2009/05/21 - 2009/05/22
5位(同エリア9件中)
ベームさん
ライン川河畔の古都シュパイヤーの続きと、古城と大学の町、ネッカー河畔のハイデルベルクです。
”ハイデルベルク”
私がその名を知ったのは中学か高校生のころ、マイアー・フェルスターの小説「アルト・ハイデルベルク」を読んだのと、それを基にしたアメリカのミュージカル映画「皇太子の初恋(ザ・スチューデント・プリンス)」を見た時でした。それ以来心の中の”麗しのハイデルベルク、ネッカー川、ドイツ”を憧れる気持ちは今も変わりません。
「皇太子の初恋」のなかでアン・ブライス扮する酒場の娘キャシー(ケーティ)が口ずさむ歌”ハイデルベルクの夏”の一節です。
”かぐわしき風よ リンデンの木よ
そぞろ歩きの 恋人たちよ
用心しないと 誰かがふいと
あなたの心を 盗むだろう
不思議なことが 夏の夜にゃ起る
鐘が鳴り出す 頃になりゃ
あなたのようなのが よく狙われる
ハイデルベルクの 夏の頃”
それだけに観光客で雑踏する街、応対の悪いレストランにはいささかがっかりもしましたが。夢と現実の乖離。
それに今ドイツでは、いやハイデルベルクに住んでいる人でさえマイアー・フェルスターの名前はおろか戯曲「アルト・ハイデルベルク」さえ知らない人が多いという。それが証拠に私がしばらくドイツ語を習った該博な多分30台のドイツ人の先生でさえその名を知らなかった。そんな本国で忘れ去られている作品にロマンを感じる日本人なんて彼らから見れば滑稽かもしれない。
写真は映画「皇太子の初恋」1954年のパンフレット。酒場の娘キャシー(アン・ブライス)とプリンス・カール(エドマンド・パードム)。57年間も大事に取っておいたものです。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空
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5/21、2日目。
シュパイヤー大聖堂。
神聖ローマ帝国皇帝が建てたためカイザードームと呼ばれる。1030年コンラート2世により建設が始められ、1061年孫のハインリヒ4世により完成。このハインリヒ4世はあの「カノッサの屈辱」1077年の皇帝である。1529年シュパイヤーの帝国会議でルター派の権利が制限されルター派が抗議(プロテスト)した事からプロテスタントと呼ばれるようになった。
1981年世界遺産。 -
シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂:オリーヴ山。
イエス・キリストが十字架に架かる前弟子たちに最後の説教をし、神に祈りを捧げたところを模したもの。 -
エルベルク/オリーブ山・橄欖山。
1505~1512年、マインツのニコラウス・エルザーとハイルブロンのハンス・ザイファーにより造られた、昔の大聖堂の回廊の中心、とある。 -
シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂後陣側。
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シュパイヤー大聖堂。
ヴォルムスの大聖堂より一回り大きく全長133m、巨大で全景が撮れない。 -
シュパイヤー大聖堂。
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大聖堂の中に入ります。
身廊。大きな柱が身廊と側廊を区切っています。 -
シュパイヤー:大聖堂。
側廊。 -
シュパイヤー:大聖堂。
後陣と燭台。 -
シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂:地下のクリプタ。
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シュパイヤー大聖堂:地下のクリプタ。
ここにはザリエル朝の4人の神聖ローマ帝国皇帝、4人の国王、3人の皇后、5人の司教が埋葬されている。
コンラート2世、ハインリヒ3世、4世、赤髭王フリードリヒ・バルバロッサ妃、アドルフ・フォン・ナッサウなど。 -
クリプタ。
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シュパイヤー大聖堂:クリプタ、皇帝たちの墓。
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シュパイヤー大聖堂:クリプタ。皇帝たちの墓。
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皇帝たちの墓。
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シュパイヤー大聖堂:クリプタ。
埋葬されている皇帝たちの名が書かれている。
書かれている名前を読むと:
皇帝ハインリヒ3世、同ハインリヒ4世(カノッサの屈辱の皇帝)、同コンラート2世(大聖堂の建設者)、ハインリヒ4世妃ベルタ、コンラート2世妃ギゼラ、皇帝フリードリヒ・バルバロッサ妃ベアトリクス、国王アドルフ・フォン・ナッサウ、同アルプレヒト・フォン・エスタライヒ、同ルドルフ・フォン・ハプスブルク、、同フィリップ・フォン・シュヴァーベン。
11世紀から12世紀にかけての神聖ローマ帝国皇帝、その妃、国王の名が綺羅星のごとく並ぶ。 -
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皇帝たちの墳墓図。
上左より、
ハインリヒ4世/1106年没。ハインリヒ3世/1056年没。コンラート2世/1039年没、大聖堂の建設者。ギゼラ/コンラート2世妃、1043年没。ベルタ/ハインリヒ4世の最初の妃、1087年没。
