2011/04/18 - 2011/04/19
651位(同エリア2036件中)
カメちゃんさん
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- 旅行記321冊
- クチコミ1件
- Q&A回答2件
- 714,998アクセス
- フォロワー44人
旅の1日目は、新穂高ロープウェイと北アルプスの展望を満喫し、夜は温泉と美味しい料理を堪能し、そしてお部屋に集まって楽しいお話に時間を忘れてしまいました。
2日目のきょうは朝10に宿を出発して、高山の陣屋を見学しました。靴を脱いで陣屋の中に入って、身分に分けられら様々な部屋と暮らしの模様をこの目で見たことは、とても印象的でした。
役所であったワケですから、書類棚なんかがあって実際に書類に似せたものでも置いてあったら、もっと現実味が出たかなと思いますね(書庫などが別にあったとしても、その日の書類は御用場とか書役部屋にあったと思いますので)。
まぁ、そんな欲が出てしまったほど、高山陣屋はよかったですね(^^)
歴史の生々しい姿を感じさせてくれた高山。
旅から帰ってからいつも感じることは、「もう一度行きたい。出来れば2〜3泊してしっかり見学したい・・」という想いです。ホントにもう一度行ってみたいと願わずにはおれないのでした。日本の歴史の旅も・・なんて思うこの頃です。
ライン河・モーゼル河クルーズが御縁で結ばれた皆さんと、とても充実した1泊2日の旅でした。
さて、この次は?? それは、これからの楽しみなのであります(^O^)(~o~)!(^^)!
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
一晩ぐっすり眠って夜が明けてみると、なんと!!雪が降っていたではありませんか!!
これも旅情を掻き立てる光景ですね。
(写真の中の、白く短い筋が雪です)
このあたりの気温は北海道に似ていると言われますが、本当にそうなんですね。 -
朝食前に、記念写真を撮らさせていただきました。
端午の節句が近いですね〜(^_^)
当家のカミさんは、端午の節句が誕生日(^-^)(^_^)v
だから、男勝りで威張っているんですよ!!
私は3月・夢見月だからね〜(^_^;)
これじゃ、カミさんと勝負になるワケがないです(-_-;) -
朝のご馳走であります!!
お料理が幾つあるか数えて下さいね(^O^)
↑この写真以外にもお味噌汁と海苔にご飯、そしてデザートがありましたからね。
こんなに豪華なメニューは初めてでしたよ!!
それぞれが美味しいですから、そりゃもう堪らないですね!!
ホント!朝から一杯やりたくなってしまいましたよ(^o^)(*^_^*) -
出発前に記念写真を撮っていただきました。
「ホテル穂高」さんでとても幸せな一夜を過ごさせていただきました。
お料理が2食ともとてもよかったです!!あの、飛騨牛のステーキもよかったです!(^^)! 温泉も天然掛け流しでよかったです!!お部屋も綺麗(^-^)
館内の雰囲気もよかったですし、なにより女将さんとスタッフの方々の対応がとってもよくて、感謝・感激でした!(^^)!(*^_^*)
皆さんもきっと満足されたと思いますよ〜(^-^)!(^^)!
難を言えば、お部屋のお布団がダブルでなかったこと(~o~) でも、これはどこでも同じだから仕方ないですね(-_-;)
4トラの皆さんも、こちらへお越しのときには是非ご利用になってみて下さいね!! -
ホテルの前から、新穂高第1ロープウェイの駅を見た様子です。
ホテル穂高さんはロープウェイに一番近い宿ですから、ロープウェイの駅を探すのに迷うことはありませんよ! -
ホテル穂高さんのすぐ近くの旅館街から上がる湯煙です。
温泉の雰囲気が満ちていますね(^^) -
だいぶ走って、早くも」平湯トンネルまでやってきました。
平湯峠(標高1684m)の下を通るこのトンネルは、日本一番高いところにあるトンネルとして有名で、標高1445mのところにあるとのことです。トンネル全長は2,430mだそうです。
★平湯トンネルの詳しいことは↓にて。
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:q8ChA0hCRqIJ:ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B9%AF%E5%B3%A0+%E5%B9%B3%E6%B9%AF%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp
★平湯トンネルの場所はこちらです。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244,1&t=k&msa=0&msid=215057171961161454984.000481e7c22b4fb68107b&ll=36.18171,137.527231&spn=0.004984,0.004469&z=18&iwloc=0004a1f012d4f421403c7 -
高山の街に入る前に、丹生川町(にゅうかわちょう)のドライブインで休憩しました。
美味しそうなものがたくさん並んでいて、皆さんの足がここでピタリと止まってしまいましたね(~o~)
私は当家のカミさんにお願いして、この写真の一番手前にある生姜の砂糖漬けを買ってもらいましたよ〜〜(^-^) 私はこれが大好きですからね!!
この旅行記を書きながら、チビチビ頂いていますよ。 -
走る車の助手席でアッと気がついて、ピントも合わせず咄嗟に撮った円空仏の塔です。
ナタをもっている円空仏で、台座の方には「両面宿儺像」と書いてありますね。
どうしてこんなところに円空仏の塔があるのか?
この街(当時は小さな村)にある千光寺に円空が立ち寄ったとされ、その千光寺に64体の円空仏が保管されている御縁があるからだと思いますけどね。
その円空仏は、ここから北西に直線で3Km(道なり4Km余り)のところにある「千光寺」にあり、「円空仏寺宝館」で拝観できるそうです。
★↓は円空仏の塔の場所です。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x6002f1f20a88c38b:0xaf2714adeeccd667,0&msa=0&msid=215057171961161454984.000481e7c22b4fb68107b&ll=36.169711,137.311732&spn=0.009969,0.010149&t=h&z=17&iwloc=0004a18cd994aa880f4c5
★千光寺のHPはこちらです(円空についてのお話が載っています)。
http://daien.senkouji.com
★千光寺の場所はこちらです。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x6002f1f20a88c38b:0xaf2714adeeccd667,0&msa=0&msid=215057171961161454984.000481e7c22b4fb68107b&ll=36.188659,137.288654&spn=0.009967,0.010149&t=h&z=17&iwloc=0004a1e736c983fa3d3b2 -
そして、高山の陣屋へやってきました(^^)
今年は2度目ですが、それ以前は30年ほども前のことになります。
そんなに過ぎてしまいますと、あの頃のころは夢か幻の世界のように思えてしまいます。
ただ家族でドライブをした思い出は、それがどんなに朧げなものになろうとも、私たちの心のどこかに残っているんですね〜(^^)
★高山陣屋の場所は↓にて。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x6002f1f20a88c38b:0xaf2714adeeccd667,0&msa=0&msid=215057171961161454984.000481e7c22b4fb68107b&t=h&ll=36.139582,137.257543&spn=0.002448,0.002891&z=19 -
現金な話で恐縮ですが(^_^;)、陣屋の見学には入場料が必要なんですよ!!
