草津(滋賀)旅行記(ブログ) 一覧に戻る
ここは、中山道と東海道が合流(又は、分かれる)点の追分を有し、京都三条大橋もすぐ近くとなった草津宿を巡ります。草津市を抜ければ、琵琶湖疎水にかかる瀬田の唐橋をわたり大津宿へと向かいます。<br /><br />草津宿 第六十八宿 日本橋より514.3?(東海道五十二番目の宿)<br />今も昔も「うばが餅」が名物。<br />当時は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒余を構え、多くの旅人でにぎわっていた。<br /><br />【草津歴史街道・東海道】<br /> 東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。<br /> その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。<br /> 草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(草津川)を渡り、11町53間半(約1.3Km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。<br /> 草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。<br /> また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。<br />                       草津市教育委員会

中山道No47 中山道と東海道の合流点、滋賀県の草津宿です

2いいね!

2010/11/11 - 2010/11/11

227位(同エリア263件中)

0

44

ムッシュ

ムッシュさん

ここは、中山道と東海道が合流(又は、分かれる)点の追分を有し、京都三条大橋もすぐ近くとなった草津宿を巡ります。草津市を抜ければ、琵琶湖疎水にかかる瀬田の唐橋をわたり大津宿へと向かいます。

草津宿 第六十八宿 日本橋より514.3?(東海道五十二番目の宿)
今も昔も「うばが餅」が名物。
当時は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒余を構え、多くの旅人でにぎわっていた。

【草津歴史街道・東海道】
 東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。
 その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。
 草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(草津川)を渡り、11町53間半(約1.3Km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。
 草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。
 また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。
                       草津市教育委員会

PR

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」の画像を使用<br />浮世絵:草津宿 歌川広重作<br />

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」の画像を使用
    浮世絵:草津宿 歌川広重作

  • この商店街は、旧中山道なのです。

    この商店街は、旧中山道なのです。

  • 東海道/中山道追分道標<br />「右 東海道いせみち、左 中山道美のじ」文化13年(1816年)、全国の問屋、飛脚の人々の寄進により建立された。高さ4mの常夜灯の石造道標。<br /><br />【道標】 市指定文化財(昭和48年10月15日指定)<br />道標 「右東海道いせみち」、「左中仙道美のじ」 一基<br /> ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。<br />          草津市教育委員会 昭和五十一年贈草津ライオンズクラブ

    東海道/中山道追分道標
    「右 東海道いせみち、左 中山道美のじ」文化13年(1816年)、全国の問屋、飛脚の人々の寄進により建立された。高さ4mの常夜灯の石造道標。

    【道標】 市指定文化財(昭和48年10月15日指定)
    道標 「右東海道いせみち」、「左中仙道美のじ」 一基
     ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。
              草津市教育委員会 昭和五十一年贈草津ライオンズクラブ

  • この角地の右手は、江戸につながる東海道。左手は、これも江戸に通じる中山道。そして手前が、京の三条へつながる三叉路です。<br /><br />歴史的なポイントからの画です。

    この角地の右手は、江戸につながる東海道。左手は、これも江戸に通じる中山道。そして手前が、京の三条へつながる三叉路です。

    歴史的なポイントからの画です。

  • 【草津宿本陣】<br />寛永12年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設、明治3年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間続いた。<br />史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726m2にのぼる敷地内には、かつての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されている。<br />この本陣遺構は、享保3年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた弘化3年~文久3年頃(1846~1863)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。敷地内には、正面、向かって左手に表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。また、これらの主要建築物の背後には別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されています。(説明板による)

    【草津宿本陣】
    寛永12年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設、明治3年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間続いた。
    史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726m2にのぼる敷地内には、かつての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されている。
    この本陣遺構は、享保3年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた弘化3年~文久3年頃(1846~1863)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。敷地内には、正面、向かって左手に表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。また、これらの主要建築物の背後には別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されています。(説明板による)

