サンホセ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
12月5日<br />バスを待っている時、おじさんに英語で話しかけられた。そのおじさんは後で仲良くなるんだけど、ものすごい気さくなグァテマラ人で、スペイン語での構内アナウンスや職員の話などを英語で全て俺に伝えてくれて本当に親切だった。バスに乗り込むは良いけど、スペイン語が飛び交い、英語の会話も全く聞こえない。気を使ってくれたのか、おじさんは何度も話しかけてきてくれた。バスが出発して何度か停車し、明け方6時過ぎに国境に到着した。しかし7時からオープンの為、1時間待つことになった。そしてイミグレが始まったが、出国手続き、荷物検査等、大分待たされて、以外に厳しいのかな〜と思った。そしてスタンプの代わりにシールが貼られた!!初めて見た、シールをはるなんて!!なんかちょっと新鮮でテンションが上がってしまった!!コスタリカの入国も大分またされ、荷物検査なども行われ、合計3時間もイミグレに滞在することになった。。。待っている間コーヒーを買っておじさん(グァテマラ人のグスタポさん)にあげたら、実はおじさんはコーヒーが嫌いらしい笑 無理に飲まずに捨てていいよって言ったら、「せっかく買ってくれたんだ、ありがたくいただくよ」と言ってくれて一生懸命飲んでくれた。グスタポもエナジードリンクを買ってくれたり、とても親切だった。さすがに16時間もバスで同行していれば、言葉は通じなくても仲良くなれるものです!!パナマ人のおばちゃん集団と仲良くなったり、おばあちゃんは俺の事を「ハポ」と呼び、事あることに肩をたたいてきたりしてフレンドリーでした。おばあちゃんの荷物を持ってあげたり、運んであげてたりしたら、お金を差し出してきましたが、さすがにもらえず、断りました。コスタリカに付き、グスタポと別れ、おばあちゃんとハグをして、写真をとったりしました。宿は予約していなかったが、どうになかなるべと、またも楽観的になり、タクシーに乗るために両替所に行きました。しかし日曜の為、両替所はやってません。そのためローカルの人に頼みこんで両替してもらいました。グァテマラの通過はコロンで桁が大きいです。100C(コロン)で20円、$10で5000Cくらいかな。俺は数字が弱いのでいつも各国の通貨は混乱します。ドルが通じるパナマはらくだったな。タクシー乗り場ではさっそく吹っかけてきた。けど、高いと断り、道路を走っている流しタクシーを拾い、日本人の萩原さんが営む経営宿、サバナ喜多側に向かった。タクシーのおっちゃんは親切で、宿に電話してくれたり、タクシーを使うときはメーターをあるものを使いなさいと教えてくれた。宿の萩原さんはとても気さくで優しい60歳くらいの方である。息子の様に可愛がってくれたり、買い物や銀行、周辺を案内してくれた。宿には大学生の日本人と同日到着した谷さんがいる。谷さんは北から降りてきて、俺が今から行く国などの情報を丁寧に教えてくれた。しかも洗濯とかもしてくれて優し兄貴って感じです。俺が次に行くニカラグアの情報も教えてくれて、そこで会った日本人が夜行バスで、バス強盗に襲われぼこぼこにされて、腕の骨をおり、金品を奪われたとか、エルサルバドルでは夜中に銃撃戦があったり、メキシコでは女性たちが拳銃を突きつけられお金を全てとられたりと、さまざまな人に会ってきたらしい。俺も今からそんな国に行くのだが、最低限の安全対策をし、なるべく危険を避けていこうと思った。改めて感じたけど、やっぱり中米は危険なんだな〜。萩原さんからもグァテマラの情報をおしえていただいたりした。やはりグァテマラでも危険な地域があったり、マフィアの抗争や誘拐があるらしい。あとグァテマラにある自然公園の情報なども教えてくれた。それで、明日、谷さんとマヌエル・アントニオ国立公園に行くことにした♪ジャングルのトレイルやビーチもある♪俺はカナダに住んでから自然の中で楽しむことが好きになった。だから山登りやトレッキングは何度も行った。同じ道でも行く日によって森の様子が違ったり、新たな発見があったりしてとても楽しいし、リラックスできる。カナダの自然が俺に教えてくれたことは、俺の中での何かを確実に変えてくれた。中南米の森ってどんな感じだろう♪熱帯雨林のジャングルだよ〜〜〜〜〜!!ナマケモノやイグアナにあえるかな???久々に大興奮の健太郎さんです!!ほな、またね♪<br />出費<br />イミグレ$1 ビール$2 コーラ*2 $2 コーヒー*2 $1 宿代$15 スーパーでの買い物$9<br /><br />コスタリカについて<br />コスタリカ共和国(コスタリカきょうわこく)、通称コスタリカは、中央アメリカ南部に位置する共和制国家である。北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋に、北はカリブ海に面している。首都はサン・ホセ。1948年に、憲法の規定によって軍隊を廃止した世界初の国である。また、チリやウルグアイと共にラテンアメリカで最も長い民主主義の伝統を持つ国であり、中央アメリカでは例外的に政治的に安定が続き、かつ経済状態も良好な国家である。