私の分は、カミさんが払ってくれました(^o^)
孫ならタダですね!!(~o~) -
陣屋の正面です。
幕府直轄領の役所だったことから、徳川家の葵の紋が表示されていますね。
もともとは高山藩だったのに、1692年(元禄5年)に藩主金森氏を出羽上山へ移封して、幕府の直轄領にしてしまったみたいですね。
高山と言えば、名古屋からでも時間がかかるし、冬は寒いし、まわりは高い山ばっかりですよね〜。どうしてこんなところを直轄領にするのか??私だったら、海沿いの眺めのいい温暖なところを直轄地にしますけどね(^O^)(~o~)
★高山陣屋のことは↓もご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E9%99%A3%E5%B1%8B
★陣屋ことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%B1%8B -
何はともあれ、記念写真を撮りましょう!!(^O^)(~o~)
★陣屋とはなにか?? そんな難しいことは分かりませんので、↓をご覧下さいね。
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/shakaikyoiku/kankeikikan/takayama-jinya/
江戸時代の陣屋は全国で60数カ所もあったとのこと。その建物が、今では高山にしか残っていないのはちょっと残念ですね。 -
さあ、陣屋の内部を拝見しましょう!!
最初のお座敷は「お役所」というところです。
このお部屋では郡代が仕事をしていたようです。今風に言えば、所長室かもね?(^_^)
★郡代とはどういう人か?↓をご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%BB%A3 -
御役所の隣は地役人が勤務する事務室とのことで、「御用場」というお部屋です。
地役人(じやくにん)という人は、奉行・郡代・代官などが任地先(現地)で採用した役人とのことです。 -
御用場にあるこれですが、囲炉裏か暖房に関するものだったかも?と思いますけど、正確なことは分かりません。
-
御用場の奧には火鉢などもありました。
寒い時期の長い高山では、火鉢はとても大切な暖房器具ですね〜(^^)
このような大きなお部屋で人の出入りもあったかと思えば、囲炉裏や火鉢でどの程度の暖房が出来たのか、案じられますね。
火鉢については、私たちが小学生のころ(昭和20年代)には使っていましたね。その後、炭(すみ)から練炭(れんたん)となって、火力も強くなりました(でも、練炭は火を付けたときのガスが臭かった=死者も出たというニュースもありました)。
その後伊勢湾台風の後頃から石油ストーブが田舎の家庭にもボツボツ入ってきましたね。石油ストーブも改良されて、やがてクーラーへ。そして、エアコンの時代へとなって来ましたね。
この話は、都市と農村とでは年代が随分違ってきますが、火鉢に親しんだ私には、陣屋で見た火鉢は懐かしかったですね。 -
廊下からちょっとお庭の方を見てみました。
腰掛けと言われるところです。お庭と合わせて、とてもいい感じ光景ですね。 -
ここは寺院詰所と言うところで、宗門改めほかの用事があったときにお坊さんが来るところのようです。6畳くらいの狭いお部屋ですよ。
-
町組頭詰所です。
町組頭というのは、上一之町・上二之町と言った町ごとに町年寄・町組頭・五人組頭というの三役を置いて、支配の末端組織と住民の世話という役割をしていた人のことで、「町年寄」がその町の最高責任者で、「町年寄」を複数人で補佐しながら担当区域の五人組頭をまとめたのが「町組頭」かな〜?と思いますけど・・。その次が、五人組という「隣組」の頭である「五人組頭」という順序になっていたと思いますが、どうでしょうか??
この「町組頭」が、町年寄りのもとに「何人いたのか」がなかなか分からないのですよ〜(-_-;) そのあたりをご存知の方、教えて下さいね。 -
「地役人出勤口」です。
御用場で仕事をする地役人は正面玄関から入ることは許されず、ここから出入りしていたようです。
正面玄関から入れる人は、とてもエライ人だけだったようです。要するに身分の違いによって出入りする場所がそれぞれに決まっていたようですね。
お坊さんも町年寄も町組頭も、正面の「御門」から入ることは許されず、その右にある小さい門から入り、あのような狭いところで待つ仕来りになっていたんですね。
ちなみに当家では、当家のカミさんも私も同じ玄関から出入りしております。 -
廊下の途中から役宅の方を見てみました。
一部には2階建てのところもありますが、中二階(平屋なのに屋根が2重になっている造り)の建て屋が多いですね。 -
トイレです〜〜(^^;)
こんなところまでご紹介しちゃうなんて、ちょっと行き過ぎ〜〜(~o~)
でもねぇ〜。人間の暮らしにとって一番大事なところは、トイレではないでしょうか?? 殿様でも、イザ!!となればトイレに走る!!(~o~)!(^^)!
そこで、この時代のトイレはどうなっていたのか??興味津々であります(^O^)(~o~)
そして撮ってきたのがこの写真!!ホントにまぁ、あんたも好きだねぇ(^O^)(~o~)
これは男子の「小」用ですね(^o^) 「木」で作ってありますよ〜。
木だとさぁ、オシッコが染みこんで臭いが付いちゃうんじゃないかな??
ま、形や材質は違えども、今とそんなに変わらないね〜。
見学者が間違ってここで用足しをしないよう、「使用禁止」となっていたところも面白かったね(~o~)
★↓は便器の歴史のお話です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/17916994/ -
こちらは、女性用兼男子「大」用でしょうね。
ところがね、昔は女性も↑の男子「小」用のトイレを使っていたという話もあります。
さすれば、「大」専用だったかも??(^^;)(~o~)
ところで、こうした人間の「落とし物」は、私たちが小学生のころまでは「宝物」だったんですね。そうですよ!!大切な肥料=下肥だったんですよ!!私も畑の瓶まで運んだことが何度もありましたよ(~o~)←これはスゴク意味のあることなんですよ〜!(^^)!