  • 草津宿本陣<br /><br />田中七左衛門本陣(国の史跡に指定されている)。<br />総坪数1305坪、建坪468坪、部屋数30室余、268畳を有し桟瓦葺き平屋妻入りの建物からなる。<br />東海道では唯一、昔のままの遺構を伝える本陣建造物で一般公開されてる。<br /><br />元禄年間から明治まで180年間の大福帳が残されてル。浅野内匠頭と吉良上野介が九日おいて泊った記録や、歴史資料がのこされてる。

    草津宿本陣

    田中七左衛門本陣(国の史跡に指定されている)。
    総坪数1305坪、建坪468坪、部屋数30室余、268畳を有し桟瓦葺き平屋妻入りの建物からなる。
    東海道では唯一、昔のままの遺構を伝える本陣建造物で一般公開されてる。

    元禄年間から明治まで180年間の大福帳が残されてル。浅野内匠頭と吉良上野介が九日おいて泊った記録や、歴史資料がのこされてる。

  • 表門から入って白砂を歩けば、この正面になる式台を持つ玄関。本陣の主人がここで客を迎える。<br /><br />【草津宿本陣】<br /> 草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。<br /> 史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726㎡にのぼる敷地内には、かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。<br /> この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、弘化三年~文久三年頃(1846年~1863年)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。<br />  敷地内には、正面、向かって左手に、表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。<br />  また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されています。

    表門から入って白砂を歩けば、この正面になる式台を持つ玄関。本陣の主人がここで客を迎える。

    【草津宿本陣】
     草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。
     史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726㎡にのぼる敷地内には、かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。
     この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、弘化三年~文久三年頃(1846年~1863年)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。
      敷地内には、正面、向かって左手に、表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。
      また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されています。

  • 【宿札の掲場(復元)】<br /> 大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。<br /><br /> ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。

    【宿札の掲場(復元)】
     大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。

     ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。

  • 【上段の間】  主役の左斜め後ろより撮影。<br />広さ8畳の上段の間は本陣建物の中で最も格式の高い部屋で、大名など主客の休泊に用いられた。部屋の中央に2畳の置畳を設置し、奥には正面に向かってたから違い棚、床の間、付書院が設けられています。(説明板より)

    【上段の間】  主役の左斜め後ろより撮影。
    広さ8畳の上段の間は本陣建物の中で最も格式の高い部屋で、大名など主客の休泊に用いられた。部屋の中央に2畳の置畳を設置し、奥には正面に向かってたから違い棚、床の間、付書院が設けられています。(説明板より)

  • 上段の間から見える庭園。<br /><br />手前の水はトイレ用。

    上段の間から見える庭園。

    手前の水はトイレ用。

  • 建物の中央につくられた畳廊下。長さ8間。<br /><br />この廊下の両側に従者、最も奥に主客の休泊する部屋や主客専用の湯殿、雪隠を配してる。

    建物の中央につくられた畳廊下。長さ8間。

    この廊下の両側に従者、最も奥に主客の休泊する部屋や主客専用の湯殿、雪隠を配してる。

  • 江戸城を作ったといわれる太田道灌の一族が営む【造り酒屋。酒の銘柄も”道灌”】<br /><br />太田家は向問屋を開き、隠し目付を拝命し草津政所と呼ばれ宿の重鎮でした。