<br />俺が今滞在しているサン・ホセ<br />サンホセは、かつては重要性のない小さな村であった。1824年に国家元首のJuan Mora Fern&amp;aacute;ndezがスペインの植民都市であったカルタゴからサンホセに政庁を移すことを決定した。それによって、町は急成長した。このため、18世紀半ばに都市の起源を持つサンホセは、他のラテンアメリカの首都と異なり、スペインの植民都市の雰囲気を全く持たない。<br />バスで <br />国内主要都市や近隣諸国とサンホセとを結ぶバスの便が多数ある。バス会社のターミナルは、市中心部のコカコーラ地区に集中している。 ティカ社のバスは、中央アメリカの国々やそれらの国々とメキシコとの間を移動する際の長距離バスとして、外国人旅行者や地元の旅行者に最も一般的に使われている。ティカ社のバスターミナルは従来あった場所から街の反対側の端、メルセデスタワーの近くに移動しているので間違わないように注意(詳細はツーリストインフォメーションなどで確認するとよい)。 ティカ社以外の長距離バスとしては、キング・クォリティ社がある。料金は目的地によってキング・クォリティ社の方がティカ社のバスより安かったり、あるいは高かったりするので、目的地に応じて使い分けるとよいだろう。その他、Transnica社も長距離国際バスを運行しているが、ウェブサイトを立ち上げていないので、同社の情報については電話(番号:(+506)2223-4123)で確認する必要がある。 また、当然のことながら、国内のほとんどの長距離ローカルバスがサンホセを起点及び終点としている。サンホセにはいくつかのバスターミナルがあるので、自分が乗るバスがどのバスターミナルに発着するかをあらかじめ調べておく必要がある。市内のバスの停留所は、通常数ブロックおきにあるが、大きな荷物を持っているときはタクシーを利用した方がよい。 <br /><br />歴史<br />先コロンブス期 <br />紀元前900年から紀元前300年頃の遺跡が確認されている。メソ・アメリカの一部であり、チブチャ系民族やナウアトル文化の交錯する地帯であった。13世紀までには神官を中心とする階級制社会が築かれていた。その後アステカ帝国に服属し、緩やかな支配を受ける形で中央アメリカと南アメリカの交易の仲介地点となった。また、カリブ人も定住していた。16世紀初め頃には約40万人の先住民が居住していたと推測されている。<br />スペイン植民地時代 <br />1502年9月18日、クリストバル・コロンがリモン湾付近に上陸し、ヨーロッパ人としてはじめてこの地に渡来した。1538年にパナマ市のアウディエンシアの管轄下に置かれ、1542年にヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だった、グアテマラ総監領の辺境の地として編入された。1564年に中央盆地にカルタゴが建設され、以降独立までコスタリカの政治と経済の中心となった。1570年、征服者フランシスコ・フェルナンデス・デ・コルドバにより、内陸部もスペインの支配下に入った。征服の過程での疫病などにより、先住民人口は17世紀初頭には約1万人になり、労働力や金銀等の鉱物資源が足りなかったためにスペイン人入植者の数は少なく、コスタリカはスペイン植民地の最辺境の地として孤立した。カカオ・プランテーションが築かれ、時折海賊の襲撃があったものの、植民地時代に大きな変化はないまま時を過ごすことになる。また、時期は定かではないが、中央アメリカで最も早く19世紀初頭までには確実にコーヒーが持ち込まれていた。<br />独立 <br />1842年にコスタリカ大統領になり、中米連邦再興のための遠征の準備をしていたところを同年暗殺された。1789年にフランス革命が起こり、ヨーロッパの政情が不安定になるとその影響はインディアス植民地にも及んだ。1808年にナポレオンのフランス軍が進駐、国王フェルナンド7世を退位させ、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王ホセ1世に即位すると、スペインでは反フランス暴動がやがてスペイン独立戦争へと発展し、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。その後、各地のクリオーリョ達がラテンアメリカ解放のために立ち上がり、メキシコでミゲル・イダルゴとホセ・モレーロスらによって、南米大陸でシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン=マルティンらによって解放戦争が続けられ、多くの共和国が独立を果たすと、中米でも1821年9月15日にグアテマラ総監領は中央アメリカ連合州として独立した。この国家は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国により、1822年に他の中米諸国と共に併合された。<br />しかし、1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴って、チアパス州を除く旧グアテマラ総監領の五州は再び中央アメリカ連邦として独立した。