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10*25 スロベニア リュブリャー頭が痛い(~_~;)昨日は馬鹿みたいに飲んだからだ…。朝一番のスロベニア行きは諦め、朝食をつくり、9時の列車でスロベニアに向かった。パスポートのスタンプをゲットできて嬉しかった!しかもスロベニアに向かう列車山や川、自然の道を通るので、景色を見ていても楽しいo(^-^)o二日酔いだったので、二回、トイレではいてしまった。スロベニアはユーロが使える!しかも東欧で1番最初にイーユーに加盟した国だから駅前も綺麗である。スロベニアの歴史は古く、常に外からの圧制者に支配され続けた苦しみの連続だった。しかし、その受難多き歴史が、中世の香が残る文化を開花させたのかなと思った。駅に着いたら沢山の人と賑やかな音楽!何かと思って行ってみると、大規模なマラソン大会が行われ、かなりの盛り上がりを見せていた。フランシスコ教会や、山を登り、リュブリャーナ城にも行った。行きは歩いたが、帰りはさすがに疲れたので、ケーブルカーでおりた。本当は自然が有名な場所とかも訪れる予定であったが、面倒臭いのと、ザグレブのバズホステルの居心地の良さに負け、ザグレブに戻った。//日曜日なのでスーパーなど殆ど閉まってる…。ヨーロッパの日曜日は殆ど店がしまるのはお決まりである。せっかくキッチンもあるのに〜、仕方なく、昨日買ったパスタやウインナーの残りと、オーナーから玉葱等を分けてもらい、ペペロンチーノを作った。ザグレブにあるバズHostelはマジで居心地が良すぎます!オーナーも親切だし、サッカー好きで、一緒に見たり、これから行く旅先の情報も教えて貰った。しかもインターネットが無料で使いたい放題だし、日本語の読み書きができる!その日はちょうどイギリス人が居て、ビールを飲みながら英会話を学んだ。本当は、今日の夜にクロアチアのスプリットに行く予定であったが、居心地が善く、結局三泊もしてしまった。ここはマジでお勧めだよ!<br /><br />概要<br />スロベニア共和国の首都。11の特別市の1つにもなっている。スロベニア国土の中央で、アルプス山脈と地中海の中間に位置し、サヴァ川へとつながるリュブリャニツァ川の河口にある。<br /><br /><br />スロベニア<br />スロベニア共和国、通称スロベニアは、中欧の国。首都はリュブリャナ。ユーゴスラビアから独立した。西にイタリア、南と東にクロアチア、北東にハンガリー、北にオーストリアと接する。南西でアドリア海に面している。スロベニアはイタリアやオーストリアに隣接しており、冷戦中にあっては西側諸国に近いという地理的条件にあった。スロベニア人の気質は勤勉で秩序的と言われており、文化的にはドイツ語圏の影響を強く受けている。こうした条件のために、ユーゴスラビア連邦時代は連邦の中で最も経済的に豊かな先進地域となっていた。ユーゴスラビア連邦から独立した後、初期の経済的混乱からすぐに立ち直り、国民1人当たりのGDPは欧州連合(EU)内でもギリシャ、ポルトガルに匹敵する水準となった。これは、2004年にEUに加盟した旧社会主義諸国の中では最も高い水準であり、2008年には旧社会主義諸国で初めて欧州連合の議長国となった。政治的な面でも、スロベニアは民主的な政体を安定して維持しておりその地理的・経済的特徴が良い影響を与えているとみられる<br /><br />スロベニアの歴史<br /> 中世・近世 <br />6世紀ごろに南スラヴ人が定着する。7世紀には初の南スラヴ系のカランタン人による国家であるカランタニア公国が成立する。カランタニアはその後、バイエルン人、ついでフランク王国の支配下にはいる。 この地域はその後もフランクの遺領として扱われ、14世紀以降、東フランク王国、すなわち後の神聖ローマ帝国に編入された。そのために、同様に神聖ローマ帝国領となった現在のチェコともども西方文化とカトリック教会の影響を強く受け、他の南スラヴ人地域と異なった歴史的性格をスロベニアにもたらすことになる。15世紀にはハプスブルク家の所領となり、以降オーストリア大公領、1867年にオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとオーストリア帝国領となった。19世紀初頭、ナポレオンのフランス帝国による支配を受ける。フランス統治下ではイリュリア州が設置され、スロベニア語が州の公用語のひとつとなった。これは、スロベニア語が公的地位を得た初めてのことであり、文語としてのスロベニア語の発展は勢いづいた。ナポレオンが去ると、ウィーン会議で締結された議定書によって再びオーストリア領となった。<br /> 近代<br />その後1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されると、セルビア王国の主張する「南スラヴ人連合王国構想」に参加。セルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に加わった。