2010/01/17 - 2010/01/17
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しんちゃんさん
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栃木県の「栃」は中国人には読めません。漢字は普通中国から渡ってきましたが、「栃」は日本の栃木県で作られたからです。試しに宇都宮大学に中国から来ている留学生2人になんて読むか聞きましたが、中国には栃という漢字は無く読めませんでした。そんな栃木県の名前の由来を訪ねてみました。洒落(しゃれ)で付けられた県の名前は日本で栃木県だけではないだろうか。
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栃木県の名前の由来のきっかけは…【栃(とち)は洒落(しゃれ)から始まった 栃木という県名の由来が明治時代の県庁所在地「栃木市」に端を発していることは、多くの県民が理解していることだろう。では、その栃木の語源は、というと殆どの県民は知らないのではないか。素人考えではあれば「その昔、栃木にはトチノキがたくさん生えていて、それが訛ってトチギになった」という嬉しい推論も成り立つが、現在では次のような解釈で、県関係の文書には説明されている。・・・
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・・・その昔、現在の栃木市城内地内に「神明宮」という神社があって、人々の信仰を集めていた。その社の屋根には「千木」と書いて「ちぎ」と呼ばせる冠のような構造物が付いていた。伊勢神宮や出雲大社の千木は巨大なことで有名である。通常は屋根の端と端に一対付いているのが普通だが、神明宮のそれは十本もあってたいそう立派であったそうな。・・・
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・・・実際の残り八本は鰹木と呼ばれる頭飾りだったろうが、目立っていたことだけは確かだと思う。ロマンチックな人はもう気付いたただろうか。そう、「千木」が「十」あって即ち「十千木」なのである。言わば洒落の産物なのだ。さらに、とちぎに当てられた漢字がまた奢っている。千を十倍して万になることから、とちの漢字には「杤」といういう文字が使われていたのだ。現在では石という意味の「厂」を付けて表記する。これが明治十二年に決められた国字「栃」の字だ。】栃木県県民の森管理事務所「森林展示館・マロニエ昆虫館」より
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以上の情報を元に栃木市の「神明宮」と神社を訪ねてきました。
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殆ど読めない「神明宮御由緒」
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なぜ栃木市の神社の屋根から栃木県になったかのか。
まず、消された「懸(県)社」の文字を見てください。栃木県は明治の初め栃木市に県庁がありました。栃木市のホームページからです【応永10年(1403)、栃木城内神明宿(現神田町)に創建されたという。天正17年(1589)正月16日、皆川広照により現在地へ移され、栃木町の総鎮守になった。社殿は伊勢皇大神宮に倣い、神明造りである。明治5年(1872)県社となる。現在の拝殿はもと、中教院の講堂として、明治8年(1875)につくられたものを使用している。栃木の地名は、この神明宮の屋根ぐしの千木(ちぎ)から出たとも言われている。】現在は県社でないため消されています。モルタルで文字を埋めました(はっきりわかりますが、消したつもり) -
明治4年7月に廃藩置県が実施され、それまでの「藩」はすべて「県」となり多くの県が成立しましたが、その中に「栃木県」の県名はありませんでした。宇都宮県 大田原(おおたわら)県 黒羽(くろばね)県 烏山(からすやま)県 茂木(もてぎ)県 壬生(みぶ)県 吹上(ふきあげ)県 佐野(さの)県 足利(あしかが)県 日光(にっこう)県でした。
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「神明宮」案内板より
【愛国の人道を教化するのを目的として、明治五年に大教院を東京に設け明治六年には、中教院を各都道府県に置くことになり、栃木県には大田原 鹿沼 宇都宮 足利に小教院を設け、栃木に中教院を置きました。しかし明治八年に神仏共同布教が廃止となり、神道の統一を図るために、事務局を各地方に設けました。その名残の建物を拝殿として現在の場所に移築したものです。全国的に存在しているのは珍しい建物です。また、当神社は「栃木県」県名発祥の地として市民に親しまれています。】 -
中教院という格式で上位を占めた「吹上県」(ふきあげけん)から「とちぎ県」になる過程が魑魅魍魎(ちみもうりょう)ネットを探しても見つからない!喧々諤々( けんけんがくがく)元武士、商人、豪族、お坊さん、名主等色々な方々が集まって「壬生県 吹上県 佐野県 足利県」をひとつの名前に決まらない…無難な名前が無いものか?相談する様が目に浮かびます。
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思うに、中教院は江戸時代“藩”の禄高の多い「宇都宮藩」にしなかったのか。栃木(吹上藩)は江戸幕府より朝廷から東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道だからであろうか。謎は多い。