    江戸城を作ったといわれる太田道灌の一族が営む【造り酒屋。酒の銘柄も”道灌”】

    太田家は向問屋を開き、隠し目付を拝命し草津政所と呼ばれ宿の重鎮でした。

  • 【立木神社】<br />武甕槌命(たけみかづちのみこと)御本殿 三間社流造間口三間・奥行三間48代。<br />神護景雲元年(767年)、御祭神が常陸国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ(古来始めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着された。そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。「この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。(立木神社HP)<br /><br />「立木神社 由緒』碑。<br />祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)<br />創立と由来  <br />称徳天皇神護景雲元年(七六七年)六月二十一日命、常陸国鹿島を立ち給い(旅立つことを鹿島立ちというはこの縁による)この地に着き給う。 よって里人新殿を創建して命を斎祀し奉ったのが、当神社の起源であると伝えられる。 この時命、手に持つ柿の杖を社殿近くの地にさし給い「この木が生えつくならば、吾永く大和国三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」と宣り給いしが、不思議にも生えつき枝葉繁茂す。 人々その御神徳を畏み、この木を崇め社名を立木神社と称し奉る。<br />崇敬と神徳  光仁天皇宝亀八年(七七七年)大旱魃にて琵琶湖の水涸渇す。<br />ために天皇中臣諸魚を以て勅使とし、当社に遣わし雨乞いの祈願をせしめられしところ、忽にして霊験ありて大雨沛然と降り万物蘇生す。 天皇殊の外嘉し給い殿の造営を命ぜられ、立木大明神の勅額を下し給う。 桓武天皇延暦五年(七八六年)正一位の神階を授け給う。征夷大将軍坂上田村麿(田村神社祭神)東北鎮圧するにあたり当社へ大般若経一部を寄進して道中安全を祈る。 室町時代には将軍足利義尚は武運長久を立願して四脚門を奉建し、江戸時代には膳所城主尊崇あつく、代々社領を寄進し、また社殿の造営にも力を尽せり。<br />かくの如く当社は古来より朝野の尊敬厚く、又五穀豊穣、家内安全、安産、商売繁昌、交通安全、厄除開運、火災鎮護並びに勧学の大神として神徳高く広く庶民の信仰を蒐め来る。」

    【立木神社】
    武甕槌命(たけみかづちのみこと)御本殿 三間社流造間口三間・奥行三間48代。
    神護景雲元年(767年)、御祭神が常陸国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ(古来始めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着された。そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。「この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。(立木神社HP)

    「立木神社 由緒』碑。
    祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
    創立と由来  
    称徳天皇神護景雲元年(七六七年)六月二十一日命、常陸国鹿島を立ち給い(旅立つことを鹿島立ちというはこの縁による)この地に着き給う。 よって里人新殿を創建して命を斎祀し奉ったのが、当神社の起源であると伝えられる。 この時命、手に持つ柿の杖を社殿近くの地にさし給い「この木が生えつくならば、吾永く大和国三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」と宣り給いしが、不思議にも生えつき枝葉繁茂す。 人々その御神徳を畏み、この木を崇め社名を立木神社と称し奉る。
    崇敬と神徳  光仁天皇宝亀八年(七七七年)大旱魃にて琵琶湖の水涸渇す。
    ために天皇中臣諸魚を以て勅使とし、当社に遣わし雨乞いの祈願をせしめられしところ、忽にして霊験ありて大雨沛然と降り万物蘇生す。 天皇殊の外嘉し給い殿の造営を命ぜられ、立木大明神の勅額を下し給う。 桓武天皇延暦五年(七八六年)正一位の神階を授け給う。征夷大将軍坂上田村麿(田村神社祭神)東北鎮圧するにあたり当社へ大般若経一部を寄進して道中安全を祈る。 室町時代には将軍足利義尚は武運長久を立願して四脚門を奉建し、江戸時代には膳所城主尊崇あつく、代々社領を寄進し、また社殿の造営にも力を尽せり。
    かくの如く当社は古来より朝野の尊敬厚く、又五穀豊穣、家内安全、安産、商売繁昌、交通安全、厄除開運、火災鎮護並びに勧学の大神として神徳高く広く庶民の信仰を蒐め来る。」

  • 【矢倉立場の矢橋の道標】<br />ここより矢橋街道にて琵琶湖矢橋湊より舟で大津宿に行くことができた。<br />道標には「右やばせ道 これより廿五 大津へ舟わたし」(寛政10(1798年建立))と刻まれてル。<br />東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。  矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。この地にそのうばがもちがあり歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに旅人が立ち寄って、うばが餅を賞味する光景が描かれている。また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る 「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が今も軒先に建っている。旅人は俗謡に「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、 旅人の多くはここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て 矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。そしてこの地と矢橋の渡し、瀬田橋はよく使われる俚言(世間でよく使われる言葉)で 「急がば回れ」の語源になった所でもある。(武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)と詠まれ、近道であっても湖上が荒れて舟が出なかったり、 風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより 回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、 成果を急ぐなら遠回りでも 着実な方法を取るほうが良いことを指南したものである。(案内板)<br /><br /><br />矢橋から船に乗り対岸に達すると東海道の近道になることから、古くから琵琶湖岸の港町として栄えた。伯母川三角洲と狼川三角洲の間で、南湖(琵琶湖南部)で最も湾入した地域に位置し、港町として栄えた。近世には東海道から矢倉で分岐する矢橋道の終着点であった。現草津市内には志那・山田・矢橋の三港があったが、矢橋は特に中世に台頭。(Wikipedia)<br /><br /><br /><br /><br /><br /> <br /><br /><br />

