1991/06/05 - 1992/01/05
138位(同エリア149件中)
maransukiyoさん
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91年6月5日、後輩の加山(仮称)が早朝5:00に迎えに着た。徹夜で旅行の準備をしていた私は眠い目をこすりながら、「とうとう行く時が来たのだな。」という期待半分、不安半分の何ともいえない気持ちになった。
目指すは横浜大桟橋。ソ連極東の漁港ナホトカ行きのソ連の客船「ルーシー号」は、年に13回、そこから出航する。6月5日は91年の初航海だ。
私の旅の計画はソ連を「シベリア鉄道」で横断しポーランドへぬけ、ワルシャワから東欧、西欧そして北欧を自転車で周り、アムステルダムから飛行機で南米のペルーのリマへ渡り、そこから、ボリビア、チリ、最後に世界最南端のパタゴニア地方へ縦断する。というものであった。先ずはシベリア鉄道に乗るため、船でナホトカに向かう。シベリア鉄道の始発駅は極東の軍港「ウラジオストック」であるが、当時はまだ、外国人には見開放地区であったため、ナホトカが外国人にとっての始発駅となっていた。
最後の日本食を「デニーズ」でとり、自分の体の倍以上もある荷物を持ち「横浜大桟橋」に着いたのは、出航の3時間前の午前9時頃であった。「横浜大桟橋」にいる人は、ほとんどがロシア人で、日本人は私を含め2、30人で、シベリア鉄道を目的とした「バックパッカー」がほとんどであった。
「ルーシー号」は1万tを超える東ドイツ製の一見豪華な客船で、ガイドペーパーによるとプール、カジノまである。
出国手続きを済ませ、見送りに来てくれた友達(なぜか女性がいなかった。)に暫しの別れを告げ豪華客船「ルーシー号」に乗船した。「ルーシー号」の中はもうソ連で、絨毯敷きのエントランスには似合わない「不愛想な太ったおばちゃん」がのそのそと客室を案内している。私も重い荷物もたっまま、このおばちゃんについていった。我々の客室は最も安いカテゴリーであったので船底の狭い客室に案内された。また、廊下も狭くおばちゃんが通るにはぎりぎりの幅であった。おばちゃんは後からついていった私の荷物が廊下をふさいでしまい?戻れなくなってしまった。結局、もう一度私が荷物をもって広いところまで戻り、おばちゃんを出してあげなくてはならなくなった。
部屋に荷物を置き、デッキにでた。見送りに着てくれた友達から紙テープを投げられ出航を待った。しかし、出航時間になってもなかなか出航せず、早くもソ連を感じていたとき、加山が紙テープを引っ張る。「お〜い!テープ引っ張るなよ〜!」と叫ぶと、「違うんです!船が、船が離れていくんです!」
友達全ての紙テープが切れ、「ルーシー号」は太平洋の大海原へ出航していった。
◎暇な船旅
出発までの準備の忙しさがうそのように、「ルーシー号」の船旅は暇であった。
しかも、船内はナホトカ時間であるため、時計を1時間も戻さないといけない。この暇さにプラス1時間はちょっときついかもしれない。「ルーシー号」の船室(カテゴリー6)は6畳ぐらいの広さの中に2段ベッドが2つある4人部屋でシャワー、トイレ完備である。同じ船室の住人には自称デザイナーの坂西さんがおり、彼も同じく暇を持て余していたので、暇人同士すぐ仲良くなった。彼の目指す旅行は、モスクワまではシベリア鉄道で行きモスクワから、ブルガリア、ユーゴスラビアを通りギリシャまで行くというものであった。人の旅の話を聞くのは、自分も行けるような気になるのでとてもいい。話が盛り上がり、房総半島の最南端「野島崎」を過ぎるころ+1時間分を消費し、昼食の時間になった。ガイドペーパによると、船内での食事は、全てロシア料理のフルコースで何と午後3時にはおやつまで用意されている。期待に胸を膨らませ、坂西さんと食堂に向かった。ただ、ちょっと気になったのが、東京湾から外洋に出てから、巨大な船体に似合わず、揺れが激しくなったことだ。
ソ連入国後初の記念すべき昼食は、ボルシチ、キエフ風カツレツ、ライ麦パンそして甘ったるいケーキのデザートである。味は、全体的に酸っぱい感じがあるが、まあいける。
テーブルマナーも完璧が必要で、カツレツを一切れ口にした後で、間違ってナイフとフォークを揃えてしまった途端、お皿を下げられてしまった。これはまずいとすぐさま取返しに行き、事なきをえた。
