メナーレ・マスジェデ・アリー。
地球の歩き方より:
「エスファンで最も高い塔(メナーレ)を持つマスジェデ(モスク)で、通常は礼拝の呼びかけに使われるものだが、かつては砂漠の道しるべとしての宅割を果たしていたという。ここの他に、特にエスファハーン東側にあるメナーレの多くは、周辺の砂漠を旅する隊商にとっての命綱だったのだ。
このメナーレは、狩りの最中に誤って子供を射ってしまったセルジューク朝スルタンのマレク・シャー(1055年〜)が、その慰霊の意味を込めて造ったともいわれている。」 -
イラン最大の宗教儀式アーシュリーのクライマックス12月6日に向けて、もうあちこちで垂れ幕など掲げられている。それに使われるものを作っているようで忙しそう。
-
もう17:10。
日没16:30くらいなので、もう段々暗くなっていく。
手前は明日も前を通る自転車修理屋さん。
2階部分はもう使われていなさそうだった。 -
やっと到着。
でももう暗くなり写真もキレイに撮れないので、この先のマスジェデ・ジャーメと合わせて明日、再訪することとする。 -
ここにも葬式の案内状が張られた神輿のようなものが。
-
宿に帰ることにするが地図を見ると、来た道をエマーム広場まで戻るとかなり遠回りになる。バザールの途中までは来た道を帰り、そこから西に伸びる細い道を通ると、ちょうど宿前の通りにあるアーザムという人気ベリヤーニー店の少し南に抜けるらしい。
途中にあった絨毯の毛糸(?)屋。
店員さんが器用に図面を見ながら編んでいく。 -
一般家庭でも、左の絵画のような小さな絨毯を編んでいる人が多いとのことなので、そういう人達向けのお店か。
途中、細い道がいくつにも分かれ、どう行こうか考えていると、ちょうどいいタイミングにツーリストポリスに声を掛けられ、非常に親切丁寧に道を教えてもらった。
この歩き方の地図はとても良いと言っていた。
それにしてもあまり観光客が来そうにない道なのに、すごいタイミングで現れて驚いてしまった。 -
宿の近くに2軒もモスク発見。この前、宿で聞こえてきたアザーンはここからか。
途中、聖職者2、3人にもすれ違いイスラム共通の挨拶のアラブ語「アッサラームアレイコム」と言うと、向こうも自然に同じ言葉を返してくれた。ここはウイグルと違い、「ワレイコムアッサラーム」と返さず、こちらが言った言葉を返してくる。
後で聞くと、アラブ人に対してはあまりいい感情がないらしく、日常挨拶ではこの挨拶よりもペルシャ語のサロームが一般的とのことだ。 -
宿前の通りに無事抜けることが出来た。
この通りにある歩き方にも出ていた地元の人に評判というベルヤーニの店「アーザム」へ。
今日は火曜日なのに何と閉まっていた。(金曜日午後は定休日らしい)。
すると、そこへ Do you need some help?と声を掛けられたので振り向くと聖職者の方が。聞くと臨時休業らしい。この先に行くと似たような店があるよとも教えてくれた。撮影にも快く応じてくれた。 -
夕食はエマーム・ホセイン広場近くのハンバーガー屋で。
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17,000R(102円)。
女子高生たちが親切に隣りのテーブルに詰めてくれて、席を空けてくれる。
少し話をする。
食後の散歩で、宿の北タフティー交差点の宿寄りにチャイハネ発見。
後日行ってみることにする。
今日の万歩計22,000歩
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この旅行記へのコメント (4)
-
- Yattokame!さん 2011/12/15 02:19:17
- ペルシア人とアラブ人
- captainfutureさん
こんばんは。
旅行記を拝見していると、自分がイスファハンの街を歩いているかのようで、イスファハンの魅力がいっぱい伝わってきました。あ〜、今すぐにでもイスファハンに行きたくなります。
イスラム教というと偶像崇拝ダメで写真を嫌うと思ったのですが、聖職者の人、正面から写真撮影されていますね。やっぱりこの国は人によってリアクションが違いますねえ。
ペルシア人は、アラブ人への対抗意識がものすごく強いですね。イラン旅行した時のガイドの人から聞いた話ですが、偉大な歴史(アケメネス朝、ササン朝)をもちながら当時文明で劣っていたアラブ人に征服されたことで屈折した感情をもっているようですね。今でも心の中では、アラブ人に文明を教えてやったのは自分たちという自負があるようです。例としてアラビア文字はペルシア文字をもとにしていると言ってました。
Yattokame!
- captainfutureさん からの返信 2011/12/15 21:55:06
- RE: ペルシア人とアラブ人
- Yattokame!さん、こんばんは。
>イスファハンの魅力がいっぱい伝わってきました。
そう言って頂けて、作ったかいがありました〜〜!
私もまた行きたいです。ただ、もうちょっとビザ取得が安くて簡単になればいいのですが。
>イスラム教というと偶像崇拝ダメで写真を嫌うと思ったのですが、
そうなんですよ。私も当初はそう思っていたのですが、聖職者でも一緒に記念撮影に応じてくれたりしました。
やっぱり、人によって違うのですかね。
>ペルシア人は、アラブ人への対抗意識がものすごく強いですね。
初めて知りました。
地続きの国同士、民族同士って互いに征服したりされたりの連続だったのでしょうから、対抗意識も尋常じゃなさそうですね。アラビア文字はペルシア文字がもとになっているなんて知りませんでした。ペルシャ文化が更に洗練されて見えてきました。
- Yattokame!さん からの返信 2011/12/16 04:01:41
- RE: ペルシア人とアラブ人
- ちょっと気になったんで、Wikipediaで調べたら、今のペルシャ文字はアラビア文字をベースにしているようで、起源があべこべですね。ペルシア人のガイド、対抗心が強すぎて暴走しすぎたようです。
「イスラム教布教後のアラビア文字は神(アッラーフ)の発した言葉の記録であるクルアーン(コーラン)や宗教文献の表記に使われたため、イスラム教に改宗した非アラブ民族にも神の教えに近い文字と認識され、ペルシア語をはじめとする多くの言語の表記にも用いられるようになった。
」
ただ、7世紀以降のイスラム帝国は、ササン朝を征服した際に官僚組織のノウハウを吸収することで巨大化した帝国の運営が初めて可能になったので、ペルシア文明がイスラムに与えた影響は間違いなく大きいんですけどねえ。
- captainfutureさん からの返信 2011/12/17 00:37:19
- RE: RE: ペルシア人とアラブ人
- なるほど〜〜!!
それで同じくアラブ民族でないウイグル人の文字までも、ああいう感じの文字なんですね〜。
そういう経緯を知ると、いろいろと繋がってきました。
>ペルシア文明がイスラムに与えた影響は間違いなく大きいんですけどねえ。
ほんとですね。
教えて頂き、ありがとうございます!
captainfuture
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