コスタリカ州代表だったフアン・モラ・フェルナンデスは連邦への積極的な加盟を勧めたが、この過程の中でそれまでコスタリカの中心だったカルタゴが内戦の末にサン・ホセ軍に破れ、以降コスタリカの中心はサン・ホセとなった。連邦においてはエル・サルバドル出身のホセ・アルセが中米連邦初代大統領となるが、自由主義者のフランシスコ・モラサンをはじめとするエル・サルバドル派と、保守主義者のラファエル・カレーラをはじめとするグアテマラ派の内戦の末に、1838年に諸州が独立を宣言して中米連邦は崩壊し、この地もコスタリカ共和国として独立を果たした。その後1842年にホンジュラス出身の元中米連邦大統領、フランシスコ・モラサンが大統領となり、中米連邦再興のためにニカラグア侵攻を企てたが、同年モラサンは暗殺された。<br />国民戦争とバナナブーム <br />1856年、隣国ニカラグアで アメリカ合衆国南部人の傭兵(ようへい)隊長、ウィリアム・ウォーカーが大統領となった。中米四国はウォーカー排除を決意し、このウォーカーの率いるニカラグア軍との国民戦争において、コスタリカ軍は反ウォーカーだったイギリス、アメリカ合衆国のヴァンダービルト財閥などの支援を得て中米連合軍の中で主要な役割を果たした。同年4月にはリバスの戦いでウォーカー軍を打ち破り、この戦争で壮絶な戦死を遂げたムラートの鼓兵、フアン・サンタマリーアは現在も国民的英雄となっている。国民戦争後、1870年に自由主義者のトマス・グアルディア将軍がクーデターで政権を握った。グアルディアの主導により、一院制議会と強い大統領権が認められた1871年憲法が制定された。以降1948年までのコスタリカは基本的にこの路線に沿って発展することになり、ラテンアメリカ全体でも特異なコスタリカの民主的な社会が成立する素地となった。1882年にグアルディアが死去してからは、自由主義派の流れを継いでベルナルド・ソトの支配が続いたが、1889年にソトがカトリック教会と結んだ保守派のホセ・ロドリゲスに選挙とデモによって破れ、自由主義政権が終焉(しゅうえん)した。1870年代から始まった自由主義の時代に、それまでと同様に主産業だったコーヒー・プランテーションが拡大され、コーヒーを基盤に経済が発展し、1890年には輸出の80%がコーヒーとなっていた。ただし、コスタリカの土地所有形態は植民地時代からの中小独立自営農民による中規模土地所有が主体であったため、他の中米諸国やブラジルのような大プランテーションは発達しなかった。また、コスタリカは中米で最も早くコーヒー栽培が開始されたため、コスタリカを通してグアテマラ、エルサルバドルにコーヒーの生産技術が伝播することとなった。この時期にブエノスアイレスやカラカスをはじめとする他のラテンアメリカの多くの国の首都がそうなったように、エリートによって首都サン・ホセはパリ風に改造され、カリブ・ヴィクトリア朝を真似た邸宅が建ち並んだ。また、内陸部からのコーヒー輸送のためにアメリカ人のマイナー・キースによって鉄道が建設され、積出し港としてカリブ海側のリモンが発展した。鉄道建設の負債を補うために1871年にパナマ地峡からバナナが導入され、キースはその後、熱帯雨林を切り開いた跡地でのバナナのプランテーション栽培に力を入れた。バナナはそれまでの主産業だったコーヒーを抜いて1905年頃には輸出の60%を占めるに至り、1899年にキースにより設立されたユナイテッド・フルーツは中央アメリカの事実上の支配者となった。20世紀に入ってもコスタリカはバナナとコーヒーのモノカルチャー経済の下で発展が続いたが、第一次世界大戦による輸出収入減により、1916年に所得税が導入されると、1917年にフェデリコ・ティノコ・グラナードス将軍がクーデターを起こすが、合衆国の圧力により1919年に独裁制は崩壊した。1921年には合衆国の支持の下、隣国パナマとコト戦争を起こし、パナマから領土を併合した。1929年の世界恐慌はコスタリカのモノカルチャー経済に大打撃を与え、コーヒー価格の低落のために社会が不安定化した。1936年の大統領選挙では国民共和党(PRN)からファシズムに傾倒したレオン・コルテスが大統領になった。しかし、1940年に行われた大統領選挙では社会民主主義のカルデロン・グアルディア政権が誕生し、グアルディア政権は内政では労働法の制定(1940年)や、社会保障の制度化、コスタリカ国立大学の創設など労働者や中間層よりの政策を進める一方で、外交では1941年の真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発すると、合衆国に先駆けて枢軸国に宣戦布告し、敵性国民となったドイツ系地主の資産が接収された。1944年の大統領選挙ではテオドロ・ピカード・ムチャイスキが大統領に就任した。1948年の大統領選挙は与党のカルデロンと野党のオティリオ・ウラテの一騎打ちとなり、開票の結果ウラテの勝利が確定したが、与党はこの選挙結果を無効とした。