    【矢倉立場の矢橋の道標】
    ここより矢橋街道にて琵琶湖矢橋湊より舟で大津宿に行くことができた。
    道標には「右やばせ道 これより廿五 大津へ舟わたし」(寛政10(1798年建立))と刻まれてル。
    東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。 矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。この地にそのうばがもちがあり歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに旅人が立ち寄って、うばが餅を賞味する光景が描かれている。また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る 「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が今も軒先に建っている。旅人は俗謡に「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、 旅人の多くはここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て 矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。そしてこの地と矢橋の渡し、瀬田橋はよく使われる俚言(世間でよく使われる言葉)で 「急がば回れ」の語源になった所でもある。(武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)と詠まれ、近道であっても湖上が荒れて舟が出なかったり、 風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより 回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、 成果を急ぐなら遠回りでも 着実な方法を取るほうが良いことを指南したものである。(案内板)


    矢橋から船に乗り対岸に達すると東海道の近道になることから、古くから琵琶湖岸の港町として栄えた。伯母川三角洲と狼川三角洲の間で、南湖(琵琶湖南部)で最も湾入した地域に位置し、港町として栄えた。近世には東海道から矢倉で分岐する矢橋道の終着点であった。現草津市内には志那・山田・矢橋の三港があったが、矢橋は特に中世に台頭。(Wikipedia)








  • 東海道五拾三次 草津。<br />草津名物「うばがもち」の茶店。かつて佐々木氏が滅ぼされたとき、遺児を託された乳母が、養育のため餅を作って街道を行き交う人々に売ったといい、この餅の名称。

    東海道五拾三次 草津。
    草津名物「うばがもち」の茶店。かつて佐々木氏が滅ぼされたとき、遺児を託された乳母が、養育のため餅を作って街道を行き交う人々に売ったといい、この餅の名称。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」の画像を使用<br />【.草津・名物立場】<br />「矢倉立場<br />東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿南に続く矢倉村。 立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。 この地に、そのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る「矢橋の渡し」の<br />渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。 浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。 旅人は、俗謡に「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、 旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。 そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で「急がば回れ」の語源になったところでもある。武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、 遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したのである。 <br />

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」の画像を使用
    【.草津・名物立場】
    「矢倉立場
    東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿南に続く矢倉村。 立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。 この地に、そのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る「矢橋の渡し」の
    渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。 浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。 旅人は、俗謡に「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、 旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。 そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で「急がば回れ」の語源になったところでもある。武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、 遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したのである。

  • 【野路一里塚】<br /> 野路一里塚は、この石碑より北西に約三十米の所と道路(旧東海道)を挟んだ北東約二十米の所の二ヶ所あった。明治十四年頃に官地が私有地に払い下げられ、消滅するにいたった。<br />  ここに野路一里塚の旧地を証するため、この石碑を建立する。

    【野路一里塚】
     野路一里塚は、この石碑より北西に約三十米の所と道路(旧東海道)を挟んだ北東約二十米の所の二ヶ所あった。明治十四年頃に官地が私有地に払い下げられ、消滅するにいたった。
      ここに野路一里塚の旧地を証するため、この石碑を建立する。

  • 【野路の玉川(JR南草津付近)】<br />宿駅として賑わい、全国にある六玉川のひとつに数えられた。<br /><br />和歌の歌枕。全国にある六玉川のひとつ。萩がよく詠まれた。<br />平安時代後期の歌人源の俊頼は「明日も来む野路の玉川萩をこえて色なる波に月やどりけり(千載集)」を詠んだ。<br />なが<br /><br />かつては、伏流水として流れてきた水が、ここに湧き出しており、一面に咲く萩とあいまって名勝、名水の地であった。<br /><br />野路は平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として栄えた所であり、この野路に玉のような綺麗な湧水が有ったことから 「玉川」 と呼ばれ、「日本六玉川」 の1つに数えられていた。<br />ここには復元された湧水があり、往時の姿を偲ばせているのであった。<br />正面には『玉川』碑があった。<br />源俊頼の歌碑で『あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり』と。しかし、現在は泉は枯れポンプに依る循環式になっている

    【野路の玉川(JR南草津付近)】
    宿駅として賑わい、全国にある六玉川のひとつに数えられた。

    和歌の歌枕。全国にある六玉川のひとつ。萩がよく詠まれた。
    平安時代後期の歌人源の俊頼は「明日も来む野路の玉川萩をこえて色なる波に月やどりけり(千載集)」を詠んだ。
    なが

    かつては、伏流水として流れてきた水が、ここに湧き出しており、一面に咲く萩とあいまって名勝、名水の地であった。

    野路は平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として栄えた所であり、この野路に玉のような綺麗な湧水が有ったことから 「玉川」 と呼ばれ、「日本六玉川」 の1つに数えられていた。
    ここには復元された湧水があり、往時の姿を偲ばせているのであった。
    正面には『玉川』碑があった。
    源俊頼の歌碑で『あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり』と。しかし、現在は泉は枯れポンプに依る循環式になっている

  • 【野路萩の玉川】<br />「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。<br />  ここ玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作<br />  「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり」<br />は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記(阿仏尼作)には<br />  「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」<br />と咏んだ。<br /> 十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、あたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。その後野路宿が草津宿に移り次第に玉川も亦さびれる運命となった。<br />  近年は泉も涸れ形も小さくなり、風情は一変した。かつては天下の名勝萩の玉川もわずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次第である。<br />           昭和五十一年十一月二十八日 草津市野路町

    【野路萩の玉川】
    「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。
      ここ玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作
      「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり」
    は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記(阿仏尼作)には
      「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」
    と咏んだ。
     十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、あたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。その後野路宿が草津宿に移り次第に玉川も亦さびれる運命となった。
      近年は泉も涸れ形も小さくなり、風情は一変した。かつては天下の名勝萩の玉川もわずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次第である。
               昭和五十一年十一月二十八日 草津市野路町

  • 「古き宿駅 野路駅の名残り<br />野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。<br />さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりは、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。<br />『千載和歌集』の源俊頼の歌に<br />  あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり<br />と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、『近江名所図会』や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。<br />付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺など多くの歴史遺跡が所在する。」

    「古き宿駅 野路駅の名残り
    野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。
    さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりは、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
    『千載和歌集』の源俊頼の歌に
      あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり
    と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、『近江名所図会』や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。
    付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺など多くの歴史遺跡が所在する。」

  • このあたりで草津市→大津市へ。

    このあたりで草津市→大津市へ。

  • 【一里山の一里塚跡の碑】<br />塚が大正時代まで残り、一里山の町名が生まれた。<br />現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。<br /><br />一里塚は徳川家康が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。『月輪一里塚趾』は江戸日本橋から数えて120里目の一里塚である。<br />  ここにあった一里塚は、東海道大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。<br />現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。<br />                   昭和六十一年三月 大津市教育委員会

    【一里山の一里塚跡の碑】
    塚が大正時代まで残り、一里山の町名が生まれた。
    現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。

    一里塚は徳川家康が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。『月輪一里塚趾』は江戸日本橋から数えて120里目の一里塚である。
      ここにあった一里塚は、東海道大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。
    現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。
                       昭和六十一年三月 大津市教育委員会