ザリエリ朝の王と妃の墓が並んでいる。
下左より、
アドルフ・フォン・ナッサウ/1298年没。アルブレヒト・フォン・オーストリア/1308年没。ルドルフ・フォン・ハプスブルク/1291年没。ベアトリス/赤髭王フリードリヒ・バルバロッサの2番目の妃とアグネス/その娘、共に1184年没。シュヴァーベン王フィリップ/1208年没。
四人の王と妃と王女。
下の壁際には5人の司教たち。 -
シュパイヤー大聖堂。
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シュパイヤー大聖堂。
大道芸人。シュパイヤーの町をもっと見たかったが、なにぶん重い荷物を引きずっているのでこれでお仕舞い。ハイデルベルクに向かう。 -
シュパイヤー大聖堂全景。川はライン川。
絵葉書です。 -
シュパイヤー駅の発車案内。
14:02発S3。シッファーシュタット、ルートヴィヒスハーフェン、マンハイム経由カールスルーエ行。
駅のホームで日本人のご夫婦を見かけた。ローカルな町で日本人に出会うのは珍しい。 -
ハイデルベルク駅。
53万年前の原人ハイデルベルク人(ホモ・ハイデルベルゲンシス)の骨が1907年ハイデルベルクの近郊で発掘されている。昔学校で習ったような気がする。紀元前1世紀にはケルト人が居住。
ローマの軍団も駐屯したがゲルマン民族の大移動の渦中ローマ時代の町は姿を消した。次にハイデルベルクが名を現すのは1196年、プファルツ伯コンラートがこの城塞と土地を所有したらしい。
1356年の金印勅書によりプファルツ伯は皇帝選出の7人の選帝侯の一人となる。代々のプファルツ選帝侯の宮殿所在地として栄えるが、30年戦争と、特に1689〜1697年のプファルツ継承戦争でルイ14世のフランス軍に城と町は徹底的に破壊された歴史を持つ。
1386年ドイツ最古の大学がプファルツ侯ループレヒト1世により創設された。
第2次世界大戦では連合軍の配慮でハイデルベルクは爆撃を免れた。 -
ハイデルベルク駅。
古都の駅といった風情は無く、モダーンな活気のある駅である。ハイデルベルク=古都というイメージと違うのでややがっかり。
シュパイヤー発14時2分のSバーンで14時44分ハイデルベルク着。シュパイヤーの昼食がアイスクリームとビールという変なものだったのでお腹が空き、駅でパンと水を買いホテルで食べる。 -
ハイデルベルク:ビスマルク広場。
ハイデルベルクの交通網の中心。駅前の観光案内所でハイデルベルクカードを買いトラムで町の中心ビスマルク広場まで移動、ネッカー川河畔のホテルまで歩く。
バスやトラムの乗降風景が日本と違う。日本では客は乗る時に定期券を見せたり運転席横の機械にカードを入れたりお金を入れたりする。ドイツでは客は何もしないで乗り降りする。無賃乗車自由自在といった感じ。鉄道DBも同じ。しかしこれにはしかけがあって、突然検札が来る。無賃乗車だととんでもない罰金を取られることのなる。私も後日ミュンヘンで経験した。勿論1日乗り放題切符を事前にちゃんと買っていました。 -
ハイデルベルク:テオドール・ホイス橋から旧市街の対岸の眺め。
橋の袂にあるホテルネッカーにチェックインしてまず対岸の哲学者の道を目指す。
家並みの中腹から右上の方にたどると哲学者の道にでる。
橋の名前は初代西独大統領に由来。 -
ハイデルベルク:若いころから夢にまで見たハイデルベルクのネッカー川を目の前にして感激。テオドール・ホイス橋から上流アルテブリュッケと右上にハイデルベルク城の眺め。
ネッカー川は写真手前の方に下ってマンハイムあたりでライン川に注ぐ。 -
ハイデルベルク:テオドール・ホイス橋から。
城の左、アーチ状に見えるのは城庭園の土台。 -
長い坂を上り詰めると哲学者の道。そこに見晴らしの良い公園があった。
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ハイデルベルク:哲学者の道より。
かなり高いところにあるがホイス橋側から登れば距離はあるが勾配がゆるく比較的楽だ。途中道端に”住民および関係者専用”という標識があり一瞬たじろくがそのまま進む。後でよく考えたら道路沿いの駐車スペースのことだったようだ。
道の両側には高級そうな住宅が並んでいる。 -
ハイデルベルク:哲学者の道より。
時々ジョギングする人に出会う程度で寂しく、暗い時とか女性の一人歩きは避けたほうが良いかも。
古城、古い街並み、ネッカー川の眺めは絶品。 -
そのジョギング中の人に声をかけて撮ってもらった。
バックにハイデルベルク城。 -
哲学者の道より。アルテブリュッケが見える。
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ハイデルベルク:哲学者の道にある詩人アイヒェンドルフの碑。
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哲学者の道:エリザベート・シャルロッテの碑。
プファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒ1世の娘、フランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップと政略結婚させられる。これがのちのプファルツ継承戦争の原因となった。ルートヴィヒ1世が男子を残さず死んだのでルイ14世が”プファルツ選帝侯位継承権はその娘エリザベートの夫フィリップにあり”と戦争を仕掛けたのである。
この戦争はハイデルベルクをはじめライン河畔の町、城の多くを破壊した戦争だった。 -
シュランゲン小道への降り口。
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ハイデルベルク:哲学者の道から下るシュランゲン小道。
