村上・岩船旅行記(ブログ) 一覧に戻る
芭蕉は1689年に奥の細道の旅に出た。6月25日に酒田を立ち、大山、温海、中村と泊まって、28日(新暦8月中旬)に雨中に葡萄峠をこえ、譜代大名・榊原氏の村上藩15万石の城下町、村上に着いた。当時の村上藩城代家老、榊原帯刀は曾良が仕えた榊原良尚の子の良兼の子、つまり孫で曾良は良兼の墓参のために村上2泊を計画したらしい。<br />このあと、芭蕉と曾良は雨に降り込められた例外はあるものの、連泊をさけて金沢までほぼ直行の旅をしているので「みちのくの旅」としては村上が最後の連泊地です。<br /><br />村上市は新潟県最北の自治体で人口は 66669人。<br />雨季でしたが雨の合間に城山(正式には臥牛山・がぎゅうさん)往復すべく急ぎました。ホテルからタクシーで登り口まで行き、七曲りといわれるジグザグ道を約25分。8回曲がって山城の石垣に到着です。地元の人は毎朝の登行を日課にしている人が多いそうですが、昼ころだったので数名の登行者がいるだけでした。<br />城跡では本丸跡の近くで復旧工事をしていたので、行かずに御鐘門跡までで下山しました。<br />途中で地元の人から声をかけられて「あと5分行けば素晴らしい石垣の上から市内を一望できたのに」といわれ「村上城はたいしたことなかった、と思われたら残念なので声をかけました」とのことで、地元の歴史を誇りに思う地元の人の思いが伝わってきました。<br />麓におりて疲れたので、国指定重要文化財の若林家までタクシー移動を考え、たまたま共産党の相談所?から出てきた人に距離をたずねたら、「ついでがあるから送りましょう」と、二の丸地区から三の丸地区まで濠の跡などを親切に説明しながら車で送ってくれて、もとの道を戻ってゆきました。ついでなど無かったのだと思いました。<br />これらの地区は武家屋敷地区で、いまでも高級な住宅地とされているそうです。<br /><br />若林家は保存の良い中級武士の住宅で、家計簿には野菜の購入記録がないので野菜は自給していたと見られるとのことです。経営の才があったらしく明治期には隣接地を買い増し、家老屋敷から松や梅の名木を移植して見事な庭になっています。<br />若林家のほかにも、市内にはいくつもの武家屋敷が展示されています。<br />となりに「おしゃぎり会館」、つまり祭礼の山車を陳列してあるコンクリートの円形の建物があります。二階には多くの甲冑や銘刀(10振りのなかには村正もある)の展示、小和田家の本籍地なので小和田雅子さんが皇族になり、戸籍から除籍した関係の部屋もあり、さらに戊辰戦争などの歴史を物語るさまざまな資料が展示されています。<br />以上の城跡と若林家、それに「おしゃぎり会館」の三点セットは素晴らしいものでした。<br /><br />このあと村上に2基ある芭蕉の句碑をたずね、昼食が3時までできる「たにかわ」で食事ののち、ちかくの国指定の重要文化財の浄念寺(芭蕉が参詣した泰そう寺で榊原家の菩提寺)をたずねてから町をあるきました。<br /><br />帰り道に街角で地図を眺めていたら、「お困りですか?」と声をかけられました。<br />ホテルへの道をたずねたら「この道をまっすぐ行くと、突き当たりに藁屋根の家があるので、そこを右に曲がって・・・・・・」と教えてくれました。<br />ついでに町の真ん中で藁屋根の家がいまでも住居として使われている理由を説明してくれました。その家は戊辰戦争のときに藩内の佐幕派の総帥として戦った家老・鳥居三十郎の家で、維新のあと村上藩存続のために責任を一身に負って切腹したときに、介錯人の山口某に家を守ってくれと頼んで逝ったそうです。<br />それで今でも山口家がその家を守ってそこで暮らしているそうです。なお山口家は小和田家の上司にあたる家系だそうです。<br /><br />今回、感銘を受けたのはこの村上市に住んでいる人たちが郷土の歴史に誇りを持ち、歴史のなかに生き続けているということでした。行き逢った人たちは、みんな毅然としながらも、優しい心の持ち主でした。昔の日本が生きている町でした。<br />一方、見残したところは皇太子妃雅子さんの御成婚記念公園の「まいづる公園」とその近くに展示されている複数の武家屋敷、鮭の「イヨボヤ会館」。街中の町屋群。ほかには旧岩船町の石船神社とその地区の芭蕉句碑など、いくつもあります。<br />個人的には、明治の前半に廃窯された最北の磁器「大行焼」(だいぎょうやき)を探したかったのですが、月末の日曜日にひらかれる露天の骨董市を一日違いで逃したのが残念でした。