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結論(理解できた事):明治4年7月14日新政府は全国を3府302県とした。現在の栃木県は「宇都宮県 大田原県 黒羽県 烏山県 茂木県 壬生県 吹上県 佐野県 足利県 日光県」10県となった。江戸時代の藩が県に名前変えしただけだった。これでは色々不便であったので、明治4年11月にさらに統廃合を行い「栃木県」と「宇都宮県」の2つに整理統合した。このときに今まで無かった「栃木県」が急に現れてくる。このとき曖昧な色々な漢字(栃、杤、橡)を使用していたため明治5年10月(1872年)県庁構内に広報を張り出し統一を図った。明治6年(1873年)の宇都宮県と栃木県が合併され、栃木県となる。県庁は栃木県側に置かれる。(*1)全国では 明治9年(1876年)府県は38にまで整理された。明治17年(1884年)1月21日、県庁はついに宇都宮へ移転した。(*2) 。
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知恵授けの輪をくぐる、お母さんとお父さんと子供
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注の意味 *1:県庁は栃木町(現在の栃木市入舟町12-4、現在の栃木県立栃木高等学校付近、県庁堀という堀が残っている)
*2:1873年(明治6年)の宇都宮・栃木両県合併後の栃木県の県庁は栃木町に定められた。これにより起きた宇都宮町に県庁を移転させようとする運動は、1882年(明治15年)4月より公的運動と化し急速に発展した。8月には那須・塩谷・芳賀・河内・上都賀など205町村の賛成を得、栃木側、宇都宮側双方が内務省に請願陳情委員を上京させる異例の事態となるが、移転陳情書は却下される。
翌年、三島県令の赴任を機に移庁運動が再燃。満を持した宇都宮側の運動が適切を極めたのに対して、栃木側は前年ほどの活気を見せず、河内郡長・川村伝蔵の政治的手腕と三島県令の政治的判断により、1884年(明治17年)1月21日、県庁はついに宇都宮に移されることとなった。 -
神主さんもお餅つき。一段落した時に「栃木県の名前に付いて調べに来ましたが…」と尋ねたが、どうも神社の屋根から国字、常用漢字にまで出世した“栃”の話はしたくないようでした。「詳しい説明版がありませんね」と言っても「・・・・」神主さんがブログを書いていると小耳にしましたが「 全国神職ブログ集」を検索しても無かった!
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餅つきスタッフの方々
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無料で配られるお餅
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餅と戦う子供たち
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餅と戦う子供たち
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神明宮本殿の南側のお宮。しんちゃんが思うに、権力と利権が絡み合い複雑快挙「栃」の漢字が出来上がりました。瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)、嘘(うそ)からでた真(まこと)もっと探索したいが、この辺でこの「栃木県名の由来の巻」は一旦休憩します。奥が深くて困る!ご清聴ありがとうございます
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神明宮本殿の南側のお宮:今回の参考HP
「http://www.geocities.co.jp/NatureLand/6432/tochinoki.html」こだわりのトチノキ学
「http://www.pref.tochigi.lg.jp/intro/tochigiken/hakken/mamechishiki4.html」栃木県HPより
「http://www.city.tochigi.tochigi.jp/hp/menu000002000/hpg000001609.htm」栃木市公式HP
「http://www.tochigibank.co.jp/f801/origin/utsu.html」栃木銀行HPより
「http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/geodata.htm」Bonvenon al la Hejmpagho de ISSIE
イッシーのホームページへようこそ。
「http://tutorial.jp/thought/koshi/koshiki.pdf」国家神道の基礎知識
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等より参考にさせていただきました。 -
公園をはさんで南側の「満福寺」も見学しました。
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栃木市観光協会では【孤高の日本画家・田中一村が眠る。当山には、近年、没後その画業と作品が大きな反響を呼んだ本市出身の孤高の日本画家・田中一村が眠っており、本堂の前にその供養碑が建っています。】と紹介しています。
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供養碑は本堂左側で目立つがお墓は案内板が無く分からなかった。
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逆光で旨く映らない、こっちからではどうだ!