同じテーブルには、ナホトカの日本領事館に勤務する、海上保安庁と水産庁のお役人さんがいた。海上保安庁の方は、これから初めてソ連に行くのであろうか、水産庁の方にソ連の悪いところを延々訓えこまれている。このままだと、ソ連の良さを知る前に、領事館での人間関係に苦労しそうな感じであった。
昼食が終わるころ、案の定、船の揺れが大きくなり船酔いをする人が多くなった。船酔いのためか、ソ連の食べ物に嫌気がさしてかわからないが、おやつの時間にレストランに来ている人はほとんどいなかった。我々のテーブルは坂西さんがダウンしてしまい、お役人さんと私の3人になった。窓の外を見ると天気は良く、波はあるが、白波が立つほどではない。「なぜ、こんな大きな船が揺れるのか?」と思っているのを海上保安庁の方が察したのか、「この船は、東ドイツ製で1万3千tぐらいあるんだけど、船底が日本のより1〜2m浅いんでこんなに揺れるんですよ。」と教えてくれた。
おやつの時間も終わり、部屋に戻ったが、坂西さんは寝込んでいて、話し相手もいなくなり、超暇になってしまい、しょうがなくデッキに出た。デッキには私の様に暇を持て余している人達が、日光浴?を楽しんでいた。その中に、これからいかにも長期で旅行を楽しもうとしているような4〜5人の日本人グループがあったので、輪に入れてもらうことにした。彼等はみんな1人旅で年齢も様々だ。予定を聞くとモスクワまでは同じなのだが、その後は、まったく違うので面白い。しかし、皆さん旅なれているようで、私が「自転車で世界を・・・」と言っても、「気を付けてね」というぐらいであまり興味を示してくれなっかったのが少しさみしかった。「多分、私のような旅行者は、外国に行けば五万といるのであろう。」
暇にも揺れにもなれたころ、「ディナーですのでレストランに来てください。スパシーバ」という片言の日本語でのアナウンスがあったので、食堂に向かった。船酔いで寝込んでいた坂西さんも揺れになれてきたみたいで、いっしょにいった。レストランは乗船後初ディナーに期待してか、満席になっていた。おやつを食べられなかった坂西さんは、気になってか、おやつの内容を聞いてきた。「甘ったるいケーキに、着色料のジュースですよ。」
と言うと、なんか安心したようであった。夕食は、キュウリのサラダ、サリャンカ、グラッシェ、そしてライ麦パンであった。私はきゅうりがきらいなので、気分的においしくなく感じた。
夕食が終わり、待ちに待っていた、ラウンジで船長主催のパーティーが始まった。ロシアの民謡にダンス、大道芸、どれもはじめて見るようなものばかりだった。また、お酒が安く、ウォッカ1パイが10円であったため、酒はまわるは、船は揺れるは、芸は楽しいはで、もう酔っぱらい状態で昼間あれだけ長く感じられた1時間半があっという間にすぎてしまった。まわりの同世代の日本人もみんなハイ状態なので、そのまま我々の部屋で飲むことにした。みんな初対面ではあるが、第一目標「モスクワ」というのが同じなため、とても意気投合し朝まで飲み明かした。私が「日本が懐かしくなったら飲め!」と餞別でもらった「ワンカップ」も出国1日目で消えてしまった。
翌日は、ほとんど寝ていて記憶にない。
3日目、いよいよ「ルーシー号」最終日。波は穏やかで天気もいい。しかし、昨日の眠り癖がついてしまったせいか、昼食後昼寝をしてしまい、目を覚ましたのは入港の1時間前であった。こうなってしまうと、あれだけ暇を持て余した2日前がとても懐かしく思えた。
急いで下船準備をしロビーにいったが荷物はまとめて降ろすそうなので、預けなければならない。自転車がとても心配であったが、しょうがなく預け、パスポートを受け取った。
◎ユーラシア大陸上陸
6月7日、「ルーシー号」は約1時間遅れの、17:00に無事ナホトカ港に入港した。
入国は難無くでき荷物も受け取れたが、心配していた自転車が無い。船内に取り残されたままなのだ。ハバロフスク行きの列車「ボストーク号」の発車は30分後に迫っている。「なんとかとりに行かねば。」と思い、船に向かおうとしたが、入国した者にとって、すでに港は立入禁止なのだ。強行突破も考えたが、軍人が銃を抱えているため、行けそうにない。諦めかけたときに、船内でお世話になったインツーリスト(ソ連国営旅行社)のアレックスさんが、イミグレーションに入ってきた。すぐさまその旨をを伝え、船に戻らせてもらった。ところが、船の入口でまたとめられてしまった。なぜとめられたか聞こうにも、船員にはロシア語しか通じない。自転車が見えているだけにいらだちを覚えた。しかし、そこにもまた助っ人が現れた。食事の時に同じテーブルだった、海上保安庁の人だ。彼が流暢なロシア語で事情を説明してくれ、ようやく自転車を入国させることができた。
