2009/10/30 - 2009/10/30
59位(同エリア68件中)
もろずみさん
かつて奥州平泉には平安京を凌駕するほどの都がありました。
中央の朝廷から、辺境の俘囚と蔑まれていた陸奥の国を、百年に渡って平和で豊かな国に変えたのが奥州藤原氏4代でした。
中尊寺を作った初代・清衡、毛越寺を作った2代・基衡、無量光院を作り伽羅御所に居を構えた3代・秀衡。
そして義経主従をかくまったために平泉栄華の歴史に幕を閉じた4代・泰衡。
聞くより見る方が理解が早いということで「えさし藤原の郷」に行ってみました。
百聞は一見にしかず。リアルに再現された往古の平泉は予想以上。
いろいろな歴史博物館に行きましたが、スケールも内容の充実度も文句なしの一番でした。
- 交通手段
- 自家用車
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江刺の地に忽然と現れる平安時代の奥州の町、というより都のようでもあります。
ここから今日のタイムスリップが始まります。 -
坂上田村麻呂によって朝廷の版図に加えられた陸奥の国ですが、京の都からは蝦夷(えみし)が棲む辺境と蔑まされて来ました。
時代は下り、朝廷の権力の及ばない奥六郡は俘囚の首領・安部頼時が力を蓄えていました。
産出される黄金によって、衣川は都に匹敵する豊かさを誇っていました。 -
政庁の南門です。
この建物がどこをモデルにしたのか定かではありません。
国府のあった多賀城でしょうか。
※この旅行記は史実だけでなく、フィクションや空想を元に書いていますのであしからず。(^^; -
これは立派な政庁です。前庭の広さが半端ではありません。
平安時代の国府はどこもこんな風だったのでしょうか。
本物ではないということを差し引いても、ひょっとして沖縄の首里城より立派かも。 -
陸奥守に就任した源頼義が着任した場面です。
安部方の藤原経清(つねきよ)は緊張した面持ちで頼義と嫡男・義家に対面します。
前九年の役はここが発端になりました。 -
こちらは8〜9世紀の古い政庁の再現です。
後の世の政庁に比べると規模は小さいものです。
坂上田村麻呂が陸奥の国を平らげた頃なので、胆沢城もしくは志波城といったところでしょうか。 -
朝廷の権威を表す朱塗りの柱。
正殿の左右には脇殿が繋がっています。 -
さて、奥州藤原氏の初代・清衡の父である経清は安部氏に荷担し、江刺の地に居を構えました。
豊田の館と呼ばれるその建物を再現しました。
まずは城門から。 -
奥州は金の産地だけでなく馬の名産地でもありました。
朝廷はこれらの富を目的として奥州支配を重要な政策としました。
これに反発したのが陸奥の民。すなわち安部一族であったわけです。 -
経清の館は茅葺き屋根の質素な建物。
まだまだ藤原氏の栄華の時代までは時がかかります。
今日はそれを数時間で見て回るわけです。 -
藤原経清は、平将門の乱を鎮静した俵藤太・藤原秀郷の子孫であるから、歴とした藤原鎌足から発する藤原氏の一門です。
亘理で官人を勤めていたというが散位(無役)であったらしい。
奥方は安部氏の出で頼時の娘・貞任の妹であったため、前九年の役で安部方に走りこの地に移りました。
出陣の場面のようですね。 -
前九年の役で安部氏は滅び、経清は処刑されました。
その子である清衡は難を逃れ、後三年の役の後に奥六郡を束ねる実力者となりました。奥州藤原氏は清衡を初代と数えます。
清衡は父を偲んで豊田の館を再建しました。
南門から入っていきます。 -
初期の寝殿造りの屋敷で、屋根は檜皮葺と立派なものです。
この時、清衡は奥六郡に加えて出羽三郡も版図として、この地で政務をとっていました。
そして、のちに平泉へ進出していきます。 -
経清時代の豊田の館に比べれば豪華なもので、寝殿を中心に東対・西対・北対という建物がつながっています。
さすが奥羽の覇者の住む館の貫禄があります。 -
こちらは北対だったかな?
離れみたいな建物ですが、実際は寝殿と同等の大きさがあったようです。 -
清衡は、数奇な人生を乗り越えて70才過ぎまで生き、当時としては長寿でした。
平泉を奥羽の都とする夢を実現し、奥州藤原氏四代の栄華の基礎を築いた真の覇者でした。 -
経清や清衡の時代は朝廷との諍いが絶えず、幾多の戦いがありました。
が、残念ながら敗者の歴史は葬られて、史料が残っていません。
辛うじて認められる戦争遺跡を訪ねてみます。 -
まずは伊治城の城柵です。
朝廷側最大の前線基地で、多賀城が政務、伊治城が軍事を担当していました。
場所は今の宮城県栗原。 -
柵というのは城というより砦のようなもので、坂上田村麻呂の時代から征夷の前線基地という意味で使うようです。
軍事的意味だけでなく、柵には官衙があり地域の統治も行っていたようです。
被征服民の蝦夷から見ればGHQみたいなものですね。 -
こちらは安部方の遊軍である河崎柵です。
伊治城とは日高見川(北上川)を挟んで向かい合っており、前九年の役では安部貞任がここを拠点に黄海(きのみ)の合戦で頼義軍を撃破しました。
こんな歴史は教科書には出てこないなぁ・・・。 -
こちらは安部方の厨川(くりやがわ)柵です。
安部貞任と源頼義・清原氏連合軍との最後の戦いが行われた所で、安部氏滅亡の地です。
今の盛岡西部にありました。 -
柵の奥にはストーンサークル。
蘇我氏に敗れた物部一族が祭ったアラハバキの神です。
何故ここで物部氏?