奥の細道ホッピング:新潟県村上市・戊辰戦争がのこる城下町

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2010/06/28 - 2010/06/29

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ANZdrifter

ANZdrifterさん

芭蕉は1689年に奥の細道の旅に出た。6月25日に酒田を立ち、大山、温海、中村と泊まって、28日(新暦8月中旬)に雨中に葡萄峠をこえ、譜代大名・榊原氏の村上藩15万石の城下町、村上に着いた。当時の村上藩城代家老、榊原帯刀は曾良が仕えた榊原良尚の子の良兼の子、つまり孫で曾良は良兼の墓参のために村上2泊を計画したらしい。
このあと、芭蕉と曾良は雨に降り込められた例外はあるものの、連泊をさけて金沢までほぼ直行の旅をしているので「みちのくの旅」としては村上が最後の連泊地です。

村上市は新潟県最北の自治体で人口は 66669人。
雨季でしたが雨の合間に城山(正式には臥牛山・がぎゅうさん)往復すべく急ぎました。ホテルからタクシーで登り口まで行き、七曲りといわれるジグザグ道を約25分。8回曲がって山城の石垣に到着です。地元の人は毎朝の登行を日課にしている人が多いそうですが、昼ころだったので数名の登行者がいるだけでした。
城跡では本丸跡の近くで復旧工事をしていたので、行かずに御鐘門跡までで下山しました。
途中で地元の人から声をかけられて「あと5分行けば素晴らしい石垣の上から市内を一望できたのに」といわれ「村上城はたいしたことなかった、と思われたら残念なので声をかけました」とのことで、地元の歴史を誇りに思う地元の人の思いが伝わってきました。
麓におりて疲れたので、国指定重要文化財の若林家までタクシー移動を考え、たまたま共産党の相談所?から出てきた人に距離をたずねたら、「ついでがあるから送りましょう」と、二の丸地区から三の丸地区まで濠の跡などを親切に説明しながら車で送ってくれて、もとの道を戻ってゆきました。ついでなど無かったのだと思いました。
これらの地区は武家屋敷地区で、いまでも高級な住宅地とされているそうです。

若林家は保存の良い中級武士の住宅で、家計簿には野菜の購入記録がないので野菜は自給していたと見られるとのことです。経営の才があったらしく明治期には隣接地を買い増し、家老屋敷から松や梅の名木を移植して見事な庭になっています。
若林家のほかにも、市内にはいくつもの武家屋敷が展示されています。
となりに「おしゃぎり会館」、つまり祭礼の山車を陳列してあるコンクリートの円形の建物があります。二階には多くの甲冑や銘刀(10振りのなかには村正もある)の展示、小和田家の本籍地なので小和田雅子さんが皇族になり、戸籍から除籍した関係の部屋もあり、さらに戊辰戦争などの歴史を物語るさまざまな資料が展示されています。
以上の城跡と若林家、それに「おしゃぎり会館」の三点セットは素晴らしいものでした。

このあと村上に2基ある芭蕉の句碑をたずね、昼食が3時までできる「たにかわ」で食事ののち、ちかくの国指定の重要文化財の浄念寺(芭蕉が参詣した泰そう寺で榊原家の菩提寺)をたずねてから町をあるきました。

帰り道に街角で地図を眺めていたら、「お困りですか?」と声をかけられました。
ホテルへの道をたずねたら「この道をまっすぐ行くと、突き当たりに藁屋根の家があるので、そこを右に曲がって・・・・・・」と教えてくれました。
ついでに町の真ん中で藁屋根の家がいまでも住居として使われている理由を説明してくれました。その家は戊辰戦争のときに藩内の佐幕派の総帥として戦った家老・鳥居三十郎の家で、維新のあと村上藩存続のために責任を一身に負って切腹したときに、介錯人の山口某に家を守ってくれと頼んで逝ったそうです。
それで今でも山口家がその家を守ってそこで暮らしているそうです。なお山口家は小和田家の上司にあたる家系だそうです。