こうした中で、グアテマラ大統領フアン・ホセ・アレバロの支援を受けた野党のホセ・フィゲーレス・フェレールによる反乱への準備が進んでいった。<br />1948年内戦と軍隊の廃止以降 <br />1948年の大統領選挙の結果が不正であることが明らかになると、野党のホセ・フィゲーレス・フェレールが反乱を起こし、コスタリカ内戦が勃発し、6週間の内戦の後にフィゲーレスは政府軍を破って勝利した。ニカラグアに亡命した旧政府軍は、アナスタシオ・ソモサ・ガルシアに支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきたが、これは打倒された。翌年、1949年憲法が施行されると、親米を基調とし、政治を混乱させる装置にしかならない軍隊は廃止され(第12条 常設的機関としての軍隊は禁止する。)、それまで軍隊の担っていた役割は警察に移管された。また、女性や黒人の政治参加も認められた。この軍隊廃止により、コスタリカは以降他のラテンアメリカ諸国で繰り広げられたような軍事クーデターは起こらなくなった。1953年の大統領選挙では、国民解放党(PLN)のフィゲーレスが勝利し、フィゲーレス政権は「兵士の数だけ教師を」合言葉に、軍事予算を教育予算に回し教育国家に転換した。1955年1月、元コスタリカ大統領だったテオドロ・ピカード・ムチャイスキの息子、ピカード2世が再びソモサに支援された傭兵軍(その中には軍服を脱いだニカラグア国家警備隊の隊員もいた)と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきた。陸空およそ1,000人程のピカド2世軍はいくつかの都市を攻略したものの、コスタリカ武装警察の反撃と、OASの仲介により同年2月に停戦し、侵攻軍は武装解除した。このようにして国難を乗り越えると、1949年憲法による政治の安定が国家の成長を助け、コスタリカ経済はこの時期に伝統的なバナナ、コーヒーの輸出に加えて、外資による工業化をも達成することになった。1960年に中米共同市場が発足すると、コスタリカは中米四国に遅れて1962年にこれに加盟した。1965年4月にドミニカ共和国で内戦が起き、リンドン・ジョンソン大統領が反共を掲げてアメリカ海兵隊を主体とした軍をドミニカに派遣すると、コスタリカもブラジル軍を主体としたドミニカ占領軍に警備隊を派遣した。国家としては反共でありながらも、このような事情からソモサ王朝を嫌っていたコスタリカ人は、1978年にサンディニスタ民族解放戦線が全面蜂起するとこれを全面的に支援し、ニカラグア革命を支えた。その後サンディニスタ内での路線対立によりFSLNの司令官だったエデン・パストラが亡命すると、パストラを司令官にしてコントラの一派民主革命同盟(ARDE)が組織され、コスタリカはアメリカ合衆国による対ニカラグア作戦の基地となり、中立原則も一時揺らいだ。しかし、1986年にモンヘ大統領を破り就任したアリアス大統領は、アメリカの対ニカラグア強硬政策に追随することを良しとせず、アリアス大統領によって国内のARDEの基地は撤去され、さらに中米紛争そのものの解決のためにも尽力した。この中米和平実現のために努力に対して、アリアスには1987年ノーベル平和賞が与えられた。1990年の大統領選挙によって、中道右派のキリスト教社会連合党(PUSC)からラファエル・アンヘル・カルデロン・フルニエルが大統領に就任した。1994年の大統領選挙によって、中道左派の野党国民解放党(PLN)から、ホセ・フィゲーレス・フェレールの息子ホセ・マリア・フィゲーレスが大統領に就任した。1998年2月の大統領選挙によって、PUSCのミゲル・アンヘル・ロドリゲスが大統領に就任したが、ロドリゲスはメキシコの実業家カルロス・ハンク・ゴンサレスからの不正献金を受け取っていたことが1999年にスキャンダルとなった。2001年の9.11テロ後は、アメリカのアフガニスタン攻撃を支持した。2002年の大統領選挙によって、PUSCからアペル・パチェーコが大統領に就任した。同大統領は、アフガニスタン攻撃に続いて2003年3月のイラク戦争開始に当たって米ブッシュ政権を支持する声明に署名した。これは常備軍を廃止した同国の平和憲法の精神や国際法に違反していると、当時コスタリカ大学の学生が最高裁憲法法廷に提訴した。翌2004年12月に最高裁が大統領の声明を無効とし、米ホワイトハウスのホームページからコスタリカ名を削除するように命じた。同大統領は判決に服し実行したので、コスタリカの米国支持はなかったことになった。2005年2月、大統領を違憲で訴えた学生が来日し公演を行った。また、同年カルデロンとロドリゲスの二人の元大統領が汚職によって逮捕された。2006年からは再任した(連続再任ではない)アリアス大統領が大統領を務める。2010年2月7日、大統領選挙が行われ、国民解放党(PLN)のラウラ・チンチージャ前副大統領が大差で当選した。初の女性大統領となった。2位は市民行動党(PAC)のソリス候補、3位は自由主義運動(ML)のゲバラ候補と続いている。現在は親米外交、人権擁護、民主主義を原則とした国として小国ながら存在感を見せている。<br />

