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関東の隠れたローカル線、八高線(八王子~高崎)に乗って武蔵国の要城である武蔵松山城(むさし・まつやまじょう、埼玉県比企郡吉見町)を訪問しました。<br /><br />当該城は戦国時代前期において秩父から東進、勢力を拡大した上田氏の築城と伝えられており、同氏は武蔵国南部を支配する扇谷上杉氏の重臣として、河越城攻防をめぐる気鋭の小田原北条氏との戦いにはせ参じますが総崩れとなり松山城に敗退、河越城は小田原北条氏の支配となります。<br /><br />16世紀半ば、勢力著しい小田原北条氏の圧迫を受けた扇谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ、1525~1546)は嫡流に当たる山内上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)らの支援を得て奪取された河越城の奪還をめさし挙兵、同城を包囲しますが北条氏康の奇襲作戦で大敗北を喫します。<br /><br />これにより朝定は討死し扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に敗走、その後勢力を立て直すことできずやむなく越後に逃れ長尾政虎(後の上杉謙信)に名跡と共に管領職を譲ることになります。<br /><br />扇谷上杉氏という主家を失った上田氏ら遺臣たちはことごとく小田原北条氏に帰順、松山城も小田原北条氏傘下に置かれますが河越合戦での敗退を機に関東管領職という名跡を得た上杉謙信(うえすぎ・けんしん、1530~1578)の侵入を受け落城、一時期上杉謙信の支配下におかれます。<br /><br />1562年当時同盟関係にあった北条・武田連合軍は5万を超える大軍で上杉謙信側の松山城を包囲しますが堅固な城は容易に陥落せず、思い余った武田信玄は甲府から金堀り人夫達を呼び寄せ坑道を堀らせ水源を絶ち、ようやく開城にこぎつけたと伝えられています。<br /><br />松山城は東松山駅から鴻巣方面へのバスに約10分乗り、市野川を渡りますと平地にせり出すかのような小山がすぐ迫っており、さすがに攻略に手を焼くだろうナと思われる地形です。この蛇行している市野川が小山にそびえる城の三方を取り囲み、北側はうっそうとした山岳でまさしく天然の要害と言えると思います。<br /><br /><br /><br />2022年3月20日追加<br /><br />城跡の案内板には下記の通り説明があります。<br /><br />「 松山城跡<br /><br />この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財である。<br /><br />市野川に突き出た部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸と南西から北東に向かって一線上に並び、その両側に多くの曲輪や平場を持っている。この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原形を失ってしまった。<br /><br />城史は、古代に遡るとも言われるが、一般的には鎌倉時代期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永23年(1416)ごろの上田上野介説などがある。しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、大田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。<br /><br />この城が天下に知られたのは、今から4・5百年前の天文年間から永徳年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。のち、豊臣勢に攻められ、天正18年(1590年)落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広1万石の居城となったが、松平氏が慶長6年(1601年)高松に転封されたのを最後に廃城となった。<br /><br />平成10年3月 <br />                 吉見町 埼玉県 」

武蔵比企 戦国時代の河越城をめぐり山内・扇谷の両上杉氏と小田原北条氏との攻防の主戦場となった上田氏本城である『松山城』訪問

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2011/06/04 - 2011/06/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

関東の隠れたローカル線、八高線(八王子~高崎)に乗って武蔵国の要城である武蔵松山城(むさし・まつやまじょう、埼玉県比企郡吉見町)を訪問しました。

当該城は戦国時代前期において秩父から東進、勢力を拡大した上田氏の築城と伝えられており、同氏は武蔵国南部を支配する扇谷上杉氏の重臣として、河越城攻防をめぐる気鋭の小田原北条氏との戦いにはせ参じますが総崩れとなり松山城に敗退、河越城は小田原北条氏の支配となります。

16世紀半ば、勢力著しい小田原北条氏の圧迫を受けた扇谷上杉朝定(うえすぎ・ともさだ、1525~1546)は嫡流に当たる山内上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)らの支援を得て奪取された河越城の奪還をめさし挙兵、同城を包囲しますが北条氏康の奇襲作戦で大敗北を喫します。

これにより朝定は討死し扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に敗走、その後勢力を立て直すことできずやむなく越後に逃れ長尾政虎(後の上杉謙信)に名跡と共に管領職を譲ることになります。

扇谷上杉氏という主家を失った上田氏ら遺臣たちはことごとく小田原北条氏に帰順、松山城も小田原北条氏傘下に置かれますが河越合戦での敗退を機に関東管領職という名跡を得た上杉謙信(うえすぎ・けんしん、1530~1578)の侵入を受け落城、一時期上杉謙信の支配下におかれます。

1562年当時同盟関係にあった北条・武田連合軍は5万を超える大軍で上杉謙信側の松山城を包囲しますが堅固な城は容易に陥落せず、思い余った武田信玄は甲府から金堀り人夫達を呼び寄せ坑道を堀らせ水源を絶ち、ようやく開城にこぎつけたと伝えられています。

松山城は東松山駅から鴻巣方面へのバスに約10分乗り、市野川を渡りますと平地にせり出すかのような小山がすぐ迫っており、さすがに攻略に手を焼くだろうナと思われる地形です。この蛇行している市野川が小山にそびえる城の三方を取り囲み、北側はうっそうとした山岳でまさしく天然の要害と言えると思います。