今回、感銘を受けたのはこの村上市に住んでいる人たちが郷土の歴史に誇りを持ち、歴史のなかに生き続けているということでした。行き逢った人たちは、みんな毅然としながらも、優しい心の持ち主でした。昔の日本が生きている町でした。
一方、見残したところは皇太子妃雅子さんの御成婚記念公園の「まいづる公園」とその近くに展示されている複数の武家屋敷、鮭の「イヨボヤ会館」。街中の町屋群。ほかには旧岩船町の石船神社とその地区の芭蕉句碑など、いくつもあります。
個人的には、明治の前半に廃窯された最北の磁器「大行焼」(だいぎょうやき)を探したかったのですが、月末の日曜日にひらかれる露天の骨董市を一日違いで逃したのが残念でした。

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  • 駅前の大通り。突き当たりに見えるのが臥牛山で村上の人は「お城山」と呼ぶ。<br />なお、高層建築はこのあたりにだけ建てられている。<br /><br />なお 一緒に降りた人たちは みんな迎えの車で瀬波温泉へ行ってしまった。

    駅前の大通り。突き当たりに見えるのが臥牛山で村上の人は「お城山」と呼ぶ。
    なお、高層建築はこのあたりにだけ建てられている。

    なお 一緒に降りた人たちは みんな迎えの車で瀬波温泉へ行ってしまった。

  • 登山口の石碑。

    登山口の石碑。

  • この地に跳ね橋を備えた城門があった。

    この地に跳ね橋を備えた城門があった。

  • 城は山頂部を広く使った山城だが、江戸期に入ってから山ろくの居館を中心として二の丸、三の丸がそれぞれ濠をめぐらして作られた。<br />山の上の城を本城と説明してあった。

    城は山頂部を広く使った山城だが、江戸期に入ってから山ろくの居館を中心として二の丸、三の丸がそれぞれ濠をめぐらして作られた。
    山の上の城を本城と説明してあった。

  • この左奥に本丸があるが、訪問時は復旧工事中だったのでここから引き返してしまった。

    この左奥に本丸があるが、訪問時は復旧工事中だったのでここから引き返してしまった。

  • 登城路の途中から村上市を眺めた。

    登城路の途中から村上市を眺めた。

  • 左上が城山。真ん中あたりに若林家、右のほうに浄念寺がある。

    左上が城山。真ん中あたりに若林家、右のほうに浄念寺がある。

  • おしゃぎり会館に展示されている山車=おしゃぎり。

    おしゃぎり会館に展示されている山車=おしゃぎり。

  • 約200年前に建てられた国指定、重要文化財の若林家・武家屋敷。<br /><br />鮭が軒下にぶら下がっていた。

    約200年前に建てられた国指定、重要文化財の若林家・武家屋敷。

    鮭が軒下にぶら下がっていた。

  • 若林家の庭園。重役の家から移植した銘木がみごとな景色を作っていた。

    若林家の庭園。重役の家から移植した銘木がみごとな景色を作っていた。

  • 若林家についての説明

    若林家についての説明

  • 加賀町の稲荷神社にある芭蕉の句碑。<br />  雲折々 人をやすむる月見かな<br /><br />上片町の地蔵堂前の句碑は<br />  けふばかり 人も年よれ 初時雨

    加賀町の稲荷神社にある芭蕉の句碑。
      雲折々 人をやすむる月見かな

    上片町の地蔵堂前の句碑は
      けふばかり 人も年よれ 初時雨

  • 浄念寺の山門。

    浄念寺の山門。

  • 1818年に建てられた土蔵造りの浄念寺。国指定の重要文化財で、本尊は丈六の木造阿弥陀如来坐像だが、扉は閉ざされていて、賽銭箱も置かれていなかった。<br /><br />正面にはハナミズキが植えられて、正面からの写真は撮れない。

    1818年に建てられた土蔵造りの浄念寺。国指定の重要文化財で、本尊は丈六の木造阿弥陀如来坐像だが、扉は閉ざされていて、賽銭箱も置かれていなかった。

    正面にはハナミズキが植えられて、正面からの写真は撮れない。

  • 彫刻はみごとだった。<br />ボタンの花が彫り込んであった。

    彫刻はみごとだった。
    ボタンの花が彫り込んであった。

  • 浄念字付近の町並み。のぼりは食べ物屋。<br />昭和の戦前の雰囲気を感じさせる。

    浄念字付近の町並み。のぼりは食べ物屋。
    昭和の戦前の雰囲気を感じさせる。

  • 市内には各地にこういう説明板が立てられている。<br /><br />町名はいずれも古めかしく、歴史を感じさせる。

    市内には各地にこういう説明板が立てられている。

    町名はいずれも古めかしく、歴史を感じさせる。

  • 村上は鮭で有名な三面川(みおもてがわ)があり、鮭の町としても知られている。<br /><br />いたるところに鮭が描かれている。これは銅板を打ち出した鮭が塀につけられている。