きちゃったぜCOSTA RICA

4いいね!

2010/12/05 - 2010/12/05

72位(同エリア114件中)

0

21

kawabekentarou

kawabekentarouさん

12月5日
バスを待っている時、おじさんに英語で話しかけられた。そのおじさんは後で仲良くなるんだけど、ものすごい気さくなグァテマラ人で、スペイン語での構内アナウンスや職員の話などを英語で全て俺に伝えてくれて本当に親切だった。バスに乗り込むは良いけど、スペイン語が飛び交い、英語の会話も全く聞こえない。気を使ってくれたのか、おじさんは何度も話しかけてきてくれた。バスが出発して何度か停車し、明け方6時過ぎに国境に到着した。しかし7時からオープンの為、1時間待つことになった。そしてイミグレが始まったが、出国手続き、荷物検査等、大分待たされて、以外に厳しいのかな〜と思った。そしてスタンプの代わりにシールが貼られた!!初めて見た、シールをはるなんて!!なんかちょっと新鮮でテンションが上がってしまった!!コスタリカの入国も大分またされ、荷物検査なども行われ、合計3時間もイミグレに滞在することになった。。。待っている間コーヒーを買っておじさん(グァテマラ人のグスタポさん)にあげたら、実はおじさんはコーヒーが嫌いらしい笑 無理に飲まずに捨てていいよって言ったら、「せっかく買ってくれたんだ、ありがたくいただくよ」と言ってくれて一生懸命飲んでくれた。グスタポもエナジードリンクを買ってくれたり、とても親切だった。さすがに16時間もバスで同行していれば、言葉は通じなくても仲良くなれるものです!!パナマ人のおばちゃん集団と仲良くなったり、おばあちゃんは俺の事を「ハポ」と呼び、事あることに肩をたたいてきたりしてフレンドリーでした。おばあちゃんの荷物を持ってあげたり、運んであげてたりしたら、お金を差し出してきましたが、さすがにもらえず、断りました。コスタリカに付き、グスタポと別れ、おばあちゃんとハグをして、写真をとったりしました。宿は予約していなかったが、どうになかなるべと、またも楽観的になり、タクシーに乗るために両替所に行きました。しかし日曜の為、両替所はやってません。そのためローカルの人に頼みこんで両替してもらいました。グァテマラの通過はコロンで桁が大きいです。100C(コロン)で20円、$10で5000Cくらいかな。俺は数字が弱いのでいつも各国の通貨は混乱します。ドルが通じるパナマはらくだったな。タクシー乗り場ではさっそく吹っかけてきた。けど、高いと断り、道路を走っている流しタクシーを拾い、日本人の萩原さんが営む経営宿、サバナ喜多側に向かった。タクシーのおっちゃんは親切で、宿に電話してくれたり、タクシーを使うときはメーターをあるものを使いなさいと教えてくれた。宿の萩原さんはとても気さくで優しい60歳くらいの方である。息子の様に可愛がってくれたり、買い物や銀行、周辺を案内してくれた。宿には大学生の日本人と同日到着した谷さんがいる。谷さんは北から降りてきて、俺が今から行く国などの情報を丁寧に教えてくれた。しかも洗濯とかもしてくれて優し兄貴って感じです。俺が次に行くニカラグアの情報も教えてくれて、そこで会った日本人が夜行バスで、バス強盗に襲われぼこぼこにされて、腕の骨をおり、金品を奪われたとか、エルサルバドルでは夜中に銃撃戦があったり、メキシコでは女性たちが拳銃を突きつけられお金を全てとられたりと、さまざまな人に会ってきたらしい。俺も今からそんな国に行くのだが、最低限の安全対策をし、なるべく危険を避けていこうと思った。改めて感じたけど、やっぱり中米は危険なんだな〜。萩原さんからもグァテマラの情報をおしえていただいたりした。やはりグァテマラでも危険な地域があったり、マフィアの抗争や誘拐があるらしい。あとグァテマラにある自然公園の情報なども教えてくれた。それで、明日、谷さんとマヌエル・アントニオ国立公園に行くことにした♪ジャングルのトレイルやビーチもある♪俺はカナダに住んでから自然の中で楽しむことが好きになった。だから山登りやトレッキングは何度も行った。同じ道でも行く日によって森の様子が違ったり、新たな発見があったりしてとても楽しいし、リラックスできる。カナダの自然が俺に教えてくれたことは、俺の中での何かを確実に変えてくれた。中南米の森ってどんな感じだろう♪熱帯雨林のジャングルだよ〜〜〜〜〜!!ナマケモノやイグアナにあえるかな???久々に大興奮の健太郎さんです!!ほな、またね♪
出費
イミグレ$1 ビール$2 コーラ*2 $2 コーヒー*2 $1 宿代$15 スーパーでの買い物$9

