2010/04/26 - 2010/05/04
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ma2okaさん
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Hospital de la Santa Creu i Sant Pau
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1868年のパリ万博で今まで知られていなかった日本の芸術をヒントに、曲線美の芸術が流行した。スペインではモデルニスモと呼ばれ、フランス、ベルギーではアールヌーボーと呼ばれ、ヨーロッパ中に広がった。特にバルセロナは独自の文化を創る事を目的としていたため、モデルニスモが浸透、発展して多くの芸術家を輩出する事になる。そこにはガウディより早く才能を認められた建築家リュイス・ドメネク・イ・モンタネールがいた。
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ガウディよりもいち早く才能を認められたドミネク・イ・モンタネール。彼の個性、独創性はバルセロナがスペインからの独立をもくろむ追い風に乗る。病院の移転計画に抜擢されたモンタネールは「芸術には人を癒す力がある」という信念のもと、華麗な破砕タイルの装飾で覆われた病院という作品を完成させる事になる。
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総面積14万5000?に及ぶ広大な敷地に、48もの建物が機能的に配置されたサン・パウ病院。各病棟や研究棟は地下や橋で繋がっている。病棟を細かく分け、緑を配する事で入院生活を少しでも快適にする配慮が表れている。
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病棟の中心部。緑の配された広場は、憩いの場となっている。見た目の美しさだけではなく、徹底した合理主義建築家だったモンタネールは、若くして才能を認められ、25歳の若さで建築学校の教授に抜擢される程だった。
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モンタネール最大のプロジェクトは、銀行家バウ・ジルの遺言により1902年に着工されたが、建設途中に資金不足に陥ってしまう。
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資金不足に陥ったサン・パウ病院は、旧市街から移転してきたサンタ・クレウ病院と合併する事で難を逃れる事になるが、若くはないモンタネールの体調が悪化していく。結局、完成を待たずして、モンタネールは72歳でこの世を去る。
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モデル二スモの粋を極めた建築を残し、建築学校の校長、国会議員など、名声を欲しいままにしたモンタネール。彼の死後、息子ロウラが意志を継ぎ、1930年に完成した。
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ドミニク最大の建築、サンパウ病院は1997年、カタルーニャ音楽堂と共に世界遺産に登録された。モデルニスモを駆け抜けた病院は貴重な遺産であるとともに、今尚患者の治療に一役買っている。のちにガウディはバルセロナに大輪の花を咲かす事になるが、その大地には、ドミニクが大きく根を張っている。
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