  • 「史跡 近江国庁跡<br />国庁は、律令という中国の法律制度にならって、天皇を中心とする統一国家を作ろうとした頃に、全国68ヶ国にそれぞれ設置された役所で、近江国庁は、奈良時代前半(今から約1300年前)に置かれ、平安時代後半(約800年前)まで存続したようです。ここでは、都から派遣された国司(現在の知事のような役職)を中心として、徴税、裁判、<br />軍事など今でいう県庁、警察署、裁判所、税務署として近江国の統治と都との連絡にあたっていました。<br />国庁は、前殿、後殿と東西の脇殿を中心に、門や築地からなり、東西二町(約216m)南北三町(約324m)の区画をいいます。また、その外側には、九町(約972m)四方の広がりを持つ規格化された街路が広がっています。これを国府といい、役所の所在する市街地にあたるものである。<br />近江国庁は、日本で初めて古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です。

    「史跡 近江国庁跡
    国庁は、律令という中国の法律制度にならって、天皇を中心とする統一国家を作ろうとした頃に、全国68ヶ国にそれぞれ設置された役所で、近江国庁は、奈良時代前半(今から約1300年前)に置かれ、平安時代後半(約800年前)まで存続したようです。ここでは、都から派遣された国司(現在の知事のような役職)を中心として、徴税、裁判、
    軍事など今でいう県庁、警察署、裁判所、税務署として近江国の統治と都との連絡にあたっていました。
    国庁は、前殿、後殿と東西の脇殿を中心に、門や築地からなり、東西二町(約216m)南北三町(約324m)の区画をいいます。また、その外側には、九町(約972m)四方の広がりを持つ規格化された街路が広がっています。これを国府といい、役所の所在する市街地にあたるものである。
    近江国庁は、日本で初めて古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です。

  • 【建部大社】<br />古来、建部大社、建部大明神などと称え延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。<br />御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御された。父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定めその功名を伝えられました(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。<br />景行天皇の46年、神勅により御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)(父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、とくに源頼朝が平家に捕われ14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永暦元年(1160年)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されています。<br />遂に頼朝は源氏再興の宿願成って、建久元年(1190)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされたのです。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以です。(建部大社HP)<br /><br />建部大社は、景行天皇46年(316)に御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が<br />神崎郡建部の郷に日本武尊の神霊を祀ったのが始まりと云われ、その後、天武天皇白鳳4年に近江国の中心であった瀬田の地へ遷祀されたという。<br />本殿には日本武尊を祀り、境内には菊花石・菊紋壺・本殿を囲む左右に八つの摂社などがある。

    【建部大社】
    古来、建部大社、建部大明神などと称え延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。
    御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御された。父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定めその功名を伝えられました(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。
    景行天皇の46年、神勅により御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)(父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、とくに源頼朝が平家に捕われ14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永暦元年(1160年)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されています。
    遂に頼朝は源氏再興の宿願成って、建久元年(1190)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされたのです。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以です。(建部大社HP)

    建部大社は、景行天皇46年(316)に御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が
    神崎郡建部の郷に日本武尊の神霊を祀ったのが始まりと云われ、その後、天武天皇白鳳4年に近江国の中心であった瀬田の地へ遷祀されたという。
    本殿には日本武尊を祀り、境内には菊花石・菊紋壺・本殿を囲む左右に八つの摂社などがある。

  • 瀬田の唐橋東詰め<br />大橋の入口左側に、『常夜燈』、山崎茶酔『歌碑』、『祠』、『雲住寺寺標・道標・地蔵堂』『勢田橋龍宮秀郷社』の案内板などがあった。

    瀬田の唐橋東詰め
    大橋の入口左側に、『常夜燈』、山崎茶酔『歌碑』、『祠』、『雲住寺寺標・道標・地蔵堂』『勢田橋龍宮秀郷社』の案内板などがあった。

  • 瀬田唐橋。唐橋は、京の宇治橋、山崎橋とともに天下三名橋といわれ、近江八景「瀬田の夕照」とともに知られてル。<br /><br />壬申の乱以来、合戦の舞台となり、唐橋を制する者は合戦を制すといわれた。<br /><br />『瀬田の唐橋』は、近江八景 「瀬田の夕照」 (せたのせきしょう) で有名であり、<br />別名 「瀬田橋」や 「長橋」 とも呼ばれ 「唐橋を制するものは天下を制する」 と言われ、古来より京都の喉元を握る交通・軍事の要衝として重視されたのだ。<br />『瀬田の唐橋』は中島によって橋が二分されている。東側大橋は九十七間、西側小橋は二十七間。京の宇治橋、山崎橋とともに日本三古橋と呼ばれている。琵琶湖から唯一流れ出ている瀬田川に架かる橋で、右に湖水、左に石山を望む。