コスタリカについて
コスタリカ共和国(コスタリカきょうわこく)、通称コスタリカは、中央アメリカ南部に位置する共和制国家である。北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋に、北はカリブ海に面している。首都はサン・ホセ。1948年に、憲法の規定によって軍隊を廃止した世界初の国である。また、チリやウルグアイと共にラテンアメリカで最も長い民主主義の伝統を持つ国であり、中央アメリカでは例外的に政治的に安定が続き、かつ経済状態も良好な国家である。
俺が今滞在しているサン・ホセ
サンホセは、かつては重要性のない小さな村であった。1824年に国家元首のJuan Mora Fern&aacute;ndezがスペインの植民都市であったカルタゴからサンホセに政庁を移すことを決定した。それによって、町は急成長した。このため、18世紀半ばに都市の起源を持つサンホセは、他のラテンアメリカの首都と異なり、スペインの植民都市の雰囲気を全く持たない。
バスで
国内主要都市や近隣諸国とサンホセとを結ぶバスの便が多数ある。バス会社のターミナルは、市中心部のコカコーラ地区に集中している。 ティカ社のバスは、中央アメリカの国々やそれらの国々とメキシコとの間を移動する際の長距離バスとして、外国人旅行者や地元の旅行者に最も一般的に使われている。ティカ社のバスターミナルは従来あった場所から街の反対側の端、メルセデスタワーの近くに移動しているので間違わないように注意(詳細はツーリストインフォメーションなどで確認するとよい)。 ティカ社以外の長距離バスとしては、キング・クォリティ社がある。料金は目的地によってキング・クォリティ社の方がティカ社のバスより安かったり、あるいは高かったりするので、目的地に応じて使い分けるとよいだろう。その他、Transnica社も長距離国際バスを運行しているが、ウェブサイトを立ち上げていないので、同社の情報については電話(番号:(+506)2223-4123)で確認する必要がある。 また、当然のことながら、国内のほとんどの長距離ローカルバスがサンホセを起点及び終点としている。サンホセにはいくつかのバスターミナルがあるので、自分が乗るバスがどのバスターミナルに発着するかをあらかじめ調べておく必要がある。市内のバスの停留所は、通常数ブロックおきにあるが、大きな荷物を持っているときはタクシーを利用した方がよい。