当時のお百姓なんかは、催してくると「他所でシテはもったいない」とばかりに急いで帰宅し、自宅のトイレでシタということを私自身が何度も聞いています。
14世紀頃から人の「落とし物」が田畑の肥料=下肥として利用されるようになり、その後の都市化の中でそれは「肥料」として売買されるようになったというワケで、「下肥問屋」が活躍したそうです。お蔭で、日本の中世の都市は、世界的にも清潔な都市であり得たという話がありますね。
20世紀に入ってくるころから、化学肥料が作られるようになってきて、徐々に人間の「落とし物」が肥料としての役割を期待されなくなってきたと言われていますね。
現在のように、野菜を「生野菜」として食べるような時代になって、下肥は完全に姿を消しましたね。
下肥の話は結構深刻且つ、まじめな話なんですね。話を続けるとまだまだありますが、このあたりでやめときますね(~o~)
★↓にも「下肥」の記事があります。「5.5下肥」をご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%86%E8%82%A5
★ヨーロッパ中世までのトイレの処理話はこちらです。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/19512561/ -
ここは土間です。
大きな家だから、さすがに広いですね。土間では「かまど」が主役の一人に数えられますね。私たちは「かまど」のことを「くど」と言っていましたよ。
ネットで見る「かまど」の画像が土間にあるものが多いので、私の経験をちょっとお話ししましょう。
私の小さいころの実家のかまどは焚き口が畳の敷いてある台所側にあって、台所側に座って火を焚いたものです(当然、焚き口の反対側が土間になっていました。もちろん、かまどが土間にあった家もありました)。そして、かまどの右隣に柴や薪を入れる枠がありましたよ。
ですから、かまどの焚き口の前に座ったまま180°身体の向きを変えれば、そこに飯台(ちゃぶ台)があるというわけです。冬場でも足下は暖かかったですね。
★かまど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%A9
★くど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%88_(%E3%81%8F%E3%81%A9) -
土間に並べられた色々なものです。
私の昔の実家にも、このような臼や炭俵や桶に樽等々・・がありましたよ(^^)
臼は縁側の端っこにあったもの入れにしまってありましたね。醤油なんかは樽ごと買ってきて、栓が抜きやすいようにちょっと高いところに置いて、醤油さしなどに小分けにしていたモンですね。また、自家製のミソから出る「たまり」を使ったこともありますよ(^^)
ここは、実際に使われていない土間なので整然と並べられていますが、本当はもっとゴチャゴチャしてしているんですけどね。味噌樽、醤油樽、各種漬け物樽なんかも大きくてたくさんあったと思いますし(なんせ、大きな屋敷ですから)。
「かまど」にしても、直接薪や炭に火を付けるのではなくて、先ずは燃えやすい藁とか、葉や小枝の多い柴や松葉などを燃やして、その火力で薪や炭に火を付けていくのですから、そのような燃えやすいものも土間にはあったハズなんですね。 -
これは「蓑(みの)」ですね。
私はこれを着用したことはなかったですが、父が雨の日にこれを着ている姿をよく見ました。明治・大正生まれの田舎の人たちは戦後になっても、よく使用していましたね。
蓑も何着か置いてあったと思います。
↑の写真もそうですが、まぁ、展示ですからこれでイイようなモンですけど、こうした展示ですと「生活実感」というものが伝わってこないですよね〜。昔のものの展示にについては、「生活」をどう表現するかを考えて欲しいですね。 -
↑の蓑に関連しての話ですが、父が蓑を着て仕事をしていたころ、私たち子供は雨の日にこの図のようなものを頭からかぶって小学校へいったものでした(3〜4年生ごろまで)。
これは「ござ」を折り曲げて頂点を縫い付けたもので、私たちは「ござ」と呼んでいました。新品の「ござ」を買ってもらったときに嬉しかったことを、今でも覚えています。
小学校高学年のときには、番傘を使うようになったものです。
都会、特に東京や大きな港のある町では明治のころから、富裕層で洋傘が使われたりしていたようですし、番傘も広く使われていたようですが、私たちの田舎ではコウモリ傘や番傘で学校に来る子供たちは少なかったですね。
服装でも、下駄履きで、冬は袢纏と足には足袋を履いていました。本当に「時代」というものを感じますね。
東京オリンピックの頃には、川で洗濯をしていたなんて普通の光景でしたからね。
そういう意味では、日本の農漁村は都会の文明開化とは縁遠く、古い生活をズーッと続けざるを得なかったようですね。ガスや電気にしてもそうですね。 -
こちらの台所は、郡代などの高級役人のとその家族の食事を作った場所のようです。
身分によって、食事を作る場所まで違っていたのですね。
このことでは(最近は分かりませんが)会社の従業員食堂でも、係長以下の下級職制&一般従業員と、課長以上の高級職制とでは食堂が違っていましたね(1985年ごろ?まではありました)。今でも、そういう会社や役所があるかも??
「かまど(くど)」のことは、↑で少しお話ししましたが、問題はかまどで焚く柴や薪の調達ですね。ここは陣屋ですから、代官や役人自身が山へ芝刈りに行くことはないと思いますが、誰かが芝刈りや薪造りをしなければならないわけすね(-_-;)
我が家では冬になると山へ芝刈りに行きましたね。お弁当を作って午前中から出掛けていき、あの大八車に山と積んできます。それを何回も繰り返して1年分の柴や薪を確保するのです。時には太い木も切って薪を作ります。
その柴や薪は、一般には土間の奧に積んであったり、蔵に所蔵したりしていましたね。私の実家では古い家が一棟残っていたので、その家に柴や薪・稲の藁などを押し込んで保存していました。
このような芝刈りは個人の所有地では出来ず、地域の共同体が山林を持って芝刈りが出来るようにしています(町有・区有の山林など)。その山を利用する権利などを「入会権」などと言っていたようです。自然と共生するということは、地域共同体の役割なしには出来ないと言うことですね。
★大八車はこちらをご覧下さい。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/15562925/ -
天井を見上げますと板が張ってなくて、縦横の柱や梁が丸見えです。
夏のある日何となく上を見たら、あの梁に大きな蛇が巻きつき動いていたなんてことが、時々はあったモンです。
なかには、蛇が落ちてきたなんて話も聞いたことがありますね。
自然との共生ということは、そういうことですね(^O^)(~o~)
もちろん、この陣屋でも御役所とかお座敷、居間等々では天井に板が張ってありますよ。
でも、その天井裏で蛇の這う音とか、ネズミの走る音なんかが聞こえたりすることはあったと思いますけどね(^_^;) -
郡代役宅の一番奥にある(女中の働く水回りを別として)御居間(嵐山の間)の掛け軸です。サッパリ読めませんが、私のようなボンクラな人間には読めない方が価値がありそうにも感じますね(^O^)(~o~)
ところが、やっぱり価値があるんですね(^-^)
この詩は、晁衡(ちょうけい=阿倍仲麻呂。698〜770年。日本人の遣唐留学生で73歳で死去 科挙に合格した日本人)の遭難死(実際は誤報だった)を知った李白(中国詩歌史上最高の存在とされる人)が詠んだ哀悼の詩だったというのです。
で、なんでその李白の詩がこの高山にあるのか?
金森氏が高山に移封されたのが1586年、李白がこの詩を読んでから800年も経過している中でどうして??と思いますね。阿倍仲麻呂が高山と縁があったのか?この詩が掛け軸の詩として一般化していたのか?分かりません(-_-;) -
有難いことに↑の翻訳文がありました(^-^)。
写真を拡大して、お読み下さいね。 -
こちらは御居間の棚です。
我が家にたとえれば、サイドボードといったところでしょうか?(~o~) -
これは完全なる「茶室」ですね。
私は現実に使われている茶室なんて、見たこともは行ったこともありません。
ここで、どんな出会いがあり、どんなことが語り合われたのか??これは、歴史の秘密の部分かも知れないですね。 -
立派な掛け軸もあることだし、このあたりで記念写真でも撮りますか(^-^)!(^^)!