この際スロベニアの一部地域ではオーストリアとの経済的・文化的な結びつきが強かったため、住民投票が行われ、オーストリアに帰属するか、スロベニア(セルビア・クロアチア・スロベニア王国)に帰属するかを住民投票で決めた地域が存在する。この王国は、1929年にユーゴスラビア王国に改称した。1941年にユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、スロベニアはナチス・ドイツの占領下に置かれた。西に接するイタリアはスロベニア沿岸地方を自国の領土と考えていたため、ムッソリーニ指揮下のイタリア軍によって首都リュブリャナを占領され、北東の一部の地域はハンガリーの占領下となり、スロベニア人の住む地域は3つの勢力によって分断された。占領に反対した右派の抵抗者たちはロンドンに逃れたユーゴスラビア王国の亡命政府を支持したが、後に枢軸勢力の影響下となった。他方、共産主義者たちはヨシップ・ブロズ・ティトーのパルチザンに加わり、ドイツ軍などと戦った。パルチザンはスロベニアを含むユーゴスラビア全土を武力でドイツ軍から解放した。大戦前はイタリア領とされていたイストリア半島 (イストラ半島)はユーゴスラビア領となり、スロベニアはコペル周辺で海岸線を手に入れることとなった。また、スロベニア人が多く住むオーストリアのケルンテン州の一部も求めたが、この要求は認められなかった。<br /> 社会主義時代 <br />1945年、社会主義体制となったユーゴスラビアに復帰し、ユーゴスラビアの構成国スロベニア人民共和国となる。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められていた。社会主義のユーゴスラビアは、ソビエト連邦の影響下に置かれた東側諸国とは異なる独自の路線をとっていた。政治の分権化と自主管理社会主義はその典型例であり、政治においては連邦から共和国、そして自治体へと権限が移管され、経済でも末端の職場に大きな権限が与えられていた。そのためそれぞれの地域では、その地域性を生かした独自の経済政策を採ることが可能であった。また、ユーゴスラビアがソビエト連邦と距離をおき、西側諸国との友好関係を維持していたこともスロベニアには有利に働いた。中央の意向に縛られることなく、西側諸国に隣接する先進的工業地帯というスロベニアの利点を最大限に発揮できたため、スロベニア経済は大きく発展し、1980年代になると他のユーゴスラビア内の諸地域に大きく差をつけるようになっていた。政治に関しては、ユーゴスラビアでは比較的言論の自由が認められており、またその地方分権政策によってスロベニアをはじめ各共和国は大きな裁量を手にしていた。スロベニアでは、更なる独自の権限を求める声、連邦からの独立を求める声は次第に高まっていった。1980年代にユーゴスラビアが経済苦境に陥ると、スロベニアではその原因が連邦にあると考えた。連邦は通貨発行など一部の経済政策のみを握っていたが、経済改革を進めるために過度に分権化した経済政策の集権化を求めていた。また経済先進地域であるスロベニアが連邦に支払う負担金が、コソボやマケドニアなどの貧しい地域のために使われているという不満から、スロベニア共和国は連邦政府の経済改革を妨害し、連邦に対して支払う負担金を一方的に削減し、連邦に対する反発をあらわにしていった。さらに、セルビアではユーゴスラビア連邦におけるセルビア人の支配力拡大を狙うセルビア民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチが台頭し、ミロシェヴィッチはモンテネグロ、ヴォイヴォディナ、コソボの政府を乗っ取って支配力を強め、スロベニアに対しても圧力を強めていた。こうしたことによって、スロベニアは連邦からの離脱を決意した。連邦からの離脱権を明記した新しい共和国憲法を制定すると、議会での決定と住民投票を経て、1991年6月にユーゴスラビアとの連邦解消とスロベニアの独立を宣言した。<br /> 独立後 <br />短期的、小規模な十日間戦争を経て、スロベニアは完全独立を果たした。1992年5月、連邦構成国だった隣国クロアチア、同じく連邦内にあったボスニア・ヘルツェゴビナと同時に国際連合に加盟した。同時期に連邦を離脱したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が続いた中、スロベニアではユーゴスラビアという市場を失ったこともあり、1991年から1992年にかけて経済不振が続いたものの、その後はヨーロッパ志向を強め、経済は回復に向かった。政治面においては、ユーゴスラビア離脱前から民主的な制度の整備が強力に進められてきたこともあり、他のどの旧ユーゴスラビア諸国よりも早く、民主的体制が整えられていった。2004年3月にはNATOに、同年5月1日に欧州連合(EU)に加盟した。2008年には、2004年に新規加盟した国々の中で初めて欧州連合の議長国を務め、同年2月にコソボが独立を宣言したことによる一連の危機の対応にあたるなど、議長国として欧州連合の中指導力を発揮した。<br /><br />