歴史
先コロンブス期
紀元前900年から紀元前300年頃の遺跡が確認されている。メソ・アメリカの一部であり、チブチャ系民族やナウアトル文化の交錯する地帯であった。13世紀までには神官を中心とする階級制社会が築かれていた。その後アステカ帝国に服属し、緩やかな支配を受ける形で中央アメリカと南アメリカの交易の仲介地点となった。また、カリブ人も定住していた。16世紀初め頃には約40万人の先住民が居住していたと推測されている。
スペイン植民地時代
1502年9月18日、クリストバル・コロンがリモン湾付近に上陸し、ヨーロッパ人としてはじめてこの地に渡来した。1538年にパナマ市のアウディエンシアの管轄下に置かれ、1542年にヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だった、グアテマラ総監領の辺境の地として編入された。1564年に中央盆地にカルタゴが建設され、以降独立までコスタリカの政治と経済の中心となった。1570年、征服者フランシスコ・フェルナンデス・デ・コルドバにより、内陸部もスペインの支配下に入った。征服の過程での疫病などにより、先住民人口は17世紀初頭には約1万人になり、労働力や金銀等の鉱物資源が足りなかったためにスペイン人入植者の数は少なく、コスタリカはスペイン植民地の最辺境の地として孤立した。カカオ・プランテーションが築かれ、時折海賊の襲撃があったものの、植民地時代に大きな変化はないまま時を過ごすことになる。また、時期は定かではないが、中央アメリカで最も早く19世紀初頭までには確実にコーヒーが持ち込まれていた。
独立
1842年にコスタリカ大統領になり、中米連邦再興のための遠征の準備をしていたところを同年暗殺された。1789年にフランス革命が起こり、ヨーロッパの政情が不安定になるとその影響はインディアス植民地にも及んだ。1808年にナポレオンのフランス軍が進駐、国王フェルナンド7世を退位させ、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王ホセ1世に即位すると、スペインでは反フランス暴動がやがてスペイン独立戦争へと発展し、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。その後、各地のクリオーリョ達がラテンアメリカ解放のために立ち上がり、メキシコでミゲル・イダルゴとホセ・モレーロスらによって、南米大陸でシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン=マルティンらによって解放戦争が続けられ、多くの共和国が独立を果たすと、中米でも1821年9月15日にグアテマラ総監領は中央アメリカ連合州として独立した。この国家は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国により、1822年に他の中米諸国と共に併合された。
しかし、1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴って、チアパス州を除く旧グアテマラ総監領の五州は再び中央アメリカ連邦として独立した。コスタリカ州代表だったフアン・モラ・フェルナンデスは連邦への積極的な加盟を勧めたが、この過程の中でそれまでコスタリカの中心だったカルタゴが内戦の末にサン・ホセ軍に破れ、以降コスタリカの中心はサン・ホセとなった。連邦においてはエル・サルバドル出身のホセ・アルセが中米連邦初代大統領となるが、自由主義者のフランシスコ・モラサンをはじめとするエル・サルバドル派と、保守主義者のラファエル・カレーラをはじめとするグアテマラ派の内戦の末に、1838年に諸州が独立を宣言して中米連邦は崩壊し、この地もコスタリカ共和国として独立を果たした。その後1842年にホンジュラス出身の元中米連邦大統領、フランシスコ・モラサンが大統領となり、中米連邦再興のためにニカラグア侵攻を企てたが、同年モラサンは暗殺された。
国民戦争とバナナブーム
1856年、隣国ニカラグアで アメリカ合衆国南部人の傭兵(ようへい)隊長、ウィリアム・ウォーカーが大統領となった。中米四国はウォーカー排除を決意し、このウォーカーの率いるニカラグア軍との国民戦争において、コスタリカ軍は反ウォーカーだったイギリス、アメリカ合衆国のヴァンダービルト財閥などの支援を得て中米連合軍の中で主要な役割を果たした。同年4月にはリバスの戦いでウォーカー軍を打ち破り、この戦争で壮絶な戦死を遂げたムラートの鼓兵、フアン・サンタマリーアは現在も国民的英雄となっている。国民戦争後、1870年に自由主義者のトマス・グアルディア将軍がクーデターで政権を握った。グアルディアの主導により、一院制議会と強い大統領権が認められた1871年憲法が制定された。以降1948年までのコスタリカは基本的にこの路線に沿って発展することになり、ラテンアメリカ全体でも特異なコスタリカの民主的な社会が成立する素地となった。1882年にグアルディアが死去してからは、自由主義派の流れを継いでベルナルド・ソトの支配が続いたが、1889年にソトがカトリック教会と結んだ保守派のホセ・ロドリゲスに選挙とデモによって破れ、自由主義政権が終焉(しゅうえん)した。1870年代から始まった自由主義の時代に、それまでと同様に主産業だったコーヒー・プランテーションが拡大され、コーヒーを基盤に経済が発展し、1890年には輸出の80%がコーヒーとなっていた。ただし、コスタリカの土地所有形態は植民地時代からの中小独立自営農民による中規模土地所有が主体であったため、他の中米諸国やブラジルのような大プランテーションは発達しなかった。また、コスタリカは中米で最も早くコーヒー栽培が開始されたため、コスタリカを通してグアテマラ、エルサルバドルにコーヒーの生産技術が伝播することとなった。この時期にブエノスアイレスやカラカスをはじめとする他のラテンアメリカの多くの国の首都がそうなったように、エリートによって首都サン・ホセはパリ風に改造され、カリブ・ヴィクトリア朝を真似た邸宅が建ち並んだ。また、内陸部からのコーヒー輸送のためにアメリカ人のマイナー・キースによって鉄道が建設され、積出し港としてカリブ海側のリモンが発展した。鉄道建設の負債を補うために1871年にパナマ地峡からバナナが導入され、キースはその後、熱帯雨林を切り開いた跡地でのバナナのプランテーション栽培に力を入れた。バナナはそれまでの主産業だったコーヒーを抜いて1905年頃には輸出の60%を占めるに至り、1899年にキースにより設立されたユナイテッド・フルーツは中央アメリカの事実上の支配者となった。20世紀に入ってもコスタリカはバナナとコーヒーのモノカルチャー経済の下で発展が続いたが、第一次世界大戦による輸出収入減により、1916年に所得税が導入されると、1917年にフェデリコ・ティノコ・グラナードス将軍がクーデターを起こすが、合衆国の圧力により1919年に独裁制は崩壊した。1921年には合衆国の支持の下、隣国パナマとコト戦争を起こし、パナマから領土を併合した。1929年の世界恐慌はコスタリカのモノカルチャー経済に大打撃を与え、コーヒー価格の低落のために社会が不安定化した。1936年の大統領選挙では国民共和党(PRN)からファシズムに傾倒したレオン・コルテスが大統領になった。しかし、1940年に行われた大統領選挙では社会民主主義のカルデロン・グアルディア政権が誕生し、グアルディア政権は内政では労働法の制定(1940年)や、社会保障の制度化、コスタリカ国立大学の創設など労働者や中間層よりの政策を進める一方で、外交では1941年の真珠湾攻撃により、太平洋戦争が勃発すると、合衆国に先駆けて枢軸国に宣戦布告し、敵性国民となったドイツ系地主の資産が接収された。1944年の大統領選挙ではテオドロ・ピカード・ムチャイスキが大統領に就任した。1948年の大統領選挙は与党のカルデロンと野党のオティリオ・ウラテの一騎打ちとなり、開票の結果ウラテの勝利が確定したが、与党はこの選挙結果を無効とした。こうした中で、グアテマラ大統領フアン・ホセ・アレバロの支援を受けた野党のホセ・フィゲーレス・フェレールによる反乱への準備が進んでいった。