蛇・シュランゲのようにくねっているところからこの名が付いたのだろう。だけどこの写真のところは真直ぐ。降りたところがアルテ・ブリュッケ。一般には橋からこの道を登るようだがかなりの急坂、またごつごつした石畳で歩きにくい。テオドール・ホイス橋からのルートをお勧め。 -
ハイデルベルク:ネッカー川とアルテブリュッケ(正しくはカール・テオドール橋)。
河畔からの眺めも素晴らしい。ちなみにハイデルベルクの3大ヴューポイントといわれるのは哲学者の道からの眺め、この河畔からの眺めとハイデルベルク城からの眺め。この河畔にはアルテブリュッケを渡った所から降りられる。 -
ハイデルベルク:ネッカー川とアルテブリュッケ。
小説「アルト・ハイデルベルク」のリューダーの酒場は城、大学などのある旧市街の対岸、この辺にあることになっている。文中に酒場から川を越えて城を眺める場面がある。 -
ハイデルベルク:アルテブリュッケ。
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ハイデルベルク:アルテブリュッケ。
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ハイデルベルク:アルテブリュッケ。
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ハイデルベルク:アルテブリュッケのカール・テオドール像。
この橋は1788年選帝侯カール・テオドールが造った。 -
ハイデルベルク:アルテブリュッケで見かけたハイデルベルク大学の学生団。
”アルト・ハイデルベルク!”と声をかけたらニヤッと笑った。さすがに彼らは知っていたようだ。
小説「アルト・ハイデルベルク」に描かれているような学生団は今もあるがよもや決闘をしたり学生牢に放り込まれたりはしないだろう。
小説には次のような学生団が出てくる。ヴァンダーレン団、ザクセン・プロイセン団、ヴェストファーレン団、シュヴァーベン団、ラインラント団、ザクセン団、ザクソ・ボルシア団、スエヴィア団、レナーニア団、サクソニア団。いずれも出身地とか貴族の子弟など身分上の団体。
リューダーの酒場の娘ケーティーは全ての学生団のアイドルだった。 -
ハイデルベルク:アルテブリュッケの塔門。牢獄などに使われた。1788年。
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ハイデルベルク:ツム・ローテン・オクセン/赤い牡牛亭。
学生酒場、いまはもっぱら観光客御用達。
マイアーフェルスターの小説「アルト・ハイデルベルク」のリューダーの酒場のモデルと言われる。小説では酒場はネッカー川の対岸になっているが夢を壊さないでおこう、ここでカールスブルクの公子カール・ハインリヒが酒場の娘ケーティを見初めたのだ。 -
ハイデルベルク:ツム・ゼップル。
観光客ずれしているのか店員の態度悪い。昼間で客は少なかったが入っていっても隅で新聞を呼んでいて顔も上げない。食事できるか、と聞いても顔も上げずヤー、と言うだけ。引っ込みが付かず無理やり椅子に座ってビールと何かを注文したら、今度はアッというまに料理が出てきた。注文してからにしては速すぎる。
案の定不味い。四角い肉に噛み付いていたら”ジャパニーズスシ(寿司)”なんて隅から叫んでいる。これでこの店は永久に一人の日本人の客を失った。後日この店は閉鎖されたらしいが当然。 -
ハイデルベルク:ツム・ゼップルの店内。
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ハイデルベルク城に登るケーブル駅。
コルン広場の奥から出ている。 -
ケーブルの一つ目で下車。
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城駅。
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ハイデルベルク城:防御用円塔。
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ハイデルベルク城。
城はプファルツ継承戦争のさなか1693年ルイ14世のフランス軍に徹底的に破壊される。その後カール・テオドールが再建を図るが落雷などがあり断念、廃城のまま放置された。
ライン河畔の古城の多くが破壊されたのもこの時の戦争による。 -
空堀。
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ハイデルベルク城。
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ハイデルベルク城。
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ハイデルベルク城:エリザベート門。
ここで昨日シュパイヤーの駅で見かけたと思われる日本人ご夫婦に出会う。知らぬ振りをしたが声を掛ければよかったと後悔。 -
エリザベート門の裏側。石積がむきだし。
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ハイデルベルク城で目玉焼き、じゃがいもとサラダのつけ合わせとビールの昼食、セルフサービス。9ユーロ。木陰で飲むビールはおいしかった。
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ハイデルベルク城城門。ここまでは無料でこの先から有料。入り口にノッポの番人が立っていた。
城の起源は10〜11世紀頃とされる。1225年、プファルツ伯ルートヴィヒ1世のものとなる。以後17世紀まで増築が重ねられたがプファルツ継承戦争でフランス軍に破壊されたまま放置され選帝侯宮廷もマンハイムに移ってしまう。 -