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本堂に三人の鬼がいます。節分に、ここのお寺は「鬼は外」とは言わないそうです。なんて言うんだろう?
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栃木市観光協会では【赤・青・黒三体の「三鬼尊」は、我国でも珍しい鬼神像で、中央の青鬼は鎖につながれています。その由来は、昔酒屋を荒らしたため縛られたという民話で、古来より、招福厄除、育児安産、疫病平癒に信仰を集めています。青鬼は、左甚五郎作とも定朝作ともいわれて、昭和36年(1961年)に市指定文化財(彫刻)となりました。】と満福寺を紹介しています。
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行った気になる「しんちゃんさんの旅行記」自分で読んで下さい。
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小さな、小さな城跡です。「栃木城址公園」
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場所が変われば必ずその場所の文字を写しておかないと「ここ何処だっけな〜〜」と必ずなります。
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こっちも自分で読んで下さい。
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巴波川と塚田歴史伝説館。巴波川…読めないよね〜「うずまがわ」
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巴波川(うずまがわ)栃木観光協会からです【栃木の歴史の中心。 幕末期から昭和初期に栄えた問屋町、北関東の商都と呼ばれた栃木市を支えた巴波川。巴波川舟運の発達により、東京、埼玉、千葉、茨城などへの物資輸送だけでなく、関東と南東北の流通を結ぶ結節点として、問屋業、製造業発展を支えた。栃木市の発展に大きな役割をはたしてきた巴波川の舟運は、元和3年(1617)、徳川家康の霊柩を久能山から日光山へ改装した際、御用荷物などを栃木河岸に陸上げしたことにはじまる。その後、物資の集散地として、部賀舟(べがぶね)などが往来し、江戸との交易を盛んにした。】
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栃木市名物「ジャガイモ入り焼きそば」を食べました。
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栃木市名物「ジャガイモ入り焼きそば」を食べました。
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「ジャガイモ入り焼きそば」500円。栃木市観光マップは「http://www.kuranomachi.jp/sightseeing/pamphlet.php」からどうぞ。
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お好み焼き「おおで」境町8-24
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蔵の街観光案内所は蔵です。暗!なんて言わないで。
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交番も蔵。……あとがき……しんちゃんの考えではありますが、新政府は神仏分離、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を推し進める中、同調した輩(やから)の仏教排斥の動きが激しく神道は国教化へと結びついてゆく、仏教にいままで苦しめられた人、土地を取られた人は国家神道を崇拝した。しかも新政府の教えである反対すると賊軍になる。そんな中で神社の屋根から新しい名前を考えた。これらの方々に敬服します。そうして、現在も栃木県名の由来は「栃の木」からと街路樹を皆トチノキにして、マロニエプラザ、マロニエ県庁コンサート云々かんぬん、トチノキと「栃木県」は定着化しているのである。Googleで「栃木県 トチノキ」を検索すると49300件のヒットとなる。十千木(トーチギ)万歳!(降参の意味です)政治と宗教の話は終わりがないのである!
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この旅行記へのコメント (1)
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- しょうちゃんさん 2010/03/13 12:30:31
- RE: コメント(栃木県)
- しんちゃん 今日は
栃木県の地域は、おおきく県北、県中央、県南に分かれます(研修で知り合った栃木県女性教官の話)。下野新聞社から「下野動乱(だったか)」の本が発行されています。栃木県は、戊辰戦争の戦場(足利・今市の戦いなど)になりました(付近には戦死した人のお墓「例、足利浅間山の麓・福居)」があり、なかでも会津藩兵などのお墓には、新政府に慮って名前が記されておりません)。奥羽列藩同盟の支援(特に会津藩)を受けた宇都宮藩の拠点である宇都宮城は、薩長側に加わった(たしか5万石の)大田原藩(小銃を装備した兵・たしか500名)によって攻められ、炎上・落城しています。そのような状況を考えれば、(親藩であった)宇都宮に県庁がおかれるわけはないでしょう。
なお、鉄道が開通するまでは、川や海に面した都市(例、大阪)が物流の拠点です。従って県南(栃木市のうづま川、小山市の思川)産の物資(例、小麦・干瓢)は渡良瀬川・利根川を経由して、江戸に運ばれていました。これらの地域(桐生・太田・足利・佐野・栃木など)は両毛地方と呼ばれ、江戸(東京)とのつながりが強い地方です。
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