2007/06/22 - 2007/06/24
95位(同エリア231件中)
ナオさん
2007年NHKのテレビで「風林火山」が放映されましたが、その中で武田方の重臣として活躍していたのが真田幸隆です。今回は真田氏の発祥の地真田から、それぞれの墓地のある寺、幸隆の子、真田昌幸の築いた上田城、真田信之が上田から松代に移封されてからずっと真田家の城下だった松代までをたどってみました。
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国道144号線沿いの真田公園には、「真田太平記」の著者、池波正太郎氏の直筆による「真田氏発祥の郷」の碑が建っています。
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真田公園には岡田益雄氏による真田氏三代(幸隆、昌幸、幸村)のレリーフもあります。
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真田の案内図です。真田氏発祥の地、真田には真田公園のほか、御屋敷公園(真田氏館跡)、真田氏歴史館、真田氏本城跡、真田家の菩提寺で幸隆、昌幸の墓のある長谷寺(ちょうこくじ)、長篠の戦いで戦死した幸隆の長男信綱と、次男昌輝の墓のある信綱寺(しんこうじ)などがあります。
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真田氏居館跡(お屋敷公園)です。ここは、真田氏が上田城を築城するまで屋敷を構えていた場所で、地元では御屋敷と呼ばれています。 今では御屋敷公園として整備され、ツツジの名所となっています。
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御屋敷公園に隣接して建つ真田氏歴史館には、真田家の家宝の武具、調度品、文書、美術品が所蔵展示されています。ここは歴史の宝庫で、一族の活躍の足跡が時代の流れに沿ってわかりやしく解説されており、真田氏を知るには避けては通れない所です。 写真を写せるのは玄関ホールまでなので、この写真しかお見せできませんが、後は実際に行って見てください。
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真田にある信綱寺にやって来ました。見えているのは信綱寺の山門です。
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信綱寺は、真田幸隆の長男信綱夫妻と次男晶輝のお墓と、宝物館のある寺です。
真田信綱は、父の幸隆、弟の昌輝と共に武田氏に仕え、武田二十四将の一人といわれ、数々の戦功を上げましたが、長篠の戦いで、弟の昌輝と共に戦死しています。これは、家督を継いで一年後のことでした。
宝物館には、血染めの陣羽織などが残っています。
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続いてやってきた長谷寺は、真田幸隆が妻の菩提寺として開基した曹洞宗の寺院です。
後には、真田家の菩提寺となりました。ここには、真田幸隆夫妻と、真田昌幸の墓があります。真田昌幸は幸隆の三男ですが、長篠の戦いで二人の兄が戦死した後、急遽、家督を継ぎ、武田氏滅亡の後、織田、北條、徳川氏に仕えながら、巧みな外交手段で領土を拡大していきました。上田城を築き、戦国大名としての地位を不動のものとしたのが、昌幸です。
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長谷寺にある真田幸隆夫妻と真田昌幸の墓です。真田昌幸は、上田城で二度に渡り、徳川の大群を撃退するものの、関が原の戦いの後、最期は高野山、九度山に流され、真田の地を踏むことなく亡くなっています。
昌幸の長男真田信之は上田から松代に移封となった時、松代に菩提寺として真田山長国寺を建立しましたが、真田の旧菩提寺、真田山長谷寺も良く管理されています。
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武田氏亡き後、信濃の領主となった真田昌幸が築城したのが、上田城で、上田城は「尼ヶ渕城」とも呼ばれています。
その後、上州の真田領を巡って徳川家康と争いが起こった時は、真田昌幸、幸村親子は上田城で、わずか二千で、徳川方八千の敵を迎え打ち、天下にその武名を示しました。
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上田城址は現在上田城址公園として、市民の憩いの場所となっています。春の桜の時期には、「上田城千本桜祭り」が行われます。
ここは、上田城址公園に祭られている真田神社です。真田神社には昌幸、信之、幸村の霊が祭られています。知将、真田氏らしく、ここは学業の神様として知られています。 神社の裏には、真田井戸と呼ばれる抜け穴があります。井戸の途中にある横穴は、太郎山の麓に通じていたそうです。
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知将、真田氏が祀られている真田神社には、「六文銭の知恵の輪くぐり」がありました。
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ここには、真田幸村・大助の親子の下で活躍した霧隠才蔵、猿飛佐助、根津甚八、筧十蔵、望月六郎、穴山小助、三好青海入道、海野六郎、由利鎌之助、三好伊三入道の「真田十勇士」が紹介がされていました。
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上田城は現在残っていませんが、この一角だけが復元されています。
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真田の地から掘り出した真田石は、上田城で一番大きな石です。昌幸が上田城築城のおり、固め石として埋めたものだそうです。
信之は松代に移封の際、この石を持っていこうとしましたが、重くて動かなかったのだそうです。
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真田、上田とたどり、今度は松代にやってきました。
松代城は元は、「海津城」と呼ばれ、武田信玄が上杉謙信との戦いに備えて築かせたお城でした。森忠政が城主となってからは、「待城」と改名、その後、「松城」と呼ばれるようになりました。
真田氏は、1622年(元和8年)真田信之の時、上田から松代に移封、この時から「松城」が真田氏の城となりました。1711年(正徳1年)真田三代目藩主幸道の時、幕名により「松代城」と改名されました。
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海津城址に建つ碑です。
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1622年(元和8年)、真田信之が上田城から移って以来、真田氏が松代城主として、1872年(明治5年)廃城になるまで、10代に渡って続きました。 昭和56年国の史跡指定を受けたのを期に、1995年〜2004年まで平成の大普請が行われました。
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真田山の山号を持つ、真田家の菩提寺です。ここには真田家歴代藩主の墓があります。
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国の重要文化財に指定されている松代初代城主真田信之の霊屋です。これらの霊屋は、お寺に拝観を申し出て、鍵を開けてもらわなければ見ることはできません。
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松代・長国寺の中にある真田家の霊屋の屋根の部分には、左甚五郎作といわれる鶴の彫り物があります。
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霊屋のその奥に真田一族の墓が並んでいます。これは松代初代藩主真田信之の墓です。
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これは真田家一族の墓地の中に建てられた真田幸村、大助の供養塔です。
真田幸村の墓は京都にあるそうですが、これは供養塔にもかかわらず、やはり真田一族の墓の中でもっとも人気があるそうです。
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長国寺の境内の墓地の中には松代真田藩の家老恩田木工の墓もありました。
恩田木工(もく)は本名を恩田民親といい、わずか30歳で家老になり、真田藩の財政立て直しにつくした人です。
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