城門をぬけてさらにこの門をくぐる。
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ハイデルベルク城:中庭方面。正面がフリードリヒ館。
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ハイデルベルク城:振り向くと門塔とルプレヒト館。
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ハイデルベルク城。
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ハイデルベルク城:フリードリヒ館。
1600年頃選帝侯フリードリヒ4世により造られた。 -
ハイデルベルク城:フリードリヒ館の彫刻。ここを左に地下に下りていくとワインの大樽がある。また右下に見えるアーチを抜けていくと建物の裏側、町を見下ろすテラスに出る。
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ハイデルベルク城:地下のワインの大樽。
22万リットルが入る。この樽の上に舞台があり宴会が出来るという。年貢として納められるワインを貯蔵するため大きいのが必要だった。人の大きさと較べてください。ただこの樽が満杯になったのは3度しかなかったらしい。
ワインケラーがありアイスワインを試してみた。甘い。小さなグラスで4ユーロ。 -
世界1のワイン樽。狭いところで全体が写せないので絵葉書を持ってきました。階段を上ると樽の上は広い板敷きになっており宴会も出来ると言う。
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大樽の上。広いでしょう。
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ハイデルベルク城:ワインの大樽の番人、道化師ペルケオ。ワインを一度に10本も飲んだらしい。実在で1700年代選帝侯カール・フィリップに仕えた。
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フリードリヒ館の地下。ワインの試飲が出来る。
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ハイデルベルク城:オットーハインリヒ館。中にドイツ薬事博物館。
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オットーハインリヒ館。
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ハイデルベルク城:ドイツ薬事博物館。
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ハイデルベルク城:ドイツ薬事博物館。
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薬事博物館。
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ハイデルベルク城:テラス側のフリードリヒ館。
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アルテブリュッケとネッカー川。
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ハイデルベルク城から。
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ハイデルベルク城からの町並み。中央は聖霊教会。
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ハイデルベルク城から。
カールス広場。 -
ハイデルベルク城:火薬塔。
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ハイデルベルク城:火薬塔。
火薬を貯めこみすぎ大爆発。 -
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ハイデルベルク城:フリードリヒ5世庭園。
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ハイデルベルク城:庭園にあるゲーテ像。
ゲーテは古都ハイデルベルクをこよなく愛し何度も訪れている。1775年、26歳のゲーテがヴァイマール公アウグストの招きに応じ死ぬまで定住することになるヴァイマールに向け旅立ったのもこの地ハイデルベルクからであった。40年後の1815年、66歳のゲーテは最後のハイデルベルク訪問を行っている。
ゲーテがハイデルベルクを訪れるたびに寄ったと言うレストラン、カフェ、満員で泊まれなかったホテルなどが市内にある。 -
庭園。
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ハイデルベルク城の庭園:父なるラインの河神の泉。
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庭園から見たハイデルベルク城。
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庭園から。
ここはテラスになっていて、後にある本でシェッヘルテラッセ/Scheffel Terrasse
と呼ばれていることを知った。 -
ハイデルベルク城の全景です。絵葉書から借用しました。
ハイデルベルク2に続きます。
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