2011/02/22 - 2011/03/07
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井上@打浦橋@上海さん
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20年前の上海は、今から比べますと非常に小さかったのです。
地下鉄もないし、浦東へ行くには、打浦路のトンネルとフェリーしかなかったはずなんです。ですから、元々の上海人は、浦東なんて、あんなところは、浦東語を話す、浦東人が住む、上海とは違うところと言う、と思っていたはずなんです。現に、うちのカアちゃん(上海人)も、ホンの10年前までは、そう思っていたのです。今や、松江だって、青浦だって、浦東の遠くのほうまでも、地下鉄で簡単に行けてしまいます。
上海は広くなったものです。
さて、じゃあ、200年前の上海は・・・・・
そうなんです、勿論、もっと、もっと狭かったのです。当時の上海とは、城壁に囲まれた、上海県城という小さな地域と、その東側の黄浦江沿い地区だけだったそうです。それが、どこかと言いますと上海の中心部の南部、豫園とか文廟がある地域ですね。10年前まで、南市区という「区」があったんですが、正に、その「南市区」がそうだったということです。今は、その南市区は黄浦区に吸収合併しましたので、今で言えば、黄浦区の南部地域と言うことですね。
その黄浦区の南部は、今でもコテコテ上海の下町や町並みが残っているんです。しかし、年々、そういった街並みが減って行き、高層ビルや公園になって行ってるのです。そういった古いもの全て、上海は壊してしまうのか・・・いや、そうでもないような・・・残すべきものは、残そうとしてるように思えるんです。
ココでは、黄浦区南部の、残していこうとしてるもの2つと、消えてなくなってしまうであろう2つを紹介します。
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コレが黄浦区南部の地図です。
10年前ですと南市区と呼ばれていたところです。 -
さて、まずは凹凸大厦という変な名前のビルです。
それがどこにあるのか・・・
新天地からそんなに離れてないところにあるのです。
まだまだ周囲は平屋建て2階建ての民家がビッシリというところにあるのです。
コレは、この凹凸大厦がまだ使われていたころの画像です。
道路沿いの1階部分は、みな商店になっています。
コーナー部分の一番イイ場所は果物屋さんになっています。 -
凹凸大厦は順昌路と合肥路の北西角にありまして、私がよく利用します17路バスが、この順昌路を通りますので、何度も見かけていたんですが、いつの間にやら閉鎖されてしまったようです。角の果物屋は「平価水果」という看板だけ残してシャッターが閉まっています。
まあ、近いうちに、壊される運命にあるんでしょうね。
このビルいつ頃建てられたのか、思うに1980年代かなと・・・・・
コレが壊されるということは、順昌路沿いと合肥路沿いの民家商店も壊されるんでしょうね。
そして、一旦更地になり、その後は高級マンションが建てられるものと、私は見ています。
新天地に近い立地ですうので、相当な価格が設定されるでしょうね。
まあ、最低で、平米当り価格は7・8万元になるかと・・・・ -
次は商船会館です。
商船会館というくらいですから、黄浦江近くにあるのです。
黄浦江からは会館碼頭街という道を行って突き当たったところにあるのです。 -
これは2005年の時の会館碼頭街です。
道沿いには家がビッシリあったんですが・・・・ -
そして、これが2005年当時の商船会館です。
当時は、商船会館の周りは家々が迫っていて、どれが商船会館なのか、ハッキリと分からない状況だったんです。 -
コレが現在の状況です。
どうですか、商船会館だけ残して、周りはスッカリ更地になってしまいました。
今までは、商船会館は、家々に囲まれ、全体像が見えてこなかったんですが、こうなりますと、ああ、こういう感じたんだ、由緒ある建物なのかなと思えてきます。
北側の敷地には5・6年前には董家渡軽紡面料市場という大きな服飾市場があったんですが、今は更地になり、向こうには董家渡天主堂が見えます。 -
商船会館の正面入り口上部の字は削り取られていますね。
商船会館と書かれていたのかもしれません。
ここで商船会館とは・・・
下記の上海日本商工クラブの記事を引用させていただきます。
http://jcic.shanghai.or.jp/guest/111/25-26museum.pdf