1948年内戦と軍隊の廃止以降
1948年の大統領選挙の結果が不正であることが明らかになると、野党のホセ・フィゲーレス・フェレールが反乱を起こし、コスタリカ内戦が勃発し、6週間の内戦の後にフィゲーレスは政府軍を破って勝利した。ニカラグアに亡命した旧政府軍は、アナスタシオ・ソモサ・ガルシアに支援された傭兵軍と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきたが、これは打倒された。翌年、1949年憲法が施行されると、親米を基調とし、政治を混乱させる装置にしかならない軍隊は廃止され(第12条 常設的機関としての軍隊は禁止する。)、それまで軍隊の担っていた役割は警察に移管された。また、女性や黒人の政治参加も認められた。この軍隊廃止により、コスタリカは以降他のラテンアメリカ諸国で繰り広げられたような軍事クーデターは起こらなくなった。1953年の大統領選挙では、国民解放党(PLN)のフィゲーレスが勝利し、フィゲーレス政権は「兵士の数だけ教師を」合言葉に、軍事予算を教育予算に回し教育国家に転換した。1955年1月、元コスタリカ大統領だったテオドロ・ピカード・ムチャイスキの息子、ピカード2世が再びソモサに支援された傭兵軍(その中には軍服を脱いだニカラグア国家警備隊の隊員もいた)と共にニカラグアからコスタリカに侵攻してきた。陸空およそ1,000人程のピカド2世軍はいくつかの都市を攻略したものの、コスタリカ武装警察の反撃と、OASの仲介により同年2月に停戦し、侵攻軍は武装解除した。このようにして国難を乗り越えると、1949年憲法による政治の安定が国家の成長を助け、コスタリカ経済はこの時期に伝統的なバナナ、コーヒーの輸出に加えて、外資による工業化をも達成することになった。1960年に中米共同市場が発足すると、コスタリカは中米四国に遅れて1962年にこれに加盟した。1965年4月にドミニカ共和国で内戦が起き、リンドン・ジョンソン大統領が反共を掲げてアメリカ海兵隊を主体とした軍をドミニカに派遣すると、コスタリカもブラジル軍を主体としたドミニカ占領軍に警備隊を派遣した。国家としては反共でありながらも、このような事情からソモサ王朝を嫌っていたコスタリカ人は、1978年にサンディニスタ民族解放戦線が全面蜂起するとこれを全面的に支援し、ニカラグア革命を支えた。その後サンディニスタ内での路線対立によりFSLNの司令官だったエデン・パストラが亡命すると、パストラを司令官にしてコントラの一派民主革命同盟(ARDE)が組織され、コスタリカはアメリカ合衆国による対ニカラグア作戦の基地となり、中立原則も一時揺らいだ。しかし、1986年にモンヘ大統領を破り就任したアリアス大統領は、アメリカの対ニカラグア強硬政策に追随することを良しとせず、アリアス大統領によって国内のARDEの基地は撤去され、さらに中米紛争そのものの解決のためにも尽力した。この中米和平実現のために努力に対して、アリアスには1987年ノーベル平和賞が与えられた。1990年の大統領選挙によって、中道右派のキリスト教社会連合党(PUSC)からラファエル・アンヘル・カルデロン・フルニエルが大統領に就任した。1994年の大統領選挙によって、中道左派の野党国民解放党(PLN)から、ホセ・フィゲーレス・フェレールの息子ホセ・マリア・フィゲーレスが大統領に就任した。1998年2月の大統領選挙によって、PUSCのミゲル・アンヘル・ロドリゲスが大統領に就任したが、ロドリゲスはメキシコの実業家カルロス・ハンク・ゴンサレスからの不正献金を受け取っていたことが1999年にスキャンダルとなった。2001年の9.11テロ後は、アメリカのアフガニスタン攻撃を支持した。2002年の大統領選挙によって、PUSCからアペル・パチェーコが大統領に就任した。同大統領は、アフガニスタン攻撃に続いて2003年3月のイラク戦争開始に当たって米ブッシュ政権を支持する声明に署名した。これは常備軍を廃止した同国の平和憲法の精神や国際法に違反していると、当時コスタリカ大学の学生が最高裁憲法法廷に提訴した。翌2004年12月に最高裁が大統領の声明を無効とし、米ホワイトハウスのホームページからコスタリカ名を削除するように命じた。同大統領は判決に服し実行したので、コスタリカの米国支持はなかったことになった。2005年2月、大統領を違憲で訴えた学生が来日し公演を行った。また、同年カルデロンとロドリゲスの二人の元大統領が汚職によって逮捕された。2006年からは再任した(連続再任ではない)アリアス大統領が大統領を務める。2010年2月7日、大統領選挙が行われ、国民解放党(PLN)のラウラ・チンチージャ前副大統領が大差で当選した。初の女性大統領となった。2位は市民行動党(PAC)のソリス候補、3位は自由主義運動(ML)のゲバラ候補と続いている。現在は親米外交、人権擁護、民主主義を原則とした国として小国ながら存在感を見せている。

  • ティカバスを利用してコスタリカのサンホセへ向かいます<br />ここは24時間空いているので安全です

    ティカバスを利用してコスタリカのサンホセへ向かいます
    ここは24時間空いているので安全です

  • バスカウンター

    バスカウンター

  • チケット

    チケット

  • そういえば12がつや

    そういえば12がつや

  • イミグレ、一人ひとり荷物チェックがあります

    イミグレ、一人ひとり荷物チェックがあります

  • パナマとコスタリカの国境

    パナマとコスタリカの国境

  • シールのスタンプ!!

    シールのスタンプ!!

  • ティカバス

    ティカバス

  • グスタポおじさん<br />めっちゃええ人やで

    グスタポおじさん
    めっちゃええ人やで

  • 光が反射して眩しかったです。。。<br />クリリンめ〜〜

    光が反射して眩しかったです。。。
    クリリンめ〜〜

  • はぽ〜〜〜〜

    はぽ〜〜〜〜

この旅行記のタグ

関連タグ

4いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

コスタリカで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
コスタリカ最安 728円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

コスタリカの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP