2010/07/18 - 2010/07/18
239位(同エリア546件中)
風遊さん
龍馬脱藩の道・高知梼原ツーリング!478k②(梼原散策)
僅か一日の滞在でこれほど有名になった梼原。小さな村・梼原のあちこちに龍馬の足跡が残っていました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- バイク
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まず最初は「ゆすはら座」
高知県唯一の木造芝居小屋で、町の保護有形文化財に指定されています。昭和23年に建てられ、平成7年に修復・移転しました。大正ロマン漂う和洋折衷の建物で、桟敷席や花道も設けられています。
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掛橋和泉邸
天保6年3月高岡郡梼原村に那須常吉の二男として生まれています。母は歌。幼名は那須順次。
那須家の二男に生まれた和泉は、その後同じ梼原村の神職・掛橋因幡の養子となっています。和泉は同志が脱藩する際には家財を費やして援助をしていました。そんな和泉は国学を学び、勤皇心が厚かったようです。そして武術を同じく梼原村で道場を開いていた那須俊平に学んでいます。安政6年12月、和泉の屋敷の隣に梼原村大庄屋であった吉村虎太郎が着任して来た事から和泉は虎太郎と交流を持つようになります。
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玄関には面白い飾りが!(しめ飾り?)
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六志士の一人・掛橋和泉
天保六年(1835)三月、梼原村那須常吉、妻歌の二男として生まれ、同村神職掛橋因幡の養子として入った。すぐ隣の庄屋吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を固めた。文久二年(1862)同志が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に類の及ぶことを恐れ六月二日自決した。 二十八歳
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吉村虎太郎について
天保八年(1837)四月十八日、芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として生まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政六年(1859)梼原村番人大庄屋として赴任した。武市瑞山らと勤王党を結成、文久二年(1862)脱藩して京に上った。一時捕らえられて牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上り、翌三年(1863)二月上京し、中山忠光卿を擁し天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし八・一八の政変で孤立無援となり、鷲家谷(奈良県)にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅、虎太郎も九月二十七日壮烈な戦死を遂げた。 二十七歳
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那須俊平について
文化四年(1807)一月二日、坂本代吾(重隆)の子として梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、那須道場を開き指導した。特に槍術に長じ、「土佐一槍の達人」と称された。
元治元年(1864)六月六日、玉川壮吉と脱藩、忠勇隊に入った同年七月、禁門の変に参加し、。奮戦の末同月十九日、鷹司邸後門で戦死した。 五十八歳
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那須信吾について
文政十二年(1829)十一月十一日、佐川村浜田宅左衛門光章、妻悦の二男として生まれる。梼原村郷土那須俊平の養子となりその娘為代と結婚した。文久二年(1862)三月二十六日、坂本龍馬、沢村惣之丞を韮ヶ峠まで案内し、四月八日には土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で別枝徳道より脱藩し京都に潜伏した。
翌三年(1863)、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕軍に阻まれ壊滅、鷲家口(奈良県)で九月二十四日戦死した。 三十五歳
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掛橋和泉邸の前を龍馬脱藩の道が通っています。
ほんの少しですが脱藩の道を歩いてみます。 -
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茶堂
梼原町の集落のあちこちには「茶堂」と呼ばれる小さなカヤぶきの小屋が残されています。正面と左右の両面には戸も壁もなく吹き抜けになっており、内部がすべて見える開放的な空間になっています。そのルーツは藩政時代にさかのぼり、開祖・津野氏の霊を慰さめるために、領内の各所に建立されたもので、堂内には石像、木像が祀られ、身近な信仰の場としての役割を果たしていました。後には、この地を訪れる旅人を茶菓でもてなすようになり、信仰の場から交流の場へとその役割は移っていきました -
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茶堂辺りからの梼原の街並み
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右が先ほどの掛橋和泉邸、左の白い建物は町役場。
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旧梼原町役場
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最近出来たのでしょうか、町並みも皆新しいメーインストリート。
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町並みの一番奥に三島神社にわたる屋根付き橋
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三島神社
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再び街中に戻って来ました。
面白い建物が建設中です。
道の駅だそうです。 -
維新の門
ここ梼原の地は土佐の山奥ながら、幕末の志士を輩出した町である -
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那須信吾(1829〜1864)
梼原村郷士那須俊平の養子となりその娘為代と結婚。文久二年四月土佐藩佐幕派の吉田東洋を斬り、その足で脱藩し京都に潜伏した。翌三年、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵するも幕軍に阻まれ壊滅。奈良県鷲家口 -
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吉村虎太郎(1837〜1863)
梼原村地下浪人中平佐平、妻登根の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同士と気脈を通じ勤王の志を篤くする。文久三年脱藩。長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦。激闘の末重傷を負い自決した。 芳生野村庄屋吉村太平、妻雪の長男として生まれる。間崎滄浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政六年梼原村番人大庄屋として赴任した。武市瑞山らと勤王党を結成。文久二年脱藩して京に上る。一時捕らえられ牢舎に呻吟する身となったが、出所後再び京に上り、翌三年天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし8.18の政変で孤立無援となり、奈良県鷲家谷にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅、虎太郎も壮烈な戦死を遂す。 -
澤村惣之丞(1848〜1868) (写真左)
高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久二年春、坂本龍馬とともに脱藩。勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって坂本龍馬の片腕となって活躍した。慶応四年一月幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退散した。その奉行所を占拠して市中の治安維持に当たっているとき、薩摩藩士を誤殺。「この大事の時に薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない -
中央が龍馬像
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那須俊平(1807〜1864)
梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。特に槍術に長じ「土佐一の槍の達人」と称された。文久二年四月、養子の信吾は藩佐幕派の吉田東洋を斬って脱藩した。俊平も元治元年脱藩。長州の忠勇隊に入った同年、五十八歳の身で禁門の変に参加し、奮戦の末戦死した。 -
右は我らが龍馬。
左が澤村惣之丞. -
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道の駅 ゆすはら
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バイク乗りには大変嬉しい「ライダースイン」
今日はここで一泊する予定でしたが、行程が予定より早く進んだので日帰りにする事にしました。 -
「ライダースイン・雲の上」
http://wwwa.pikara.ne.jp/nori1tys -
部屋はこんな感じ!
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雲の上温泉
彼方此方に龍馬の足跡の残る「梼原」を堪能した後はやっぱり温泉です。ここ梼原は四国カルスト台地に位置し、雲の上の地とも言われているぼど高い所にあります。そんな訳で、「雲の上」と名付けられた所が幾つもあります。 -
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ナント!龍馬が風呂に!
後日分かった事ですが、龍馬役のこの方、ゆす原では大変有名な方で、テレビにチョコチョコ出ています。 -
温泉の横に、長〜い廊下が続きます。
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ナント!プールでした。
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これから屋根付き橋で有名な愛媛県の河辺村に向かいます。
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