2009/12/17 - 2009/12/20
21位(同エリア81件中)
ぱぶさん
周防大島は大島大橋で本土に繋がっている瀬戸内海の島である。このスナップは橋を渡ってすぐのところにある、飯の山の山頂から撮った大島大橋の全景である。
淡路島、小豆島についで瀬戸内海第三の大きな島、面積137.8平方Km。人口はその昔、最大の頃は7万人を超えていたが現在は約2万2千人である。島内30ヶ所ほどの地点から弥生式土器や石器が発見されている。久賀の中学校校庭の地下6メートルから縄文式土器が出たので、人間が住み始めたのは一万年以上も前と推定される!
周防大島を故郷とする、ぱぶさんは今回、母の7回忌法要と言うことで、兄弟で島に集まった。弟夫妻が広島空港からレンタ・カーで帰るということなので、乗せてもらい(感謝)、更には兄の特権で、勝手にあちこち島巡りのサービスを頼みました!それで、この周防大島を4つのストーリーで4tra案内です。
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<場所、歴史、山の上からの景色、人口の推移、学校は?>
島はこの様な金魚の形をしている。古い文献に登場する大島は「古事記」で、イザナギ・イザナミの二神が大八州を生んで、次に「6つの島」を生み、その中に大島がある。本居宣長はこの大島を周防大島であろうと「古事記伝」に書いているとのことである。本土に近いところにある飯の山は、ところの人は「小富士」と呼び、この山の頂上に盤境(いわさか)とも思われる石組みが発見された。
万葉集にも大島をうたったものが結構入っており、遣新羅使のものが何首かある。
筑紫道の可太の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ
(新羅に使いするために、筑紫路に行く途中、大島瀬戸を通って大島を見たとき、ふと、大和の家においてきた妻のことが思い出された。別れてから、まだほんの少ししか経たないのに、もう恋しくなって思い出されてくることよ)
万葉集以外にも、古今集やその他にもいくつかある。
声をだにかよわんこそは大島やいかに鳴門の浦とかはみし (和泉式部)
大島の鳴門をすぐるほどなれや夜船に近き松風の音 (為平)
車で山頂まで登れる山が3つあり、この地図にマークした。①の飯の山(263m)、②の嵩山(だけさん=619mにはパラグライダーの飛び出しサイトあり)、③の白木山(しらきさん=374m)がある。それぞれの山頂には瀬戸内海の数々の小島が見渡せる素晴らしい見晴らしやぐらサイトがある。 -
飯の山からの景色の1はこの様
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飯の山からの景色の2。
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飯の山山頂見晴台には案内板もあるので、全体俯瞰が出来て良いですよね!
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嵩山からの眺めはこの様。ここからパラグライダーで飛び出せばきっとステキな瀬戸内風景を満喫出来るでしょうね!
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白木山からの景色はこの様。山頂には展望台もあるし、この山に据え付けられていた高射砲の砲台跡もある。もちろん、車で山に登る時は、タイミングを祈らないと、途中で他の車と出会うとちょっとすれ違いに困るでしょうね!登り口辺りは多少車道幅もあるけど、上に行くほどに狭くなり、とてもすれ違いは出来なくなるので、向き合ったらどちらか一方が危ない道を可なりバックして適当場所ですれ違うことになるのでしょうけど、とても危険でしょう!
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白木山の麓からの形。ぱぶさんは、毎日この山を眺めて育ち、お正月には初日の出を拝みに登ったりしたものである。丁度富士山の1/10の高さで、ちょっと形も似ている。
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この白木山の頂上からぱぶさんの平野(ひらの)部落を見下ろすとこの様。
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また、このスナップに見える今や陸続きとなっている小島2つは、新宮(しんぐう)島と呼ばれ、ぱぶさんちの隣のMさん所有の島であった。(このMさんちは早くに下関の方に移ったので今も所有しているかは不明) 新宮島は、以前は干潮となると歩いて渡れ、貝堀り等も楽しめたのだが、今はこのスナップに見るように地続きとなり、消波堤も出来たりしている。
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白木山からの別の風景スナップはこの様。
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金魚の様な形の周防大島にはJRと防長バスの2つのバスが海岸線に沿って走っている。左海道(広島側)と右海道(九州側)である。ぱぶさんの育った平野(ひらの)は金魚の尻尾のあたりです。周防大島は岸、佐藤他有力代議士の選挙区でも有って、このみかん畑の島には山の中腹辺りを立派に舗装された2車線の農道(オレンジロード)が島の端から端まで走っている。もちろん、信号もないし、この農道とバスの通っている県道とのつなぎは必ずしもスムースではない!