-
これは、真向兎(まっこううさぎ)の釘隠しです。
釘を隠して且つ、お洒落な感じですね。
庶民の家では、釘などは打ちっ放しですね。 -
ここは居間です。
8畳の間に床の間や茶釜用の炉?があって、縁側が付いていますね。
ここでも客人にお茶を入れることがあったのでしょうかね? -
ご覧の通り、茶の間と女中部屋です。
何人ほどの女中さんが働いていたのでしょうかね?
その女中さんの着替え室兼休憩所兼食堂ということでしょうか?? -
「長持ち」
本当に懐かしいです!!
昔の我が家にもありました。母がもってきたとのことでした。
昭和一桁台前半のころの田舎の祝言と言えば、箪笥・長持ち・鏡などは嫁入り道具に欠かせなかったみたいですね。
母のもってきた長持ちも、色・形・大きさがこれとほぼ同じでしたね。 -
高山陣屋が封建時代のものであることは分かっていても、大きく書かれた「忠」と「孝」文字を見ると、あの時代の雰囲気を改めて認識させられますね。
「忠」「孝」という言葉には、人それぞれに様々な考え方があり、想いがあるようですね。問題は言葉それ自体の意味・解釈ではなく、そういう言葉が社会に大きな意味を担わされていた時代に、人々がどう組織され、どう教えられ、どう動かされ、どう処遇され、どう暮らしてきたか!!にあると思いますね。
そこを詳しく観察し、そこから学ぶところに史跡を守る意義があるように思いますね。 -
説明のとおり使者の控え室で、↑の今の隣にあります。
内命を伝えるときにも使われたとのことですが、こんなに立派な駕籠で「内命」を伝えていたんですね(~o~) 内命にもいろいろあったかと思いますが、内命なら普通の駕籠で行った方がイイんじゃないの?と思いませんか?
それとも、ここでの内命とは、公の知らせだったのでしょうかね。
駕籠には様々な種類があって、身分・用件に応じて使われていたようです。
「寺僧駕籠」というのは、かなり高級な駕籠のようですね。 -
吟味所にやってきました。陣屋にもお白州があるのですね(>_<)
時代劇ではよく見る「御白洲」を見るなんてことは、他所ではなかったことです。
犯罪を裁くところを白洲というのはなぜか?その説明を読みますと、「砂利が敷かれ白く見えるので白洲という」とありますね。
説明によれば、犯罪者と言っても白洲の上で裁かれるのは一般庶民のみとのこと。由緒ある浪人や御用達町人は板縁で、武士・僧侶・神官は縁側で吟味を受けたようです。
こんなところにも、身分による違いがあったのですね。
ここで裁かれるのは、今で言う刑事事件の被疑者のようで、民事事件の方は別の御白洲があったようです。民事事件では、両者の話を聞いて、なんとか丸く収めるようにしていたという話があります。大岡越前の「三方一両損」なんて話が、「民事」にあたるようです。 -
拷問道具が展示してあるお白洲です。
お白州はテレビドラマなどでたびたび見たものですが、実際の使われ方となると具体的なことは殆ど知らないことに気がつきましたね。
いったい、全ての被疑者がここで裁かれたのか? 犯罪容疑の程度によって分けられ、重い犯罪容疑の人だけ来たのか? 奉行が全ての事案に顔を出したのか? お白州は1ヶ月に何回ぐらい開かれたのか? 拷問はどんな人にやられたのか?等々・・、時代ドラマを喜んで見ているくせに本当になんにも知らないんですね〜(-_-;) 情けないです(>_<)
でも、一般犯罪で被疑者を「拷問」に掛けるには「誰でも」ってワケではなさそうで、重大犯罪者に限られていたみたいですね。それも上級(老中)の許可が必要だったという話がありますね。あんまり拷問をやり過ぎると、そこの代官所や奉行所の尋問能力が問われかねないということもあったようです。
また、どこからが拷問で、どこまでが拷問でないかは、かなり曖昧で恣意的な判断があったみたいで、「むち打ち」はいいけど「吊し」はイケナイとかいうような、「現場」によって解釈が違っていたことも言われていますね。
一般犯罪と違って、キリシタンなど信教・思想に関わる者には、最初から拷問があったみたいですね。
なんにしても、裁判の酷さは時代と洋の東西を問いませんね。また、裁判の難しさはこれからもズッと解決され得ないでしょうね。 -
お白州には拷問道具が「陳列」してあって、被疑者を精神的に圧迫していたという話があります。
こんな物が横にチラチラと見えていては、まともな裁判にはなり得ませんねぇ(>_<)
当家でもそうですよ!!
カミさんの権威があまりに強いから私はなにも言えず、お茶碗洗いやお掃除・マッサージなどでご機嫌を伺っているのですからね(=_=) -
拷問の図(*_*)
このような拷問で、どれほどの「えん罪」がデッチあげられたか??
そのことを案じてしまいます(-_-;) 身に覚えのない噂が立つことはよくありますからね。
現在の任意による聞き取りでも、その経験者のお話によれば、既に相当な調査がされていて、適当なことを話すと、時刻・場所・行動・会った人など逐一指摘されてしまい、びっくりしたというのです。しかも長時間且つ何日にも及ぶ聞き取りで疲れてしまい、
「もう、どうにでもなれ」
という気にもなったというのです。その方は悪いことをしたわけではなく、参考に聞き取り対象になっただけなのにね。被疑者の行動を確定するために、周辺の人の行動まで調べられるんですね。ホントに聞いてビックリでした。 -
こんどは「御蔵」へやってきました。
ここは蔵の外の通路です。この蔵の1/3程度の蔵がもう一棟あったのですが、それは復元されていないようです。
この通路には、畳表と同様の「ござ」が敷いてありました。
この御蔵は1695年(元禄8年)に高山城から移されたといわれ、年貢米の貯蔵に使われたとのことです。現在は各種資料が展示されていますが、米倉としては全国的にも一番古くて大きいものとされているようです。 -
年貢米俵です。
昔はこの蔵全体に、年貢米俵が積み込まれていたのですね。
俵一つには玄米4斗(40升)に込米1升を入れて(合計41升)1俵としたと表示してありました。説明によれば、「込米」とは、年貢米の自然乾燥による減量を補うために納める米とのことです。要するに、屁理屈をつけての追加の税ですね。それをしないのが「良識」なんですよね〜。
ところで、かなり一般的な話ですが、江戸時代の農民はそれほど苦労していなかったとう説があります。??と思いますが、どうでしょう??
その話では、江戸時代初期から後期にかけて反(10アール)あたり収穫量が約2倍に増えているということです。江戸中期でも1.5倍を超しているのです。
でも、その説には年貢米の負担の程度とか、小作関係(農民の約9割が小作人だった)や家族関係(子供が多かった)、貨幣経済の進展(貨幣に変えての貸し借り・収奪が容易)、幕府の財政等々・・などが考慮に入ってないですけど、どうでなんでしょうか??
