2009/10/09 - 2009/10/10
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kawabekentarouさん
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10/9 ルクセンブルク
今日はルクセンブルクに行く!!ガイドブックもない。。。どうしよう。。。何にも情報がないけど、インフォメーションで地図くらいはもらえるべ!?そんな軽い気持ちで駅に向かった。でも、これから先どうしよう!!ポジティブにしなきゃ凹むなから前向きに行こう!!朝リカルドとかと話し込んでしまった為、出発が遅くなった。パリ北駅に行き、列車を予約しようとしたらフルブッキング!!!直通のチケットは変えなかったが、TGVを使い、ニース経由でルクセンブルクに向かう事にした。/////
思わぬニースで降りたが、ニース最高!!乗り継ぎのためあまり滞在しなかったが、パリとはまた違った街並みで、綺麗で過ごしやすかった。ニースの感想は写真に載せときます。スーパーで買ったパスタ、マジで美味かったな〜幸せ〜//////
ルクセンブルクに着いた。駅周辺はモヒカンやファンキーな人が多くて少しビビッタ。着いた翌日がワールドカップ予選のルクセン対スイスの試合があるので、街中にはスイスのユニホームを着たスイス人が多く、街中で発炎筒を炊いている人もいた。やりたい放題だな〜。ホステル駅からバスに乗らないといけない場所で遠かったが、自然に囲まれて世界遺産のすぐ近くで、本当に綺麗だった!!写真を見れば分かるでしょ??ホステルではスイス人と仲良くなって一緒にビールを飲んだりもした。アフリカ人のパスカルとも仲良くなり、車で駅周辺とかへ連れて行ってくれたりもした。部屋はポルトガル人の女の子と一緒の部屋だった。めっちゃ話しかけてきて、正直疲れた。。。。。女の子だから、少し不安で、コミュニケーションをとろうとしてくれてたのかな〜。とにかくマシンガントークの領域を超えていた。夜遅くについた日本人のゆうきさんと仲良くなり、いらないガイドブックをタバコと交換したりしてもらった。これで、ベネルクス三国は何とかなるぞ!!腹も減ったのでゆうきさんにご飯を誘った。けど、ホステル周辺はお店などない。そこに通りかかった、マリ人のパスカルが車のキーを持っていた。なので、駅まで連れて行ってくれといったらあっさり承諾してくれた。なんて良い人なんだ!!ゆうきさんと夜の街をふらふらした。帰りは迷ったけど。。。
10月10日
もう一泊したかったが、ホステルはフルブッキング。連泊できなかった。インタネットがあったから久々に使ってみた。しかし高い30分で3.5ユーロ、どんだけ〜、しかも日本語が文字化けして読み書きができない。。。。しかたなく、英語でベルギーのホステルを探し、予約した。野宿だけはきついからね。半日だけだけど、ルクセンブルクを観光した。一言で言って、大好き!!自然がいっぱいだし、のどかで、町並みと自然が融合してるよ〜。しばらくここにいたいよ。。。世界遺産にも多数登録されていて、町全体が世界遺産のように思えた。実際にユネスコに登録されている場所に行き、丘から見た景色はファンタスティック!!1時の列車でベルギーに行く。1クラスに乗っているが誰も乗ってこないよ。。。。少し不安だ。。。
ルクセンブルク国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件ある。ルクセンブルクは、もともと丘の上に築かれた城を中心に発展した小国だが、その城と市街が、「ルクセンブルク:その古い街並みと要塞群」として、1994年に登録された。
概要
ルクセンブルク大公国(ルクセンブルクたいこうこく)、通称ルクセンブルクは、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。首都はルクセンブルク。隣接国は、南のフランス、西と北のベルギー、東のドイツである。ベルギー、オランダと併せてベネルクスと呼ばれる小国のひとつ。
歴史
西暦963年、アルデンヌ家のジーゲフロイド(Sigefroid)伯爵が、今の首都の領土に城を築いたことに始まる。その当時、砦を“lucilinburhuc”(小さな城)と呼んでおり、それが変化してLuxemburgとなった。1060年頃、アルデンヌ家の分家であるルクセンブルク家に伯爵位が与えられた。14世紀から15世紀にはルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝やボヘミア王を出し、1354年にルクセンブルク家の皇帝カール4世によって伯領から公領へ昇格された。しかしルクセンブルク家はカール4世の孫の代で断絶し、ルクセンブルク公領は抵当に入れられた後、1461年にブルゴーニュ公国に併合された。その後、ネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインやオーストリアの支配を受けた。
フランス革命期にフランスの支配を受けた後、1815年にウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国となった。1830年のベルギー独立革命の際にはベルギーと行動を共にし、ベルギーの独立後は首都ルクセンブルクを除いて、その統治下へと置かれた。1831年、ロンドン会議によって領土の西半分(現在のリュクサンブール州)をベルギー、残りの領土をオランダ国王の統治下へと帰属することが決められた。この割譲が実現されたのは、1839年なってからである。1867年にはロンドン条約によってプロイセン王国とフランスの緩衝国とするため永世中立国となった。1890年、元ナッサウ公のアドルフがルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消した。
第一次世界大戦と第二次世界大戦においては、ドイツの占領下に置かれた。1948年、ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATOに加盟し永世中立を放棄した。1957年に欧州経済共同体、1967年に欧州連合、1999年にユーロ圏へといずれも原加盟国として参加している。
経済
ルクセンブルクの経済は世界でもトップレベルの豊かさを誇る。2006年における1人当たりの国内総生産や国民総所得といった指標は世界第1位であり、経済成長率も高いレベルを維持し続けている。
アルセロールに代表される鉄鋼業が1960年代より経済を牽引し、これが現在の経済大国ルクセンブルクの礎となる。オイルショック以後一時的な落ち込みを経験するが、鉄鋼業からの産業転換に成功し現在では金融サービス業・その他サービス業がGDPの約8割を占める。なかでもアルセロールは、鉄鋼企業としての売上高が世界一であるなど、特筆に価する企業であったが、2006年にインドのミタルスチールに買収された。
失業率は4.8%(2006年3月)。
一方で、ルクセンブルク内の大企業の殆どは貴族の流れを汲む富裕層の家族経営である。また、経済が好調なために諸外国からの経済難民を多く抱える。殆どの経済難民は不法労働者であり、ルクセンブルクの国籍(あるいは労働許可証)を取得することが出来ない。故に、統計上は貧困層とはみなされない(発覚した場合は国外追放される)。これらの人々は、主にフランスの旧植民地(フランス語圏)から訪れるため、ルクセンブルク語で「フランス人の」を意味する言葉が隠語として使われている。
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