ルーシー号の仲間は、ありがたいことに私を待っていてくれた。多分、「私のような海外旅行が初めての人間を、こんなところに置いていっては危ない」と思ってくれたのであろう。同室だった坂西さんが、「ここで両替したほうがいいよ」と教えてくれた。ガイドブックによると1ルーブル200円ぐらいだったのだが、ナホトカ港で両替すると観光客レートで両替できそうだ。1ルーブル約5円で両替できた。5000円も両替したため、大金持ちになってしまった。
時間がなかったため、大金持ちになった喜びをかみしめることはできなかったが、生まれて初めて踏んだ大陸感触は心に刻むことができた。こころなしか、すべての物が大きく見えた。道端に咲くたんぽぽの背丈まで、1メートルぐらいに見えた。
重い荷物を引きずりながら、ようやく駅に着いた。「港から歩いて5分」と言われたが、荷物が多かったため、30分ぐらい歩いた気がする。列車の出発が遅れなかったらおいてけぼりを喰ところであった。
「ボストーク号」は私の入国の際のあせった姿など気にすることもなく、15分遅れで音もなく出発した。これからいよいよシベリア鉄道9000Kmの旅が始まる。
◎シベリア鉄道9000km
先にも述べたが、シベリア鉄道の始発駅は「ウラジオストック」であって、「ナホトカ」ではない。しかし、「ウラジオストック」はソ連海軍の極東の軍港であり外国人には未開放地区であるため、観光客にとっては「ナホトカ」が、シベリア鉄道の始発駅になっているのだ。このため、世界最長距離を走る、大陸横断急行「ロシア号」にはハバロフスクからしか乗れず、全区間乗れない。非常に残念である。
「ボストーク号」はナホトカからハバロフスクを約10時間で結ぶ急行で、外国人にとっては、「ロシア号」への送迎列車といったところだ。しかし、海外で初めて列車に乗る私にとっては、れっきとしたシベリア鉄道の1つで、乗れるだけで感動した。しかも一晩過ごすのである。
乗車後まず車掌さんがパスポートと切符を拝見に来る。切符は「ナホトカ〜ハバロフスク間」のものでモスクワまでのものではない。ソ連では目的地に付く度に次の目的地までの切符を受け取るしくみなのだ。私は、シベリア鉄道を3回に分けて乗らないといけない。
なぜなら、ソ連の観光ビザを取得するためにはあらかじめ旅の計画を提出し、交通手段やホテルを予約したバウチャーをインツーリストからもらわなければならないからだ。また、こちらが提出した計画でも、インツーリストの意向次第、簡単にかえられてしまう。もちろん私は、「シベリア鉄道には乗りっぱなしで、ホテルは最低料金のグレイドに泊まる。」という計画を提出したが、結果はハバロフスク、イルクーツクでホテルに泊まらなければならなくなった。中央アジアの「サマルカンド〜ブハラ間」も鉄道での旅を希望したが飛行機になっていた。これもソ連の外貨獲得のためなのでしょうがない。
午後7:00頃、食堂車の準備ができたということで、早速日本人グループは食事に出かけた。シベリア鉄道初の夕食はチーズ、バターライス、チキンそしてライ麦パンだ。船でロシアの味になれてしまったせいか、臭いはいまいちだが、味はいける。値段は、2.5ルーブル約14円である。無茶苦茶安い。「今日は私がごちそうしますよ。」と大学教授の大高さんが言う。「そんなの結構ですよ。」「いやいや、両替しすぎましてね。お礼は日本に帰ったときでいいですよ。」「じゃ日本で14円送ればいいですか?」とわれわれが聞くとすかさず、「もちろん、夕食をごちそうになりますよ。」きりかえされ、大爆笑になった。
コンパートメントに戻ってからは、みんな歳を忘れ、日本人、ドイツ人、フランス人そしてオーストラリア人の国際クラスの修学旅行の雰囲気になった。いつの間にか、滋賀県の近江八幡で菓子職人をやっているアントーシャこと杉江さんが、船内でジョニ赤を買っっていたらしく、ウヰスキーパーティーになった。せっかくソ連に来たのだから、ウォッカといきたいところであったが、酒なら何でもいいと諦めた。しかし、オーストラリアのローンさんは食堂車からちゃっかりウォッカを仕入れてきていた。やはり皆さんウォッカを飲みたかったらしく、30分もたたない内に2ボトルなくなってしまった。しかし白人の酒の強さには驚かされた。
午後9:00頃、ボストーク号は、名のない駅(名前がわからなかっただけ)に停車したため、飲み会は中断した。少し降りてみたが、あたりはまだ明るく、北の国に来ていることを実感した。名のない駅には5分も停車時間はなく音もなく発車した。ボーっとしていると置いてけぼりをくらいそうだ。発車後ももなく飲み会は再開された。
飲み会が再び盛り上がってきた頃、XXさんがいないことに気がついた。若しかして、さっきの駅で乗り遅れたのではと思い、何人かにたずねてみたが、誰も駅では見掛けなかったという。トイレは停車する前に鍵を掛けられ、出発後も15分間は鍵が掛かっていて使えないはずだ。いったいどこへ行ってしまったのだろうとみんな心配しているころ、トイレの方から「スパシーバ」と言う声が聞えてきた。言うにはトイレに入っていたらいきなり外から鍵を掛けられ出られなくなったらしい。で、開けてくれたから「スパシーバ」とお礼を言ったそうだ。その話を肴にまたまた飲み会が続いた。
翌朝、二日酔いながらも朝食を期待してか、7:30に目が覚めた。同じコンパートメントの方々も早く目が覚めていた様なので、いっしょに食堂車へ向かった。今朝の朝食はイークラ(日本名いくら)がでたが、日本の物のようにつやもはりもなくあまりおいしくなかった。しかし、ヨーグルト、玉子焼きにパンをあわせて2ルーブル(10円)は安かった。
1時間遅れの11:00にハバロフスクに到着した。ここはナホトカと1時間時差があるため、時計を1時間戻さないといけない。なので、今は10:00だ。
輪行していた自転車を初めて組み立てた。ソ連では珍しかったのか、人だかりができてしまった。ちょっと緊張してしまったのか、なかなかうまく組み立てることができない。しかも、荷物が多いため盗まれないか心配である。しかし、ここでもシベリア鉄道の仲間が協力してくださり、何とか無事組み立てることができた。
海外で初めてというのには皆さん興味があるようで、杉江さんと坂西さんも海外旅行が初めてで、危険にも白タクでHOTELに向かうことにしたようだ。旅なれている方はみんなトロリーバスで向かった。
私も、感慨を噛みしめながら自転車をこいだ。生まれて初めての右側通行にはなれないが、とてつもなく広い道はさらに気分を良くした。3回道を間違ったが問題ない。お陰で現地の人に道を尋ねることもできた。
HOTELはアムール川沿いにある、当時ハバロフスク1のインツーリストHOTELだ。しかし、No.1 HOTELには似合わない、暗い雰囲気に無愛想の応対である。しかも、案内してくれたのは、普段着をきた、太ったおばちゃんである。あたりまえだが動きも鈍い。せっかく気分良くHOTELに到着したのに、だいなしである。
ここはやっぱりソ連と諦め、町に出ることにした。町には日本人グループで向かったが、みんな目的が違うらしく、小グループにわかれてしまった。私は、旅なれた山口さんと行動することにした。2人がまず向かった場所はラーメン屋「さくら」である。別に日本食が恋しくなった訳ではないが、海外で(しかもソ連で)食べる日本食に興味があった。外には行列ができていたが、日本人は円払いなので横から入れてもらった。ソ連人は14ルーブル(70円)でシベリア鉄道内での6食分の値段である。われわれ日本人は500円で硬貨でも支払可能だ。丁度財布に500円玉が入っていたのでそれを払った。稚内でヒカルゲンジも食ったというラーメン屋でおやっさんが「ラーメンは北に行くほどうまい!」と言っていたので、ちょっと期待して食ったが、どうもうまさの最北限は稚内で、それより北はまずくなるようである。海外で初の日本食?は不発に終わったがそんなことは気にせず、町の散策をした。この町も、「ペレストロイカ」の影響でとても活気ついていた。しかし、その活気はどうも空回りのようで、百貨店は10貨店になっていたし、食料品店は長蛇の列である。また、若者はわれわれを見るたびに「Tシャツくれ」「Gパンくれ」と言ってくる。どうも夢を見さされているようだった。
ソ連の国土は日本の60倍の広さである。 町は緑が豊かで空気もきれいで、過ごし易いのだが、日本の町の60倍まではいかないがとにかく広かった。HOTELへはトロリーバスで戻った。hotelに戻ってから、部屋は広いが、狭いベッドで横になった。久しぶりの、地に付いた休憩という感じでとてもゆっくりできた。
日の高い夕方になって、杉江さんが「アムール川を観に行こう。」と誘いに来た。杉江さんの部屋は川側だったらしく窓からの風景の良さにたえきれず、行きたくなったらしい。「うちの窓からは、町しか見えませんよ。それで同じ料金でしょ!」と山口さんと愚痴った。アムール川は広くて豊かな川だ。日本ではこんな川にお目にかかったことがない。山口さんが「日本緯度では、本来流氷はできないんだけど、アムール川の河口で塩分が低くなって海が凍り、流氷ができるんですよ」と教えてくれた。それを聞いて目の前にあるアムール川を更に身近なものに感じた。
河原は公園になっていて、子供達が遊んでいた。とてもかわいかったので、いっしょに戯れた。杉江さんもいっしょになって戯れたが、山口さんは子供がきらいなのか一人でぶらっとどっかに行ってしまった。空は明るいがもうPM6:00。いっしょに戯れた子供達も1人を残し家に帰ってしまった。しかし、この子がなかなか帰らない。相当われわれを気に入ってくれたみたいだ。「お母さんが心配するから、早くお帰り。」と言いたくても、ロシア語がわからないので言えない。結局、おとうさんが迎えに着て、帰った。杉江さんは50円玉を私は、シャーペンをプレゼントした。「やっぱり、やられましたね!」と山口さんが戻ってきた。海外旅行になれてくると、あまり子供には近付かないそうだ。
「子供と遊ぶと結局何かクレといいだす。で、あげないと帰らない。いつもの事ですよ。」
この言葉を聞いて、これから先半年間の旅には、もっと注意が必要だ。ということを感じるとともに、山口さんとは違う、もっと人に接する旅をしようと心に誓った。
ホテルにあるレストランはドル払いと聞いていたので、シベリア鉄道の若者グループは、どっかで外食をと考えたが、近くにいい店がなかったので、しょうがなくHOTELで食べる事にした。ビールにワインに魚のソテーとサラダしめて16ルーブル(80円)である。結局、ドル払いはいやだと言うと、ルーブル払いになった。ルーブル払いにしたから味がかわるのではなく、とてもおいしかった。魚はアムール川で採れるのであろうか、とても新鮮だし、アルメニア産のワインは予想に反して深みが有りとてもおいしかった。
レストランには地元のスクっ子も多く、とても賑やかである。やはりみんなワインやシャンパンを飲んでいるらしくとても陽気であり、昼間の暗い表情がうそのようだ。杉江さんがいつもの調子で、となりのテーブルのごついロシア人に声を掛けていった。酔っているせいか、それとも地か反応はとてもよく、いっしょに飲む事になった。といっても私と杉江さん以外は、部屋に戻ってしまった。
オーダーしたワインはすぐに底をつき、追加オーダーもめんどうくさいので、外に出ることにした。目指すはやっぱりアムール川。杉江さんが、地下のバーでビールを調達してきた。こんなことしていいのかと思いつつもアムール川の河原で酒盛りになった。メンバーは、私、ソ連人大学生2名(名前は忘れたので、トムとユーリーにする。)そしてMR.SUGIeである。夜のアムール川もまたいい。
対岸のわずかな明かりがその雄大さを感じさせてくれる。ただ、時々通るサーチライトの光が目障りであった。ユーリーいわく、「対岸は中国との国境であるためサーチライトで警戒しているそうだ。ビールもそこをついたので、帰ろうと思ったが、「近くにディスコ船があるからいっしょに行こう。」とユーリーが言ってきたので、少し不安であったが、面白そうなので行くことにした。アムール川沿いを2KM程歩いたところに桟橋が有り、そこからダンサーを乗せた船が出航するそうだ。さすがにソ連である。2KMは近いという距離のようだ。その近い2KMを日露の若者4名は各々国の歌を歌いながら歩いた。
ようやく、桟橋に着いたがもう深夜11時で船はたった今戻って来たのでおしまいだそうだ。残念と思うとともに2KMが非常に遠くに感じた。
「せっかく友達になったのだから、家に来ないか?」とユーリーが誘ってくれた。杉江さんはすごく乗り気であったが、私はとても心配だった。酔ぱらったトムが「疲れたから帰る。」と帰っていった。「まあ、相手が1人ならなんかあってもこっちは2人だし何とかなる。しかも杉江さんは強そうだし。」と思いユーリー宅に行くことにした。桟橋から歩いて20分ぐらいで彼のアパートについた。暗くて外観はよく見えなかったが、中は立派である。間取りは2DKで、TVに電話まである。とてもソ連の1人暮らしとは思えない。でも、広さは納得できる。
彼は私達をもてなすため、まずキャビアを出してくれた。キャビアとわかっていながら食べるのは生まれて初めてである。最高においしい。これが世界三珍味の一つだというのは、充分理解できた。キャビアを軽く平らげた後は、ライ麦パンにサラミを出してくれた。とても気前のいい奴だと思った。