物部一族の金売り吉次は、奥州藤原氏の栄華を影で支え続けたということです。 -
清衡によって切り拓かれた奥羽の歴史は、2代基衡・3代秀衡の時代に平泉で花開きます。
秀衡の居館である伽羅御所は、平泉文化の絶頂期を表すものでした。
どう見ても京の都の御所にしか見えません。 -
平安時代の寝殿造りの館は豊田の館の比ではありません。
今の京都にもこれだけ完成度の高い建物は珍しい。
よく再現したものですねぇ。 -
再現したものだからこその魅力があります。
とにかく自由に撮影し放題!
それにしてもしっかり造られているのにはびっくりです。 -
伽羅御所は秀衡の私邸です。
政務は政庁である平泉館で執られていたそうです。
平泉でも平泉館の場所は特定できていないようで、柳の御所と言われる所がその場所だったという説もあります。
柳の御所というのは義経の館の別称だったので、誰かが混同したのかも知れません。 -
庭園がまた立派。
毛越寺の浄土庭園より雅やかで、これは京の都を凌ぐと言っても過言ではありません。
奥州藤原氏の栄華を目の当たりにした気分です。 -
庭の向こうに見えるシンメトリーな建物は無量光院です。
秀衡が宇治の平等院を模して建てた寺院です。
平泉には田畑の中に礎石しか残っていませんが、ここで見ることができました。
規模は平等院を凌いでいたそうですが、これは1/4サイズの模型です。(^^;
でも、なんと美しい建物でしょう! -
建物内部を見学しましょう。
ちょうど源義経が秀衡を訪ねて来たところ。
後ろ姿は4代・泰衡です。
この義経が奥州藤原氏滅亡の元凶となるなんて・・・。 -
高台から政庁を俯瞰してみました。
もしかしたら、この政庁は平泉館なのかも知れないと思えてきました。
平泉館の謎は深まるばかり。 -
都大路と見紛うばかりの風景。
昨日見た平泉は21世紀の今は鄙びた町だなと思うけど、平安時代には大都市でした。
900年前の平泉の人口は15万人と言われています。
京の都が16万でしたから国内第2位の都市だったのです。 -
さて、義経に会ってしまったので藤原氏末期の様子を見ていきます。
こちらは安宅の関です。
奥州ではなく石川県の小松にあります。 -
ご存じ、歌舞伎狂言「勧進帳」の舞台です。
追っ手を逃れて山伏姿に変装した義経・弁慶主従が、関守・富樫左衛門尉に見とがめられ、弁慶の機転で危機を脱するという場面。
あ、富樫を写すのを忘れました。(^^; -
平泉に辿り着いた義経一行は3代・秀衡にかくまわれます。
義経は高館に衣川館(ころもがわのたて)という屋敷を与えられ、そこが終焉の地とされています。
この義経屋敷は衣川館ではなく、義経が住んでいた京都六条の屋敷の再現だそうです。 -
義経については日本史の中でも屈指の人気者。
戦上手というより、軍神ではないかと言われるほどの天才でした。
平家を滅ぼした壇ノ浦の海戦のジオラマを発見! -
九郎判官・源義経、幼名は牛若丸。
人形は何かイメージは違うけどこんな男でした。
兄頼朝に追われ平泉の奥州藤原氏に庇護されていたが、ついに頼朝の圧力に屈した泰衡によって討たれました。
文治5年(1189年)閏4月30日のこと。享年31才。 -
裏手にある小屋は弁慶館。
武蔵坊弁慶の薙刀があり、手で持って重さを体感できます。 -
武蔵坊弁慶は五条の橋上で牛若丸と立ち合い仕えることになった比叡山の僧兵。
泰衡勢に攻められ堂に籠もった義経を守るため、全身に矢を受けて仁王立ちのまま絶命したと言います。
世に言う「弁慶の立ち往生」。 -
義経が籠もった持仏堂も再現されています。
この辺のエピソードは芝居がかっていてフィクションの臭いがプンプンします。
このあと義経は大陸に渡りチンギスハンになったという話も一時期流行りましたね。 -
やむを得ずに義経を討った泰衡も、結局は頼朝に謀反の罪を着せられて奥州藤原家は滅びました。
清衡から4代で約100年の奥州平泉の栄華でした。
この100年は教科書的には「武家の台頭」と一言で片づけられます。
その間の平泉は平和で豊かなユートピアであったのです。 -
泰衡はついに平泉を捨てる時に自ら屋敷に火を放ちました。
そのため奥州藤原家の記録はすべて灰になってしまいました。
その後も火災などで主要な建物は焼失し、残ったものは中尊寺の金色堂くらいでした。
この上に清衡の建立した金色堂があります。 -
本物はコンクリートの覆堂の中にあり撮影禁止ですが、ここではその姿を撮ることができます。
もちろん純金製というわけにはいきませんけど。(^^; -
内部の仏像の配置が本物と違うのは仕方ないですね。
この金色堂、清衡が自身の廟所として建立したとも言われています。
実際、本物の金色堂須弥壇には清衡・基衡・秀衡の遺体と泰衡の首級が納められています。
これらを庇護したのは、当の頼朝であり徳川将軍家であり伊達家でした。
今も藤原四代は奥州の地を守っているのでしょう。 -
ということで、藤原四代の歴史を学びました。
撮影可能な金色堂まであってすっかり堪能。 -
「えさし藤原の郷」は歴史公園ですが、大河ドラマの撮影などに使われる施設です。
元々「炎立つ」の撮影のために造られたもので、その後も平安時代から戦国時代までのロケが行われます。
かなり広いので4時間くらい掛かりました。それでも駆け足だったのは100年の歴史を追うので仕方ないか。 -
そういえば2代・基衡に会えなかったな。
もしかしたら、途中であった公家装束のこの人かも?(^^;
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