単位面積あたりの収量の向上→農民の生活苦の減少といきたいところですが、貨幣経済の進展によって幕府の財政や都市部の生活に吸収されていく可能性は大ですね。 -
御蔵の概要と収納高の資料です(明治2〜3年)。
拡大してご覧下さいね。(現在、五〜八番蔵はありません)
現在ある御蔵の建物の大きさは、かなり大雑把に言って18m×60mくらいかと思いますが、昔はさらに五〜八番蔵があったわけで、こんな大きな御蔵を埋め尽くしたのですねぇ。
「蔵」ということで思い起こされるのは、「報民倉」を作って危急の時に備えた田原藩の渡辺崋山の話ですね。「報民倉」によって、田原藩はあの天保の大飢饉を一人の死者を出すことなく乗り切ったといわれていますね。
高山陣屋の蔵の詳しいことは知りませんが、田原藩が乗り越えた天保の大飢饉の時、飛騨郡代の大井永昌帯刀もこの蔵の米を困窮する福井の人々の救済に当てたという話がありますね(下に関連した写真とコメントがあります)。
★「報民倉」のことは↓にて。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/17989694/ -
嘉永7年(1854年)飛騨国のデータです。145村、5万6629石ということです。
この時期の農村の全国的な反あたり収量は、江戸時代初期に較べて約2倍になっていたと言われていますが(この一般的比較が、江戸時代の農村の窮乏否定論の根拠にもなっているようです)、それでも、高山では米では食べていけなかったというのですね。
この時期はまた、ペリー来航(1853年・嘉永6年)の翌年のことで、明治に変わる14年前ですね。 -
この鬼瓦は変わっているなぁと思って撮った写真です(^^)
なにが変わっているかと言いますと、てっぺんのところ以外が木で作られているんです(^^) 半木製の鬼瓦なんて初めて見ましたよ〜。
この鬼板は、陣屋の正面についているものと同じだそうです。
これはねぇ、鬼瓦というのではなくて「鬼板(おにいた)」って言うんですよ!!屋根も木の板を重ねて重ねて作ってあるし、木の方が寒さに強いってことで半木製になっているそうです。
鬼瓦は屋根の両端から雨水が入らないようにしたものに、魔除けに鬼の顔を飾りとして付けたものと言われています。鬼の顔がなくても「鬼瓦」ですが、鬼瓦の鬼の顔は年代と共に変化をしてきているとのことです。 -
カメラがだいぶブレてしまいましたが(-_-;)、在りし日の高山城です。
元禄5年(1692年)飛騨高山藩が幕府の直轄領(天領)となり、名城の誉れ高かった高山城は元禄8年に取り壊されてしまいました(>_<)。
高山城を築いたのは越前国大野郡の領主・金森長近だったのですが、金森氏の治世の時代は比較的「よい時代」だと言われているようですね。金森氏は城下の町づくりをはじめ、田畑の開墾や堤防・道路の整備・寺社の建立など産業や心身の安定に努めたようです。
三代目の時代には茶道を起こす文化人であると同時に優しい人で、寛永の大飢饉では将軍からもらった家宝の茶器を売ってまでして、領民を助けたとのことです。
ところが、幕府の直轄地となって(やり方が汚いねぇ)、金森氏の時代は終わっていまいました。城の管理を加賀前田藩が担当することになったとのことですが、負担が大きいと言うことで幕府に取り壊しを依頼したために、幕府もそれを認めて取り壊されてしまったのですね。
★高山城址の場所は↓にて
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x6002f1f20a88c38b:0xaf2714adeeccd667,0&msa=0&msid=215057171961161454984.000481e7c22b4fb68107b&t=h&ll=36.137766,137.263715&spn=0.004878,0.005783&z=18&iwloc=0004a26037a0fbd2cba40 -
「高山城と城下町」の説明です。写真を拡大してご覧下さいね。
それにしても、あまりに簡単な説明で、なぜ移封となったのかについて、いくつかの議論を紹介して欲しいですね。
説明文の中の「古い街並み」は↓をご覧下さい。赤い枠の範囲が現在「古い街並」として指定・保存されているところです。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x6002f1f20a88c38b:0xaf2714adeeccd667,0&msa=0&msid=215057171961161454984.000481e7c22b4fb68107b&ll=36.143836,137.262583&spn=0.039057,0.044246&t=h&z=15 -
代々金森藩の家臣であった地役人、土屋與四郎高信の鎧とのことです。
-
「幕府直轄領に至るまでの飛騨」
1586年、豊臣秀吉は秀吉に従わない飛騨国・三木氏の攻略に勲功のあった越前国大野郡の領主・金森長近を飛騨国に移封したことから、金森氏の飛騨国での運命のスターとなったのですね。それが、元禄5年に(1692年)なると、徳川幕府は金森氏を出羽・上山に移封し、飛騨国を直轄領にしてしまったんですねぇ。
なぜ移封→直轄領化??については、種々議論があるようです。 財政難に陥った幕府が、飛騨国の豊富な森林資源と地下資源に目をつけたのが、その要因だったという説が有力ですね。そんな幕府の直轄領化の後には、森林資源や地下資源は乱伐・乱掘されたようで、資源が減ってきたといわれています。
金森氏は出羽・上山に移封された後、5年後の元禄10年(1697年)6月に美濃国郡上藩へ再び移封され、ここでの2代目の金森頼錦(よりかね)の時に幕府の奏者番(そうじゃばん)に任ぜられたことがキッカケとなって騒動まで起こし、改易となってしまったようです。奏者番という出世コースに着いたことが、金森一族の運命を分けることになってしまったのはちょっと残念ですね。
この年表には載ってないですが、高山に代官が常時居るようになったのは、享保(きょうほう)13年(1728年)からとのことのようです。
★飛騨国のことは↓にて
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:4a8zTDCqCusJ:ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%9B%BD+%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%9B%BD&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp -
飛騨高山にもつらい歴史がありました。
一般に大原騒動と言われていますが、明和・安永・天明の3つの年代の18年の間に起きた人々の抗議と一揆を指すものなんですね。それが、親子2代にわたって事件を起こしたのですから酷いモンですね(>_<)(*_*)
明和騒動(1771年)の引き金となった「御用木元伐休山命令」の「御用木元伐」とは、幕府が使う飛騨の良材を伐採する仕事のようです。農民はその仕事をして僅かな「駄賃」を得ていたようですが、農地の収量の少ない飛騨農民にとっては、生活維持の小銭稼ぎに欠かせないものだったとのことです。「御用木元伐休山命令」は農民にとって死活問題でもあったのですね。
その伐採を止めさせたことは、↑にも取りあげましたように幕府直轄後に乱伐されたことが背景にもあるような感じがしますが、幕府は伐採中止に伴う別の支援策を用意しなかったのですね。
安永騒動(1773年)は、田畑の測量を通じて増税しようということですが、この騒動は映画にもなりましたね。元禄のころに検地をしたのは大垣藩で、農民たちにとって寛大な内容のようでした。それを元に農民たちは納税と生活をバランスをとっていたのが、農民との約束を守らない新検地によって生活が立ちゆかなくなることから、一揆に立ち上がったとのことですね。
★↓は菅原文太さんが制作された大原騒動の映画です(約47分、You tube)。
http://www.youtube.com/watch?v=aZL45DI-pw8
それにしても、やむなく訴えざるを得なかった人々に対し、神主まで磔にするなど多数の犠牲を強いた厳しい処断で臨んだところに胸が痛みました(>_<)(*_*) 一方で検地に協力した連中を表彰したというのですから、中世の支配のあり方のあまりの身勝手さに心底から怒りを感じますね!!
この検地を実行した大原代官は最終的には郡代に出世しましたが、彼の奥方は彼のやり方を悲しんで自害したとのことです。
明和・安永の騒動を起こした大原彦四郎紹正の子の大原亀五郎正は酷い人のようでしたね。私利私欲のために返納金を私物化したり、年貢の免除分を取りあげたりして飛騨の人たちを苦しめ天明騒動(1788年)を引き起こしたなんて、親が親なら子も子だということでしょうか??
江戸時代は比較的平和な時代だったという陰で、封建支配の本性がこのような形でムキ出しとなっていたことを、しっかりと認識なければと思いました。歴史上の経験は決して2度と起きないことではなく、形を変えて現代にも未来にも現れ得るものだということを弁えておく必要があると思いますね。
★大原騒動の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%A8%92%E5%8B%95 -
「天保救荒碑(てんぽうきゅうこうひ)」
しかし、代官や郡代も悪い人ばかりではありません。
これは飛騨郡代であった大井永昌帯刀に対する感謝の碑に、墨を塗って写しとったたものです。
この碑は、福井県武生市本保町にある「保陣屋跡(ほんぽじんや)」付近に建てられているとのことです。
碑文の詳しいことは↓の写真とコメントにて。 -
「浮き雲まよいひて日の目見ること稀なれば盛夏の間すらも風冷やかにて暑さを不知・・」
天保の大飢饉は数年続いた冷害で、全国的に悲惨な状況になったのですね。
この時、飛騨国の郡代であった大井永昌帯刀が彼の管轄下の越前国で飢えている人々を見てとった行動には、本当に頭が下がりますね。
★天保の大飢饉の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89 -
天保の大飢饉の時に窮民救済の奔走した大井永昌帯刀の行動が記されています。
その内容については、写真を拡大されてご覧下さいね。
大切なことは、窮民に寄り添い、その地域に留まってなお、私財までなげうって救済に奔走した大井永昌帯刀の姿勢・資質ですね。本当に学ばねばと思いますね。
困った人がいたら寄り添ってあげる・・。自立を見守ることと助け合いとを、どこで折り合いをつけるか難しい点もありますけど、助け合うことは本当に大事ですね。
江戸時代には天災による大飢饉がしばしばありましたが、あの伊能忠敬も私財を投げ打って窮民を助けた人だったのですね。
また、飢饉の経験から農村の暮らし方と営農・開墾などを考えた人も少なくなかったようですが、二宮尊徳、農具や作物の作付けと加工を工夫した大蔵永常、農村の共同の仕組みを考えた大原幽学などは、そうした人々を代表する人たちと言えるかも知れませんね。
ところが、
自らを安全な場に置いて窮民を助けることもしないのに、救済・復興に奔走している様子の一つ一つをチェックして文句を言ってる人が、いつの時代にもいるモンですね(>_<)(*_*) 東日本大震災の救援・復興に向けての共同という大きな課題の前で、重箱の隅をつつくようにして新聞やテレビのネタにする姿勢が散見されるのは残念です。風評を流す人も同じだと思いますね(>_<)
こんな時こそ、全ての人々が大井永昌帯刀の姿勢に学びたいですね。 -
江戸時代の鉄砲が展示してありました。
チョットビックリ!!
軍隊の鉄砲かと思ったのですが、これは農民が使ったもので、今で言うところの「猟銃」なんですね〜。
一番手前のヤツは長くて重そうです。きっと射程も長く、精度も高かったヤツなのかも知れませんね。 -
鉄砲の説明です。
「特に飛騨では山国のため熊・狼・猪などがいて人に害を及ぼすから」という理由で、鉄砲の貸し出しをしていたんですね。 鉄砲という、あの時代の最新の武器を農民に貸し出し出すという柔軟姿勢のあったことに、感心してしまいました。
それと、空砲と実弾砲とに使い分けられているあたり、実弾の節約や農民への大量の武器貸与に対しての警戒もあったかも知れないが、野獣を守る姿勢もあったことが伺われますね。
もっとも感心したのが、あの大原騒動でも農民たちは鉄砲で武装しなかったと言うことです。これこそ、驚くべきことですね。あれほどの飢饉と不正と弾圧で、農民たちには抑えきれない怒りが渦巻いていたはず。それでも鉄砲に手を出さなかった農民たちの胸中を想いますと、その心の広さ確かさに胸を打たれてしまうのでした。
しかし、明治に入った直後の梅村騒動では鉄砲が使用されましたね。人々の中に幕末の戦いの熱気が残っていたのでしょうか。 -
天朝御用所(てんちょうごようしょ)の高札。
これは、徳川幕府による治世が終った(大政奉還・慶応3年10月14日)後の、慶応4年2月4日に鎮撫総督の「竹沢寛三郎」が来て、2月7日に立てた高札ですね(↓に掲載の年表写真を参考にして下さい)。要は「明治の時代になること(なったこと)を人々に示すもの」だと言われています。
「竹沢寛三郎」という人はどちらかというと優しい人で、あんまり威張らず、年貢を減らしたり、その他の運上(様々な口実で作った税)を減らしたりして、庶民の人気を集めたようですね。また、それが明治政府を作る勢力の当初の政策でもあったようです。
まぁ、人々にとって「いい時代が来た」と感じられたかも知れませんね。 -
ところが,明治政府は当初の人気取り政策をやめたため、竹沢氏の寛大な方針と合わなくなり、着任して1ヶ月あまりの彼を解任してしまいます。その後に着任したのが、水戸藩士で若干27歳の「梅村速水」という人でした。
梅村氏は自らの政策と明治政府の政策を次々に実施に移していったようです。その中には学校(日本初の公立学校)を作ったり、老人や貧乏人を助けたり、貧乏人の医療費を無料にしたり、飢饉に備えて蔵を作ったり、人々からの投書を歓迎したり、刑法と牢屋の改善ほか、いま見ても素晴らしい政策があったのです。
しかし、紙・油の専売とか、町人に米を安く売る習わしを廃止したり、学校建築をむやみに急がせたりするやり方等々が人々の負担感を募らせ、元来保守的な飛騨の人々から強く反発されてしまいます。
その背景には、前任の竹沢氏が人気取り政策に徹し、天朝御用所の高札を立てた本来の役割である、「四民平等の明治の時代になったことを人々に徹底する」という任務を果たさなかった事情がある説もありますね。
そんな動きの中、梅村氏の京都出張中に米の売り下げ問題をキッカケに住民が蜂起し、騒動となってしまったようでした。幕府は騒動の責任をとらせて知事を解任し収監し、その1年半後の明治3年10月に獄中で病死してしまったのです。 -
「君がこの世を去ってから初めて本当の事を知った」
この遺愛碑は、岩倉具視の発案で作られたものとのことです。
梅村氏の政策のよかった部分が、後になって理解されてきたのではないかと思いますね。
梅村騒動については、梅村氏には優れた内容の政策がたくさんあったにも拘わらず、やり方が性急であったり古い習わしを軽視したことと、住民側が一部の政策に過敏に反応してしまったことが要因になったのですね。
他の話では、住民の側は梅村氏が力を注いだ明治政府の方針の説明を真面目に聞かず、時代の変化に向かい合えず、旧態依然の意識もから抜け出せなかったという指摘もあります。
さらに、新見郡代が逃亡するときに放出していった三百俵を知事(梅村氏)に隠しており、梅村氏の機嫌を損ねているわけで、これが「売り下げ」問題と絡んでいるのかも知れませんね。
制度は変わっても、生活習慣や慣習に基づく人々の意識などは骨の髄まで染みていますから、親から子へと代が変わってもなかなか変わりません(-_-;) 明治になって143年が過ぎた今でも、それは言えることです(>_<) ホントに、社会の変化に人々の意識が追従していくとは、容易なことではありません。
だから、そうした社会制度の急速な変化に警鐘を鳴らした人が歴史の折々に登場していたようですね。全体を視野に入れながら辛抱強く変革していくこと(漸進)が大事だと・・。梅村騒動にはそんな警告が当てはまるかも?なんて思ったりします。
収監された梅村氏は明治新政府に対して懸命に訴えたようですが、結果としては政府は彼の訴えを放置したまま獄中に閉じ込め、獄死させてしまいます。政府は梅村氏の真剣さを知っていながら住民を説得することもせず、全てを梅村氏に負わせたと言われています。この対応は極めて無責任ですし、江戸幕府の体質となんら変わっていませんね。 -
「飛騨の改革と陣屋の足跡」
竹沢三郎氏の任期は1ヶ月にも及びませんでしたね。梅村知事の任期は1年ちょうどです。地方組織の変遷も頻繁のようでしたね。 これが今時であれば、「任命責任」とか「迷走」とか「後手後手」・・などと言って世論の標的になること必至ですね(~o~)(^O^)
いずれにせよ、時代が変っていくということは大変なことですね。 -
厳しい時代の流れを見終えた私たちに
「ご苦労さん」
と声を掛けてくれたのは、この桜でした。
旅先で歴史遺跡を見るのは、だいたいが建物を外から見ること多いですね。内部を見せていただいたり歴史資料を見せていただいたことは、とっても貴重な勉強になりました。
台所で見た生活用具や暮らし方などは、その一部が私たち自身の子供のころ暮らしそのままであったりしたことに、妙な気持になりました。田舎暮らしが明治以来の近代化から如何に遠いところにあったか、人々の生活意識と併せて考えさせられましたね。
また、様々な「騒動」の資料には、あの時代の人々の苦悩が伺われ、本当に心を動かされました。折しも東日本大震災の救援と復興のまっただ中にある時だけに、想いは複雑です。
一方では同じ被災者なのに、家族と家を失いながらも懸命に頑張る役場の職員に喰って掛かる被災者たち。他方、止むにやまれず声をあげたのに、子供だましの改善と厳しすぎる仕打ちに誰もが耐え、慰め合うしかなかったあの時代・・(>_<)(T_T)。
地震と飢饉は違うとは言え、二つの時代の人々の行動や感情の違いを重ね合わせると、いったいどうなっているのかと考え込んでしまうのでした。 -
日枝神社御旅所(ひえじんじゃおたびしょ)です。
高山の「日枝神社」は、高山市街の東部を流れる「宮川」東の城山の南西側の麓にあります。ご本尊(祭神)は大山咋神(おおやまくいのかみ)とのことですが、あの有名な「高山祭り」はこの神社の祭礼なんだそうです。
日枝神社の御利益には、山林守護、開運招福、殖産興業、学業成就、飛騨国守護、合格祈願等々・・のようです(^o^) 東京にある日枝神社では、夫婦円満、殖産興業、子孫繁栄、安産等々にも御利益があるとのことです。全国の日枝神社の御利益を総計すると、かなりの数になるかもね?(^-^)(^_^)v←伊勢神宮さんも真っ青??(^_^;)
そこで、「日枝神社御旅所」ですが、「御旅所」というのは、御神輿などが休憩したり泊まったりするところとのことです。高山祭り(山王祭=日枝神社の例祭)の御神輿は、日枝神社から出発して家々を巡って、この「日枝神社御旅所」が終点となるそうです。そして翌日、ここを出発してまた家々を巡って日枝神社に戻るのだそうです。
そういうワケで、日枝神社の御神輿の休憩所というのが、「日枝神社御旅所」だったのですね。ここにも賽銭箱がありますので、お祈りすればたくさんの御利益が期待できるかも知れませんね(^_^)v
★御旅所の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%97%85%E6%89%80
★高山祭のことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E7%A5%AD
★日枝神社御旅所の場所は↓にて。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x6002f1f20a88c38b:0xaf2714adeeccd667,0&msa=0&msid=215057171961161454984.000481e7c22b4fb68107b&t=h&ll=36.139545,137.259455&spn=0.002439,0.002891&z=19&iwloc=0004a2add11eb8792c252 -
陣屋を出たときには雨が降っていましたが、それもすぐに止みました(^o^)
やっぱり、日頃の心がけですね〜〜(^-^)(^_^)v
「御旅所」の前を通って、高山祭りの写真で見た赤い橋にやってきました。
この橋は「中橋(なかばし)」と言って、江戸時代からある橋だそうでよ〜。
この橋のたもとには石碑があって、次のことがいてありました。
「昔より橋の中の橋というところにより中橋といった。天文5年(1536年)の刻銘ある擬宝珠をつけた欄干付きの優美な京風の橋で、幕府の公費で架け替えたという。
当時この工事の人夫に出た高山町民に賃金が払われたときの郡代の評判は大変よかったという。また、橋を渡り始めてから3枚目の踏板で副神像を彫ってまつると幸福が授かるという言い伝えが残っている」
この赤い橋は誰もが喜び、自慢した橋だったのですね〜(^-^)(^_^)v。
それでは、記念写真を!!(^-^)(*^_^*)
赤い橋と桜と新緑と・・。
ウ〜ン!!なかなかいい感じですね。
高山での記念写真を撮るなら、ここが一番ですよ〜〜(~o~)(^_^)/~ -
それから、古い街並みの保存された「古い街並」を歩きました。
今歩いているところは「上三之町」あたりのようですけどね。
たくさんのお店が並んでいますから、お土産を探してみるのもいいですね。
そしたら、こんなに綺麗でカッコよい盆栽を見つけました。
高山の人の、優しい心が察せられますね〜(^-^) -
こんなに綺麗な紫の花も見つけました。
この通りには造り酒屋さんも2件ほど見つけましたし、うどん屋さんやそば屋さんに煎餅屋さん御味噌のお店などなど、ホントに色々なお店があります。
この街を散策していますと、外人さんも結構見ますよ!! -
このあたりは高山の古い街並みの保存地域になっているそうです。
★保存地域と言われているところを赤い線で囲ってみましたので、↓をクリックしてみて下さいね(^^) 地図が開きましたら、赤い線のうえで再度クリックしてみて下さい。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&brcurrent=3,0x6002f1f20a88c38b:0xaf2714adeeccd667,0&msa=0&msid=215057171961161454984.000481e7c22b4fb68107b&ll=36.143593,137.262883&spn=0.037394,0.044246&t=h&z=15
この街で一泊くらいはして、「古い街並」で色んなものを見たり食べたり(試食・試飲も)撮ったりするのもいいですね。 -
お昼はここで頂きます!!