時計を見ると午前1:00を過ぎていたので、HOTELに戻ることにした。しかし、ユーリーは「生活が苦しいから5000円恵んでくれ。」と言う。私は「友達だから君は誘ってくれたんだろう。お金は払えない。」と払うのを拒否した。「キャビアは現地でもとても高い。1000円でいいからお願いだ。」と言ってきたがこれにも拒否した。結局、彼は諦め、私達を見送ってくれた。今考えると、「あれだけもてなしてくれたんだから100ルーブルでもあげればよかったな」と思う。そんなもめごとなど、何も知らず口論中深い眠りについていた杉江さんは、寝起きの目をこすりながらユーリーにスパシーバと言っていた。
当時のソ連は軍や警察が厳しかったからか、それとも共産主義が良かったのか、とても治安が良かった。もし今だったらナイフなどの凶器が出てきてもおかしくないような出来事であった。
朝食は、やっぱり日本人グループととった。HOTELのレストランの割には質素で、コンビーフと目玉焼きにライ麦パンであった。杉江さんは、昨晩キャビアを食ったことを自慢げに話していた。私はその話題には触れたくなかったが、しょうがない。おいしかったのは事実である。
いよいよ今日は念願のロシア号に乗る、自転車を輪行しなければならないため 、みんなより1時間早くHOTELをでた。自転車で走っていると、声援してくれたりとても気持ちがいい。もう2、3周したいぐらいだったが、駅についてしまった。
駅のインツーリストの係員に「自転車をそのまま乗せたいのだが?」とだめもとで聞いてみたがやっぱり駄目だった。頑張って輪行を済ませみんなが来るのをまった。駅の待合室には売店が有りそこでペプシコーラ(2R)を飲んだ。瓶の文字がロシア語あったので面白かったので、もっていこうとしたが、荷物をみて諦めた。そうこうしている内に皆さんが到着した。しかし、日本人の若者の紅一点であった蟇田さんはハバロフスクからウズベク共和国のタシケントに行くため、ハバロフスクでお別れであった。
ロシア号は約10分遅れで到着した。見た目はボストーク号と同じであるがなんかかっこいい気がする。「ウラジオストック→モスクワ」の標識もすごくいい。感動しながら乗車した。次の目的地はイルクーツク。シベリアの真珠と言われるバイカル湖の湖畔ある町だ。日本人のほとんどが同じ目的地だ。幸か不幸か坂西さんだけがモスクワまでノンストップであった。
ロシア号は20分遅れの午後1:20に出発した。この調子だと、モスクワに着くのは何時間遅れになるのだろうと不安になった。
同じコンパートメントには、山口さんと西ドイツ人のフィリップス、そして六本木に住んでいるというオーストリア人のクラークであった。みんな英語をしゃべれるそうだが、私はしゃべれない。しょうがなく日本語にしてもらった。みんな日本語もしゃべれるのだ。
英語を8年も勉強した私は、情けなく感じた。
出発後まもなくアムール川の鉄橋を通った。一体いつまで鉄橋なのかと思うほど長かった。
鉄橋に感動したあと、昨晩の夜更かしのせいで眠かったのか、ちょっと寝転んだのが最後で あこがれのロシア号の初日はほとんどが睡眠で終わった。
あれだけ寝たにもかかわらず、翌朝8:00に目を覚ます。しかも時差のため1時間時計の針を戻した時間でだ。ソ連は広いため、国内でx時間時差がある。シベリア鉄道でモスクワに向かうと毎日1時間時計を戻さないといけない。1日25時間になるわけだ。しかし、ウラジオストックに向かうと毎日1時間時計を進めないといけない。1日23時間になる。よく考えるとあたりまえのことだが、睡眠をとりすぎてたるんだ頭にはそんな気力はない。1日は24時間だ。脳みそはたるんでいるが、胃袋は元気だ。たまに来る車内販売のハンバーグ、御飯、ライ麦パンを買って食べた。ソ連で御飯の位置付けは、野菜の様なものであり主食はライ麦パンである。ロシア号内の物価はどうもモスクワにあわせてあるようで、高い。車内販売で5R(25円)もした。ボストーク号の食堂車の倍である。ロシア号の車内販売は食べ物だけでなくいろんな物が売っている。食べ物を入れた箱の底が内蓋になっており、その下に軍用時計やキャビアなど、売ってはいけないものが入っている。ブラックマーケットなのだ。時計には多少興味があったが、吹っ掛けてくるので買わなかった。
腹の虫が治まった頃、久美子さん達と坂西さんがやってきた。久美子さんは友達の為替ディーラーをやっているというドイツ人女性のアンドレアさん と2人で旅行をするそうだ。また、子供のころにいろんな国に住んでいたらしく英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語を話せるマルチリンガルな女性でであった。久美子さん達が来たので我々のコンパートメントは英語の部屋になってしまった。話題がわからず、なぜみんなが笑っているのかわからなかったが、いっしょに笑った。話が盛り上がっているころ、ロシア号は音もなく駅に停まった。「この駅では15分停車する。」と車掌さんが英語で教えてくれたので下車した。昼飯前と言うことでホームには屋台が並んでいた。みんな各々いろんな物を買っていた。私は昼食用にジャガイモ、水ぎょうざ、ピロシキそして牛乳を買った。合計3Rであった。牛乳はワインの空き瓶の様なものに入っており最初は何かわからなかったが、値段とにおいでわかった。外国の牛乳は濃いと聞いていたが、日本のよりも薄い感じだ。また、賞味期限等何も書いていないので少々不安だった。水ぎょうざは中がジャガイモで皮も分厚いのでとてももたっとした感じだった。ジャガイモと牛乳で膨れたお腹を見るとなんか運動しないといけないと思うが、どうしようもない。これからモスクワまでブロイラーになると思うと恐ろしいが、こんな経験そうできないだろうと思うと諦めもつく。
ロシア号に乗ってからもう2日目 、皆さん最初の興奮も覚めてしまったのか、少々退屈してきた感じだ。とだえなかった会話も今はとだえ、みんなベッドで何かしている。私も、たまっていた日記を書いた。夕方になって車窓から地平線が見えていることに気付いた。生まれてはじめてみる地平線だ。水平線なら何回も見たことあるのだが、列車が地平線と平行に走るなんてのは日本にはない。刺し身はうまいが、島国であるのを一寸うらんだ。
地平線は延々と続き午後10時のSUNSETが広大さに美しさの花を添えた。
翌朝5:00、お腹が痛くて目が覚めた。昨日の牛乳が効いたのかと思いつつも、また眠ってしまった。8:00に起きたときはもう治っていた。今日はいよいよシベリアの真珠、バイカル湖が見えるはずだ。このためみんな昨日の退屈を忘れ、わくわくしながら車窓を見ている。しかし予定では、お昼過ぎに通過する。首が疲れそうなので、久しぶりに食堂車に行くことにした。みんな、昨日のジャガイモにはさすがに疲れたようだ。自称デザイナーの坂西さんが、目玉焼きの絵を書いて注文した。その絵そっくりとまではいかないが、同じ様な目玉焼きが出てきて、坂西さんは得意げだった。今日はイークラ(いくら)も注文した。ボストーク号のに比べ、味は悪いが値段は高い。12R(60円)もした。
朝食後、昨日の牛乳の瓶を嗅いでみると酸っぱい匂いがした。若しかしてこれは牛乳として飲むのではなく、1日おいてヨーグルトにして飲むものかとマジで思った。
お昼を過ぎた頃、お待ちかねのバイカル湖が見えてきた。天気は良くとてもきれいに見える。昼前に停まった駅で、窓を外から拭いたのが良かったようだ。バイカル湖は世界最深で、また透明度も世界一である。狭い範囲を見ると十和田湖に似ているが、スケールが違う。世界地図でもはっきりわかる大きさだ。バイカル湖の美しさに見とれて気付かなかったが、反対の車窓からは、残雪を頂く山々が美しく見え、首がつりそうになった。
バイカル湖が見えなくなった頃、2泊3日の列車の旅が終わり、イルクーツクに到着した。我々は一旦ロシア号に別れを告げた。幸運?にも終点まで降りずに行ける坂西さんを乗せたままロシア号はモスクワに向う 。
イルクーツクにはhotelからの迎えのバスが着ていた。多分どっかのグループが頼んだであろう。私達も便乗させてもらった。hotelに着き、早速バイカル湖に行こうとおもったが、バイカル湖までは、車で1時間以上かかる。今(午後4:00)からでは遅すぎる。緯度型が高いため、日は暮れないがガイドが働かないそうだ。しかたが無いので明日にしよう。
夕食はhotelのレストランで食べた。今日もルーブル払いokだ。豚肉を俵状にして炒めたものと、トマトサラダそしてライ麦パンしめて13R、味も今まで食べた中で最高である。しかし、トマトサラダを頼むと直径20cmもあるお皿一面スライストマトが盛られてくるのにはびっくりする。「もしきゅうりサラダを頼んだら」と考えるだけで、ジン麻疹が出そうである。
今日から仲間にスイス人女性2名が加わった。叔母と姪で旅行しているという日本ではあんまり考えられない組み合わせだ。もし私が叔父さんと1年間も旅行すると思うと、考えるだけで頭がはげそうである。男と女と違えどもよくできるなあと感心した。叔母さんの方は学校の先生で1年間休職しているそうだ。姪の方は大学で法律を勉強しているらしい。それを聞いて杉江さんが姪に「egg of lower」と名付けた。久美子さんがそのことを彼女に英語で説明すると、とても気に入っていた様子である。話もはずんで来たので、hotelのbarに行くことにした。hotelのbarと言ってもhotelの最上階にありイルクーツクの夜景を一望というようなかっこいいものではなく、日本の大衆喫茶店といった感じだ。ビールはハイネケンがルーブル払いで13R。日本より安いがこれも観光客レートの恩恵か?しかし、よくよく考えてみるとHOTELの夕食と同じ値段である。日本だったら、ビール1缶、1980円といったところだろう。地元のおじさん達はひたすらウォッカを飲んでいた。
今日は皆さん気持ち良く酔えたみたいで、夜の散歩に出かけた。夜の散歩といっても、時間は午後10:00であるが丁度夕暮れ時で、美しい夕日を見ることができた。最初はシベリアの冷たい風がほてったほっぺに心地良かったが、日が沈んだ後は急に寒くなってきたのであわててHOTELに戻った。就寝前、杉江さんが「明日起こして」とわざわざ言いにきた。明日はいよいよバイカル湖だ。
午前7:00に目が覚めた。やっぱり大地はよく眠れる。目覚めは良好だ。早速シャワーを浴び杉江さんを起こしに行ったが、杉尾さんはもうシャワーを浴び、観光の支度まで終わっていた。山口さんにも声をかけ、朝食をとりにいった。朝食はチーズケーキ(玉子焼き?)、ソーセージ、紅茶、ヨーグルトそしてイチゴジャムである。「今日はライ麦パンがないのに、何でジャムがあるのだろう?」とみんな疑問だった。若しかして出し忘れと思ったが全テーブル出ていないようなので、出し忘れではなさそうである。「紅茶に入れるんじゃない?」と山口さんが笑いながら言った。みんなも笑ったが、それが正解だと気付いたのは、日本に帰ってロシア料理を食べに行った時である。ロシアンティーを飲んでわかった。
イルクーツクからモスクワまでは、ロシア号だけではなくバイカル号という急行列車も運行している。ガイドブックによるとバイカル号の方が豪華だという事だったので、バウチャーを取るときに希望したのだが、駄目だった。山口さんと杉江さんは運よくバイカル号に乗れるみたいだ。杉江さんはもう一日イルクーツクに泊まると言うことなので、バイカル湖の観光に行けるが、山口さんはバイカル号の出発がロシア号に比べ8時間も早く午前11時なので朝食後、出発準備に忙しそうであった。
バイカル湖には、残った私、久美子さん、アンドレアさんそして杉江さんの4人で行った。ガイド付ツアーだったので、4人で$50であった。ガイドは、大学生のアレックスという小柄ななかなか二枚目の男だった。
イルクーツクからバイカル湖までの道はシベリアのタイガの中をまっすぐに延々と続いていた。私がイメージしてたカナダのようでありとても美しい。その美しく広大な道の途中、2回休憩?した。1回目降りたところでは、高さ2MMぐらいの木の枝に端切れのような布があちらこちらに結んであり、その下にはガラスの破片が無数に落ちていた。
ガイドのアレックスの説明では、結婚式の後に、みんなでここに来て、シャンパンを飲み、あいたボトルをみんなで割るそうだ。そして、新郎新婦の今後の幸せを願い、細くきった布を枝に結び付けるのである。なんかとてもロマンチックな感じで日本の七夕のようだなと思った。今日は、名通訳久美子さんがいるのでとても良かったが、こんな調子で1人になっても大丈夫かなと少し心配になった。1度久美子さんを通さずに、アレックスと話してみようと試みた。
アレックスは、イルクーツクにある大学の学生で、夏休みの間だけ、ガイドのバイトをしているらしい。私も同じ大学生だが、なんか彼のほうが大人に見えた。ソ連の大学生は国から奨学金を借りられるのであるが、返済は日本のように借りた個人が返すのではなく、その個人を雇った会社が返すそうだ。うらやましいと思ったが、これも社会主義と民主主義の違いなのでしかたがない。
2回目の休憩は、いかにもブラックマーケットって感じのする商店の前で停まった。アザラシの毛皮の帽子にソ連軍の軍用時計等、どれも日本で買うことを考えれば非常に安いが国が国だけに持ち出したりするのが心配だったので何も買えなかった。
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