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当時の商業都市としての発展を伺えるのは商船会館の存在だ。1715年に江蘇省の崇明・南通・上海の沙船運送業者たちが、互いの利益を守るために黄浦江岸の東馬家廠(現董家渡会館街)に"上海商船会館"を設立。これが上海に最初に誕生した会館だった。商船会館は、会館という名前ではあっても、実質は同業者ギルドで、商船会館は常に上海でも最大勢力の同業者団体として上海の市場を左右する立場にあった。しかし1870年代に登場した、速度が速くコストも安く、安全な汽船が、中国沿海と長江の運輸市場を席巻し、商船会館の活躍もだんだんと影を潜めた。
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イギリスが上海に進出して、現在の外灘あたりに船着場としての機能は移っていくとともに、この商船会館の役割は薄れて行き、そのうち忘れられた存在になってしまったということなんでしょう。そして、家々に囲まれ埋もれてしまった。
現在のこの様子を見ますと、上海にも文化財保存委員会のようなものがあって、そういうところの働きかけで、コレだけは残すべきだということになったんでしょうね。
このポツンと残った周りの更地には何が出来るのか・・・・
公園のようなものになるのかもしれません・・・昔の上海、イギリスが乗り込んでくる前の中国人の「上海」をイメージした何かしらのものを作り、周りに公園を配したものになるのかも・・・ -
次はコテコテ上海の下町にある凝和路という道です。
食料品屋が並ぶ道でして、軒先の道にまで売り場を広げてるところもあるという、10年前の上海でしたら、結構あちこち見受けられた街並みです。
今は、上海の中心部には少なくなりましたね、こういう街並みが・・・
まあ、この凝和路も3・4年後にはスッキリしてしまうものと見ています。
そして道も広げられ、道沿いにある家々もなくなってしまうのかもしれません。
凝和路付近には、由緒ある建物などもあるんですが、それらは残されるのかもしれません。
たとえば、書隠楼とか九間楼とか梓園とか火警鐘楼なのです。
書隠楼は上海市区の最も古い清朝の邸宅らしいです。清乾隆41年(1776年)に完成したもので、70以上の部屋があるらしいです。
ここは、普段は門が閉ざされ入ること出来ないんですが、8・9年前に行われた上海歴史散歩の時には、中を見学させていただきました。
九間楼は、上海の明代の著名な科学者・徐光啓の生家らしいです。
徐光啓は上海の渋谷といわれてる徐家匯の「徐」さんのことでして、彼は熱心なカソリック教徒でして、徐家匯にあるあの立派な教会も彼の関連のものです。
梓園は実業家の王震さんのお屋敷です。
彼は関東大震災の時に、日本の多額の寄付をしたらしいです。
火警鐘楼は火の見櫓です。1910年に完成したもので、1911年11月3日早朝、辛亥革命の武装蜂起の合図の鐘はココでが鳴らされたそうです。 -
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この旅行記へのコメント (2)
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- りっちゃんさん 2011/04/07 11:39:54
- いまのうちに、、、
- 打先生、
京都もやっとこさ春らしくなりました。
昨日今日は5月連休の気温だそうです。
2006年、たっちゃんが上海駐在になったころは
まだまだコテコテだらけでした。
暑いなか街歩きが面白かったけど、
今半年に一回くらいで上海にでかけるとびっくりします。
ちょっと残しておいてほしいな〜って思うのは
外国人のわがままだとは分かっているのですが。
薫家の渡しはまだありますか?
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2011/04/07 14:40:50
- RE: いまのうちに、、、
- りっちゃん、どうも。
上海は今日はぐずついた天気。
今にも雨が降りそうなんですが、降ってこない。
だから湿度の高いこと、高いこと・・・
上海のあの辺りの、コテコテは、まだまだいくらでも残っていますが、
少しずつなくなっていくでしょうね。
董家渡のフェリーは、私、利用したことないんですが、
今でもあるんだと思いますね。
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