大島のバスはずーと以前は国鉄の唯一の黒字バス路線と言われていた時代も有ったが、過疎化が進んだ今はバスの本数も少なく、バスを利用する乗客も少なく、きっと大赤字路線となっていることは間違いなかろう。 -
周防大島の過疎化は学校の推移を見れば一目瞭然である。ぱぶさんの通った小学校は今も場所を少し移動して、建物も立派になって残っている。生徒は周辺部落いくつかが一緒となって通ってくるのである。一時期、複式学級(1年から〜3年まで?と言った横断クラスが編成され)、お陰で、先生、給食係りのおばちゃん他職員の数の方が学生数より多かった!?森野小学校のHPによると現在全校生徒数は27名の様である。ぱぶさん訪問時のこの時は学校の運動場には老人会(青年部?)のゲートボールかグラウンド・ゴルフの様な競技が行われており、こちらの人数の方は結構いるようである。
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昔の小学校の建物の一部は図書館となって残っている。
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中学校は金魚の尻尾の部分が東和町として合併発足したころに統合され、こちらは隣部落の方に通うこととなり、ぱぶさんはこの校舎を知らない。
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以前の中学校の跡地には別の建物が建ち、「自然休養村管理センター」なる看板が上がっている。
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更に、最近大島郡に有った4つの町が単一の周防大島町となってより、高校まで合併して一つになった!周防大島高等学校である。
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ぱぶさん卒業の旧・安下庄(あげのしょう)高校はちょっと小高い丘の上にある。校舎は増築等の変化はあるものの、看板だけ変わり、基本的にはそのまま残っている。小学校も高校もグラウンドは海に面していたのだが、今や埋め立てでそれぞれグラウンドから浜や海に降りていける風景では無くなっている。
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周防大島と言えば貧乏村の別名であった時代もあった。朝、夕のいも茶粥と副食の漬物、味噌、梅干しなどの食事が大島の常食であった。しかし、いも茶粥は煮ばなを食べると、美味で、米の節約といもでの満腹感もとれ、貧しい島の生活の知恵から生まれた郷土食である。山が海に迫る大島では、米も僅かばかりしか出来ない。それで、江戸享保年間頃に入ってきたさつまいもの栽培が飢饉を救った。島の山々はふもとから頂上へ段々畑が耕され、収穫量を増やし食生活を豊かにし、実際、人口も増えた。今では芋は家庭菜園で作る程度で、段々畑に芋畑を見ることは無い。その後の農業指導でみかん栽培が奨励され、大島は一躍みかんの故郷となった。みかん畑は今も沢山見られる。
人口が増えてくると、狭い島での農業や漁業だけでは生計が立たなくなり、出稼ぎが必然となる。石工、船乗り(水夫・こぎ手)、遠海漁業、浜子(塩田作業者)、大工、瓦師、しょうゆ杜氏、盛んになってきた北九州地区の炭鉱や製鉄作業員として働くようになった。シーズンのみの出稼ぎもさかんとなった。 -
明治18年(1885)の第1回官約移民で150人もの大島からのハワイ移民のスタートより、大島は「移民の島」とも呼ばれ、「帰化市民権」を持つ大島出身者は昭和15年(1940)頃で既に1万人もいたとのことである。ぱぶさんの親戚もハワイに2系統あって、2世家族は両系統とも兄弟が7〜8人あり、その子供の世代でまたまた増えている。ぱぶさんが2年間ハワイで大学院留学していた頃、これらの親戚筋から大歓待を受け、ぱぶさん&友達も含め感謝、感謝であった。
大島は戦後も特に、子供は大学校で、また卒業で職を求めて島を離れ、盆暮れには故郷に戻ると言ったことが繰り返され、「盆暮れに沈む島」と呼ばれた。即ち、盆と暮れには人口が2倍にもなると言う意味である。今では、日頃は老人ばかりの島となってしまった。
昭和60年(1985)にはホノルルで「官約移民百年祭祝賀式典」が開催され、大島から171人の訪問団が出席し、姉妹都市を結んでいるカワイ島などハワイ各地を訪れた。 -
ぱぶさんが子供の頃は地引網、沖網(2艘の船で沖から浜辺まで網を張り、魚網を手繰り寄せる漁法)等盛んで、これらに参加して、取れた魚を分けてもらっていたが、今では網元もなくなり、漁港にはつり船やはえ縄、たこつぼ漁と言った船が認められる。
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周防大島は九州−江戸の船旅の中継地としても栄えたようだ。大泊、小泊と言った船の停泊の名残を示す地名もある。江戸時代にもかの有名なシーボルトが江戸に向かう途上、周防大島に上陸したと言う記念碑もある。
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更に、明治維新の前、長州は江戸幕府から朝敵と名指され「四境の役大島口」を迎えた。これは、禁門の変で幕府側から長州征伐を受けることとなり1866年第二次征長軍が四ヶ所の国境(芸州、萩、下関、上関?)から攻撃が来るものと予想された。上関にあたる大島が攻撃の対象となり、6月7日の早朝、突然幕艦「富士山丸」(1000トン)を含む和船100隻ほど、松山藩中心の2000人が久賀や安下庄、和田と大島を南北より挟み撃ちでやってきた。防備は全く無かったので、村や町は焼き払われた。大洲鉄然は早駕籠で救助を山口に求める。騎兵隊の高杉晋作らに出動命令が出され、6月13日、早暁(午前2時)、勝ち戦に完全に安逸を貪っていた、幕府軍は深い眠りを襲われ大混乱の内に遁走した!