手打ちそばのお店(^_^)
創業は明治31年!!(西暦1898年)
113年の歴史を誇る老舗なんですよ〜〜。
ここで頂いたお蕎麦は「なめこそば」でした。
帰りのバスでは、お腹一杯で眠ってしまいました(^O^)(~o~)
新穂高と高山の旅。
山と温泉と高山陣屋と街並み保存地区の散策・・、なんと豪華な旅だったのでしょうか(^o^)(*^_^*)
そしてなにより、気楽で明るい皆さんとご一緒できたこと、そしてどんな時にも楽しい会話が絶えなかったことが嬉しかった旅でした(^-^)(^_^)v(*^_^*)
旅はみんなで・・(^-^)(^_^)v 次回は全員集合で!!楽しさもさらに盛り上がることでしょう(^-^)(^_^)/~
<終わり>
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この旅行記へのコメント (3)
-
- ぽちこさん 2011/05/09 22:35:27
- 目が…(笑)
- カメちゃん、こんばんは(~_~)
これは…ちょっと真剣に読んだので目が…(*_*; こんなカンジ(笑)
穂高から高山に♪
陣屋もじっくり見れて良かった!
私もしっかり勉強できてよかった〜(^o^)
わてら夫婦は「だんご」食べたさに高山まで走ってくんですけど(笑)
高山の「小さめの醤油だんご」は絶品です!
カメちゃん食べなかったの?
それともしっかりおみやげに?
最近は真空パックで売ってますからね〜
五平もちもイケますね♪
ああ…私としたことが食べ物の話ばっかりに^_^
ぽちこ
- カメちゃんさん からの返信 2011/05/09 22:40:26
- RE: 目が…(笑)
- ぽちこさん こんばんは〜(^^)
> なんと見つけた!
あら〜〜(*^_^*) 見つかっちゃった!(^^)!
でも、ぽちこさんご覧いただけてとても嬉しい!!(^_-)
日頃はカカア天下の嵐が吹きまくり、私はお茶碗洗いとお掃除、マッサージで
ご機嫌を取る毎日・・(-_-;)
涙無しには語れないような夫婦なのに・・(;_;)(T_T)
あの時ばっかりはそれを忘れて、出掛けちゃったのですよ〜〜(~o~)
ホント、いい夫婦なんてガラでもないのにね〜〜(^O^)(~o~)
> いつものアメリカンじゃないステーキ♪
そこなんですよ!!
どうしてあんなに細かく切ってしまうのでしょうかね??
ホントは大きく出してもらって、ナイフで切ってモグモグと食べたいのにね(-_-;)
あれは、余計なお節介というモンですよ!!
> もう一回プロポーズすれば良かったのに(~_~)
> できれば小さいブーケなんかもいいわね♪
あのね、私は天下に誇れる恐妻家なんですよ!!
この上プロポーズした日にゃ、カミさんはますますのぼせると思うよ(^^;)
でも、本音はねぇ、もういっぺん結婚し直して、亭主関白の座を取り戻したいのですよ!!
ホント、一日だけでもいいからね!!←切なる願いです!!
だったら、ブーケを3つくらいあげちゃうね!(^^)!。
でも、カミさんはブーケより「足を揉め!!」って言う可能性が高いよ〜(*_*)
いま当家のカミさんと相談していることは、太平洋フェリーが客扱いを再開したら
東北の旅をすることですよ〜〜。
「カミさんと行く『東北頑張ろう』の旅」であります!!(^_^)v(*^_^*)
それじゃ、また・・
ありがとうございました。
カメちゃん
- カメちゃんさん からの返信 2011/05/10 00:01:00
- RE: 目が…(笑)
- ぽちこさん またまた こんばんは!!
さっそく「陣屋」の方をご覧いただいてありがとうございました。
> 陣屋もじっくり見れて良かった!
いつも、ありがとうございます!!
陣屋をよく見ますと、私たちの子供時代の思い出と重なるところが多いのに気づきましたね。これはとっても大事なことだと思っています。
私たちはそういうことをいつの間にやら忘れて、今という時代を過去との関係を無視して見てしまっているような気がするんですね〜(^_^;) ついでに日本の先人たちの苦労と伝統も忘れてしまっているような気がしましたね。
私のような人間があの時代に生まれていたら、虫けらのようにしか生きられなかったんでは?と思ってしまいましたね。
しかし、多くの人々がそういう中で頑張ってきた!!そういう先人に報いねばと思いますね。
旅行記にも書きましたように、高山ももう一度行ってみたいです!!。
お話のようにたくさん食べて、見て、聞いて・・
そう、ぽちこさんも御一緒に行って、高山をしっかり味わってみたいですね(^O^)(~o~)。
それが、「正しい旅」だったりして・・(^o^)!(^^)!
そうそう、五平餅ですけど、奧三河にも美味しいものがありますよ〜〜。
お土産は生姜の漬け物だけでした(>_<)
もうちょっとカミさんにゴマを摺っておけばよかったかもね??
自分で財布を持てないから、「真空パック」も変えないんですよ〜〜(>_<)(*_*)
次回の高山の時には、ぽちこさんに買ってもらおっと!!(^-^)
ありがとうございました。
そいじゃ、また・・
カメちゃん
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