    瀬田唐橋。唐橋は、京の宇治橋、山崎橋とともに天下三名橋といわれ、近江八景「瀬田の夕照」とともに知られてル。

    壬申の乱以来、合戦の舞台となり、唐橋を制する者は合戦を制すといわれた。

    『瀬田の唐橋』は、近江八景 「瀬田の夕照」 (せたのせきしょう) で有名であり、
    別名 「瀬田橋」や 「長橋」 とも呼ばれ 「唐橋を制するものは天下を制する」 と言われ、古来より京都の喉元を握る交通・軍事の要衝として重視されたのだ。
    『瀬田の唐橋』は中島によって橋が二分されている。東側大橋は九十七間、西側小橋は二十七間。京の宇治橋、山崎橋とともに日本三古橋と呼ばれている。琵琶湖から唯一流れ出ている瀬田川に架かる橋で、右に湖水、左に石山を望む。

  • 【瀬田の唐橋(昼景、借用)】<br />宇治橋(宇治川)、山崎橋(淀川)とならんで日本三大大橋の一つとされてきた。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るもしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。<br />瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地。<br />古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。本格的には近江大津京遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。<br />(歴史)<br />壬申の乱(671年・大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった)、<br />治承・寿永の乱(源平合戦 1183年に源義仲対平家、1184年に源義経対義仲の合戦)、<br />承久の乱(1221年 後鳥羽上皇の京軍と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍軍が瀬田川を挟んで交戦)、<br />建武の戦い(1336年足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦)、本能寺の変~天王山の戦い(唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行瀬田城主の山岡景隆で90日で完成させたという。明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった)。<br />江戸時代は膳所藩(本多家)が管、東海道がここを通った。木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことである。(全長260m)<br />(Wikipedia)

    【瀬田の唐橋(昼景、借用)】
    宇治橋(宇治川)、山崎橋(淀川)とならんで日本三大大橋の一つとされてきた。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るもしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。
    瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地。
    古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。本格的には近江大津京遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。
    (歴史)
    壬申の乱(671年・大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった)、
    治承・寿永の乱(源平合戦 1183年に源義仲対平家、1184年に源義経対義仲の合戦)、
    承久の乱(1221年 後鳥羽上皇の京軍と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍軍が瀬田川を挟んで交戦)、
    建武の戦い(1336年足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦)、本能寺の変~天王山の戦い(唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行瀬田城主の山岡景隆で90日で完成させたという。明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった)。
    江戸時代は膳所藩(本多家)が管、東海道がここを通った。木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことである。(全長260m)
    (Wikipedia)

  • 唐橋を渡り次の信号を右へ横断。石山商店街方向へ。

    唐橋を渡り次の信号を右へ横断。石山商店街方向へ。

  • 石山駅

    石山駅

  • 現代の”琵琶湖大橋”

    現代の”琵琶湖大橋”

  • 大津プリンスホテル<br />本日こちらに宿泊。明日は、ここから山科に向け歩きます。<br /><br />次へ 大津宿へ<br />「中山道 No48.石山寺にお参りして、大津宿を。今回は大津を抜けて山科駅まで。」<br /><br />前に戻る<br />https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10520410/<br />

    大津プリンスホテル
    本日こちらに宿泊。明日は、ここから山科に向け歩きます。

    次へ 大津宿へ
    「中山道 No48.石山寺にお参りして、大津宿を。今回は大津を抜けて山科駅まで。」

    前に戻る
    https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10520410/

この旅行記のタグ

2いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP