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 徳島の城跡を3カ所見て廻った。始めに、山城(62m)である撫養城を訪れた。築年代は不明であるが、古くは小笠原氏の居城であったが天正13年(1582年)長宗我部元親により攻略された。しかし、天正13年(1585年)秀吉による四国平定で阿波一国は蜂須賀家政の領する所となった。一宮城も山城(144m)で石垣のみ残っている。延元3年・歴応元年(1338年)小笠原長宗により築城。長宗我部元親の侵攻の際、城主は和睦と偽られ謀殺された。秀吉の四国平定の際には、重臣忠澄が秀吉軍の攻撃をよく防御したが開城した。蜂須賀氏が阿波入封後、最初にこの城に入ったが徳島城を築城し、本拠を移した。<br /> 最後に勝瑞城による。ここは平城で、細川氏の守護館跡であり三好氏三代にわたる居館跡であるとされてきた。県史跡に指定され現在も発掘調査が行われている。

名城・古城巡り(阿波撫養城、一宮城、勝瑞城)

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2009/12/13 - 2009/12/13

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ひま人

ひま人さん

 徳島の城跡を3カ所見て廻った。始めに、山城(62m)である撫養城を訪れた。築年代は不明であるが、古くは小笠原氏の居城であったが天正13年(1582年)長宗我部元親により攻略された。しかし、天正13年(1585年)秀吉による四国平定で阿波一国は蜂須賀家政の領する所となった。一宮城も山城(144m)で石垣のみ残っている。延元3年・歴応元年(1338年)小笠原長宗により築城。長宗我部元親の侵攻の際、城主は和睦と偽られ謀殺された。秀吉の四国平定の際には、重臣忠澄が秀吉軍の攻撃をよく防御したが開城した。蜂須賀氏が阿波入封後、最初にこの城に入ったが徳島城を築城し、本拠を移した。
 最後に勝瑞城による。ここは平城で、細川氏の守護館跡であり三好氏三代にわたる居館跡であるとされてきた。県史跡に指定され現在も発掘調査が行われている。

同行者
友人
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
観光バス 私鉄

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  •  阿波撫養城天守閣(再現)、現在は県立鳥居記念博物館となっている。徳島県が生んだ著名な人類学・考古学者である鳥居龍蔵博士(1870〜1953年)の業績を顕彰するため建設された。

    阿波撫養城天守閣(再現)、現在は県立鳥居記念博物館となっている。徳島県が生んだ著名な人類学・考古学者である鳥居龍蔵博士(1870〜1953年)の業績を顕彰するため建設された。

  •  妙見神社、撫養城の敷地に鎮座。天保元年(1830年)旧城主四宮氏の子孫、四宮三郎左衛門らが再興したもの。裏の石垣は撫養城の石垣の転用と見られる。

     妙見神社、撫養城の敷地に鎮座。天保元年(1830年)旧城主四宮氏の子孫、四宮三郎左衛門らが再興したもの。裏の石垣は撫養城の石垣の転用と見られる。

  •  一宮城石垣本丸跡。

    一宮城石垣本丸跡。

  •  一宮城石垣。

     一宮城石垣。

  •  一宮城跡(標高144m)登山口。

    一宮城跡(標高144m)登山口。

  •  一の宮大日寺(一宮城登山口前にある)、四国霊場第13番札所、寺伝によると弘仁6年(815年)弘法大師が四国巡錫の際、この地で修業していた時、大日如来が現れ、この地は霊地であるから一宇を建立すべしとお告げがあった。そこで弘法大師は自ら大日如来を刻み、堂を建て、像を安置した。

     一の宮大日寺(一宮城登山口前にある)、四国霊場第13番札所、寺伝によると弘仁6年(815年)弘法大師が四国巡錫の際、この地で修業していた時、大日如来が現れ、この地は霊地であるから一宇を建立すべしとお告げがあった。そこで弘法大師は自ら大日如来を刻み、堂を建て、像を安置した。

  •  一宮神社、本殿は国重文。阿波国の祖神大宜都比売命を祀る。延元3年(1338年)に一宮城を築いた小笠原長宗が城内に勧請して大宮司となった。古くから一宮大明神と称し、広く信仰を集めていた。社が城郭内にあったため、しばしば兵火にあった。

    一宮神社、本殿は国重文。阿波国の祖神大宜都比売命を祀る。延元3年(1338年)に一宮城を築いた小笠原長宗が城内に勧請して大宮司となった。古くから一宮大明神と称し、広く信仰を集めていた。社が城郭内にあったため、しばしば兵火にあった。

  •  勝瑞城跡、勝瑞義家碑。城郭内は三好氏の菩提寺である見性寺の境内地になっている。

     勝瑞城跡、勝瑞義家碑。城郭内は三好氏の菩提寺である見性寺の境内地になっている。

  •  勝瑞城跡碑、国指定史跡。正平18年(1362年)細川頼春によって築かれた。細川氏はここを中心に四国近畿一円に勢力を持つが応仁の乱以後、家臣の三好氏の台頭にあい没落する。長宗我部元親の侵攻により中富川の合戦で城主十河在保が敗れると落城し廃城となる。

     勝瑞城跡碑、国指定史跡。正平18年(1362年)細川頼春によって築かれた。細川氏はここを中心に四国近畿一円に勢力を持つが応仁の乱以後、家臣の三好氏の台頭にあい没落する。長宗我部元親の侵攻により中富川の合戦で城主十河在保が敗れると落城し廃城となる。

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