海外での嘔吐 スロベニア リュブリャナ

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2009/10/25 - 2009/10/25

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kawabekentarou

kawabekentarouさん

10*25 スロベニア リュブリャー頭が痛い(~_~;)昨日は馬鹿みたいに飲んだからだ…。朝一番のスロベニア行きは諦め、朝食をつくり、9時の列車でスロベニアに向かった。パスポートのスタンプをゲットできて嬉しかった!しかもスロベニアに向かう列車山や川、自然の道を通るので、景色を見ていても楽しいo(^-^)o二日酔いだったので、二回、トイレではいてしまった。スロベニアはユーロが使える!しかも東欧で1番最初にイーユーに加盟した国だから駅前も綺麗である。スロベニアの歴史は古く、常に外からの圧制者に支配され続けた苦しみの連続だった。しかし、その受難多き歴史が、中世の香が残る文化を開花させたのかなと思った。駅に着いたら沢山の人と賑やかな音楽!何かと思って行ってみると、大規模なマラソン大会が行われ、かなりの盛り上がりを見せていた。フランシスコ教会や、山を登り、リュブリャーナ城にも行った。行きは歩いたが、帰りはさすがに疲れたので、ケーブルカーでおりた。本当は自然が有名な場所とかも訪れる予定であったが、面倒臭いのと、ザグレブのバズホステルの居心地の良さに負け、ザグレブに戻った。//日曜日なのでスーパーなど殆ど閉まってる…。ヨーロッパの日曜日は殆ど店がしまるのはお決まりである。せっかくキッチンもあるのに〜、仕方なく、昨日買ったパスタやウインナーの残りと、オーナーから玉葱等を分けてもらい、ペペロンチーノを作った。ザグレブにあるバズHostelはマジで居心地が良すぎます!オーナーも親切だし、サッカー好きで、一緒に見たり、これから行く旅先の情報も教えて貰った。しかもインターネットが無料で使いたい放題だし、日本語の読み書きができる!その日はちょうどイギリス人が居て、ビールを飲みながら英会話を学んだ。本当は、今日の夜にクロアチアのスプリットに行く予定であったが、居心地が善く、結局三泊もしてしまった。ここはマジでお勧めだよ!

概要
スロベニア共和国の首都。11の特別市の1つにもなっている。スロベニア国土の中央で、アルプス山脈と地中海の中間に位置し、サヴァ川へとつながるリュブリャニツァ川の河口にある。


スロベニア
スロベニア共和国、通称スロベニアは、中欧の国。首都はリュブリャナ。ユーゴスラビアから独立した。西にイタリア、南と東にクロアチア、北東にハンガリー、北にオーストリアと接する。南西でアドリア海に面している。スロベニアはイタリアやオーストリアに隣接しており、冷戦中にあっては西側諸国に近いという地理的条件にあった。スロベニア人の気質は勤勉で秩序的と言われており、文化的にはドイツ語圏の影響を強く受けている。こうした条件のために、ユーゴスラビア連邦時代は連邦の中で最も経済的に豊かな先進地域となっていた。ユーゴスラビア連邦から独立した後、初期の経済的混乱からすぐに立ち直り、国民1人当たりのGDPは欧州連合(EU)内でもギリシャ、ポルトガルに匹敵する水準となった。これは、2004年にEUに加盟した旧社会主義諸国の中では最も高い水準であり、2008年には旧社会主義諸国で初めて欧州連合の議長国となった。政治的な面でも、スロベニアは民主的な政体を安定して維持しておりその地理的・経済的特徴が良い影響を与えているとみられる