2022年3月20日追加

城跡の案内板には下記の通り説明があります。

「 松山城跡

この城跡は、戦国期における山城の姿がほとんどそのままに残されている貴重な文化財である。

市野川に突き出た部分から本城(本丸)、中城(二の丸)、春日丸、三の丸と南西から北東に向かって一線上に並び、その両側に多くの曲輪や平場を持っている。この主曲輪群の東方にも第二次的な施設があったが、太平洋戦争後の土地開発で全く原形を失ってしまった。

城史は、古代に遡るとも言われるが、一般的には鎌倉時代期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永23年(1416)ごろの上田上野介説などがある。しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、大田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。

この城が天下に知られたのは、今から4・5百年前の天文年間から永徳年間のことで、城をめぐっての上杉、武田、北条の合戦は有名である。のち、豊臣勢に攻められ、天正18年(1590年)落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は、松平家広1万石の居城となったが、松平氏が慶長6年(1601年)高松に転封されたのを最後に廃城となった。

平成10年3月 
                 吉見町 埼玉県 」

同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
  • 八王子駅案内板<br /><br />まず川越行電車に乗車し高麗川に向かいます。

    八王子駅案内板

    まず川越行電車に乗車し高麗川に向かいます。

  • ディ-ゼル車内部<br /><br />途中の高麗川(こまがわ)駅で待合わせの高崎行ディ-ゼル車に乗り換えます。<br />(尚高麗川~高崎は非電化区間となっています。)

    ディ-ゼル車内部

    途中の高麗川(こまがわ)駅で待合わせの高崎行ディ-ゼル車に乗り換えます。
    (尚高麗川~高崎は非電化区間となっています。)

  • 東武東上線小川駅 <br />                                                 <br />当駅で最寄駅の東松山駅に向かいます。<br />(本数少なく出発まで30分以上待ちました)<br />

    東武東上線小川駅 
                                                     
    当駅で最寄駅の東松山駅に向かいます。
    (本数少なく出発まで30分以上待ちました)

  • 松山城址と手前を流れる市野川<br />当然ながら当時は水量は豊かだったでしょう。

    イチオシ

    松山城址と手前を流れる市野川
    当然ながら当時は水量は豊かだったでしょう。

  • 松山城案内板<br />平成20年に国の指定史跡となっています。

    松山城案内板
    平成20年に国の指定史跡となっています。

  • 入口案内<br />うっかり見逃しそうな案内板です。<br />道路の先は行き止まりで民家の庭先に通じています。

    入口案内
    うっかり見逃しそうな案内板です。
    道路の先は行き止まりで民家の庭先に通じています。

  • 通路<br />民家の裏から細い道筋ができています。

    通路
    民家の裏から細い道筋ができています。

  • 空堀<br />早速深い空堀が現れます。

    空堀
    早速深い空堀が現れます。

  • 三ノ曲輪案内<br />

    三ノ曲輪案内

  • 三ノ曲輪説明板<br />

    三ノ曲輪説明板

  • 三ノ曲輪周辺

    三ノ曲輪周辺

  • 空堀<br />堀の底から見上げるとかなり高い壁となります。

    空堀
    堀の底から見上げるとかなり高い壁となります。

  • 主曲輪<br />想像していた以上に広いスケ-ルです。

    主曲輪
    想像していた以上に広いスケ-ルです。

  • 松山城跡・石碑<br /><br />立派な碑です。

    イチオシ

    松山城跡・石碑

    立派な碑です。

  • 松山城跡案内板<br /><br />当城は菅谷館跡、杉山城跡、小倉城跡と共に「比企城館跡群」として国指定史跡となっています(説明文)

    松山城跡案内板

    当城は菅谷館跡、杉山城跡、小倉城跡と共に「比企城館跡群」として国指定史跡となっています(説明文)

  • 縄張図と比企城館跡マップ<br /><br />市野川に突き出ている城郭がよく理解できます。他の城館見学が楽しみです。(今後訪問予定)

    縄張図と比企城館跡マップ

    市野川に突き出ている城郭がよく理解できます。他の城館見学が楽しみです。(今後訪問予定)

  • 城郭の配置図<br />縄張図と共にわかりやすい情報です。

    城郭の配置図
    縄張図と共にわかりやすい情報です。

  • 本曲輪

    本曲輪

  • 本曲輪からの展望<br /><br />生茂った樹林の向こうに市野川がはっきり見えます。

    本曲輪からの展望

    生茂った樹林の向こうに市野川がはっきり見えます。

  • 松山城跡・石碑

    松山城跡・石碑

  • 急峻な坂道

    急峻な坂道

  • 深い空堀

    深い空堀

  • 急峻な坂道

    急峻な坂道

  • 土橋<br />左右は深い堀になってます。

    土橋
    左右は深い堀になってます。

  • 本曲輪から市街地を望む。

    本曲輪から市街地を望む。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • tonbiさん 2011/08/19 19:02:40
    はじめまして
    tonbiと申します。
    この度は私の旅行記に投票いただきありがとうございました。

    滝山氏照さんの旅行記拝見させていただいました。
    高校の頃、この近辺に住んでましたのでとても懐かしかったです。
    楽しく拝見させていただきました!

    滝山氏照

    滝山氏照さん からの返信 2011/08/20 11:59:18
    RE:拝復 tonbi様
    小生の旅行記を見ていただきありがとうございます。

    松山城址訪問時は大変暑くて帰路は暫くバス停で休みました。

    近くに梅林堂という和菓子販売店がありそこでロ-ルケ-キを

    求めました。

    とっても美味しかったのを覚えております。

    今後とも宜しくお願いします。

                        滝山氏照

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