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島内に留まっていた足軽部隊は長州軍の山の上からの地の利を得た攻撃と島民の兵站応援もあって、総崩れとなり夜の闇にまぎれて沖の船にたどり着き逃げた。およそ二週間に渡る大島口の戦いは終わった。長州側の死者は27人、負傷者35人。幕府軍は100人ほどの死者と言われている。また、大島口の戦いの勝利のお陰で、四境と言われる他の三境にも幕軍を一兵も入れないで済んだので、明治維新にとっても大きな意義があったと言われる。
このあと、「金魚の形をした島、周防大島(屋代島)(2) “のんた”大島良いところ」 に続く。
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この旅行記へのコメント (11)
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- うえのっちさん 2011/10/12 13:45:02
- 島への愛でいっぱいですね
- よまさせていただきました。
周防大島への愛でいっぱいの日記、
とてもとても素敵でした。
ありがとうございます。
- ぱぶさん からの返信 2011/10/12 18:19:50
- RE: 島への愛でいっぱいですね
- うえのっちさん:
早速にぱぶさんサイトの「周防大島」にご訪問&一票も有難うござい
ました。
過分の評価のお言葉にも感謝です。ダイビングますます磨きをかけて
楽しい報告お待ちしています。
追:ぱぶさんもダイビングを50歳くらいから始め、若いカワイ子ちゃん
たちと、色々各地で楽しいダイビング、素晴らしい海中の景色、お魚さん、
サンゴや浦島太郎の竜宮城の様な世界を大いに enjoy してきました。
4traにもハワイやアカバの様子をあげています
http://4travel.jp/traveler/pabusan/album/10501845/ &
http://4travel.jp/traveler/pabusan/album/10115725/ 他
し、また、HPにも昔のダイブ・ショップの仲間達との楽しいツアー
をまとめていますよ!
http://homepage3.nifty.com/pabusan/index.html
これらにもお手すきの折、クリックご訪問ください。 感謝! m(__)m
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- のんほさん 2010/04/08 00:49:19
- 遡って知れました
- ばぶさん:
はじめまして。
周防大島のご出身なんですね。
今回の旅行で行った場所の来歴を知ることができました。
最近の周防大島は観光地としても人気なようで、のんびりしていたら、3月の連休は宿の予約がとれず、島の北側の路線しか回れませんでした。南側は、祝島に行くときに船から見ただけ、残念です。
ところで、伊保田から平野に向かうバスの中から、砂山のような小さな島が見えました。砂利を採掘しているようにも見えたのですが、とにかく「砂山」という感じの灰色の島で、ちょっと驚きました。何の島なんでしょう。
- ぱぶさん からの返信 2010/04/08 13:12:56
- RE: 遡って知れました/まだ周防大島紹介ブログは続きますのでよろしく! (*^_^*)
- のんほさん:
ぱぶさんサイトをご訪問、一票の他にカキコも有難うございます。
現状では周防大島はバスではとても見たいところを回るには不便でしょう。
ご質問のバラス(砂利)採石の島の名は乙小島(おつこしま)と言います。田舎では”おとしま”と言ったように呼ばれていました。ぱぶさんが小学生のころ、当時80歳くらいだったおじいさんに連れられて毎夏の様に、弁当もって手漕ぎの和船で魚釣りに行った楽しい想い出の地です。この島の近くの磯でおじいさんが上手に蛸を釣る状況を思い出します。なお、この島は町の所有とかで、町の財政にとても大きく寄与して来たと聞いています。
のんほさんは周防大島交流センター内にある宮本常一展示室を訪問されたそうですね。同じところにある、もう一人の有名人、星野哲郎さんの記念館、こちらもご覧になりました?
