2009/10/24 - 2009/10/24
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kawabekentarouさん
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10*24 クロアチア ザグレブ//
昨日は無事に泊まれ、日本のパソコンを借りながら夜中中ビールを飲みながらメールやmixiをやっていた。久々に日本語入力ができて嬉しかった(^0^)/宿にはセルビア人の女性が沢山いて、皆綺麗でビックリした。ザグレブの街を歩いていても、美人なクロアチア人が沢山いてビックリする。スラブ系の人ってマジで綺麗なんだな〜。朝はゆっくり起きて、オーナー、お勧めのレストランに行った。セットメニューを頼んだか、マジボリューム満天で、しかも上手い!大満足な朝食を迎えた。ザグレブの町並みは、ゴシック様式やバロック様式の重厚な建物が多い。建物一つ一つに文化や芸術において発展をつげてきたこの町の歴史を肌で感じた。ザグレブ小さな町で、半日あれば見所は回れてしまう。植物園やマルコ教会、聖母被昇天大聖堂などを見た。疲れたらバーでビールを飲む、これが俺の旅の一つでもあるが、一つだけ難点がある。俺は人より物凄くトイレが近いということだ。マジで直ぐにトイレに行きたくなる。明日はスラベニアに行こうかな〜。宿に戻る前にスーパーに寄った。せっかくキッチンもあるし、設備も充分!しかもオーナーが調味料とかも貸してくれると言う!俺の作れる料理は限られている…、パスタが食べたかったので、オリーブとトマトのパスタを作る事にした。ワインを飲みながら作っていたら、セルビア人達が入って来て、一緒にパスタを食べたり、ワインやビールを飲んだりした。いつのまにか俺のビールまで飲んでるじゃん、お酒もなくなり、一緒に買いに行ったりした。セルビア人が俺の大好きなプロディジの音楽かけてるじゃありませんか!俺のテンションはハイテンション!久々に音楽も聞けて、周りには美人が沢山いて!あ〜、iPodが恋しいよ…。
概要
アルプス地方、ディナル・アルプス地方、アドリア海沿岸地方、パンノニア地方へ伸びるパンノニア平原南西部の、地理的に恵まれた場所にあり、中央ヨーロッパとアドリア海を繋ぐ優れた交通の要衝となっている。交通の上で立地が恵まれていること、産業が集中していること(金属加工、電器、織物、化学、製薬(Pilva)、印刷、皮革、木材加工、製紙等)、科学研究施設、及び工業の伝統により、この市は経済の主導的な位置を占めている。 この市は東ヨーロッパの標準から見れば比較的裕福だが、それでも平均収入や物価は西側よりもなお低い。ザグレブには国の政府があり、ほとんど全ての省庁がここにある。
クロアチアの歴史
クロアチア統一
9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方から東ローマ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチアはカトリックの一員となっている。こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミルがクロアチア統一を進め、879年にローマ教皇ヨハネス8世から独立国家として認められた。その後、トミスラヴ1世のもとで発展をとげるが、彼の死後しばらくして後継者争いから内乱へ突入した。
同君連合
このことがハンガリー王ラースロー1世の介入を招き、次のハンガリー王カールマーン1世が、1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)とスラヴォニアはハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれた。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)はバン(バーン)と呼ばれた。
オーストリア・ハンガリー帝国
この後15世紀にはオスマン帝国に征服されその領域に組み込まれるが、18世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている。これ以来ハプスブルク体制寄りの姿勢をとり、1848年の三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチアに対して認めていた自治権も併せて実態的には「オーストリア・ハンガリー・クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。
一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になるまでヴェネツィアの支配が続く。なおオーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。
ユーゴスラビア
1918年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したクロアチアは、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加。1929年は国名をユーゴスラビアに改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州を設定したが不完全な対応であった。クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パベリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。以降、セルビア人勢力のチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。以降1945年に戦闘が終結するまでの4年の間セルビア人が強制収容所などで70万人が虐殺されたとセルビアは主張している。一方でクロアチアはその数はおおげさだとしており、ほぼ同数のクロアチア人がセルビア人によって虐殺されたと主張している。この論争は後のクロアチア紛争の火種となり、クロアチア紛争でも同じような論争が繰り返されることになった。
ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラビアが自力開放されることによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビアは維持されたが、1980年にチトーが死去するとそれまで押さえ込まれていた各民族の不満が噴出しはじめた。クロアチアでは歴史的な経緯も含めてセルビアに対する反発が強く、特に1980年代半ばからセルビア民族主義を掲げるスロボダン・ミロシェヴィッチが登場するとその不満はピークに達した。
独立
東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された。クロアチアではユーゴスラビアからの分離独立を掲げるスティエパン・メシッチが政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。1991年3月2日には、西スラヴォニアの帰属をめぐってユーゴスラビア連邦軍とクロアチア警察の間で睨み合う事態となり、3月31日にはプリトビツァで両者が衝突。死者を出す事態となった。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、6月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、78%の賛成。これを受けて6月25日、スロヴェニアと同日に独立を宣言した。一方で、ユーゴスラビア連邦軍は、クロアチア領内でもセルビア人が多く、クロアチアの独立に反対していたクライナ・セルビア人自治区のセルビア人保護を目的にクロアチアに侵入。クロアチア軍は9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突となりクロアチア紛争の激化に繋がった。1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者と難民を生み出した。
政治
1990年の憲法制定以来、クロアチアは民主主義を標榜している。1990年から2000年までは半大統領制、それ以降は議院内閣制を採用している。国家元首である共和国大統領は直接投票による選出で、任期は5年、憲法上、多選は禁止され、最長でも2期までと定められている。大統領は軍の最高司令官であり、議会の同意のもと、首相を任命し、国家元首として外交政策に影響を及ぼしている。ザグレブの大統領宮殿の他、避暑地のブリユニ島とフヴァル島に邸宅を所有している。議会(サボル)は2001年まで二院制を取っていたが、上院(州議院)が廃止され、現在は一院制である。サボルの議員定数は100〜160人の可変で一般投票によって選出される。任期は4年。本会議は1月15日から7月15日までと9月15日から12月15日まで行われる。政府(ヴラダ)は2人の副首相と14名の閣僚を率いる首相を首班とする。行政機関は予算案、法案の策定に責任を持ち、共和国の外交、内政を実行する。政府公邸はザグレブのen:Banski dvori(バンの宮殿、クロアチア社会主義共和国時代には大統領府)である。
クロアチアのEU加盟問題
クロアチアの欧州連合(以下EUとする)加盟交渉の開始は、既にEUからの承認を得ており、2005年中に加盟交渉が開始されるスケジュールが組み立てられていた。EUへの加盟時期は未定であるが、2008年1月に新内閣を発足させたサナデル首相は2010年の加入を目指すとしている。クロアチアのEU加盟がなれば旧ユーゴスラビア構成国家での中ではスロヴェニアに続く2例目となる。ただしクロアチアの加盟交渉の開始に当たってはオランダのハーグに設置されている旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトヴィナの同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされない事を理由に見送られる事になった。同年10月3日から行われたEU緊急外相会議においてトルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ翌4日にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトビナは同年12月初頭にスペインのカナリア諸島で身柄を拘束れ、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送された。
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