2009/10/26 - 2009/10/26
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kawabekentarouさん
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10*26 クロアチア スプリット
今日は朝一番でクロアチアのアドリア海に面したスプリットに向かった。こんな場所を列車が通るの?って思うくらい、標高の高い山や崖、牧草地を走ったりした。スケールが違いますな、見ていて飽きないよ。でも、それと同時に紛争時代の崩壊した家屋などが痛々しく感じた…。とにかく揺れる!揺れる!またもやダウンです。一等席は殆ど人がいないので、横になりました。///スプリット到着!とりあえずコーラ飲み、シュワっと回復!スプリットは、古代都市が残る街として、またアドリア海に浮かぶリゾート島への拠点として知られる沿岸最大の都市である。旧市街地にはローマ皇帝が住んだ宮殿や建物が立ち並んでいた。まずはバスターミナルへ行き、便の良さそうな国を探した。モンテネグロに行きたかったが、週に一便しかなく、モンテネグロからも交通の便が良くないので諦めた。ボスニアは明日の朝に便があるとの事で、ボスニアに行く事にした。ボスニア、平気かな…?ボスニアについては、ボスニアの日記にかこうと思うが、コスモポリタンで、内戦もあり、複雑な事情抱えてきた国であった。とりあえず、寝床を探さなくちゃ!ホステルもいくつかあるけど、ソベといって、一般の家族の人部屋をかりることができる宿もある。少し割高だが、アドリア海の生活にも触れてみたかったので、人の良さそうなおばあちゃんの家に泊まる事にした。ちなみに、観光客街のソベのおばちゃんは毎日駅や港付近にいるので、困る事はないよ。昔ながらの路地を通り、小道を抜け、家に到着!なかなか味がありますな〜。海が大好きなので、速攻海へ行った。水が透けている事に感動した(^0^)/日差しも眩しいぜい♪海に入りたかったが、着替えもなく、貴重品も持っていたので諦めた。旧市街地にもいった。宮殿は、イタリアのロマネスク式の作りをしていて、中に教会、民家、バー、ショップ、ソベまでもあり、宮殿の一部になっていることにも驚いた!海も綺麗だし、ヨットや船もあり日差しが気持ち〜)^o^(俺はしばらく港で日差しを浴びながらボーっとしてた☆
概要
クロアチア南部スプリト=ダルマチア郡の主都で、ダルマチア最大の都市。アドリア海東海岸の、小さな半島に位置する。
歴史
古代
ディオクレティアヌス宮殿の再現図295年-305年、ディオクレティアヌス宮殿を造営されたことが都市の起源となったことが知られる。それより早く、ギリシャ植民地アスパーラトス(Aspálathos)が建設されていた。ギリシャ人らは、近郊の都市サロナに住むイリュリア人(多くがダルマチア人)との貿易を行って暮らした。当時、共和政ローマがアドリア海東岸で強い影響力を持つようになり、紀元前229年から219年にかけてのイリュリア戦争においてイリュリア人を征服した。揺るぎないローマの力のもと、古代ローマ人はサロナを首都とする属州ダルマチアを建設した。この時、市名アスパーラトスから、サロナに似せたスパラトゥムに変更された。瀕死の病にかかったローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は、305年に政治から引退した。彼は故郷の近くに隠居用の宮殿を建てるよう命じ、故郷ディオクレア(サロナ近郊)にほど近い、海辺の町スパラトゥムを建設の地に選んだ。建設事業は、政界引退をディオクレティアヌスが準備していた293年に始まった。宮殿はどっしりとした構造をしており、ほとんどローマの軍事要塞のようである。宮殿南側は海に面し、その城壁は170メートルから200メートルの長さで囲む(高さは15から20メートル)。城壁内の面積は38,000平方キロメートルであった。宮殿の水道は堅固な作りで、ディナル・アルプス山中のヤドロ水源から水道路で供給されていた。この潤沢な宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていた。住民には、公園と余暇施設が与えられていた。ディオクレティアヌスは、郊外のマリヤン丘にそのような野外施設をつくった。彼は後に予定通りにきっちりと引退し、自発的に自ら職を退いた最初のローマ皇帝となった。