ぱぶさんの周防大島紹介はあと二つ(”島巡り”と”ほんにさいさいきんさいね!”と)続ける予定ですので、またご訪問下さい。よろしくです。m(__)m
- のんほさん からの返信 2010/04/08 23:06:28
- RE: 遡って知れました
- ばぶさん:
やはり、聞くなら地元の人ですね。同じような島がいくつかあるのに、あの島だけで、そういう砂利を採っているのもおもしろいですね。
しかも、和舟で漕いで渡ったなんて、まさに宮本常一の展示室の世界そのまま。 舟はもうなくなってしまったのでしょうか。
瀬戸内はまた機会があれば行ってみたいです。
それまで、こちらのブログで予習させていただきます。
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- 385さん 2010/03/26 18:12:41
- 周防大橋と、シーボルト記念碑
- じっくりと訪問させて頂きました。
今でも自然が一杯な風土、リュックを背に歩きたい・・・土地です。 以前「瀬戸内晴海」さんも著書にも記されていることを思い出しました。 飯の山からの景色は想像を豊かにしてくれます。
島内地点からの弥生式土器や石器・縄文式土器・・・ロマンの世界ですね。
私はブログを拝見して暫し想像の世界に入りこんでいました。
今でも訪れたい土地です。有難う御座いました!!
- ぱぶさん からの返信 2010/03/27 13:28:07
- RE: 周防大橋と、シーボルト記念碑
- 385さん:
何時もぱぶさんサイトをご訪問、コメント、1票も有難うございます。
瀬戸内晴海さんの著書に周防大島のことが書かれたものがありましたか?
ぱぶさんは知りませんでした。周防大島の有名人は星野哲郎さんと
宮本常一さんです。お二人ともの記念館が平野に有ります!
ぜひ、周防大島をご訪問下さい!!(済みません、面倒見る親戚筋も
皆、今は周防大島にはいません。) (?_?)
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- ぬまちゃんさん 2010/03/23 20:31:10
- 周防大島
- ぱぶさんへ
金魚の形をした周防大島のブログ拝見しました。
瀬戸内海の海を見て育ったなんて素敵ですね。
淡路島、小豆島は知っていましたが周防大島(金魚島)
はこのブログで知りました。いい勉強になりました。\(^o^)/
周防大島を地図で探しました。本当に金魚の形をしていて
尻尾のところに平野地区もありました。
片添ヶ浜も素敵ですね。
立岩海水浴場の海岸沿いを自転車で高校に通っていたなんて、
いい思い出ですね。
私は海が大好きですので浜辺で1日中よせ来る波を
眺めていたいものです。因みに私の出身地は鶴舞う形の群馬県です。
- ぱぶさん からの返信 2010/03/23 21:58:42
- RE: 周防大島
- ぬまちゃんさん:
何時もご訪問有難うございます。コメント・カキコと合わせ、一票投票も
有難うございます。
ラウド・スピーカー(拡声器?)のぱぶさんの周防大島に引き込まれ
地図でまで確認とはこのブログをあげた目的、大達成ですね! (*^_^*)
金魚の形の島のみならず、尻尾のところの平野や片添ケ浜まで確認下さって、
更に、ぱぶさんが毎日高校に自転車通学していた当時見てきた立岩海水浴場
までも画像で見てコメントいただき、感激です!”のんた大島良いところ”
を思い出させてくれます。
ぜひ、ぬまちゃんさんの鶴舞う形の故郷もご紹介下さい。
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- 横浜臨海公園さん 2010/03/22 07:27:31
- 周防大島
- ぱぶさま、はじめてメッセージを差し上げます。
周防大島の旅行記を拝見させて頂きました。
小生、昭和53年に戦艦陸奥爆沈の遺蹟を偲ぶべく周防大島を訪れており、また、その後も山陽本線乗車の際や松山までのフェリー乗船の際に大橋下の渦潮に見とれております。
昭和53年当時は大畠駅裏から町営汽船を引継いだ国鉄のフェリーが就航しており、列車に連絡して満員の船が対岸に到着すると乗船客は先を争うように島内を走る国鉄バスに向かって席取りの為に走っていた光景を覚えております。
横浜臨海公園
- ぱぶさん からの返信 2010/03/22 12:21:57
- RE: 周防大島
- 横浜臨海公園さん:
ぱぶさんのブログサイトご訪問、コメント書き込み有難うございました。
久し振りに故郷を訪問する機会がありましたので、この際、4traで
全国版に紹介しようと拙い旅行記をあげたものです。
横浜臨海公園さんは昭和53年に大島を訪問され、戦艦陸奥の記念館を
見学されたのですね。当時は大島大橋が開通(昭和51年7月4日)すぐの
ころで、まだフェリーも運航中だったのかもしれませんね。
ぱぶさんもバスに乗るため走った光景を思い出します。
周防大島のご案内もあと2編準備中で、こちらには陸奥記念館や星野哲郎
記念館も予定していますので、また、ご訪問下さい。
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