2010/10/26 - 2010/10/26
3546位(同エリア7767件中)
tajiさん
沖縄は『美ら海』だけではありません。
“ちゅらうみ”が美しいのは65年前に本土決戦の礎となり、
その後アメリカに占領され返還後も基地が多数存在し、大きな犠牲の元にあることを忘れてはなりません。
10月27日(水)
10:00
ホテルチェックアウト
移動 (→那覇市)
11:00 ★ 旧海軍司令部壕
沖縄県豊見城市字豊見城236 番地
http://kaigungou.ocvb.or.jp/index.html
ここはいつ来ても涙が出る。
太田司令官の電文
『・・・沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』が本当に心に響く。
太田司令官の電文に対して、NHKの特集番組を見た当時の小渕首相が
『サミットがその返礼だな、、』と沖縄サミット開催を決定しました。
沖縄を訪れる観光客の方には是非訪問していただきたい場所です。
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旧海軍司令部壕&資料館の入り口
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入り口を入ると左側にすぐ、資料館がある
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白旗を掲げ、投降する日本兵
よくぞ、投降してくれました。
投降するのにも、ものすごい勇気が必要だったと思います。 -
アメリカ兵から水をもらう少女
生きていて本当に良かったね。 -
沖縄戦での犠牲の数字
日本兵・沖縄県民だけでなく、アメリカにも
多くの犠牲者が出たことがわかります。 -
アメリカの戦艦から打ちまくられる砲弾
『鉄の雨』と言われた。
ものすごく恐ろしい。 -
読谷に上陸するアメリカ軍
これから沖縄の悲劇が始まった。 -
無数の銃痕が残る日本兵の死体
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これらのツルハシなど、人力で地下壕を掘った。
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資料館はこのようなブースになっています。
行かれることがあれば、じっくり見てください。 -
地下壕のチケットとパンフレット
昭和19年(1944年)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われて います。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、昭和45年(1970年)3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元されました。 -
チケット売り場から下へ地下壕を入っていく
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壕入口階段
105段、30mほどの階段を降りると、通路が縦横に張りめぐらされた壕内へと続きます。 -
下へ降りると、ひんやりした空気の中
壕内は、薄暗い通路が無数に張り巡らされ、迷路のようになっている。 -
信号室
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電灯がついているが、当時はもっと薄暗かっただろう。
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作戦室
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当時の作戦室での会議風景を描いた絵
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幕僚室
司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとが当時のままくっきりと残っています。
説明文が無かったので確かではないが、壁の緑色は自決されたときの血が
カビて長い間に変色したのではないでしょうか、、? -
手榴弾で自決された時の破片の跡
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ツルハシで掘った跡がくっきりと壁に残っている
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当時の壕内を掘る様子を描いた絵
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4000人もこの壕内にいたので皆が部屋を与えられていた訳ではない。
多くの兵士が通路にこのように寝ていた。 -
太田司令官が送った電文の現代語訳
昭和20年6月6日 20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。(この電文は原文を現代文に直したものです。)
何度読んでも涙が出る。 -
薄暗い通路
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下士官兵員室
玉砕の近い6月ごろ、この部屋は立錐の余地もない程兵士たちが入り、立ったままで睡眠や休息を取ったといわれています。 -
この様な感じで、、。
たった十畳ぐらいのスペースしかない場所に
何十人も入っていた。 -
医療室
この部屋を中心に多くの負傷兵がいたということから、医療室となっています。
医療室といっても、ほとんど医療施設も無く
只、横たわっていただけだろう。 -
壕内から外に向かって出て行く兵士の絵。
ほとんどの人が戻って来れなかったらしい。 -
司令官室
司令官室の壁面には
『大君の御はたのもとに死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり』
という大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されています。 -
『大君の御はたのもとに死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり』
太田司令官以下、部下の方達がこの部屋で自決された。
この壁の緑も飛び散った血痕が変色した物? -
指令室内にはお地蔵様が建っている
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指令室内での会議の様子
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壕内の地図。
よく掘った、、。 -
壕を出ると、沖縄特有のお墓
『亀甲墓』と呼ばれる独特の形。
壕を出て左に歩くとある。 -
記念慰霊塔
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慰霊塔の下にある錨
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この旅行記へのコメント (2)
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- クラウザーさん 2010/11/15 09:39:23
- 考えさせられます・・
- tajiさん
お邪魔します。
いつもお気楽で行っていた沖縄の
悲惨な過去に考えさせられる物がありました・・
言葉もありません・・
またまた勉強になりました。
失礼いたしました。
クラウザー
- tajiさん からの返信 2010/11/16 07:57:32
- RE: 考えさせられます・・
- クラウザーさん
こんにちは。
返信遅れて申し訳ありません。
首里城、本殿が改装工事中で残念んでしたがやっぱり沖縄を代表する
史跡ですよね。2000円札の守礼門も久しぶりに思い出しました。
今回載せなかったのですが、大正末期から昭和初期の首里城の写真も後で追加します。
今と違って“みすぼらしい”ですが、味がある写真でした。
現在、沖縄にまた来ています。
忙しすぎて、先週行っていたタイの旅行記も載せる暇がありませんが
また、ご訪問ください。
taji
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