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スパラトゥムは東ローマ皇帝の支配下に置かれた。スパラトゥムは、非常にゆっくりと、遙かに大きなサロナの衛星都市のようになっていった。しかし、639年頃にサロナがアヴァール人とスラヴ人の侵攻で略奪されると、住処を失った市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れた。東ローマ支配が地域で復活するにつれ、ローマ市民は大セヴェルスと呼ばれる貴族の主導のもと、本土へ戻った。彼らはスパラトゥムにあるディオクレティアヌス宮殿に住むことを選択した。宮殿が強固な要塞状だったためである。この時には宮殿は長く打ち捨てられていたが、建造物内部はサロナからの避難民によって、新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造された。今日、宮殿はスプリト市の内核として存在しており、今も商店や市場・広場、住宅があり市民が暮らしている。古い聖堂(かつてのディオクレティアヌス帝霊廟)は、旧宮殿の階と通廊の中に折り込まれている。宮殿を囲む城壁をそのまま都市壁とし、地下室を市の食料庫に転用(現在は一部商店が立ち並んでいる)するなど、遺跡をうまく利用した独特の街並みとなっている。東ローマ帝国の一部として、スパラトゥムは様々に移り変わったが、顕著な政治的自治権を維持していた。
中世
ディオクレティアヌス宮殿の城壁ダルマチア属州におけるスプリトの中世は、東ローマ帝国の弱体化、ヴェネツィア共和国・クロアチア王国、ハンガリー王国といった近隣勢力との戦いに特徴づけられる南スラヴ人(多くがクロアチア人)が7世紀にスパラトゥム一帯へ移住してきた。後背地とアドリア海諸島は数でクロアチア人が優勢であり、彼らはかつてのローマ都市にも影響を及ぼし始めた。初期の中世クロアチア国家(のちにクロアチア王国へと発展する)は、シベニクのような近隣の沿岸都市に建国された。そして後背地の大多数のクロアチア人国家に取り巻かれた。数世紀に渡りスパラトゥムはますますクロアチアの特徴を増した。これは市内と周辺にある教会建築に見られる。市内のローマ人人口は、次第に周辺のクロアチア人と混ざり合うようになった。アドリア海北部のヴェネツィア共和国がダルマチア地方に影響を及ぼし始めたのは、10世紀からであった。彼らは成長する経済力をもとに沿岸諸島や沿岸都市を次々と獲得していった。数十年の間にスプリトも、同時にクロアチア国家とハンガリー国家が衰えたために、ヴェネツィアの影響下に入った。東ローマ帝国が衰退したことから、クロアチア王国が事実上のスプリトの宗主国となり、国家の封建的特性のため顕著な自治権を授けられた。1102年、クロアチア王国はハンガリー王カールマーン1世によって、ハンガリー王国との同君連合を強いられた。しかしスプリトは高度な自治を保ち続け、市独自の通貨と同様に特権を授けられた。
ヴェネツィアとオーストリア支配時代
スプリト聖堂の鐘楼神聖ローマ皇帝ジギスムントとナポリ王家であるアンジュー家との間のハンガリー内戦が20年続く間、勢いを失ったラディズラーオ1世はダルマチアにおける自身の権利を、ほんの100,000ダカットでヴェネツィア共和国へ売り渡した。1420年にさらに中央集権化した共和国がスプリトを掌握、ヴェネツィア支配はその後377年続いた。当時の人口はスラヴ語に属するクロアチア語話者が多かったが、公用語はイタリア語だった(トスカーナ方言とヴェネツィア方言の混合)。スプリトの自治権は減らされた。最高権力者は常にヴェネツィア生まれの人間が務めた。このような自治を押さえつけられた状態にもかかわらず、スプリトはまもなく衆目をひく港湾都市に発展していった。スプリトが、近郊のクリス水道を通ってオスマン帝国が押さえる内地へと向かう重要な通商路上にあったからである。同様に文化も華開き、クロアチア人古典作家マルコ・マルリッチ(en:Marko Marulić)を生んだ。マルリッチの代表作『ユディタ』(en:Judita、1501年)は、スプリトで書かれ、1521年に出版された。スプリトは最初のクロアチア文学の近代作品が生み出されたのである。なお、文化活動の進化と達成とを成し遂げた作品は、主として貴族のために書かれたことが知られる。ヴェネツィア支配者が教育・医学施設に関心を見せたことから、スプリトの識字率はずば抜けて高かった。スプリトは、1797年のカンポ・フォルミオ条約でヴェネツィアが没落するまで支配を受けた。短期間のナポレオン支配の後(1806年-1813年)、ウィーン会議によってスプリトはオーストリア帝国に割り当てられた。この時代に市内への広範囲な投資が着され、新しい通りがつくられて古代の要塞の一部が取り除かれ
オーストリア帝国時代のスプリト地域とダルマチア王国は、分離された行政単位であった。ナショナル・ロマンティシズムの結果である1848年革命の後、2つの派閥が現れた。一つは人民党に率いられた親クロアチアの連合派(のちにプンタリと呼ばれる)、そして幾分か小さな権利党であった。どちらもハンガリーの行政監督下にあったクロアチア=スラヴォニアとダルマチアの連合を主張していた。この派閥はスプリトでより強く、本部を置いていた。もう一つの派閥は、親イタリアの自治主義派(未回収のイタリア派として知られる)で、彼らの政治的目標は、イタリア王国との政治的連合のもとオーストリア=ハンガリー帝国内での自治権を修正することであった。スプリトでの政治的同盟は時間がかかった。当初、連合派と自治主義派は互いに提携してウィーンの中央集権主義に対抗していた。しばらくして民族的な疑問が突出したことで2つの派閥は袂を分かった。しかしオーストリア支配下で、スプリトはだいたいに置いて沈滞した状態にあったと言われている。1848年のヨーロッパの大きな地殻変動はスプリトにおいて起きなかった。反乱も起きなかった。
ユーゴスラビア王国
第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が解体され、スプリトを含むダルマチア県はセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国の一部となった(1929年に国名をユーゴスラビア王国とした)。しかしアドリア海東岸の二大都市リエカとザダルはイタリア王国に併合された。スプリトはユーゴスラビア王国の最重要港となった。新しい王国では、スプリトは新しい行政単位プリモルスカ州(en:Littoral Banovina)の中心地となった。リカ鉄道がスプリトと国内他都市を結んで1925年に完成した。ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意(en)の後、スプリトは新設された行政単位(サヴァ州とプリモルスカ州および、その他の幾つかのクロアチア人地域の統合)であるクロアチア自治州(en:Banovina of Croatia)の一部となった。
第二次世界大戦
1941年4月、ナチス・ドイツのユーゴスラビア侵攻に伴い、スプリトはイタリアに占領され、一ヶ月後には正式に併合された。イタリアの支配は、クロアチア市民の強い反発を招き、人口の3割がヨシップ・ティトー率いるパルチザンに加わった。地元のサッカークラブは、イタリア国内大会への参加を拒否された。HNKハイドゥクとRNKスプリトは、その活動に疑いをもたれ、後に両方のチームともスタッフ全員でパルチザンに加わった。その後すぐ、ハイドゥクはパルチザン運動の公式サッカー・クラブとなった。1943年9月、イタリアの降伏にともない、スプリトはパルチザンに加わった数千の義勇軍を含むティトーの大部隊によって解放された。わずか数週間後には、ナチスの傀儡国家クロアチア独立国の占領(ドイツ国防軍がおこなった)下に戻った。占領期間、旧市街の一部同様に港湾施設の一部が、クロアチア独立国とドイツの爆撃によって損傷を受けた。枢軸国側の爆撃で悲劇的な展開となっていた最中、非常に親パルチザンであるスプリトは連合国軍からも爆撃を受け、数百人の犠牲者が出た。とうとうパルチザン側が市を解放したのは、1944年10月26日であった。1945年2月12日、ドイツ海軍はスプリト港における思い切った反乱を指揮し、イギリスの軽巡洋艦デリー(en:HMS Delhi (D47))を損傷させた。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
第二次世界大戦後、スプリトは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成するクロアチア社会主義共和国の一部となった。この時代、市は大きな経済・統計ブームを体験した。12の新工場、その他多くの会社ができたことで市の人口が増加した。スプリトは、クロアチアの国境を遙かに越えたアドリア海沿岸一帯の経済中心地となった。そのために、大規模工業化とユーゴ中央政府による投資で新たに建てられた工場へ、職を求めて発展途上の内地から移住者の波が押し寄せた。造船業は突出して発展し、ユーゴはこの分野で世界でも有数の国となった。多くのレクリエーション施設が連邦の基金で建てられた。1979年の地中海競技大会会場となったポリュド・スタジアム(en:Poljud Studium)が知られる。スプリトはユーゴ最大の旅客および軍港となり、ユーゴスラビア人民軍(Jugoslavenska Narodna Armija, JNA)の沿岸警備部門と、ユーゴスラビア海軍の本部の所在地となった。1945年から1990年の間、スプリトは全体的に生まれ変わって拡大し、半島全体を市域に含めた。同じ時代(黄金時代とされている)、GDPと雇用率は現在より遙かに高く、ユーゴ最大の都市の一つであった。
クロアチア独立
1991年にクロアチアが独立を宣言したとき、スプリトはユーゴ海軍の本部と施設同様、ユーゴ人民軍の大規模駐屯軍を抱えていた。これが一ヶ月以上に渡る、ユーゴ人民軍とクロアチア国民防衛隊、警察との緊張関係を引き起こし、時には様々な事件が勃発した。最も悲惨な事件は1991年11月15日に起こった。ユーゴ人民軍のフリゲート艦スプリトが砲撃したのである。被害はわずかであったが、数名の犠牲者が出た。この事件では、クロアチア人人口が独占的に占めている旧市街だけが封鎖された。攻撃の行われたのと同じ日、クロアチア勢力はフリゲート艦を損傷させ、艦を放棄させた。多くがクロアチア人であったユーゴ人民軍の艦船乗員は、同じクロアチア市民への攻撃を拒否し、艦の連隊を離脱した。1992年1月の間、スプリトにある全てのユーゴ人民軍及びユーゴ海軍施設が明け渡された。この後、景気後退がすぐに始まった。
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見よ、この透き通る海水を!!
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このおばあちゃんのお宅に泊まりました。
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ディオクレティアヌス宮殿の入り口
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ディオクレティアヌスは、西暦305年5月1日に帝位を退いた後に隠棲しようと、巨大な宮殿を建てた。実際の建造は、彼が帝位を退く10年前の、295年から始められていた。それはダルマティアの皇帝属州州都サロナから6.5 km ほどにあたる、ダルマティアの海岸から伸びる短い半島の南側の湾に位置していた。その地域は海に向って緩やかに傾斜しており、典型的なカルスト地形で、石灰岩の尾根が東から西に走っていた。
中世が終わった頃には、西欧ではこの宮殿の存在そのものが実質的に分からなくなっていた。この状況が打破されたのは1764年のことである。この年に、フランス人の芸術家・古物収集家シャルル=ルイ・クレリソをはじめとする創案者たちの意向で宮殿の調査を行っていた、スコットランド人の新古典派様式建築家ロバート・アダムが、その成果を『ダルマティアのスパラトロにあるディオクレティアヌス帝の宮殿遺跡』として公刊したのである。アダムにとっての宮殿は、新古典主義の新しい様式を生み出すための刺激になった。そして、実測図の出版は、ヨーロッパの建築用語にディオクレティアヌス宮殿が持ちこまれる契機になった。
この宮殿は現在、他の重要な歴史的建造物群とともに、スプリトの中心市街にある。ワールド・モニュメント財団は建物の完全性に関する調査や石・漆喰などの清掃・補修を含む保全計画に取り組んでおり、2009年中には完成させる予定でいる。 -
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宮殿の平面図は西側、北側、東側のファサードからそれぞれ塔が突き出ており、不規則な長方形をしている。宮殿は豪奢な別邸の特質を備えている一方で、巨大な門や見張り塔の存在によって軍事施設の特質も混ぜ合わせている。宮殿は城壁に囲まれており、時には9000人以上を収容した。宮殿地下の一部は半円筒ヴォールトを具えた石造建築物である。
南側のファサードのみは直接海に接するか、極めて海に近いため、無防備である。その上階にあるアーケード付き柱廊の精緻な建築上の組み立ては、より地味な他の3つのファサードとは一線を画している。それぞれの壁の中央につけられた堂々たる扉は、中庭に繋がっている。南の海に面した扉は、形式と寸法の面で他の3つよりも簡素で、皇帝が私的に海に向かう場合や必需品の納入の際に用いられた勝手口であったと推測されている。
デザインは別邸の様式にも城塞の様式にも起源を持つが、この二重性は内装にもはっきりと表れている。横に走る道は、東門と西門に通じており、建造物群を二分している。南半分はより豪奢な建造物群で、皇帝の公的・私的な各居住区画や宗教施設が置かれている。 皇帝の居住区画は海沿いにあるが、地面でなく土台になる構造物の上に建てられている。これは、傾斜した地面が高さに著しい差をもたらすことから、調整する必要があったためである。土台部分は何世紀にも渡りゴミで埋められてしまっていたが、保存状態は良好で、その上にあった当時の部屋割りがどのようなものであったかを伝えてくれる。
ディオクレティアヌス宮殿はスプリトの市域を区切るものであった
南から眺めた宮殿周柱式と呼ばれる素晴らしい中庭は、皇帝の居住区画への北面の通り道にもなっている。同時に東ではディオクレティアヌス廟(現・聖ドミヌス大聖堂)への通り道に、西では3つの神殿(2つは現存しないが、旧ユピテル神殿は現在洗礼堂になっている)への通り道にも、それぞれなっていた。
宮殿の北半分は、北門から中庭へと南北に走る道によって二分されている。これらの区画の保存状況は余り良くないが、一般には、兵士や召使たちの居住区画であったと考えられている。どちらの区画も通りに囲まれている。また、外壁沿いに長方形の建物が並んでいるが、それらは貯蔵庫であったと考えられている。
宮殿は地元の白い石灰岩や高品質の大理石で建てられた。大理石の大半はブラチ島の石切り場から、凝灰岩の大半は近隣の河床からもたらされ、煉瓦の大半はサロナ製である。エジプトの花崗岩の円柱やスフィンクスなどのように、装飾に用いられた材質には輸入されたものもある。また、護岸やいくつかの柱頭に用いられた良質の大理石は、プロコネソス製である。 -
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ソベと言い普通の家庭が旅行者に提供するプライベートルーム
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