2011/03/05 - 2011/03/05
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あんみつ姫さん
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明治時代の小田原には、政界・財界の人の別荘がたくさん建っていました。
伊藤博文の別荘「滄浪閣」・山県有朋の「古稀庵」
皇族であり軍人でもある閑院宮も小田原城近くに別荘がありました。
また、三井物産の初代社長の益田孝の別荘は、この閑院宮邸の隣にありました。
小田原城にも、かつては御用邸がりました。
小田原城近く(報徳記念館近く)に「静閑亭」という黒田長政(政治家・貴族議員副議長)の別荘があります。
その「静閑亭」の下の位置に、「対潮閣」(山下亀三郎別邸)がありました。
ここは、あの「坂の上の雲」の秋山真之の終焉のところです。
明治の頃の小田原は、政界・財界・軍人・皇族。
いろいろな人がいました。、
明治の小田原は、これらの人の間で、
どのようなことが繰りひろげられていたのでしょう。
ちょっとしたロマンを感じませんか。
小田原の旧別荘シリーズ(その2)です。
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山下亀三郎の別荘「対潮閣」があった場所。
秋山真之の終焉の地には、この住所でお訪ねください。 -
「対潮閣」は、この通りの石垣の部分が全部そうでした。
現在、その別荘は無く、土地も分割され私邸がいくつか建っています。
石垣の長さを見ると、
ずいぶん広い土地の別荘であったことがわかります。 -
古そうな門がありました。
小田原の別荘に詳しい「静閑亭」の方に伺いましたら、
これは対潮閣の通用門とのことです。
残してくれてよかった! -
対潮閣の正面玄関のところ。
現在、私邸が建っていますが、別荘の跡である証拠の碑が残っています。 -
その碑です。
案内文より
「うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石」
田中光顕がこの釣鐘石を賞して詠んだ和歌とのこと。
田中光顕は、土佐勤王党。坂本龍馬が近江屋事件で暗殺されたとき、
その現場に駆けつけて重傷の中岡慎太郎中岡から経緯を聞いた人。 -
対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》
山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
亀三郎と秋山真之とは、同じ愛媛県の出身で親しかったそうです。
船主になって船を買う直前、山下は秋山から「日露開戦近し」の情報を入手していたとのこと。
戦争になると船はとても大切なものになることを、日清戦争の経験で知っていたのだそうです。
その後、いろいろなこともあったようですが、
山下亀三郎は、船で大成功をして、
海運業だけでなく、広く財界・官界・軍部の要人と交際し、
東條内閣によって創設された内閣顧問に任命され、大正昭和期の代表的政商とさえ称されたそうです。
(ウィキペディアより) -
対潮閣の写真と山下・秋山の写真
秋山真之は、大正6年に盲腸になったそうですが、
同郷である山下亀三郎の別荘を度々訪ね、静養をしていたそうです。
その頃、近くの板橋にある山県有朋の「古稀庵」に行き、
国防論について相談していたそうです。
大正7年2月4日未明、秋山真之は、
患っていた盲腸炎が悪化して、この対潮閣で亡くなりました。享年49歳 -
対潮閣全体の地図
すぐ上のところは、
貴族議員副議長の黒田長政の別邸「静閑亭」
また、皇族で軍人の閑院宮の別荘もあります。 -
ここから、ず〜と向こうまで「対潮閣」だった。 -
1段高い位置にある
静閑亭の2階より見える「小田原の海」
今は建物が建っているので、こういう感じですが、
秋山真之が対潮閣で静養したところからも、
このように、海がよく見えたのではないかと思われているようです。
小田原は、別荘に向いていた土地のようだったそうです。
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