スロベニアの歴史
中世・近世
6世紀ごろに南スラヴ人が定着する。7世紀には初の南スラヴ系のカランタン人による国家であるカランタニア公国が成立する。カランタニアはその後、バイエルン人、ついでフランク王国の支配下にはいる。 この地域はその後もフランクの遺領として扱われ、14世紀以降、東フランク王国、すなわち後の神聖ローマ帝国に編入された。そのために、同様に神聖ローマ帝国領となった現在のチェコともども西方文化とカトリック教会の影響を強く受け、他の南スラヴ人地域と異なった歴史的性格をスロベニアにもたらすことになる。15世紀にはハプスブルク家の所領となり、以降オーストリア大公領、1867年にオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとオーストリア帝国領となった。19世紀初頭、ナポレオンのフランス帝国による支配を受ける。フランス統治下ではイリュリア州が設置され、スロベニア語が州の公用語のひとつとなった。これは、スロベニア語が公的地位を得た初めてのことであり、文語としてのスロベニア語の発展は勢いづいた。ナポレオンが去ると、ウィーン会議で締結された議定書によって再びオーストリア領となった。
近代
その後1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されると、セルビア王国の主張する「南スラヴ人連合王国構想」に参加。セルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に加わった。この際スロベニアの一部地域ではオーストリアとの経済的・文化的な結びつきが強かったため、住民投票が行われ、オーストリアに帰属するか、スロベニア(セルビア・クロアチア・スロベニア王国)に帰属するかを住民投票で決めた地域が存在する。この王国は、1929年にユーゴスラビア王国に改称した。1941年にユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、スロベニアはナチス・ドイツの占領下に置かれた。西に接するイタリアはスロベニア沿岸地方を自国の領土と考えていたため、ムッソリーニ指揮下のイタリア軍によって首都リュブリャナを占領され、北東の一部の地域はハンガリーの占領下となり、スロベニア人の住む地域は3つの勢力によって分断された。占領に反対した右派の抵抗者たちはロンドンに逃れたユーゴスラビア王国の亡命政府を支持したが、後に枢軸勢力の影響下となった。他方、共産主義者たちはヨシップ・ブロズ・ティトーのパルチザンに加わり、ドイツ軍などと戦った。パルチザンはスロベニアを含むユーゴスラビア全土を武力でドイツ軍から解放した。大戦前はイタリア領とされていたイストリア半島 (イストラ半島)はユーゴスラビア領となり、スロベニアはコペル周辺で海岸線を手に入れることとなった。また、スロベニア人が多く住むオーストリアのケルンテン州の一部も求めたが、この要求は認められなかった。
社会主義時代
1945年、社会主義体制となったユーゴスラビアに復帰し、ユーゴスラビアの構成国スロベニア人民共和国となる。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められていた。社会主義のユーゴスラビアは、ソビエト連邦の影響下に置かれた東側諸国とは異なる独自の路線をとっていた。政治の分権化と自主管理社会主義はその典型例であり、政治においては連邦から共和国、そして自治体へと権限が移管され、経済でも末端の職場に大きな権限が与えられていた。そのためそれぞれの地域では、その地域性を生かした独自の経済政策を採ることが可能であった。また、ユーゴスラビアがソビエト連邦と距離をおき、西側諸国との友好関係を維持していたこともスロベニアには有利に働いた。中央の意向に縛られることなく、西側諸国に隣接する先進的工業地帯というスロベニアの利点を最大限に発揮できたため、スロベニア経済は大きく発展し、1980年代になると他のユーゴスラビア内の諸地域に大きく差をつけるようになっていた。政治に関しては、ユーゴスラビアでは比較的言論の自由が認められており、またその地方分権政策によってスロベニアをはじめ各共和国は大きな裁量を手にしていた。スロベニアでは、更なる独自の権限を求める声、連邦からの独立を求める声は次第に高まっていった。1980年代にユーゴスラビアが経済苦境に陥ると、スロベニアではその原因が連邦にあると考えた。連邦は通貨発行など一部の経済政策のみを握っていたが、経済改革を進めるために過度に分権化した経済政策の集権化を求めていた。また経済先進地域であるスロベニアが連邦に支払う負担金が、コソボやマケドニアなどの貧しい地域のために使われているという不満から、スロベニア共和国は連邦政府の経済改革を妨害し、連邦に対して支払う負担金を一方的に削減し、連邦に対する反発をあらわにしていった。さらに、セルビアではユーゴスラビア連邦におけるセルビア人の支配力拡大を狙うセルビア民族主義者のスロボダン・ミロシェヴィッチが台頭し、ミロシェヴィッチはモンテネグロ、ヴォイヴォディナ、コソボの政府を乗っ取って支配力を強め、スロベニアに対しても圧力を強めていた。こうしたことによって、スロベニアは連邦からの離脱を決意した。連邦からの離脱権を明記した新しい共和国憲法を制定すると、議会での決定と住民投票を経て、1991年6月にユーゴスラビアとの連邦解消とスロベニアの独立を宣言した。
独立後
短期的、小規模な十日間戦争を経て、スロベニアは完全独立を果たした。1992年5月、連邦構成国だった隣国クロアチア、同じく連邦内にあったボスニア・ヘルツェゴビナと同時に国際連合に加盟した。同時期に連邦を離脱したクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が続いた中、スロベニアではユーゴスラビアという市場を失ったこともあり、1991年から1992年にかけて経済不振が続いたものの、その後はヨーロッパ志向を強め、経済は回復に向かった。政治面においては、ユーゴスラビア離脱前から民主的な制度の整備が強力に進められてきたこともあり、他のどの旧ユーゴスラビア諸国よりも早く、民主的体制が整えられていった。2004年3月にはNATOに、同年5月1日に欧州連合(EU)に加盟した。2008年には、2004年に新規加盟した国々の中で初めて欧州連合の議長国を務め、同年2月にコソボが独立を宣言したことによる一連の危機の対応にあたるなど、議長国として欧州連合の中指導力を発揮した。

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