    村上は鮭で有名な三面川(みおもてがわ)があり、鮭の町としても知られている。

    いたるところに鮭が描かれている。これは銅板を打ち出した鮭が塀につけられている。

  • これは駅の地下通路に描かれた鮭。<br /><br />ほかには下水路の蓋が鮭が描かれた鋳物だった。

    これは駅の地下通路に描かれた鮭。

    ほかには下水路の蓋が鮭が描かれた鋳物だった。

  • 村上市には最北の茶圃がある。<br />茶の種類は雑種なので耐寒性があり、気候の関係で渋みの少ないお茶ができるという。<br /><br />これは市内で見た九重園の茶圃。うしろの建物は製茶工場らしい。このあたりは「町屋」が多く、見学もできるらしい。

    村上市には最北の茶圃がある。
    茶の種類は雑種なので耐寒性があり、気候の関係で渋みの少ないお茶ができるという。

    これは市内で見た九重園の茶圃。うしろの建物は製茶工場らしい。このあたりは「町屋」が多く、見学もできるらしい。

  • これが、鳥居三十郎の屋敷。いまは切腹の介錯をつとめた山口?氏の子孫が家を守っている。

    これが、鳥居三十郎の屋敷。いまは切腹の介錯をつとめた山口?氏の子孫が家を守っている。

  • 町の先、山の麓を右から左に三面川が流れている。<br /><br />山にかかっている雲は三面川の上にできた雲。

    町の先、山の麓を右から左に三面川が流れている。

    山にかかっている雲は三面川の上にできた雲。

  • 村上駅。最初の写真を町側から撮った。

    村上駅。最初の写真を町側から撮った。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • 義臣さん 2010/07/31 17:42:16
    懐かしい町並み
    はじめまして

     懐かしい町並みを拝見させて頂きました。

    私も一度目は お城付近を中心に歩き

     二度目は 村上大祭でした

    町の人の親切はいまだに忘れられない思い出もあり

     好きな町に成ってます

    その後は団体旅行で、、

                義臣

    これからも宜しくお願いいたします。

    ANZdrifter

    ANZdrifterさん からの返信 2010/08/01 11:22:56
    RE: 村上って懐かしい感じがしますね
    ご訪問と書き込み 有難うございます。

    国内をひろく旅していらっしゃる義臣さんですから
    おそらく 目新しいこともないかと存じますが 

    思い出を呼び戻す よすがになったようで 
    ブログを書き続ける 励みになります。

    小生はとうに喜寿をこえて 体力の衰えを感じていますが
    可能なかぎり 年に一度か二度のオセアニアの一人旅を続け
    合間に国内で 奥の細道ホッピング を続けるつもりでおります。

    >
    > 町の人の親切はいまだに忘れられない思い出もあり
    >  好きな町に成ってます
    >
    旅の楽しみの一つは 地元の人とのふれあいですよね。
    さりげない会話や 小さな買い物が 思い出を作ってくれます。

    かさねて 御礼申し上げます。
    どうぞよい旅をおつづけください。

    ANZdrifter

    義臣

    義臣さん からの返信 2010/08/01 15:53:37
    RE: 懐かしい町並み
    ご丁寧なお言葉ありがとうございます

    海外は二年前始めて北欧を旅しただけで

    次回はいまだに行く事が出来ません

    大先輩 宜しくご指導お願いいたします

                   義臣

    ANZdrifter

    ANZdrifterさん からの返信 2010/08/01 18:03:25
    RE: 恐縮です
    2001年に ブータン在勤(累計4年間)から帰国して
    以後は もっぱら旅人として 歩き回っております。

    10月には ニュージランド南島の南端部で 人口数百人から数千人の町を
    いくつか 回って参ります。

    あと何回 このような旅ができるか 心許ないのですが
    がんばって みます。

    「大先輩 宜しくご指導お願いいたします」
    丁寧なご挨拶 痛み入ります。

    これからも ときどき 覗いてみてください。

    ANZdrifter

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